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そうして見廻りを終え、他の家族も屋敷に戻った所でサンドラは大人数が床で座れる広間でイーゴルと共に結婚の報告をしたのだが、当然のように父や兄達は重苦しい表情で困り果てていた。
「皇帝陛下がご納得なさっていて、皇太子殿下がどうしても仰り、娘がお話を受けたというならばこちらからお断りするなどできることではありません」
そう言う父の顔にはできるならお断りしたいとありありと書いてあった。
「父さん、今思ってること正直に全部、言って。イーゴルだって怒らないから、ねえ」
「御父上、不安があるなら全部申してくれ。大事な娘御を預かるのだ。きちんとご納得いくまで話し合いたい」
イーゴルが頑なに言うのに、ますます父は困った顔になり兄達も不安げだ。
「……十分にお分かりいただいていると思うのですが、当家は貴族とは名ばかり。娘には一通りの行儀作法は習わせましたが、とても皇太子妃として公の場に出られるものではありません」
「それはそれで新たに習えば良い。講師となる者なら大勢いる。サンドラ、少々窮屈やもしれんが、かまわないか」
行儀作法の最低限だけでもかなり苦労したのだが、それでも帝都で暮らしていくのに必要ならば頑張れるはずである。
「大丈夫、そこはちゃんとするわ。まだあるのね」
こくりと父がうなずく。
「娘はその、必要最低限の勉学はさせたのですがあいにくどれも不向きでして、皇帝陛下がお認めなっているということは政務に関わることは期待されていないとは思うのですが、本当にそれでかまわないのかと」
少し難しい話になってサンドラはイーゴルをちらりと見る。
「政務は主にフィグネリアが先々することになっているからなあ。父上も俺の伴侶は政務に関わらなくても大丈夫だと仰っていた」
それなら安心だと政治方面だはどう頑張っても人並みほども難しいサンドラは、ほっと胸を撫で下ろす。
しかしながらますます父と兄達は渋い顔になる。
「それと、最後にひとつ。当家の立ち位置です。当家の役目はあくまで祖先が神霊様よりお預かりしたこの森の管理です。とはいえ、皇家の外戚となってしまうと何かと政治的な問題が降りかかってこないか心配でもあります」
さらにこみいった政治の話になってサンドラとイーゴルは身構える。
ややこしい話なのはわかるが、具体的に何がどうとまではわからない。イーゴルはどうだろうと見やったが、考え込んでいた。
「……それに、ついては、父上とよく相談して、迷惑がかからないようにする」
父と兄達はしばし目配せしてこくりとうなずく。
「申し訳ありません、少し、息子達と話をさせていただきます」
そして父と兄達が部屋を出ていったが、床に座るのが難しいので部屋の隅の長椅子に座っている義姉のジーナは残っている。部屋を出るさい、ボグダンが彼女を一緒に来るか訊ねたものの、あまり動きたくないと首を横に振った。
「これは、ご納得いただけなかったか」
イーゴルが一回りぐらい小さくなって、サンドラはその肩をぽんと叩く。
「納得いってないっていうのは違う気がするのよねえ」
ジーナの方に目を向けると、彼女も同意見らい。
「納得いっちゃったから困ってるかんじじゃないかしら?」
「うん。そんなかんじ」
姉妹のやりとりにイーゴルがきょとんとする。
「何やら難しいな」
そしてそうつぶやいて不安そうに父と兄達が扉の向こうを見つめるのだった。
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一方、ニキフォロフ男爵家の男達は広間から離れた廊下で、額を突き合わせてため息をついていた。
「父上、皇帝陛下は帝位をフィグネリア皇女殿下に継がせるおつもりなのでしょうか」
長男のボグダンの問に、男爵が首を横に振る。
「いや、長子相続はよほどのことがないかぎり覆すことが難しい。それもアドロフ公の孫だ。皇帝陛下といえどそんな無茶はなさらないはずだ」
「でも、なあ。まだフィグネリア皇女殿下、八つか九つぐらいだろう。今は優秀でも大人になったら平凡になることだってあるんじゃないか」
「しかしながら、皇太子殿下はもう十八だ」
次男がさらに声を潜めて、全員黙り込む。
十八になってもあの様子ならば、政の才覚が突然発揮されることもないだろう。そうなるとやはりまだ幼い第一皇女に期待をかけるしかない。
「皇帝陛下だってまだまだお若いし、跡継ぎ問題って先だろう。四十にはなられてなかったよな」
「三十九だったと思う。確かに先の話だが、第一皇女殿下が成長なさってかつ有能となれば跡目争いに発展するかもしれない」
「そうなった時にサンドラまったく役に立たないよな。だから皇帝陛下には都合がいい?」
「兄妹仲は今の所良さそうだったぞ。皇太子殿下も妹君を溺愛しておられるし」
「とはいえ、皇太子殿下の後ろ盾はアドロフ公だぞ。周りが黙っちゃいないんじゃないか。そんな所にサンドラを嫁に行かせて本当に大丈夫か?」
再び沈黙が降りたあと、誰となくまたため息を零す。
「皇太子じゃなくて猟師だったら喜んで嫁に送り出せるのになあ。いい人なのには間違いないし」
「そうなんだよ。いい人なんだよ。サンドラを大事にしてくれそうだしさ、似合いの夫婦だよ」
あれだけ結婚を決められずにいたサンドラが、これまでと生活が一変しても嫁ぎたいという相手を見つけたのだ。
しかし相手が相手だけに軽い気持ちで幸せになれよと送り出すこともできない。
かといって断れる立場にもない。
これはもう嘘でもおめでとうと言うしかないかと諦めを全員が覚えた時。
「父さん! 兄さん達! 産婆さん呼んできて! 産まれそう!」
サンドラが呼ぶ声に一旦全てのことが吹き飛んで、あとはてんやわんやの大騒ぎになったのだった。
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夜が白み始める頃、ニキフォロフ男爵家に産声が上がる。
産屋として使われる屋敷の一室でずっとジーナの手を握って付き添っていたサンドラは、小さな体でめいっぱいの声を上げる赤子に目を潤ませる。
「姉さん、お疲れ。元気な女の子よ。やだ、ほんとかわいい。」
放心状態で息も絶え絶えだったジーナも、産湯に浸かっておくるみに包まれた我が子にやっと表情を緩める。
「やっと出てきてくれた……。ほらー、母さんよー。さっきまでこの子がおなかにいたなんて不思議ね」
よろよろと産婆から赤子を腕に抱きとったジーナが幸せそうに微笑む。
それからサンドラは産婆に後を任せて一度産屋を出る。ここから一番離れた広間に父と兄達が待っている。ついでにイーゴルと彼の近衛達もいる。
ジーナが産気づいたのが日暮れ前だ。それから産婆がやってきたのは真夜中だった。
三番目と四番目の兄が産婆の家へ訪ねたとき、家には産婆の夫と、息子しかいなかった。
サンドラとイーゴルが炭焼き小屋を訪れた後、ミラナが産気づいたのだ。ちょうど産婆と息子の妻が彼女の様子を見に来ていたところで、結局その出産を終えるのを待っていたらそんな時間になった。
初産だから時間がかかるとは事前に聞いていたとはいえ、付き添っていたサンドラは自分が取り上げなければいかないかもしれないと肝を冷やされた。
「さ、サンドラ! 産まれたか? ジーナも赤ん坊も元気か!?」
部屋に入って真っ先にボグダンが駆け寄ってきて、サンドラはジーナも赤子も問題ないと告げると広間の緊迫した雰囲気が解けた。
十人ほどの大男達は何もできることがなく、かといって眠れもせずにずっと気を張り詰めていた。
特に三番目の兄は、産婆を連れて来なければいけないのでミラナの出産にも立ち合って疲労困憊の様子だった。
無事産まれたとなると、イーゴルや近衛達がめでたいと言祝ぎ、父や兄達がよかったと胸を撫で下ろす。
「……眠いわ」
緊張が解けてほっとすれば、途端に眠気が襲ってきてサンドラはそうつぶやく。とはいえ産婆を休ませねばと産屋に戻る。
そこでは穏やかな顔で寝息をたてるジーナがいた。
「あ、姉さん。寝ちゃったんだ。おばさんもお疲れ、ありがとう。隣の部屋で休んでて」
今日は朝からふたりも取り上げた産婆がやれやれと腰を上げて隣の客室へと向かう。
サンドラがまだ目の開ききっていない姪の顔を覗き込んでいると、控えめに扉を叩く音がする。
「いいか?」
やってきたのはボグダンだった。
「姉さん、寝てるから静かにね」
「あ、ああ。……赤ん坊、だなあ」
緊張した面持ちでゆりかごを覗き込んだボグダンがとぼけたつぶやきをもらす。
「そりゃそうよ。ねえ、他人事みたいなこと言っちゃってひどい父さんね」
「父さん、か。俺の娘なんだよなあ。かわいいなあ。こんなに赤ん坊ってちっちゃかったか? お前の時もっと大きかった気がする」
「あたしが産まれた時兄さんも小さかったじゃない」
「そうだったな。俺はお前がふたつの時には帝都で軍に入隊してたからあんまり小さいうちは一緒にいてやれなかったな」
赤子の顔を眺めながらしんみりとボグダンが言う。年に一度しか帰って来ないボグダンをやっと兄だと認識できたのは六つぐらいだっただろうか。
「父さんがいて、他の兄さん達もいて、それに姉さんもいたし、そもそもボグダン兄さんのこと覚えてなかったから寂しいも何もなかったわよ」
「そういえば、俺がこっち帰ってきたとき、ずっと家にいるの不思議そうにしてたか。……こんなだったお前が皇太子妃なんてなあ」
娘の顔を見ながらボグダンが苦笑する。
「あたしがイーゴルと結婚するの、納得した?」
「正直最初苦労するぞとは思ったんだが、うん、たぶん、お前そんなに苦労しないな。あー、馴染むのは大変かもしれないけどな、それぐらいだ。あとはフィグネリア皇女殿下とは上手くやるんだぞ」
「そりゃ仲良くするわよ。暮らしが変わっても、イーゴルとなら今までみたいに家族みんなで一緒に頑張るができると思うの」
「皇家に嫁ぐって言われると不安も心配も山ほどあるんだよ。でもな、皇太子殿下が優しい方だからいい人と会えてよかったと思う。ここはやっぱり、皇太子殿下のお人柄を喜ぶべきだな……サンドラ、ずっとジーナに付き添ってくれてありがとうな。俺がいるから、お前も休んでろ」
長兄に久しぶりに頭を撫でられて、嬉しさもあり寂しさもあった。
この家を離れる実感がやけに鮮明に胸に迫ってきて、サンドラはこぼれかけた涙をぬぐい部屋を離れた。
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一刻ほどの睡眠の後、いつも通りの日常がやってくる。
イーゴルとその近衛達も家の仕事を手伝ってくれるというので、三交代で森の見廻り出た。一組が見廻りに出る間、一組が家事をし、一組は休息をとる。
そうやって日暮れ前には仕事を終え、その夜は祝宴となった。
大男達がゆりかごに眠る赤子の顔を代わる代わる覗き込んでは、目尻を下げて健やかであれと祈りの言葉をかけていく。
母娘が退室して、ボグダンも酒を一杯飲んでその後を追い親子三人が姿を消すと、祝宴は賑やかさを増して、サンドラとイーゴルの婚約祝いの様相となった。
「サンドラが帝都に来るのは雪解けの頃がよいだろうな」
イーゴルが言うのに、父がそのほうが助かると答え粛々と話は進んでいく。
なるようになるのだろうと父は今日言っていた。諦めた風でもなく、かといって投げやりでもなくやはり長兄と同じくイーゴルの人柄のよさに全てを託そうという話であった。
ずいぶん酒を呑んだせいなのか、それとも色々なことがいっぺんにありすぎたせいか妙にふわふわとした感覚でサンドラはイーゴルと父のやりとりに耳を傾ける。
「サンドラ、疲れているのではないか?」
ぼんやりしていると、イーゴルが心配そうに問うてきてサンドラはうんとうなずく。
「そうかも。あとちょっと飲み過ぎちゃった」
そう言うと兄弟や近衛達も昨日から溜っていた疲労をずっしりと感じて、そのままお開きとなった。
「サンドラの家族が受け入れてくれてよかった」
それぞれ客間や自室に向かう中、サンドラとイーゴルはいつの間にかふたりきりになっていた。
「みんな、イゴールのことはいい人だって思ってるもの。それで十分だったのよ」
「信頼していただいたということか。うむ、雪解けまでまちきれないやもしれないな。冬の間に会いたくなったらきてもよいか?」
深刻な顔をしてそんなことを言うイーゴルに、サンドラは吹き出す。
「いつでも歓迎するわ。会いに来てくれたら嬉しい」
この森で過ごす最後の冬は故郷を離れる一抹の寂しさと、イーゴルと共に過ごしていく日々を待ち遠しく思う気持ちできっと毎日そわそわしているはずだ。
「じゃあ、おやすみ」
サンドラは背伸びをして、イーゴルの無精髭が少しちくちくする顎に軽く口づける。
「お。おう。ゆっくり、体を休めてくれ」
動揺をしながらも、イーゴルがサンドラの額へ不器用に口づけを返した。
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短いようで長い冬が終わり、サンドラはひとり森の小さな泉にいた。
木々や葉のそこかしらに雪の名残はあるが、水面は陽射しを受けて春めいた光をたゆたわせている。
この森を出て行く時はこうして誰もがひとり、ここに立つのだ。
特に何をするわけでもない。ただじっと立って、森の王の訪れを待つのだ。
王が現れなければまだ出て行く時ではないということだ。それを振り切り森を出た者はまもなく不幸に出会い、命を落とすこともあるという。
やがて反対側の木々の奥から大鹿が現れるのを見て、サンドラはほっと胸を撫で下ろす。
王はサンドラを見やってから水を飲んで、再び彼女に視線を戻す。
これは王からの献盃だ。ひとつの盃を回すごとくサンドラも泉の水を手ですくって飲む。
それを見てから王は再び森の奥へと戻って行った。
泉から家に戻るとみんなそわそわした様子でどうだったと訊ねてきて、泉の水を飲んだことを告げると幸先がいいと喜んだ。
都から迎えが来たのはそれから二日後だった。
いざその時になると不思議と寂しさはなかった。離れても家族は家族だ。今生の別れでもない。
「行ってきます」
だから、涙のひとつも零さず笑顔で家族に手を振ってサンドラは家を出たのだった。