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サンドラが帝都で暮らし始めて二度目の冬がやってきていた。
九公家への挨拶回りが終わると、今度は皇帝の決めた順に帝国中の貴族への挨拶回りが始まって春から夏にかけてはどたばたとしていた。雪の季節になって巡行は少し落ち着いてきている。
「どっちにしろ忙しいけど、これがいいわ」
その代わり本格的に降り始めてきた雪の対応に軍は追われているものの、馬車に揺られて長距離移動を繰り返しているよりはよほどいい。
今日は朝方まで降った雪は止んで、薄青の空が見えている。ここ数日べったりと重い雪雲に覆われていたので、久々の晴天だ。痛いほど風は冷たいが明るいだけでも気分も晴れるというものだ。
「サンドラ! 俺の方はは異常なしだ!!」
皇都の主要街道の北側を兵を引き連れ見廻っていたイーゴルが、東側のサンドラとの合流地点にやってくる。
「あたしのほうも異常なしよ……あ、フィグだ」
そこへちょうど前と後ろに衛兵が二騎ずつついた一頭立ての箱馬車が、南側から西へと抜けるのが見えた。
「今日は領地の視察だったな」
「そうね。フィグもまた忙しくなったわね」
フィグネリアは十歳になると、イーゴルがかつてそうであったように皇帝直轄領の管理を任されることになってただでさえ顔を合わす機会が減っている。
「休めていればよいのだがな」
この頃は食事の席ですら一緒になることが減り、夜遅くまで皇帝の政務に付き合っているフィグネリアの多忙さをイーゴルは案じている。
サンドラもフィグネリアと会えたときは、顔色や動作を注視しているがやはり眠たげだったり表情が暗いことが時々ある。
大丈夫かと聞いても問題はないと答えるのはわかりきっているので、それとなく一緒にお茶をしたりしないかだとか、夜に星見でもしないかと訊くものの勉強があるのでと断られてしまう。
皇帝にちょっとだけフィグネリアを遊びに連れて行ってもいいかと、イーゴルから声を掛けても今は一番大事な時期だからと聞き入れてもらえない。
その度に自分がもう少し賢ければと、さすがにイーゴルも落ち込んでいる。
「あたし達にできることって何かしらね」
自分も同じく難しいことはさっぱりなので、フィグネリアにゆっくり休息を取らせることすらできないとなるとやることがない。
「父上にもっと強くフィグネリアに休養をとお願いせねば。なにもこんなに急がずともフィグネリアなら、人よりも早く必要なことを身につけられるだろうに」
イーゴルの言う通り、もうすでにフィグネリアは皇帝の政務を理解できているのだ。それだけではいけないのだろうか。
「難しすぎるわ」
サンドラとイーゴルは同時にため息をついて、ひとまず見廻りの仕事へと気持ちを切り替える。
今度は皇都の外回りへとふたり一緒に十騎の兵を連れて馬で向かった。西側の林道にさしかかると故郷を思い出すので、サンドラはここが持ち場になる日が楽しみだった。
ちょうどフィグネリアが通ってすぐで、まだ轍がくっきり残っている。
「どうしたのかしら」
それを追うように進んでいると、二騎の兵が息せき切ってやってくるのが見えた。
あれはフィグネリアの護衛の兵ではないだろうか。
ただごとではない雰囲気にサンドラはイーゴルと、硬い表情で顔を見合わせる。
「皇太子殿下! フィグネリア皇女殿下の馬車が、転落しました!!」
そして告げられた言葉にサンドラは青ざめる。
この先の道は谷沿いで、片側は急斜面で深い。場所によっては落ちたらひとたまりもない断崖絶壁の所もある。
「一体何があったというのだ!! 落ちるような場所ではないだろう!」
イーゴルが問い正すように、道自体は狭いことはなく木柵もあるのでこんな明るい日中に転落などあるものではない。
護衛によれば、突然馬車を引いていた馬が暴れ出したとのことだった。残りの護衛は崖下へと向かっているということだった。
「あたし達も行こう」
一騎だけ王宮への救援に残して、サンドラ達は転落したという場所へと急ぐ。
「どうして、こんな……」
近づけば壊れた柵と馬が暴れ踏み荒らされた跡が鮮明に見えた。これだけの酷い有様になるのに一体何があったというのだろう。
「フィグネリア……」
イーゴルが真っ先に断崖へと向かい、呆然と妹の名をつぶやいて、サンドラもその隣に駆け寄って下を覗き込む。
他の所に比べれば下までの距離は短い。斜面も最初こそ急だが、三分の二は緩やかになっていって下まで馬車が滑り落ちた痕跡がある。
「御者も馬ごと落ちたのよね……」
生身で馬と一緒に落ちた御者は絶望的でも、馬車の中にいたフィグネリアはまだ望みがあるかもしれないと、サンドラは下へ目をこらす。
こんもりとした雪の塊のようなものの中に、わずかに車輪らしきものが見えた。
「イーゴル、あたしはここから降りるわ」
とにかく雪に埋もれたままでは、危険だろう。回り道をして崖下まで行くにも時間がかかりすぎる。
「いや、それなら俺も行く」
「無理よ。イーゴルは馬であそこまで向かって。あたしはこういうの慣れてるから」
並の男よりも一回りは大きいイーゴルはこの急斜面を降りるには危険すぎる。
周りの兵達はサンドラでも危険では止めるものの、行くと決めたら行くのだ。
「……頼んだぞ。だが無理はしないでくれ」
イーゴルもひとりで行かせるのに不安げな顔をするものの、サンドラの意志の固さに引き止めることはしなかった。
「フィグネリア!! 今から助けに向かうからな!!」
そうして崖下へとイーゴルが声を掛けて、馬を走らせる。
サンドラも残っている兵ひとりに見守りを頼んでそろりと下へと降り始めた。
***
「リリアを連れて来なくてよかったな」
真っ暗な馬車の中、フィグネリアはぽつりとつぶやく。
領地の視察にリリアが一緒に行くとごねていたのを、遊びに行くわけではないと宥めて置いてきたのはよかった。
突然馬車が大きく揺れてすさまじい衝撃が襲ってきた原因はよくわからないが、通っていた道を思えば崖から落ちたのは間違いない。座っていた椅子の部分らしき出っ張りが真横にあるので、馬車は横転しているのだろう。
右腕が酷く痛むが他はそれほど痛いところはない。温石と毛布は持っていたので寒さはしのげる。
ただ、雪に埋もれてしまっているなら息が出来なくなるか、雪の重みで馬車が潰れる危険はある。
雪崩に巻き込まれたのでなければ護衛が救援を呼んでいるはずだ。そうでなくとも柵が壊れていれば誰かが気付くだろう。
フィグネリアは頭の中で落下した道とその崖下までの迂回路を思い描いて、時間がかかるなと眉をひそめる。
状況は最悪ではないが、それに近い。
(御者は……)
馬車が落ちたなら馬もろともだろう。御者は逃げられたのか、一緒に落ちたのか。
フィグネリアは一緒だろうなと、暗い気持ちごと毛布にくるまり重くなってくる瞼を持ち上げる。
眠気があるのは連日の寝不足のせいだろうが、今は寝ない方がいい。右腕の痛みで意識を引き戻されるのは不幸中の幸いだ。
着々とイーゴルとサンドラの結婚の準備が整っていく一方で、父の政務を横で学ぶ時間も与えられる課題も増えている。体術と馬術も合間でこなさないといけないので、時間がいくらあっても足りない。
サンドラやリリアから出掛けることやお茶に誘われても、首を横に振るばかりだ。
サンドラは星見に誘ってくれたとき、眠気が顔に出てしまっていたせいか退屈なら寝てしまってもいいからとつけ加えていた。だが課題が残っていて断ってしまった。
(あの人は優しい)
去年、アドロフ家に挨拶に行ってから話しかけられることは減って、マラットかアドロフ公から何か忠告でもあったのだろうと思っていた。だけれど、体術や馬術の訓練の時に、一緒にやろうと誘われることも多くなった。
できるだけ休息時間を長く取ったり、甘い菓子を用意していてくれたりと少しでも体を休めるようにと気づかってくれていた。
それでも次の予定があるからと、早々に切り上げて自分から王宮に戻ってしまっては申し訳なく思ってしまう。
優しさが嫌なわけではないのだ。受け取り方がわからない。受け取っていいのかも分からない。
「痛い……」
右腕の痛みがじわじわと強くなってきて、フィグネリアはうめく。
これは折れているのかもしれない。
痛い、暗い、寒い、怖い。
心の内が苦しいものばかりになってきて、落ち着かなければと自分を宥める。
ゆっくりと呼吸を整えながら、大丈夫だと自分に言い聞かせるものの不安ばかりが強くなる。
「……兄上?」
そんなとき、ふとどこからともなく兄の声が聞こえた気がしてフィグネリアは頭上を仰ぐ。救援には早過ぎるだろう。
だが、きっと兄なら心配して声をかけてくれるはずだ。
「兄上が来て下さる」
幻聴ではないと確信して、フィグネリアは歯を食いしばるのだった。