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1-1


 翌朝、サンドラは深々と頭を下げて屋敷を訪れてきたイーゴルを出迎えた。

「本当に昨日は申し訳ありませんでした……」

 昨夜は長兄を含め五人の兄達と父に散々叱られてしまった。そもそも一昨日に皇太子が隣の領地を治める伯爵家へ来訪したという話は聞いていたのだ。

 そのことをすっかり失念した上に、名前まで忘れてまったく繋がらなかった。羽織の下に着ていた皇家の者である証の黒の軍服は見えづらかったとはいえ、少し考えたらわかるだろうと兄達と父は深々とため息をついたのだ。

「いや、かまわん。昨日も言った通り、俺が勝手に森に入り込んだのが悪いのだ。親切にしてくれて助かった」

 イーゴルが困り顔で後ろ頭をかいて、肩を落とすサンドラを見下ろす。

「うむ、そうだな。今日も案内を頼んでいいか? 森のことは詳しいのだろう。御領主、娘御を借りてもかまわんか?」

 そして彼はサンドラの父のニキフォロフ男爵そう告げた。

「それは、ええ、もちろん。サンドラ、失礼のないようにな」

 とてつもなく不安そうな父と顔を合せて、サンドラ自身も戸惑っていた。狩りの案内なら何度もしたことがあるとはいえ、相手は皇太子である。

 こんな名ばかり貴族で皇都の礼儀作法などまったく知らない自分に果たしてできるだろうか。

「はい。えっと、よろしくお願いします」

 見合いの時ぐらいしかしないしおらしい自分の態度にむず痒くなりながら、サンドラはイーゴルに改めて頭を下げる。

「頼んだ。お前達はついてこなくてもかまわんのだが……それが役目だからなあ。仕方ない、少し離れてついてこい」

 そしてイーゴルは三人いる近衛に命じて、五人で鹿狩りにでかけることになった。

 今朝になって神殿から明日まで熊狩りは禁止で鹿の角を奉納して欲しいとの達しがあったので、鹿狩りになったのだ。

「皇女様達へのお土産なんですか」

 イーゴルから狩りをする理由を聞いたサンドラは、それならば熊よりも鹿の方がいいだろうと思う。

「そうだ。ふた月近く留守にしてかまってやれなかったから、何か大きいものをと思ったんだがなあ」

「皇女様達、いくつでしたっけ?」

 ずいぶん前に皇帝が側室を迎えて皇女がひとり産まれたのはぼんやり覚えている。確かそれと近い時期に正妃も皇女を産んだはずだがどっちが先だっただろうか。

 とにかく十歳にはなっていないということぐらいしかわからない。

「どっちも今、やっつだな。上のフィグネリアはとても賢く、下のリリアは物怖じせず明るい。どちらもこの上なく可愛いぞ」

 妹ふたりのことを語るイーゴルが胸を張って生き生きしていて、溺愛ぶりが溢れ出している。

「やっつか。兄さんのことが大好きって頃だったなあ」

「歳を重ねると大好きでない時が来るのか?」

 サンドラの大きすぎるひとりごとにイーゴルがしょぼくれた顔をする。

「あ、そういうわけじゃないのよ。あたしも今でも兄さん達が大好きだもの。でも、やっつぐらいの時ってなんていうのかな。兄さん達の全部がすごくて大好きだったのがそれぐらいの時で、それからだんだん駄目なところもあってもそれもひっくるめて大好きなのが今、っていうかんじ。って、わからない、か」

 どうにも説明しづらいと、サンドラは頭を捻ってみるもののいい説明がみつからなかった。

「いや、なんとなくはわかるぞ。駄目な所も好きというのは、きっとそれ以上にサンドラの兄上達に良いところが多いからだろうな」

 イーゴルが大きく頷いて感心するのに、サンドラは口元を綻ばす。

 自分の足らない言葉が通じたことも、兄達が褒められたのもとても嬉しかった。

「うん。みんないっぱいいいところある、の……あ、ごめんなさい」

 そしてふとつい敬語でなくなっていることに気付いて、しまったと慌てて謝る。

「ん、なにがだ?」

 一方イーゴルはよくわかっていないらしく、つぶらな目をまん丸にしていた。

「え、えっと、言葉遣いです。皇太子殿下へ失礼のないようにって今朝も何回も言われたのに、本当にもうしわけありません」

 寛大なお方だけれど、それに甘えて軽んじるような態度を取らないと父と兄に昨夜も今朝もこんこんと言い聞かさせられた。それでも一番最初にごくごく気安く話してしまうと、態度を変えるというのはサンドラには難しかった。

「俺は気にせんのだがなあ。しかしそれではいかんのだと、お爺様や伯父上によく怒られる。だが、ここには俺のお爺様と伯父上はいないし、サンドラの父上と兄上もおらん。ばれなければかまわんだろう。俺はやはり、そのままのサンドラと話していたい」

 確かに後ろの近衛にさえ黙っていてもらえれば、問題はない。

(いいのかなあ)

 若干後ろめたくありつつも、サンドラ自身も慣れない頭を使って言葉を選ぶよりも最初と同じようにイーゴルとありのままに言葉を交わしたかった。

「じゃあ、ここだけってことにして、ね」

 どうせこれっきりのことだ。もやもやとしたままでいるよりも、心のままの方がきっと後にも後悔がないと、サンドラは面倒な事を考えるのをやめにした。

「……しかし、見あたらんな」

 栗鼠が木の上を走り鳥が果実を啄み、野兎が茂みの中を駆ける姿はちらほら見えても大型の動物がいる気配はなく、イーゴルが首を伸ばして木々の隙間の奥を覗き込む。

「このあたりはまだ小さい動物ばっかりよ。もっと奥に入らないと鹿はいないわ」

「この辺りは木が詰まっているな。これでは鹿は通りづらいか。……俺にも狭いな」

 密集して木々が立ち並んでいるので上背も横幅もあるイーゴルは少々窮屈そうだった。

「こっちなら他よりも広いからとおりやすいんじゃないかしら」

「やはり森番というのは森を知り尽くしているものだな」

 サンドラが進行方向を左手側へとずらして誘うと、イーゴルが感嘆する。

「もう覚えてないぐらい子供の時から父さんや兄さんにあちこち連れ回されてたから」

 母をふたつになる前に病で亡くした後は、父と兄達が自分の子守をしていたのだ。父と兄達と森のどこにでも行って、森の管理者の一族として必要なことは体で覚えた。

「森で産まれて生きるというのは羨ましいとも思うな」

 しみじみとつぶやくイーゴルにサンドラは首を捻る。

「他の暮らしがどうか知らないから、羨ましいっていうのはよくわからないけれど少なくともあたしはこの暮らしが好き」

「俺も今の暮らしが嫌というわけではないのだがなあ、なにかと難しいことが多すぎる」

「そりゃ、皇太子殿下だものね。あたしはもうちょっと難しいこともおぼえなきゃならなかったんだけど、勉強は苦手……」

 話している内に開けた場所に出てサンドラは足を止め息を潜める。イーゴルも同じく巨体をできるだけかがめて気配を消す。

 草を踏み、枝を揺らす音が微かに聞こえる。

 ここから奥には湧き水が溜った小さな池がある。動物たちは水を求めてそこに集まるのだ。

 木々の隙間からゆったりと大きな牡鹿が現れる。木漏れ日に艶めく毛並みと大降りの枝のような美しく整った角。

 何度見ても、美しさに息を呑んでしまう。

「なんと、立派な」

 イーゴルが思わずといった体で零す。

「あれはこの森の鹿の王様。神霊様に選ばれてるんだから、誰も手を出しちゃいけないの」

 この国には地母神ギリルアを頂点に彼女の子供である数多の神霊が祀られている。神々は気まぐれに多くの恵みと災厄をもたらす。たとえ恵みを与えてくれる神霊であっても、機嫌を損ねれば多くを失うのだ。

 人々は神殿から神々の意志を伝え聞き、けして神霊に逆らわずにいなければならない。

 鹿の王がサンドラとイーゴルのいる方へと首を向けた後に、木立の奥へと消える。

 その後に四頭の牡鹿が姿を見せる。どれも王ほどではないにしろ、大振りで立派な角がある。

「あの中から一頭か二頭、狩るようにってことね」

 神殿からの達しがある時は決まって王が最初に姿を見せ、その後に贄に選ばれたものたちが現れる。

 イーゴルが矢をつがえてかまえる。

 こちらにはまだ気付いていない鹿達はそのあたりをうろうろとしている。

 そうして矢が放たれる。

 立ち並んだ木々の隙間から正確に矢は鹿の首元へと飛んでいき、一瞬で巨体が地面に倒れ伏す。

 その様子に残りの鹿達は一斉にそれぞれの方向へと走り出し、矢を構えていたサンドラはその中で逃げる方向を見誤って足をもつれさせた一頭の喉元を射貫いた。

「お見事」

 イーゴルが称賛の声を上げた。

「ありがとう。唯一の特技がこれなの」

 弓の腕だけは兄達にも負けない自信があった。

「その細腕でこの弓を引けるだけでも見事だというのに、狙いも正確で威力もあるというのはなかなかによい特技だ」

 イーゴルが比較的腕力のいる長弓とサンドラの腕を見比べて感心する。

「うーん、イーゴルに比べたら細くても、細腕って言うのはどうかしら」

 同年代の少女達と並べられたらお世辞にも、細いという言葉は出ないだろう。

「いや、すまない。立派に鍛え上げているというのに軽んじるようなことを」

 なぜか妙な方向にイーゴルが謝りだして、サンドラは思わず吹き出す。

「全然大丈夫。褒めてもらってすごく嬉しい」

「そうか。うん。おお、いかん。早く血抜きをせねばな」

 できるだけ早く獲物は血を抜き解体せねば肉が不味くなる。イーゴルとサンドラはさくさくと後処理をすます。

「本当に猟師みたいね」

 狩からその後までのイーゴルの手際のよさにサンドラは感心する。狩というのはこの国の男の重要な仕事のひとつではあるが、皇太子ともなればある程度はお付きに任せているものだと思っていた。

「俺も勉学は苦手だが、狩と武術は得意だ」

 獲物を担ぐイーゴルが楽しげで、サンドラもやわらかな心地になって微笑んだ。


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