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鼻先や耳が凍みる空気が充満し、しんと静まりかえった仄暗い朝。
ついに長く険しい冬がやってきたのだ。
扉を開けると膝下まで雪が積もっていた。外はまだ夜が奥でわだかまり、分厚い雪雲の隙間かから注ぐ朝日は弱々しい。
今日の朝食当番のサンドラは外の様子を確認した後、廚へ行って竈に火を入れる。
(イーゴル達大丈夫かしら)
たいして積もってはいないとはいえ、雪の中の野営は大変だ。訓練ではあるので多少の雪はかまわないだろうが。
昨夜の残りの麦入りのスープを暖めて戸棚から硬い黒パンを取り出し用意しているうちにぞろぞろと父と兄達が集まってくる。
雪の様子と仕事の割り振りを淡々と確認していく中、父が気難しい顔でサンドラに視線を向ける。
「それで、皇太子殿下は今日も来るのか」
「あたしの仕事を手伝ってくれるって……父さんも兄さん達もそんな顔しないでよ。来ちゃったのはしょうがないじゃない」
昨日イーゴルが厨で炊事しているのに出くわした父と兄達は、ずっと表情が重い。
これ以上皇家と直接関わることはないはずだと思っていた彼等は、どうやってイーゴルに帝都にすぐ帰ってもらうか頭を悩ませていた。
「サンドラ、とにかく失礼のないように丁重に今後の関係をお断りしてから今日の内にお帰りいただくんだぞ」
そして昨夜と同じく長兄のボグダンが強く念押ししてくる。
「それは、イーゴルが帰る気にならなきゃ無理だって言ってるじゃない」
まだ眠っているジーナ以外の家族はすぐにでもイーゴルに帝都へ戻ってもらい、一連の求婚騒動を終わらせたがっている。
父と兄達が自分のことを心配しているのはよくわかっている。分かっているものの考えたところで仕方ないのだ。
堂々巡りになる会話を打ち切って重たい空気のまま朝食が終わる頃、イーゴルがやってきてどたばたと父と長兄が出迎えに行く。
どうやら一緒にいる近衛達も仕事を手伝ってくれるらしく、ひたすらふたりが恐縮するやりとりが聞こえる。
「雪、大丈夫だった?」
不安そうな家族の視線は気にしないことにして、サンドラはイーゴルに声をかける。
「ああ。この程度の雪で困るようなことはない……うむ。やはり父君達をこまらせてしまっているか」
イーゴルがそう答えた後、父達と離れてから肩を落とす。
「気にしなくてもいいわよ。なるようにしかならないんだから」
悩みすぎて嫌になったサンドラはすっかり開き直っていた。
元より考えることは苦手だ。この森を出たくなかった理由と、イーゴルへの気持ちがはっきりしているなら後はもう考えずに流れに乗るしかない。
ここで本当にさよならになっても今度こそ後悔はないという理由もない確信もあった。
「うむ。それもそうだな。考えてしかたないことに時間を費やすのも無駄だ。よし、そうとなれば仕事だ!」
「まずは道の確保と安全確認ね。あたしたちは西側よ」
サンドラはイーゴルと共に厩舎でがっしりとした体躯の馬にソリをつけ、砂袋や雪かきの道具を乗せる。
「サンドラはやはり力があるな」
幼児程度の重さの砂袋を軽々ふたつ持ち上げているサンドラを、同じくふたつ抱えるイーゴルが褒める。
「これぐらい持てないと狩の獲物を持ち帰るのに苦労するわよ」
「おお。それもそうだな。そういえば軍舎でのサンドラの弓は見事なものだったな」
帝都の軍舎でのことを思い出し、サンドラは笑顔になる。
「引きがいがあって楽しかったわ。さ、行こう」
そしてふたりは馬を引いて西側の雪の降り積もる林道を重たいソリでならしていく。
そのついでに木々に積もった雪や枝のしなり具合を確認しながら、危険がなさそうか確認する。
「あそこに寄って、困りごとがないか訊くの」
そして途中、炭焼き小屋が見えてきてサンドラがそこを指し示す。
「おお。裏に家もあるな。領民の家々を回るのか」
「そう。領地の家って全部で六軒しかないけど、散らばってるから様子は一通り見ることにしているの」
領地の森自体は広大だが領民は二十人もいない。ずっと遠い昔に神殿から人の住んでいい場所が定められているので、どこか広い土地にまとまってというのもままならない。
「おはよう!」
炭焼き小屋の裏に回れば壮年の夫婦がちょうど屋外に出てきたところだった。
「あら、お嬢様おはようございます……。森替えにはまだ早いですよね」
サンドラの後ろにいるイーゴルへ妻の方が移住者だろうかと首を傾げる。
時々跡継ぎのない家へと他の森、あるいは跡継ぎの長子の伴侶として他所の森から移住してくる者がやってくるがそれはいつも春頃の話だ。
「うむ。ここに住むのもよい話ではあるな。俺はサンドラの友のイーゴルだ。訪ねてきたついでに仕事を手伝っている」
「お嬢様のお友達ですかい。いやあ立派だねえ」
大柄なイーゴルに夫の方が感嘆する。どうやら名前を聞いても皇太子だとは気付いてないらしい。最初にこの森を訪れたのもこことは正反対の場所なので姿も見た事がないはずだ。
しかしすんなり友人と言われてしまうと、少し複雑な心境ではある。
「あ、ミラナ! 調子はどう?」
サンドラが夫婦とイーゴルが話しているのを見ていると、家からサンドラよりひとつ年下長女が出てくる。そのおなかは大きい。ジーナと同じく近いうちに子供が産まれる。
「変わりなくです。おなかが重いのには慣れたとはいえ、もうそろそろ出てきて欲しいですけど。うーん、でも旦那がまだ帰って来られなさそうねえ」
彼女の夫は近くの街へと一昨日炭を売りに出たところで、早めの雪に帰りは遅くなりそうだということだ。
そして、ミラナがイーゴルを目に留め、サンドラから名前を聞いて目を瞬かせる。
「父さん、母さん! そちら、皇太子殿下なのわかってる!?」
そしてイーゴルと気安く談笑している自分の両親に血相を変えて声を上げる。
そしてようやく気付いた夫婦がびっくりした顔でイーゴルを見上げる。
「かまわん、かまわん。俺は仰々しいのは苦手だ。母子共に健やかでな」
皇太子相手にどう接して良いか混乱している一家にイーゴルがおだやかに微笑む。サンドラは食料など足りないものや、困りごとがないか改めて確認して家を離れる。
そうしてもう一軒さらに奥まった所の家も訪ねて、遠回りをしながら再び森の様子を窺いながら屋敷に戻ることにした。
「領民全てに目が届くというのよいことだな」
途中、ソリの上で一休みしながらイーゴルがそう零す。
「この国は大きい。民も多い。その全てをあますことなく知ることを皇帝にはできん。だがその代わりに領主が代わりにいる。しかしその領主全てと常に意見をかわすこともかなわん。それでも国をとりまとめねばならんのは難しい。難しすぎる」
そして一気に吐き出す彼の表情は珍しく重苦しい。
「イーゴルは、その、皇帝になりたくないの?」
「うむ。なりたくないともなりたいとも思ったこともない。俺は長子だから跡を継ぐべきものとしか考えていなかった。この国で誰よりも武術に優れる者が皇帝となるなら俺は目指しただろうな。父上も国一の強者ではない。ただ、フィグネリアのためには俺が皇帝になったほうがよいというのだ」
そしてイーゴルがまごつきながらも皇帝に言われたことをサンドラに説明する。
「うーん。その話の時点で難しいわ。とりあえずそれで丸くおさまるならいいわよね」
九公家との関係やら、フィグネリアの立ち位置やら複雑でいまひとつ理解しきれないものの皇帝がそうした方がいいというならそうなのだろう。
「ねえ、イーゴルは皇太子じゃなかったらどうしたかった?」
「そうだな。軍人か、猟師か。とはいえ、俺は今の家族が好きだからな。やはり、皇太子以外にないな」
「そっか。そうね。あたしも今の家族が好き。この森で、あの家で産まれなかったらなんて考えたこともなかったな」
だけれどどんな好きでも変わっていくものは変わっていく。
自分もいつまでも変わらないわけにはいかない。
「イーゴル、あたしひとつだけ気になることがあるの。イーゴルにとってあたしって友達?」
さっきのこの一言だけはなんとなくひっかかっていた。
「……友人、ではないな」
目を丸くしていたイーゴルが神妙な顔つきになる。
「そうだ! 俺はサンドラと家族になりたいのだ!」
そして突然の天啓を受けた顔でそう答えたのだ。
「家族。うん。それだわ」
ぽかんとしながらも、サンドラも一番納得する自分の答を見つけた気がする。
ずっと結婚するしない、立場だとか身分だとか、面倒くさいことをたくさん考えたけれどもイーゴルとどうなりたいかといえばいちばんしっくりするのがそれだった。
お互いが大事な人で、そうしてお互いがそれぞれの大好きな人も場所も大切にできる家族になりたい。
身分や立場やイーゴルにはたくさん大きなものがあるけれど、それも彼にとって大事なものだ。
難しいことはちっともわからなくてもそれだけはわかる。
「あたし、イーゴルと家族になりたい。いつか誰かと新しい家族になるならイーゴルがいいの」
「よいのか。この森から、遠く離れることになる」
「うん。それは寂しいけどね、イーゴルがあたしにとってこの場所がすごく大事ってわかってくれるなら大丈夫って思うの。……時々は、帰って来られる、わよね?」
「無論だ! 俺も一緒にここへ来る。俺にとってもここがもうひとつの故郷で、家となるならそれほど喜ばしいことはない」
何よりも望んでいて、嬉しい言葉だった。
「あたし、かわいい妹がふたりもできるのね」
「そうだな。リリアはきっと大喜びするな。フィグネリアもすぐに気に入る。父上と母上も最初から歓迎している……サンドラの父上と兄上達はどうであろうか」
ふと、不安そうな顔でイーゴルが首を傾げてサンドラも苦笑する。
「心配はすると思うわ。でも、うちの家族だってイーゴルが嫌いで反対するんじゃないもの。一緒に頑張ろう」
「うむ。よし、そうなれば俺は精一杯サンドラの家族を安心させねばな」
これから大変なこともありそうだが、ふたりでなら絶対に乗り越えられる。
イーゴルとサンドラはお互いしっかりと目を合わせて、笑顔でうなずきあい晴れ晴れとした気持ちで再び歩き出した。