夏服のリルケ
7月下旬。
1学期の終業式を終え、生徒を吐き出した中学校の校庭に、真夏の日差しが容赦なく降り注いでいた。
クラス委員の仕事で少し遅くなり、友人たちより1時間遅れで昇降口から出て来た天野春樹は、琥珀色の瞳をまぶしげに細めた。
周囲の木々からクマゼミの声がシャワーのように降って来る。午後は更に熱くなる予感がした。
中学3年生である春樹は1学期半ばで部活を引退し、放課後はもっぱら受験に向けて自宅勉強と、塾通いの日々だった。
けれど春樹のその透けるような色白の肌も、ほっそりした肢体も、受験勉強で机に縛られた結果などではなく、生まれつきのものだった。
髪の毛も瞳も色素が薄く、小学生の頃はよくからかわれもしたが、温和な性格の春樹は男子からも女子からも慕われ、人間関係で悩むことはなかった。
ただひとつ、他人に語る事の出来ない秘密を除けば……。
春樹は照り付ける太陽の日差しを避け、葉を茂らせたサクラの木蔭にそって、東門へ歩いた。
開襟シャツからのぞく腕をかすめ、黄色い蝶が戯れるように飛んでいく。
春樹は手をのばし、羽根が触れた肌をそっとさすった。
「天野先輩」
不意に背後から呼び止められ、春樹は振り返った。
その先には見知らぬ女子が、少しばかり険しい表情でまっすぐこちらを見ている。
そしてそのずっと後ろにもう1人……。
忘れもしない。自転車置き場の柱の陰に隠れているのは、昨日の放課後、春樹がひとりでいるところにそっと近づき、顔を真っ赤にして告白をして来た2年生の女の子だった。
名前は確か、小田詩織。
その小柄な小田詩織も、昨日初めて言葉を交わしたばかりの女子だ。
春樹はその数分間を思い出し、さっきまでとは別の冷たい汗が滲んで来るのを感じた。
昨日のやり取りは小田詩織にとっても苦いものだったに違いないが、他にどうしようもなく、そしてもうすべて終わった事だと思っていた。
けれど目の前に立ちはだかったもう一人の女の子が、それを良しとしていないのは明白だ。
春樹と変わらないくらいの身長のその子は、きりりとした顔立ちの上に更に口を真一文字に結び、不服申し立てをするように春樹に一歩にじりよった。
「天野先輩、ちょっといいですか」
良くないなど言わせるつもりもない強い語調に、春樹の方が委縮する。
「えっと……」
「2年の小田詩織の友人の、北見です。小田詩織、覚えてますよね。昨日の事ですから」
もちろん忘れてなどいない。
春樹は素直に頷いたが、このあと何が展開されるか予想できるだけに、胃がキリリと痛む。
「なんでちゃんと話も聞かずに詩織の告白を断ったんですか。めちゃくちゃ悩んで、3日もかけて書いた手紙も結局受け取ってもらえなかったって、詩織、昨日の晩ずっと泣いてたんですよ」
「由香子、もういいから……」
自転車置き場の影から、小田詩織の悲鳴に似た声が聞こえて来たが、春樹に対峙した北見由香子は友人を振り返りもしない。
その後は口を挟む隙も与えない弾丸トークだった。
「天野先輩は以前も1年の子の告白をあっさり断ったって聞いたことがあるから、ただでさえ内気な詩織はこの半年ずっと気持ちを閉じ込めて来たんです。
詩織がテニス部に入ったんだって、天野先輩が男子部に居たからです。隣のコートから見てるだけでいいんだって。だけど先輩、1学期には早々に部活引退しちゃって、もう姿さえも見れなくなったってずっと嘆いてる詩織があんまり可愛そうだったから、私が勧めたんです。手紙書いてみればって。
手紙だったら、先輩だって気軽に受け取ってくれるだろうし、面と向かって言えない気持ちも伝えられるだろうし。
詩織、本当に一生懸命書いたんですよ。それなのに、読んでくださいって差し出した途端、“ごめん”って、なんですか。
もしも付き合ってる人がいるならそう言ってあげればいいじゃないですか。そんな前置きも無しにいきなり“ごめん、付き合えない”って、会って数秒で言われた女の子の気持ち分かりますか?
自分の見た目がダメなのかとか、何か嫌われるような噂が流れてんのかとか、それはもうめちゃくちゃいろいろ悩むんですから。
で、実際どうなんですか、天野先輩」
春樹は勢いよく放出された北見の言葉をどう処理していいのか分からず、ほんの数秒固まった。こめかみを冷たい汗が伝い落ちる。
「……ごめん」
なんとかそれだけ喉から絞り出した。
「やっぱり、付き合ってる彼女が居るんですね?」
「え、……いや、いない」
「じゃあなんで手紙、受け取ってやらなかったんですか」
「読んでも、付き合えないと思ったから」
「それって一番ひどくないですか。詩織見て、いきなり全否定ですか」
「ちがう」
春樹は慌てて首を横に振り、青ざめ、途方に暮れた。この状況では何を言っても誤解を招いてしまう。
自転車置き場の影も、ショックを受けたように小さく固まった。
「そんなんじゃなくて……。受験もあるし、今は勉強の事だけ考えていたいと思って……」
取って付けたような言い訳が苦しくて、しりすぼみに声が縮んで行く。
けれどここで本当の理由など、言えるわけも無かった。
「なんだ、じゃあそう言ってくれればよかったのに」
とんだ手間をかけさせて、とばかりに北見は手を腰に当てる。
「とにかく、せっかく書いたんだから手紙は読んであげてくださいね。本格的に付き合うのは受験が終わってからでも全然問題ないんだし」
春樹が身構える間もなかった。
北見は唐突に春樹の右手首を掴んで引き寄せ、詩織の手紙を掌にぐいと押し込んだ。
途端に春樹の視界は白く砕け、脳がぐわんと揺れた。
《ああもう くだらない なんでこんな手間かけさせるのよ》
《昨日こうやって無理やり押し付けりゃよかったのよ 詩織のバカ》
《釣り合わないのに見た目だけで惚れるから 何度もフラれるのよ。今回もダメなの目に見えてる》
《ああ でもついこうやって世話焼いちゃうのよね 自分でもヤんなっちゃう》
触れた肌から突如なだれ込んで来た北見由香子の思考、そしてそれにリンクする細切れになった映像と感覚が、拒むことも叶わず春樹の脳内に溢れかえっていく。
詩織とのやり取りだけでなく学校生活、家庭、今朝の姉との記憶の断片が無秩序に混ざり合う。
《お姉ちゃん早くトイレ代わってよ!》-苛立ち。赤く汚れた下着。
《明日デートだったのに サイアク》-交際中の生徒の顔。
《うるさいなあ、あ、私のナプキン使わないでよね》《いいじゃんケチ!》
-姉のムッとした顔。
そして今この瞬間も鈍く痛んで不快な少女の下腹部。
男の自分にはない感触、暑さと共に更に増して来る友人と、目の前の“天野春樹”への苛立ち。
濁流のように一気に流れ込んで来た北見の思考に溺れて息ができなくなる。のど元まで込み上げて来た苦いものに、春樹はえづいた。
触れた相手によって違う拒絶反応が、今回は最悪の強さで春樹に襲い掛かった。
眩暈と吐き気に周囲の景色が歪み、全身から汗が噴き出したが、ここで倒れるわけにはいかない。
春樹はぐっとこらえ、足に力を入れた。
「天野先輩? 大丈夫ですか?」
慌てて体を起こすと、眉根を寄せた北見の顔があった。けれど、もう顔を見ることも辛かった。自分はこの子の立ち入ってはいけない領域を覗き見してしまったのだ。
肌はもう離れてしまっているのに、流れ込んで来た北見の記憶と感情がまだ、春樹の脳内を浸し、眩暈と罪悪感で立っているのも辛かった。
「だからもうイイって言ったのに!」
甲高い声とともに北見を押しのけて走り寄って来たのは、ずっと自転車置き場に隠れていた小田詩織だった。
立ちすくむ春樹の手の中から自分が書いた手紙を引き抜き、泣きそうな声で「もういいんです、私の事嫌だったんでしょう? ほんと、ごめんなさい」と、2度ばかり頭を下げ、そのまま校舎の方へ走って行ってしまった。
―――小田さん、そうじゃない……。
誤解を解こうと掛けた言葉は声にならない。
「そこまで露骨に嫌がらなくてもいいと思うんですけど」
次に投げつけられたのは北見の低い、呆れたような声だった。
「そうじゃないんだ」
「もういいです。可能性ゼロだって分かった方が詩織も諦めがつくと思うし。でも、あんまり露骨なんでびっくりしました。見かけによらないなって。じゃあ、忙しいところ呼び止めてすみませんでした。お勉強頑張ってください」
少しも笑うことなく早口でそれだけ春樹に言い置くと、北見は小田詩織を追いかける様に、校舎の方へ走って行った。
春樹は呆然と立ち尽くしながら、去っていくその影を見つめた。
ひとつ深く呼吸をして向きを変え、そしてゆっくりと校門に向かう。
知らず知らずのうちに下腹を押さえた手を、慌てて外す。その鈍痛は自分のモノじゃない。子宮をもつ、女の子に与えられた痛み。春樹は歩きながら大きくうなだれる。
―――記憶を消したい。
そして、せめて今日はもう、誰の肌にも触れずに帰りたかった。この時間ならば、満員電車に乗らなくて済むことだけが救いだ。
門を出て住宅街を歩くうちに、傷つけてしまったらしい小田詩織の事が頭をかすめ、更に春樹を沈ませた。けれど、どうしようもないのだ。
春樹は女の子と付き合う気は無かった。理由も言うつもりはなかった。
女の子が嫌いなの? そっち系なの? そんなことを訊かれたこともあったが、何となく曖昧に言葉を濁してごまかした。
だから今は受験があるからと嘘を吐く。
じゃあ、受験が終わったら? 高校生、大学生になったら? 社会人になったら?
それでも無理だと思った。自分は女の子に触れられない。それどころか、同性にも。
家族にも友人にも近所のお年寄りにも。
触れられない。
触れてはいけない。
すべて読み取ってしまう、化け物だから。
***
最寄りのS駅で降りて、バスターミナルに向かう。
普段は駅まで自転車で来ているのだが、2日前にパンクしてから修理に出す時間が無かったため、今朝もバスを利用した。
日差しを避け、バス停の屋根の下に立ちながら春樹は、手のひらサイズの英単語帳を開く。
蝉の声がうるさくて単語など頭に入って来なかったが、そんなことはどうでもよかった。
とにかく目に何かを映し、気を紛らわしておきたかった。
結構必死だった。
「あれ? 春樹じゃない?」
不意に横から声を掛けられて振り向くと、涼やかな目を細めて笑う女性の顔があった。
「美沙」
ゆったりしたサーモンピンクのサマーニットにスリムなジーンズが、モデル体型の彼女にとても似合っている。アップにした髪のせいか、前に会った時よりも更に大人びて感じた。
「今帰り? 早いね。終業式かな?」
昔からどうも美沙は人との距離が近い。小さな子に話しかける様に今日もいきなり顔をグイッと近づけて来た。
「……うん」
春樹はなんとなく気恥ずかしくて、周りの景色にさりげなく視線を逸らした。
彼女は戸倉美沙。春樹よりも8歳年上の兄、圭一の高校の時の同級生だった。
本や映画の趣味、嗜好が圭一と合うらしく、高校の頃から美沙はよく春樹の家に遊びに来ていた。
初めて会ったのは8歳の頃。ランドセルの春樹を見て、「あらら、かわいい。圭一、妹がいたの?」と言って笑った。
いつもならムッとする言葉なのに、春樹はその笑顔の華やかさについじっと見つめてしまったのを覚えている。
女の子が家に来るのをあまり好まない神経質な母親も、美沙にはいつも笑顔だった。
「お兄ちゃんの彼女?」
圭一には直接訊けなかった質問を投げると母は、ガールフレンドでしょ、と笑った。
その違いは分からなかったが、春樹は美沙が遊びに来るときはなるべく、圭一の部屋には近づかないようにした。
兄の恋人には絶対に触れてはいけない。記憶を読んではいけない。
小学生のうちから本能的に春樹はそう思い、美沙とは距離を置いた。
圭一が難関私立に合格し、家を出て一人暮らしを始めてからは、美沙が天野家に遊びに来ることは無くなった。
美沙も女子大生となり、もう二人は会う時間が無いのかと思っていた春樹だったが、ある夏から、圭一の帰省に合わせて再び美沙は顔を見せるようになった。
まだ仲良しなんだと、春樹はなぜか、美沙の姿を見てとてもホッとした。
圭一はとても頭がよく、春樹にも優しくて自慢の兄だったが、秀才ゆえか神経質な面もあり、性の悩みを始め、なんでも気安く話ができる兄、という感じではなかった。
大学生になり、家を出て一人暮らしを始めてからはなおさら、距離を感じた。
そこへ行くと美沙は、頻繁に会う事こそなかったが、会えば必ず気さくに話しかけてくれて、春樹に何とも言えず温かな安心感をくれた。
いつしか春樹も『美沙さん』ではなく、『美沙』と呼び、タメ口で話すようになっていた。
自分に姉が居たら、きっとこんな感じなのだろう。圭一と美沙が結婚したら、本当にこの人が姉になるんだな。
そんな事を思う度に、甘酸っぱい想いと、不思議な胸の痛みが春樹の中に沸き上がった。
圭一も美沙も、それぞれの大学で4年の工程を終え、そのまま二人とも大学院に進んだ。
目の前に立つのは、この春から院生になった美沙だ。
こうやって彼女に会うのは、実に1年ぶりの事だった。
「でも春樹、どうした? 体調悪い?」
美沙がいきなり顔をクッと前に出し、正面から春樹を見つめて来た。
「え……、なんで? そんなことないよ」
「それじゃあ、このついつい心配してあげたくなる様な蒼白い顔がここ最近の君のデフォルト? もう少し陽に当たった方がいいよ春樹。いくら受験生でも」
美沙の視線が春樹の手の中の単語帳に注がれたのに気付き、春樹は慌ててそれをカバンの中に放り込んだ。
勉強のことしか頭にない受験生だと思われるのは不本意だった。
「今日は何も……読む本を持ってきてなかったから」
「いつもは本、読んでんだ。スマホで時間潰さない中学生は貴重だね。好きだよ」
最後の言葉がやけに耳に残る。
「うちの家、高校までは携帯持たせてもらえないから」
「ああ分かる。春樹のお父さん、そう言うの厳しそうだよね」
そこまで言うと美沙は何かを考える様にフッと視線を逸らし、また春樹に戻した。
「春樹、この後塾の予定とかある?」
「今日は無い」
「じゃあ、ちょっと私のアパートに寄って行かない? 春樹に手伝ってもらいたいことが二つあるんだ」
「え……なに?」
手伝ってほしい事の内容よりも、美沙のアパートに寄るという提案自体が気になり、春樹を戸惑わせた。その戸惑いが気後れなのか恥ずかしさなのか、その時の春樹には分からなかった。
「今日遊びに来るはずだった甘党の友達のために、今朝ケーキたくさん買ってたんだけど、急に来れなくなっちゃって。春樹にそのケーキの消費にご協力戴きたいなあって思って。もう一つは、ずっと圭一に借りっぱなしだった本の返却。だめ?」
小首をかしげて美沙は訊いて来る。
ダメなどと言えるはずもなく、春樹は内心緊張しながら「いいよ」と答えた。
「お母さんには私から連絡入れようか? 春樹君少しだけ帰るの遅くなりますって。それとも携帯貸すから自分で掛ける?」
「そんな事いちいち電話しなくていいよ。それに今日は晩まで戻らないって言ってたし」
思わずムッとした声をぶつけてしまった。
母親にも父親にも反発をあまりした事の無い春樹だが、美沙と喋っていると何故か自分の中に奇妙なむず痒い感覚があるのに気づかされる。
今もそうだ。この人に小学生のような扱いをされるのはとても悔しい。
「そっか。春樹のお母さんってすごくキッチリしてるからチョイ心配だったんだ。でもそれなら大丈夫ね。ついでにお昼ご飯も食べて行けばいいよ。ケーキは食後のデザートね、あ、来た。あのバス」
美沙はそんな春樹の微妙な反応を気にすることも無く、ロータリーに入って来たグリーンのバスを指さす。
1年前と変わらない。そばに居ると、春樹の感情をぐいぐいと引っ張って行ってくれる。どんな会話も、うじうじ考える隙間を与えられない。強引ではあったが、話していてとても楽だった。
春樹は頷き、美沙の後に続いてバスに乗り込んだ。
***
「高校1年までは母親と二人で借家に住んでたんだけどね。母親の再婚を機に、今のアパート借りて、一人暮らし始めたの。大学も、そこから通えない距離じゃなかったら、ずっと借りっぱなし。何より家賃が安いしね。すっごくボロいアパートだから、春樹きっとびっくりするよ」
バスを降りて美沙のアパートに向かう道すがら、美沙はそんな自身の話をサラッと話してくれた。
二人して木蔭を選び、強烈な真夏の日差しを避けながら歩く。
「一緒に住まなかったの?」
沢山の質問が頭をよぎったが、春樹はそれだけ訊いてみた。
もしかしたら新しい父親は、いっしょに住むのも嫌な感じの人なのかもしれない。美沙にとってナーバスな部分だったら触れるのは避けたかった。
「ああ、再婚してすぐに相手の故郷の広島に二人して引越しちゃったから、一人で残っただけよ。再婚相手はすごく良い人だけど、私はこっちでずっと生活したかったからね。たまに連休に遊びに行くけど、楽しそうにやってるから安心してるんだ」
美沙はにっこり笑って、やがて見えて来た一角を指さす。
「ほらあそこ。ちょっとしたジャングルでしょ」
よかった。幸せな家族なんだ。
春樹はホッとして、美沙が指さす方に視線を向ける。
なるほど、ジャングルだ。もっさっりした木々がブロック塀を倒さんばかりに茂り、二階建てのアパートさえ隠している。
「そのうちこの巨木が敷地内を占領して、アパートを押しつぶすと思うな」
笑いながら門を入っていく美沙に続き、春樹も敷地内に入る。
いきなり横の低木からボワンとピンク色のボールが飛んできて、春樹は思わず右手でそれを払いのけた。
「っ……!」
途端、指に鋭い痛みが走る
「春樹、どうした?」
すぐに振り返った美沙に見えないように、春樹は右手を咄嗟に引っ込めた。
ピンクのボールだと思ったそれは大輪の薔薇だった。春樹の背丈ほども茎をのばし、その重みで門のほうに垂れて来ていたのだ。
周りを見渡すと、そんな風な薔薇の茎が数本、同じように大きな花をつけて僅かに頭を揺らしている。
「わ。薔薇の棘でやっちゃったの? ちょっと見せて」
「なんでもないよ、平気」
美沙に触れられないように体を反らしながら右手を見ると、猫に思い切り引っかかれたような赤い傷が2本、指の背にくっきり浮かび上がっていた。
徐々ににじみ出て来る血が、先ほどの北見由香子の記憶にあった大量の経血を思い出させ、再び吐き気が込み上げて来た。
「倒れそうな顔して大丈夫って言われてもね」
美沙は眉尻を下げて笑いながら、トートバッグからティッシュを数枚取り出し、はるきの指にあてがおうとした。
「自分でやる! ありがと」
春樹は手を伸ばして美沙の手からティッシュだけを受け取って、自分の指を拭った。不自然な行動じゃなかったか反芻する余裕もない。
「あんなでっかい薔薇の花初めて見たからびっくりしちゃって。ボールかと思った」
照れ隠しに大声を出し、思い切り笑って見せる。
「全く、……薔薇が春樹を襲うなんて、思ってもみなかった」
しばらく大きな目を更に丸くして春樹を見ていた美沙だが、自分の言った言葉が可笑しかったのか、不意に笑いだした。
「とにかく消毒しよう。おいで。二階なの」
何がそんなにおかしいのか、美沙は口元を緩めながら春樹を階段の方に誘う。
自分の失態の恥ずかしさと、かゆみに似た傷の痛みが不快で、春樹は押し黙ったまま美沙の後に続いた。
ティッシュを外すと血はもう止まり、傷もほんの小さなものだった。
「部屋、すっごく散らかってるから驚かないでね」
通路の中程で止まり、203と書かれたベージュのドアを開けながら、美沙が前置きした。
よく聞く前置きだったが、その言葉に少しの嘘も無い事が、一歩部屋に足を踏み入れてから分かった。
玄関から見える、狭い通路の向こうにある部屋は本当に散らかっていた。
ゴミが散乱しているというのではなく、整理されることなく使用され続けている資料室、という感じの乱雑さだった。
「おいで。傷口洗ってきれいにしなきゃ」
いつまでも玄関口に突っ立っている春樹を呼び寄せ、美沙は入ってすぐのキッチンの流し台の蛇口をひねる。
春樹は慌てて靴を脱ぎ、蛇口に近寄って手をかざした。
傷の痛みはもうほとんどなく、かわりに冷たい水がとても心地よかった。
洗い終わるとすぐに美沙が清潔そうなハンドタオルを差し出して来る。春樹はその手に触れないように、恐る恐るタオルを受け取って礼を言った。
「消毒もしとこうか」
「いいよ、こんなの勝手に治る」
「春樹は薔薇の棘でも死んじゃいそうだし」
柄にもなく少女じみた美沙の言葉に怪訝な表情をしてみせたが、美沙は既に消毒液を探すべく、部屋を歩き回っていた。
本や資料ばかりの雑然とした部屋。女子大生らしい柔らかな色合いのものと言えば、部屋の隅に置いてあるベッドくらいなものだった。
「先ずは、ちょっとここ片付けなきゃね。探し物が出てくる気がしない」
「そうだね」
素直な感想を言うと美沙は笑い、ローテーブルに乗っていたリモコンでクーラーをつけた。
「圭一がここに遊びに来たいって言っても、何度も却下したのよ。あいつ鬼のように完璧主義だから、どんなひどい事言われるか分かったもんじゃないし。男の子は春樹が第1号よ。ってことで、第1号のお客様のために整理するから2分待ってね」
圭一の名前が出てきた瞬間、奇妙な気後れが春樹の中によぎったが、あまりに豪快で素早い片付けっぷりに圧倒されて、そんな感情は塵のようにどこかへ消し飛んだ。
「見つかったよ。ほら」
2分後、足の踏み場ができる程度に片付いた部屋の隅から、美沙は小さな消毒液のボトルをつまみ上げた。左手で振って見せながら、春樹の方に右手を伸ばして来る。
それまでただ黙って入り口に立っていた春樹だったが、とっさに美沙の手を避けて後ずさった。
「いいよ、平気」
「えー、せっかく見つけたのに」
「だってほら、もう治った」
春樹が右手をひらひらさせて笑ってみせると、美沙はため息をついたが、そのあとにんまり笑った。
「分かったよリルケ君。お腹空いたでしょ。簡単なものしかないけど、なんか作ってあげる。そのあとケーキね」
なんだか妙な名前で呼ばれたと思ったが、再びてきぱきと手際よくフライパンを出して調理に取り掛かった美沙を見ながら春樹は、「あ、うん」とだけ返す。
部屋を見た時は、かなりずぼらな人かと思ったが、ささっと野菜を刻んで冷凍ご飯を解凍し、卵を片手で割り入れてあっという間にチャーハンを作ってしまう早業は圧巻だった。
「サラダもスープも3人分くらい出来ちゃったから沢山食べてね。春樹は細すぎるからもうちょっとカロリー摂った方が良いし。それからデザートはケーキ2個がノルマね」
何の罰ゲームだろうとは思ったけれど、美沙の作ったチャーハンは意外と美味しかったし、今まで感じた事の無いフワフワした高揚感が春樹を満たした。
食べながらローテーブルの横に積み上げられた社会学や心理学の本のタイトルを眺めていると、美沙は大学で自分が学んでいる分野を興味深く話してくれた。
就職せずに院に進んだ事は申し訳ないと思うが、もう2年、学んでみたかったのだと。
春樹はそれを興味深く聞きながら、改めて美沙の聡明さと芯の強さに気づかされていった。
どこか気難しくて、人を寄せ付けない雰囲気のある圭一が美沙を好きになった理由も、今は自分の感情のように理解できる。
女の人のそばに居て、こんなに気持ちが落ち着くのは初めてだった。
兄の圭一も、きっとそうなのだ。
「春樹は好きな子いるの?」
不意にそんな質問が降って来て、春樹はハッと顔を上げた。
目の前にはアイスコーヒーとモンブランとガナッシュが“春樹のノルマ”として並び、そしてその向こうにイチゴショートケーキと、美沙の優し気な目があった。
「え……、特にいない」
お腹はいっぱいだったが、にわかに出来た妙な空気を追い払うように、フォークでモンブランをつつく。
「そっか。女の子が苦手とか、怖いとか、そんなのじゃないよね」
つつきすぎてモンブランのマロンが転がり落ちる。
「うん。……なんで?」
「それならよかった。春樹の仕草はね、ちょっといろいろ気になる事多いから」
フォークをテーブルに置き、春樹は真っ直ぐ美沙を見た。
「ごめん、なんか変だった?」
「人が怖いのか、女の人が怖いのかどっちかなって。それとも私が怖い?」
「そんなんじゃない」
「よかった。嫌われてたらこんなところ引っ張り込んで罪悪感しかないもん」
美沙は春樹をじっと見て、にんまり笑った。
イタズラっぽい笑みだったが、春樹はとたんに居心地の悪さを感じた。
もうこの話題は終わらせたい。
「そんなんじゃなくて……」
「ずっと思ってたんだけど、やっぱり春樹は不思議。薔薇の棘で怪我なんかしちゃうし」
春樹がいぶかし気にしていると、美沙は立ちあがって部屋の隅へ行き、積み上げられていた本から数冊抜き出して戻って来た。
そしてテーブルの端にポンと置く。
古い文庫本2冊と、少し分厚い単行本1冊。
「西洋文学の課題論文書くのに必要で、買わなきゃと思ってたんだけど、それなら持ってるって圭一が2年前貸してくれたの。もういらないから処分してって圭一は言ってたけど、春樹の顔見たらなんか思い出しちゃって。少し荷物になるけど、持って帰ってもらっていい?」
話題が変わった事に安堵して頷いたが、本の背表紙を見て、ハッとした。
「リルケ詩集……」
そう言えばさっき、美沙は自分をそんな名で呼んだ。
「とても繊細で独特な世界観を持ってた、ドイツの抒情詩人。単位が取りやすいってだけで取った西洋文学の先生がリルケかぶれでね。授業はほぼ彼の詩の事ばっかりだったな。
私には彼の宗教観が分からなくて、深くは理解できなかったんだけど、その繊細さと孤独は、なんかすごく伝わってきた」
「うん……。分かった、持って帰って兄貴の部屋に置いておく」
たいして興味も無かったため、春樹は古い表紙をぱらっとめくりながらそう返した。
「ちょうどこの本を受け取った頃、春樹は12歳。圭一の家で出会う春樹はとっても優しい顔立ちで繊細で、私の中ですっかりリルケになっちゃってたのよ。圭一の前では春樹のことを“キミんちのリルケ君”って呼んでたなあ」
美沙が思い出したようにクスクス笑う。
「ひどいな、勝手に」
小さく抗議したが、嬉しくも不快でもなく、ただ気恥ずかしかった。
美沙はそんな風に自分を見ていたのかと。
「なかなか人に理解されにくい悩みを持ちつつも、リルケは独特な感性を育て、人や万物への愛を詩の中に語って生きた。
そして晩年、薔薇の棘で指に傷を負い、それが原因で生涯を閉じたの」
春樹はとっさに、フォークを握っていた指の背を見た。
「そんな事があるの?」
「傷が急性白血病のきっかけになったそうだけど、きっと彼の体質ね。普通はそんなんじゃ死なないから大丈夫よ。でも何だか……、ごめんね、さっきはあまりにも君のイメージにハマっちゃって……。実を言うと、ちょっとおかしくて笑いをこらえるのに必死だった」
美沙はそう言いながら尚も笑い、手を伸ばして再び消毒液をつまみ上げた。
「やっぱり使う?」
「いいよもう!」
春樹は一旦はむくれたが、次第におかしくなってきて自分も笑った。
美沙の中でそんな絵面があったのなら、さっきの薔薇事件は確かにツボだっただろう。
笑いながら、ずいぶん崩れ切ったモンブランを平らげ、最後のノルマであるガナッシュにフォークを差し入れる。
「でもよかった。私のリルケ君が、恋愛恐怖所じゃなくて」
春樹は手を止め、そのままフォークから手を離した。
カチャリと、無機質な音が耳に刺さる。
「……そんなんじゃない」
「圭一は、“春樹は潔癖症だから俺にだって触らないよ”って言ってたけど、さっきからずっと見ててそんな感じはしなかった。ってことは、そうやって他人に近づくのを避けるのは癖なのかな」
「もういいよ、そんな話。ケーキが食べられなくなる」
「すごく、どうしようもなく、辛いことがあったんじゃない?」
その声があまりにも静かで優しかったからだろうか。春樹の中で何かが溢れそうになった。
鼻の奥と目頭がつんと痛くなり、慌ててアイスコーヒーのグラスを持って勢いよく飲み込む。冷たさが喉を刺しただけで、何の味もしなかった。
―――おかしい。さっきまで自分は笑っていたのに。
胸の中から込み上げて来る感情が、春樹の喉を塞ぐ。
「バス停で、声を掛けずにいられなかったんだよね、春樹見て。真っ青で、倒れそうで、手に持った単語帳なんか見てもいなかった。ごめんね、なんか放って置けなくて強引に連れて来ちゃったけど。ねえ、春樹?」
春樹は真っ直ぐ見つめて来る美沙に、首を横に振って抵抗した。
「圭一が家を出たから悩みとか話せる人が居なくなっちゃったでしょ」
もうやめてほしかった。
「話してごらんよ。何でも聞いてあげるから」
抗議の意味で美沙を睨み、首を横に振った途端、思いもよらず涙があふれた。
咄嗟に顔を伏せ、愕然としつつもそのまま首を横に振る。やけくそになって、馬鹿みたいに首を振り続けた。
「春樹?」
優しい声を掛けないでほしい。どうかそっとしておいてほしい。
話したってどうしようもない。解決なんかしない。分かりっこない。
「きっと話したら楽になるよ。誰にも言わない。心配いらないから」
テーブルのむこうで美沙が優し気な表情を浮かべているのが声色から手に取るように分かった。
ずっと自分を気に掛けていてくれた。
そのことが嬉しくて仕方ないのに、そのことがとても苦痛だった。
こんなこと、気づかれてはならなかったのに。それなのに何故このひとは。
「はるき」
微かな衣擦れの音とテーブルの揺れで、美沙が腕を伸ばして来たのが分かった。
全身が粟立つ。
「触っちゃダメだ!」
春樹を撫でようとした美沙の手が空中で止まり、驚いた表情の美沙と目が合った。美沙は“ごめん”と手を引っ込め、そして春樹は一気に張りつめていたものが切れるのを感じた。
―――もう誤魔化すことも取り消すこともできない。
その直後数秒の沈黙は、今まで生きてきた中で一番重く、一番痛く、一番塩辛いものだった。だから自分からそれを破るしかなかった。
「触っちゃだめなんだ。僕は……バケモノだから」
決して開くまいと思っていた。
頑なに自分を締め付けていた枷をひとつ、はずした瞬間だった。
春樹は膝の上でギュッと手を握り、容量を超えた水が器の淵からこぼれる様に、とつとつと話し始めた。
生まれつき備わったこの忌まわしい能力のすべてを、簡潔な言葉で説明するのは難しい。それでも美沙が辛抱強くじっと聞いてくれているのが、春樹の気持ちを僅かに穏やかにした。
順序も説明も要領を得ず、春樹自身がもどかしかったが、今まで誰にも言えずに胸の奥に固めて来た苦痛を隠すことなくすべて語った。
自分は人と違う、他の人は触れても他人の感情や記憶を読むことはできないと気づいた幼い日の動揺。触れてしまった友人の内面と表面の違いに落ち込んだ日々。思春期に入ってからの苦悩はそれまでとは比べ物にならなかった。
他人、特に女の子に触れることへの恐れ。自分は他人のプライバシーを侵す生き物であるという嫌悪感。この能力は誰にも言えない恥ずかしい秘密であるという認識。
そしてそれは多分、一生自分を解放しない病なのだという諦め。
「さっき、2年生の女の子に手を掴まれちゃって……見ちゃいけないものを、たくさん見た。謝りたくても、謝れない。多分もう2度とその子には近づけない……」
美沙はやはり何も言わず黙って聞いてくれた。
最初はそれが嬉しかったが、次第に春樹の中で不安が増大した。テーブルのむこうで、美沙は嫌悪感に顔を歪めているのではないだろうか。
そう思うと、気が変になりそうだった。やはり喋ったのは間違いだったのだろうか。けれど顔を上げて、美沙を見る勇気が無かった。
膝の上に置いた手指の傷が再び赤い色を浮き出し、チリチリと疼き始めた。
この傷で死んでしまえるなら、もしかしたらそれは幸せな事なのかもしれない。
そんな想いに捕らわれ、春樹はもう喋ることも動くこともできなくなった。
「春樹」
不意に美沙の柔らかい声が落ちて来た。
ゆっくりと顔を上げると、美沙がいつもより少し優し気な、すこし大人びた笑顔で春樹を見つめていた。
「辛かったね、春樹。本当につらかったね今まで。でも話してくれて嬉しかった。春樹のこと、だれよりも理解できた気がする」
素直に頷いていいのか戸惑って少しうつむくと、美沙は、泣いたらいいよ、私の前では我慢なんか要らない、といつになく真剣な声で言ってくれた。
けれどいつまでも泣くわけにはいかなかった。春樹の“辛い”は、現在進行形で、そしてずっとこの先も続く。たぶん死ぬまで。
春樹は再び疼きだした指でフォークを握ると、目の前のケーキを口いっぱいに頬張った。
美沙が笑いながら「味わって食べてよね、有名パティシエのお店の新作なんだから」と抗議してきたが、味なんかもう分からなかった。
美沙はそのあと、触れた時の特異な感覚のことを神妙な表情で訊いてきたが、“それだって個性だよ”とか、“きっといつか消えるよ”と言った、そんな慰めは言わなかった。
あからさまに距離を取ることも無かったが、“私なら触られたって平気”などという気安い言葉もなかった。
それが美沙の今の気持ちであり、優しさなのだと、春樹は理解した。
たぶん美沙も、そんな告白をした春樹の事をどう扱っていいか分からなかったのかもしれない。やはり自分ははた迷惑な事をしてしまったんだと、春樹は胸の中が冷えていくのを覚えた。
ありきたりな慰めを言ってもらいたかった訳ではないし、美沙の自然な態度は一番春樹の気持ちを傷つけなかったはずなのに、やはり時間がたつにつれて春樹の中に募っていくのは、言い知れぬ不安と後悔なのだった。
美沙に気づかれないように、大きく息を吐く。泣いた後のように、喉の奥が、少し震えた。
彷徨わせていた視線を壁の時計に置くと、時刻はもう5時を回っていた。
「お昼とケーキ、ありがとう。もう帰ります」
「……あ、じゃあバス停まで送る」
慌てて立ち上がる美沙に、玄関まででいいと頑なに断ると、美沙は少し眉尻を下げて頷き、圭一の本と貰い物のクッキーを紙袋に入れ、玄関口で春樹に差し出してくれた。
袋の側面を持ち、さりげなく手が触れないようにして。
靴を履き終えた春樹が、受け取りながら美沙に思わず告げた。
「ごめんね、美沙。さようなら」
「春樹!」
「え」
「さよならじゃないでしょ。“またね”って言うの。それから」
美沙の目が僅かに潤む。
「ここで、君を抱きしめてもいい?」
春樹は目を見開き、更に目を潤ませる美沙をじっと見つめていたが、大きく首を横に振り、そのまま玄関を飛び出した。
「春樹、またおいで。何かあったらいつでも話を聞くから!」
美沙の声が後ろから聞こえて来たが、もう振り返ることもせずに春樹はひたすら階段を走り降りた。
外気は相変わらず暑く、眩暈がした。
アパートの門にはやはり先ほどの大輪のピンクのバラが道を塞ぐように空中で揺れている。
春樹は力いっぱいその茎を引きちぎった。
美しい盛りをへし折られた哀れな薔薇の花をその場に落とし、春樹は歩き出す。
手のひらに新しく出来た傷の痛みとわずかな罪悪感が、春樹のどうしようもないやるせなさを、ほんのわずかに鈍らせてくれた。
『――たぶん私が愛しはじめ、
たぶん私が引きとめはじめているあの人を。
言いようもなく馴染みない目つきで
私の運命がじっと私を見つめている。
こんな限りもなくひろがったものの下に
私はどうして置かれているのだろう。
草原のように匂いながら、
あちらへこちらへ揺られながら、
呼びながら、それでもやはり
だれかが聞きつけるのを恐れながら。』
春樹はバスの中、リルケの詩集をパラリとめくる。
詩などと言う気分でもなかったし、抜け殻のような気持ちはやはり埋まらない。
けれどその古めかしい本の文字の上に、さっきの美沙の言葉と面影が、思いがけず蘇った。
―――君を抱きしめてもいい?
あの問いかけにもしも「いいよ」と答えていたら、自分の何かが変わったのだろうか。この胸の痛みと寂しさは、消えたのだろうか。
春樹は手のひらに滲んだ血を制服のズボンで擦り、疲れ切った頭を窓枠に預けた。
この日の美沙への告白が何を意味するのか。この後の自分にどう関わっていくのか。
この時の春樹には知る由も無かった。
-了-