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4-4

***


 サンドラは足や手をかけられそうな崖の岩や張り出した木を見つけては、器用に急斜面を降りて行く。下に行くにつれて眼下にある馬車が原形を留めている雪の盛り上がり具合に、切迫感は薄らぐ。

 後は上に比べれば緩やかな斜面で雪がほとんど落ちてしまっているので、雪と一緒に滑り落ちる心配もない。気を抜かず慎重に下へ降りていくだけだ。

「よかった。馬車は大丈夫」

 定員二名の小さな箱馬車は一旦滑り落ちた後に上から斜面に残っていた雪が落ちてきたようだが、造りが丈夫で横転していても潰れてはいない。

「御者は……」

 そのすぐ横に半分ほど雪に埋もれた馬と、さら下に人の手が見える。サンドラは駆け寄って、様子を窺い口を引き結んで馬車へと目を向ける。

 そして様子を見に来た兵に箱馬車から離れた所へ落としてもらっていた手斧と雪かきのスコップを取りに行って戻ってくる。

 ひとまず上から雪を左右におろしてさらに自分の正面にある雪もどかし、あらわになった底面をこぶしで叩く。

「フィグ、大丈夫?」

 こんこんと音が返ってきて、安堵のあまりその場にへたり込みそうになる。

 しかしまだ姿を確認するまでは安心しきれないと、サンドラは下ろした雪を固めて足がかりにし、上になっている馬車の扉を確認する。

 雪の重みでたわんだせいか、試しに取っ手を引っ張っても開かない。

「フィグ! 頭の上の扉、押せる!?」

 声をかけると扉が軋んだ音を立てるが、開く気配がない。

「……片腕が折れているかもしれない状態なので、これ以上は難しいです」

 思った以上に落ちついた声が返ってきて、怪我はしていても立って喋れるぐらいには無事だと胸を撫で下ろす。

「息苦しくはない? 他に痛いところは? 血が沢山でてる所もない?」

 突発的な状況で負傷してた時、痛みを感じにくいことはよくあることだ。まだ他に本人が気付いていない怪我があるかもしれないと、サンドラはフィグネリアに確認する。

「ありません。……護衛達と御者は無事でしょうか」

「兵達は無事よ。御者は一緒に落ちてしまったから……」

 少し答えるのを迷ったが、すぐに分かることだとサンドラは正直に答えた。

「そう、ですか。サンドラ様はなぜおひとりでここへ?」

「ああ、あたしは上から先に降りてきたから早かったのよ。イーゴル達ももう少ししたら来るわ」

「上から……? 崖から降りたのですか!?」

 落ち着きはらっていたフィグネリアが、初めて動揺をみせた。

「崖って言うほど崖でもないわよ。ほら、馬車が大丈夫なぐらいだったんだから。あ、そうだ」

 サンドラは崖上の見張りに向かってフィグネリアは無事だと声を張り上げる。

「もう馬車が潰れるぐらいの雪も落ちてこなさそうだし、そこの中の方が暖かいからもうちょっとだけ我慢してて」

 それからまたフィグネリアへと声をかけた。

「毛布も、温石もあるので私は寒くないのですが、サンドラ様は大丈夫ですか? ここまで来るのに怪我はしていませんか?」

「それは大丈夫よ。あたし、子供の頃から森の中走り回ってたのよ。高い木に上ったり崖下の沢に降りたりね」

 さすがにこの高さから降りたのは初めてなのだが、それは言わないでおく。

「……兄上と最初に会ったときは木の上にいらしたのでしたよね」

「そうだったわね。あの時はまさかこんな事になるなんて思ってなかったわ。でも、最初に会ったときから家族になるならこういう人がいいなっていうのは感じてたのかも。あ、こういう話はつまらない、かな」

 顔が見えないせいか、ついつい喋りすぎてサンドラは後ろ頭をかく。

 身内の馴れ初め話は人によってはあまり楽しくない話である。リリアは積極的に聞きたがったが、フィグネリアはどうだろう。自分も一度興味本位で義姉に長兄でよかったのかと聞いたぐらいで、それほど深く聞こうとは思わなかった。

「いえ……兄上も同じだったのでしょうね。最初からお心は決まっておられたから、王宮にサンドラ様を呼ばれた」

「あたしは、会いたいからってだけで来ちゃって、先の事なんて全然考えてなかったからいっぱいびっくりしたわ」

 今思い出しても、さすがにもうちょっと色々考えることはあっただろうにと反省しかない。

「ここでの暮らしは、慣れましたか?」

「慣れないこともまだ多いけど、挨拶回りでいろんな所に行って王宮に戻ってくると家に帰って来たって安心するぐらいにはなってるわね……っと」

 目まぐるしい日々を思い出していたサンドラは雪を踏む微かな音を拾って息を呑む。

「サンドラ様?」

「……フィグ、音を立てないでじっとしてて。中にいれば大丈夫だから」

 目と前にある凍った小川の対岸すぐ側の森の中から狼の群が出てきていた。

 六頭はいる。血の臭いを嗅ぎつけてきたのだろう。

 サンドラは馬車の影に隠れて様子を窺う。

(手斧じゃちょっと無理かしらねえ)

 狼六頭に手斧一本ではさすがに厳しいものがある。

 狼たちが凍った小川を迷いなく渡ってきて、サンドラは視界に入らないように体を小さくして息を潜める。馬一頭で満足してくれればいいのだが。

 しかし、待てども狼たちが馬を咀嚼する音が聞こえてこない。サンドラは物音を立てないようにそろりと動いて、まだ狼たちがどうしているか確認する。

(警戒してる……?)

 一頭が馬の口元に鼻先を当てて匂いを嗅いで何かを確認していた。他の狼が堪えきれず首元に牙を立てようとすると、その狼は低く唸り止めた。どうやら群の長らしい。

 長はもう一度馬の匂いを嗅いで首を森の方へ向け、そのまま他の狼たちを引き連れてもどって行く。

(まずい)

 このまま帰ってくれそうだと思った瞬間、長がこちらを振り向いて目が合ってしまった。だがすぐに興味なさげに首を戻して、森へ帰っていった。

「……助かった」

 安堵のため息をつくと、控えめに馬車が叩かれる。

「サンドラ様、どうされたのですか?」

「うん。もう大丈夫。……狼がいたんだけど、こっちには来なかったから」

「……そう、ですか。兄上達は大丈夫でしょうか?」

 少しの間絶句した後、フィグネリアが不安げに言う。

「人数も多いし、森番と一緒に来るはずだわ」

 迂回してここまで来るには森を通らねばならない。森の中には神殿に定められた禁足があるかもしれず、その上急ぎならば森番に案内を頼む以外の選択肢はない。

「そう、ですよね。失念して、いました」

 いささかフィグネリアの声が辛そうに聞こえた。

「フィグ、腕が痛む? それとも他に苦しいところがある?」

「……痛みが強くなってきただけですので。お気になさらず」

 だんだん鈍っていた感覚が戻ってきたのか、それとも耐えていたのかわからないがとにかく子供なら泣き出しすぐらいには痛いはずだ。

 なのに、フィグネリアはあまりにも冷静でなおさら心配になる。

「フィグ、上、開けるからちょっと隅に寄って」

 サンドラはいてもたってもおられず、箱馬車の天井になってしまっている扉を、手斧で慎重に開ける。

 中ではフィグネリアが隅で毛布にくるまり小さく丸まっていた。見たところ大きな出血があるようには見えず、他に怪我は確かになさそうだ。しかし眩しげにこちらを見やる目は憔悴している。

「サンドラ、様……。兄上達が?」

「まだよ。よし、怪我見せてね」

 サンドラは中へそろりと降りて、フィグネリアの毛布をめくり腕を見る。外套とドレスに覆われて怪我の具合はわからないが、少なくとも骨が突き出したりはしていない。

 そして毛布を元に戻して、フィグネリアの頭をゆっくり撫でる。

「痛いところない?」

 手に触れてはっきりわかる瘤は見当たらなければ、出血もなさそうだ。フィグネリアも頭は大丈夫だと弱々しく答える。

 ただ、指先が触れた頬や額が少し熱い。

「上、開けたから寒いわね」

 サンドラは怪我をした腕に触らないように気をつけながらフィグネリアの頭を胸に抱き寄せて背中をさする。

 それからいくらか時間が経って、イーゴルが呼ぶ声が聞こえてくる。

「兄上……」

 ぼんやりとしていたフィグネリアが、その声に反応する。

「そう。もう大丈夫よ。よく頑張ったわ」

 サンドラはフィグネリアに微笑みかけて、大声で彼女の無事をイーゴル達に伝える。

「フィグネリア!!」

 馬車が揺れるほど力強く大地を踏みしめながらイーゴルがやってきて、馬車の中を覗き込む。

「フィグ、少し我慢してね。右腕が折れてるかもしれないから気をつけて」

 サンドラはフィグネリアを毛布を脱がせ、両脇の下を掴んで高く持ち上げてイーゴルに渡す。それから毛布を外に出してから、自分も外へと出る。

 真っ先にイーゴルが駆けつけたらしく、後から数人の兵と道案内の猟師に神官もやってきているのが見えた。

「フィグネリア、よく無事でいてくれた」

「兄上……」

 何かを言おうとしていたフィグネリアの言葉が止まり、そのかわり涙が溢れ出していた。

 イーゴルにすがりついて嗚咽する姿は幼い子供でしかなく、やっと安心できたらしかった。

「大丈夫だ。神官様も来ているからな。何も怖いことはないぞ」

 やと後続が辿り着いて、イーゴルが神官にフィグネリアを診せる。この帝国において医術者でもある神官が背負っている背嚢から用具を取り出して、怪我の手当をする。それから暖かい薬湯を少し飲むと、フィグネリアは眠ってしまった。

「なるほど、お疲れがあっての発熱でしょうな。念のため一晩神殿でお預かりします」

 サンドラとイーゴルが神官に問われて、ここ十日ほどのフィグネリアの寝食を訊ねられ答えるとそう診断が下った。

「イーゴル、後のことはあたし達でしておくから、フィグについててあげて」

 サンドラはそりに横たえられたフィグネリアに毛布をかけて、馬車や馬に視線をやる。

「おお、御者はやはり助からなかったか。まずは馬の下から出してやらねばな。……神官様、お願いします」

 イーゴルが兵達と共に馬を持ち上げて移動し、神官に弔いの祈りを乞う。

「あ、狼が食べなかったから、馬は動物が食べないように処理した方がいいわ」

 馬は解体して森に供物として差し出すかと話題が出たとき、サンドラがそう言うと神官以外がぎょっとした顔で彼女を見た。

「サンドラも、よく無事でいてくれた。戦ったのか?」

 イーゴルが神妙な顔で言うのに、サンドラは首を横に振って自分には興味を示さずに狼の群が去って行ったことを告げる。

「ここの狼の頭はこの森の王です。禁足地に入りこまないかぎりは人を襲いません。しかし、この状態の馬に口をつけなかったということは何らかの穢れがあったからでしょう。できればここでこれ以上血を流さずにお持ち帰りいただきたい」

 解体せずにこのまま馬をここから運んでほしいという神官の言葉に、異議を唱える者はいなかった。

「イーゴル早いところフィグを暖かい神殿に連れて行ってあげて」

「いや、サンドラも一緒だ。一度休んだ方がいい。……あそこから降りて、フィグネリアについていてくれたのだからな」

 イーゴルが崖の上を見上げると、兵達も大きくうなずいて休んでくれと言うのでサンドラはこの場は任せることにしたのだった。


***

 

 皇帝、エドゥアルトはフィグネリアの無事の報告を受けて、安堵の息をもらす。

「……御者は死んだか」

 フィグネリアの護衛についていた兵の話では突然馬が暴れ出した時、御者は手綱を離すことなく馬を制御しようとしていたということだ。職務を全うしようとしていたのか、崖下に誘導したのかはこのまま不明だろう。

 その後も側近から逐次報告が上がってきて、ただの事故ではないだろうとエドゥアルトは結論づける。

「どうされます?」

「……表向きには事故ですます。背後関係は徹底的に調べ上げろ」

 フィグネリア自らにも調査を手伝わせることも考えたものの、年齢を考えればまだ早い。似たようなことが続けば、対処を学ばさねばならないが様子見だ。

 側近が執務室を去りひとりになったエドゥアルトは、全身の血が凍り付く感覚に囚われて唇を噛む。

 もう十年だ。フィグネリアの成長を見ながら、時間の流れを確かに感じているというのにふとした瞬間にフィグネリアが産まれた日へと記憶が引き戻される。

 難産の末にフィグネリアの母親は娘の産声を聞いて間もなく息を引き取った。

 娘の誕生の喜びどころか、突然の喪失の哀しみさえ感じられないほどに呆然と立ち尽くした瞬間がついさっきのことにすら思えて目眩がする。

 フィグネリアまで失ったら、何を支えにしてこの治世を続ければいいいのだろうか。

 エドゥアルトは深く息を吸って、自分自身を落ち着かせる。

 過ぎたことだ。今、大事なのはフィグネリアの先だ。

 難題だったイーゴルの結婚は最善の形で片付いた。イーゴル自身に帝位に執着がないならば、少なくとも兄妹で揉めることはない。

「もう少し、フィグネリアには欲を持ってもらわねばな」

 ただ、フィグネリアもまた玉座に興味がないのは、兄妹仲が良好でありすぎるせいでもある。

 アドロフ公の生きている内は、あまり野心を見せるわけにもいかないので難しいところだ。

「……警護の見直しからか」

 課題は山積みであるものの、まずはフィグネリアの身を護ることが第一だ。

 今回の件は失敗した以上、大きな動きはないだろう。そもそも今の時点でフィグネリアに刺客を向けるのは気が早すぎる。手柄を焦った者の仕業だろう。

 とはいえ政でのフィグネリアの表立った動きが増えれば、やがては排斥しようとする者も増えていく。

 いくらか釘は打たねばなるまい。

 それからフィグネリアの転落は、馬が毒草をあやまって口にした不運な事故として処理された。御者の家族には見舞金を皇帝自らが渡し、二月後には九公家に与する下級貴族の当主が落馬によって大怪我を負ったが、よくある事故として人々の話題にのぼることすらなかった。


***


 転落事故から二十日余り。

 フィグネリアは右腕が使えない不便さにも慣れてきていた。

 神官から睡眠と食事はしっかりとることが怪我の治りを早めると言われため、勉学の時間は減っている。その分、父以外の家族と過ごす時間が増えた。

 体術や馬術ができない分、体力を衰えさせないために散歩をするときはリリアやイーゴル、サンドラが一緒のことが多い。

(リリアも母上にも心配させてしまったな)

 神殿に一晩泊まった翌日、昼頃には熱もひくとイーゴルとリリアばかりかオリガまで迎えに来た。

 リリアは折れた右腕を見て泣き出し、オリガも瞳に涙を滲ませて今にも卒倒しそうだった。どうやら父の判断でふたりには無事救出されたと分かるまで事故を伏せていたようだ。

 父の判断はいつも正しい。だけれども、引っかかりを覚えることもある。

 今日もいくつかの直轄領の中からどれか好きな所の管理をするように言われた。候補になくとも興味を引かれる場所があるならそれでもいいと。

 どこもそれぞれに厄介な難題や大規模事業を抱えているところだ。荷が重い上に、明らかに兄の抱えている領地よりも重要度が高い。

 イーゴルの管理する領地は幾つかあるが、どれも大きな問題もなく月に一回、有能な代官の報告に目を通すぐらいですむ。皇太子自らが失態を冒すことはない。裏を返せば成果を期待されることもないということだ。

(確かに兄上ご自身、政務は不得手と自覚されているが……)

 果たしてこれでよいのだろうかと思うことは、ここ最近増えるばかりだ。

「フィグ!」

 物思いにふけりながら自室へ続く長い廊下を歩いていると、部屋の前にいたサンドラが声をかけられる。

「あ、申し訳ありません。お待たせしました」

 フィグネリアはサンドラの元へ駆け足で向かう。

 サンドラはさっき来たばかりだと笑ってくれて、フィグネリアは彼女を自室に招き入れる。

 部屋は書斎と寝室が二間続きになっていて、入り口である書斎には普段使っている机よりも一回り大きな机と椅子がふたつ並べて置いてある。

「イーゴル達が戻ってくるまであとちょっとね」

「そうですね。予定通りなら明後日の日暮れ前にはお戻りになりますね」

 今、イーゴルとリリア、それからオリガはアドロフ公家にいる。年に一度アドルフ公領の冬薔薇が咲く頃にオリガは帰省していた。ただ今年はフィグネリアが長旅は難しいから中止にすると、オリガ自身が言い出した。

 帰省の時に子供全員を連れて行くということは、普段あまり強い主張をしないオリガの唯一のこだわりでもあった。アドロフ公家にフィグネリアのことをイーゴルやリリアと分け隔てなく接してほしいと願っている。

 しかし、毎年上手く行かずに義母が落胆するのを見てはフィグネリア胸が痛んだ。

 あまり頻繁に長旅をできるほど丈夫でないオリガは、いつ年に一度の帰省ができなくなるかもわからない。

 最終的に一緒に行くはずだったサンドラがフィグネリアがゆっくり休めるよう、そして寂しくないように王宮に残ることと、日程を短くすることでやっと納得したオリガはイーゴルとリリアだけ連れて帰省した。

 正直なところ自分だけ行かない理由が出来てほっとしている。声が大きいだけで感情は全て表に出すマラットは怖くないが、心の底が見えないアドロフ公は視線を向けられるだけで身が竦む。そうしてオリガの困った顔を見るのが一番辛い。

「あたしの代筆仕事もそれまでね」

「リリアが飽きてしまえば、引き続きサンドラ様にお願いするかと」

 フィグネリアは利き腕が使えないので、領地の代官とのやりとりの書面を代筆してもらっている。父からは信頼できそうな者を選ぶ課題は、どうしても手伝いたいというリリアの懇願に負けてしまった。

 父はそれもひとつの手だと面白がっていたものの、勉強嫌いのリリアはすぐに飽きてしまうだろうとフィグネリアはふんでいた。だがその予想は外れた。

「ここまでやったら最後までやるんじゃないかしら。文章の意味はさっぱりわからなくても、役に立ってるのが嬉しいもの」

「そういうものですか」

「そうよ。あたしも内容は難しくてよくわからないんだけど、フィグのためにやれることがあるのはいいことよ」

 リリアもあともう少しすれば領地を任せられるし、サンドラは皇太子妃として内容を多少でも理解してもらればよいのだが。

 そんな考えもちらつきながらも、フィグネリアはゆっくりと代筆の内容をサンドラに伝える。

 サンドラの字は柔らかくて素直だ。

 彼女自身の気質そのもので、やはりそういうところもイーゴルと似ている。それに、リリアにも。

「フィグ、あたし、何か間違っちゃった……?」

 書き終わってからも、フィグネリアが何も言わないのでサンドラが不安そうにする。

「いえ、サンドラ様の字は、よいなと思って」

 とっさに口をついた言葉にフィグネリアは動揺する。

 字ではなく、サンドラ自身に対してそう思っていた。兄や妹に似た所を好ましく思うと同時に、羨ましくもあった。

「え、そう? ええ。字、褒められたの初めてだわ」

 照れくさそうにしながらも、嬉しそうに口元を緩めるサンドラに、フィグネリアも釣られて笑顔になる。

 皇太子であるイーゴルの立場の形骸化に不安はあるが、兄が兄らしく幸せでいられる伴侶はサンドラ以外にいないのはとっくにわかっている。

 ただ、自分の居場所がなくなってしまうのでは少し怖くもあったのだ。

 サンドラはあっという間に家族の一員になって、イーゴルとリリアと一緒にいる時間も自分よりずっと長い。自分がいたはずの場所に、自分よりも兄と妹に似たサンドラがいる気がした。

 だけれどそんなことはなくちゃんと居場所はあって、そこに上手く入れないのは自分自身の問題なのだ。

 その問題解決はとても難しいが、幸せそうな兄達を見ていることに不安や畏れよりも安堵の方がこの頃は大きい。

(私には私の役目がある)

 今の自分にできるのは、兄達が幸せであれる環境をつくるために政を学ぶことだ。

 そのためにももっと勉強をしなければとフィグネリアは決意を固めるのであった。


***


 予定通りイーゴル達が戻ってきた報せを受けたサンドラは、フィグネリアと一緒に迎えに出た。

 皇后は長旅で疲れきっていてすぐに自室で休養することになり、気を利かせたリリアがフィグネリアを引っ張って皇帝の元へと行ったのですぐにイーゴルとふたりきりとなった。

「フィグネリアは元気そうだな。変わったことはなかったか?」

 イーゴルがフィグネリアの顔色のよさに微笑む。

「うん。しっかり休んでちゃんと食べてるわ。怪我もあと五日後に様子を見て大丈夫そうなら固定具を外していいって。あ、この頃笑ってくれること、増えたかな」

 以前は自分とふたりきりでいると困ったりかしこまったりしている表情が多かったフィグネリアも、最近は穏やかな雰囲気で時々笑顔も浮かべるようになった。

「そうか。やはり休養は必要だな。……サンドラ、すまないがしばらく母上の手伝いを頼めないだろうか。やはり、以前より体力が落ちてしまってな、向こうでもあまり外にお出にならなかったのだ」

「すごくお疲れだったものね。ゆっくり休んでいただかないと」

 オリガが今にも倒れそうでイーゴルに支えられていたのを思い返し、去年はここまでではなかったのにと少し不安になる。

「フィグネリアのこともあったからご心労もあるやもしれん。フィグネリアがあのとおり元気であるなら、母上もじきにお元気になられるだろう。少しの間だが少々大変かもしれんが、頼む」

 奥向きのことはそれほど急いで覚えなくてもいいと皇帝からは言われてはいるが、奥向きの細々とした采配はいずれやらねばならない。オリガの大きな仕事であるアドロフ公家と繋がりの深い貴族達との交流は無理だとしても、自分がやれることを増やせるなら増やしたい。

「家族だもの。お互い助け合っていかないとよね」

「そうだな。皆で力をあわせればなんということもない」

 森での暮らしとは全然違うけれど家族一緒に力を合わせることには変わりない。

 サンドラはずっとこの先もこうやってイーゴルと共にに歩んでいけることを、幸せに思うのだった。

 

 

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― 新着の感想 ―
皇帝が一番の元凶じゃね……? そんなに公爵家の後ろ盾がある皇太子が疎ましいの? 九公爵家に今以上の力を持たせたくない気持ちはわかるけど、皇女が臣籍降下したくらいで増長するかな。 ちゃんと家の力の乏し…
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