DAYS 4:ようこそ叶荘へ(前編)
北之上の魔の手から逃れ逃れた美月。旭に連れられ陽と共に叶荘に住む事になりました。
荷物が雑多に置かれたフローリングの床に座り込み、壁に背中を預けて美月は浅く息を吐いた。八畳の部屋の中をぐるりと見渡す。つんとした匂いに慣れるにはまだしばらくは時間がかかりそうだった。
「ここが……新しい部屋……」
空き部屋は年度末に業者に頼んでクリーニングをしてもらっていたらしく、建物の外見や廊下と比べると幾分かきれいに見える。夢見ていた暮らしとはだいぶ変わってしまったが致し方無い。この部屋で、彼女の新しい生活が始まる。
北之上邸での一騒動を終えて叶荘に戻ってきた彼女はまず引っ越し会社に連絡を入れた。あと数十分で荷物が届けられる予定になっており、そのままでは彼女らの荷物はあのバーニング・マンションへと送られてしまう所だったのだ(そういえばもう火は消えているのだろうか)。担当者は突然にも関わらず住所変更を快く聞き入れてくれた。本当に頭が上がらない。
少しだけゆっくりしたら荷ほどきをしようかな。そう考えていた時旭が陽を連れて訪ねてきた。
「やあやあお疲れさん」
「ほんとにね……」
美月は先ほど己の身に降りかかった出来事を思い出すが、急におぞましくなり記憶の再生を停止する事にした。ちなみに叶荘到着直後すぐに服を着替え、持って帰ってきてしまったあのメイド服はとりあえず畳んで置いている状態だった。
「で? 何? ちょっと落ち着きたいんだけど」
疲れた声で話すと、彼は申し訳無さそうな顔を作る。
「悪いけどそれはもう少し後にしてくれないかな。ちゃちゃっとやっときたい事があるんだ」
「あいさつ回りだよ、姉ちゃん」
旭の背後から陽がぴょこんと顔を出して彼の言葉を繋いだ。
「ああ、なるほど」
「まま、そんな硬く構えないでいいからさ。みんなに君らの紹介をするだけだよ。あとついでにここの案内もね」
叶荘は今年で築四十三年となる木造二階建てのアパートで、住人はほとんどが誠心学園に通う学生となっている。日本の人口減少は少子化と共に着々と進行していき、2088年の東京直下地震後に首都が移転すると当時の政府はすぐに将来の日本を担う若者の福岡への流入を図った。その取り組みのひとつが福岡県(現在は都)と民間の集合住宅との連携である。住人である世帯主の過半数が福岡市(現在の特別区)内の学校に通う学生である場合は集合住宅の所有者に対して補助金を支出するという条例を実施したのだ。その代わり所有者は学生に対しては相場よりも安い価格で部屋を提供しなければならない。この条例は効果を発揮し、幅広い学問があり、学びの上質な環境が整っている福岡に日本各地から学生が集まる様になった。
叶荘もこの制度を活用する事にしたアパートのひとつであった。しかし他のどの集合住宅よりも割安な家賃設定をしていたために補助金をもらってもお金は年々少なくなっていた。したがって補修や改修をなかなか行う事が出来ず、時代に相応しくない雰囲気から昨今の若者には敬遠され、近年は常に空き部屋がある状態となっているのだった。その中から美月は二階にある角部屋の201号室に住む事に決めた。
旭の先導によりふたりは一階へと下りていき(階段を一段踏む度にやはり軋んだ音が鳴る)玄関までやって来た。
「じゃあ入口から始めるよ。ここが玄関。施錠時刻は夜の9時。それよりも遅くなる場合は事前に連絡する事。傘立てはそこ、自由に使ってね。他の人のを使う時は一言伝える事を強く薦める」
彼は冗談混じりに言った。
「でこれが靴箱」
次は来た方をくるりと振り返り、右の壁に設置されている小さな棚を指差す。
「見た通りひとりにひとつずつあるから、自分の部屋番号が書かれたとこを使ってくれ」
こくりと頷くと姉弟は脱ぎっ放しにしていた靴を手に取り美月は「201号室」と書かれたスペースへ、陽は「106号室」のスペースへそれぞれ入れた。
「君らの名札はすぐに作るよ……で、靴箱のすぐ隣、101号が俺の部屋。改めてよろしく」
101号室の扉の隣の壁には「叶旭」と書かれた表札が貼られている。
「こっから住人紹介ね。まず向かいの105号。ここに住んでるのは今月高等部1年になった片岡静音。すげー物静かな娘」
旭はこんこんとノックをする。数秒後ぎいと叫び声の様な音を出して扉が開いた。茶色い髪の少女が無言で顔を覗かせた。
「……」
「よっ、静音。急だけど今日から住む事になったふたりを紹介するよ」
「は、初めまして。浅倉美月です。よろしく」
「浅倉陽です」
「……」
ふたりに軽く会釈をした後静音は旭に向き直った。何も喋らなかったが「用は終わり?」そう聞いている様だった。
「これから仲良くよろしくな」
一度だけ首を縦に振り、彼女は戸を閉めた。
「……何か、あんまりよく思われてないのかな、私達」
「いや? んな事は無いと思うけど。静音はああいう娘なんだよ。誰も喋ってるとこ見た事ねーんだ」
「ええっ!? 誰も!? ……喋れない……とかじゃなくて?」
「本人に確認した事はあるけど、普通に声は出せるらしいよ。恥ずかしいみたいだな」
「授業で当てられた時とかどうしてるんだろう……」
「さあな。じゃ次いくぞ」
続いて旭の隣の部屋、102号室。表札には「早乙女乙女」と書かれていた。女の子かなあ、と美月が思っている内に旭はノックを済ませていた。
しかし一向に扉は開かない。もう一度叩いてみるが、何の反応も無かった。
「……留守?」
「いや、今はみんないるはずだ」
住人の許可も無しに旭は勝手にドアを開けた。鍵はかかっていなかった様である。
「やっぱりな。いるんならせめて返事しろよ乙女」
奥の方、窓際に書斎机を構えてひとりの少年が読書をしていた。部屋の主が意外にも男であった事に美月は驚く。
「……何だ旭」
「何だじゃねーよ。新しい住人連れてきた。浅倉美月さんに弟の陽君」
「……へえ、そうか。本に夢中で気づかなかったよ。俺は早乙女乙女、よろしく」
乙女と名乗った少年は立ち上がると、文庫本を手にしたまま三人の元へと近付いてきた。美月はその顔をまじまじと見ていたが、あまりの美しさに思わず見とれそうになっていた。凛とした瞳に爽やかな笑顔。女子百人に聞いたら確実に全員が「イケメン」と答えるのはわかりきった様な顔付きだった。男である陽から見てもかっこいいと思われているに違いない。
「よ、よろしくお願いします……」
「学校は誠心?」
「あ、はい……」
「俺は高等部の1……じゃないか。今月から2年だ。君は?」
「あ、私も……同い年ですね……」
な、なぜだろう……美月の胸は先ほどから高鳴っていた。この早乙女君を見るだけで、なぜかドキドキしてしまう……き、緊張してしまう……。
「あ、あの、何読んでたの?」
「ああ、これ……? 小説だよ。見てみる?」
「あ、うん……!」
彼女は差し出された文庫本を受け取った。布製のお洒落なブックカバーに包まれていて、そこはかとなく美しさを感じさせられる……いやこれ100%持ち主の外見のせいだけど。
い、一体どんな小説を読んでるんだろう……国語の教科書に載ってる様な純文学かな……ごくりと唾を飲み込み、彼女は本を開いた。
次の瞬間、彼女の目に見開きいっぱいに描かれた裸の女の子が恥ずかしそうに手で大きな胸を隠しているイラストが飛び込んできた。あぁぁぁんっ……! 桃色の吐息が混ざった艶やかな声が彼女の耳の内に流れた。
美月は顔を赤らめて一瞬で本を閉じた。
「ん? どうした? ハエでもいたか?」
あまりの素早さに旭が問いかける。しかしそれには答えず、彼女は乙女に向かって声を荒げた。
「なっ……何よこれはああああっ!?」
「何って、ライトノベルだよ」
「ライトノベルウッ!?」
「何? 何が書かれてたの姉ちゃん」
「だ、駄目えっ! 陽は見ちゃ駄目えっ!」
「え~、何でだよ」
「大体君っ! 女の子によくもまあこんな物を堂々と見せられるわね!」
「失礼な……ライトノベルは立派な小説だよ」
「そっ……それはそうかもだけど……!」
「そういうのはこいつにだけは言っちゃいけないぜ」
旭が口を挟む。
「何てったってこいつは、弱冠15才にして『傍若舞人の超虎魂』で鮮烈なるデビューを飾ったライトノベル作家、早乙女乙女だからな。今ん所2巻の時点で累計発行部数10万部突破だぞ」
「じゅっ……10万……!?」
「おかげさまでね」
乙女は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そういう訳だから、こいつの前ではあんまりラノベとかサブカルとかを馬鹿にしない方がいいぜ」
「うっ……ご、ごめん、別に馬鹿にした訳じゃないんだけど……ただ、ただその……え、えっちな絵が描かれてたから……」
「あんなのラノベじゃよくある物だよ」
微笑みながらさらりと乙女が言う。
「よくあるの!?」
「ていうか軽い方だし」
「あれで!?」
「まあいいよ。2次元の良さなんてわからない人には一生わからないからね。けどねえ、俺は……」
唐突に彼は何やら熱心に語り始めた。身振り手振りをしながら一生懸命話しているのだが、美月にとっては何の事を言っているのかちんぷんかんぷんだった。
「こいつ、2次元にしか興味ねーんだ」
こっそりと旭が耳打ちをする。
「3次元……つまり現実の女の子にはちっとも魅力を感じないらしい」
「何それ!? こんなにかっこいいのに!? もったいない……」
宝の持ち腐れとはこういう事か……今や美月は彼に対して全く興奮する事が無くなっていた。さっきのときめきを返して欲しい。何か、何か自分がきゅんきゅんしている女の子っぽかったときめきを。
乙女はまだ口を動かしていた。しかし美月の耳にあるフィルターが不要な情報だと判断しその言葉を完全に聞き流していた。ちょくちょく「パンチラ」だの「乳揺れ」だのという単語が脳に入ってくるが、それでもやっぱり聞き流していた。
「もう出ようか。まだまだ紹介しないといけないし」
熱弁していた彼を置いて三人は部屋を出た。
「よっぽどアニメとか漫画とかが好きなんだね」
「ごめん、私には途中から変態にしか見えなかった……」
「いい奴だぜ」
「うん。それは何となくわかる……あ、そういえば『早乙女乙女』っていうのはペンネームなんだね。本名は何ていうの?」
「さあ」
「え」
「俺も知らねえんだ」
「そ、そうなんだ……」
……普段から学校でもペンネームで生活しているのだろうか……。
103号室の戸は「はいは~い」という陽気な声がしてから開かれた。
「どちらさ~ん? ……何や旭。どないしたん」
ドアの陰から飛び出てきたのは少女であった。またずいぶんと小柄だ。最初にあいさつをした静音は美月より背が低かったのだがその彼女よりもさらに小さい。ピンクの髪は両側で結い上げられており、声も可愛らしい物だった。
その姿を目にした瞬間に美月は小動物を愛おしむ様に瞳をきらきらと輝かせた。
「へ~、新しい入居者ね」
少女はひとり頷きながら美月を見て、その次に陽を見た。
「浅倉美月です」
「弟の陽です」
「美月に陽か。ウチは浦園萌々華。よろしくね」
まだ幼さが残る声で少女は自己紹介をした。訛りから察するに関西出身の様だ。
「萌々華ちゃん、かあ。可愛い名前。何年生? 私は高等部の2年に編入するんだけど。中等部だよね? 陽と一緒かな」
「んなっ!!!」
ピキッ、と萌々華の顔に血管が浮き出る。旭は突然吹き出した。
「?? あ、あれ? 私何か変な事言った?」
「……ぴきぴき……」
「……? ?」
「あっはっはっは! だよな~、やっぱそう見えるよな~。静音よりちっさいもんな~」
「うっ! うるさい旭!」
萌々華の顔は真っ赤になっていた。
「萌々華は俺達と同い年だよ」
旭が自分と美月とを指して告げる。
「……え。ええええええええっ!? こんなにちっさいのに!?」
「ちっさい言うな! ウチはまだ成長期なんや!」
女子の成長期は一般的に中学生頃までである。
「こんなに可愛い声なのに!?」
「変声期前なんや!」
女性には特に変声期という期間は無い。
「あ~~~~~もう! いっつもこないなリアクションや! 見飽きてんねんこっちは!」
悶える萌々華を見て美月は我慢出来ずに尋ねる。
「萌々華ちゃん!」
「何や!」
「ぎゅってしていい!?」
「あかん! あ! ……うう~~~~!」
答えを聞かずして抱擁する美月。動揺した萌々華は思わず唸っていた。高い声で。
「……ええええいうっとおしーーー!」
やめんかい! と萌々華は美月の腕を無理矢理振りほどいた。拍子で彼女の胸がたゆんと揺れる。
「初対面のくせに馴れ馴れしいやっちゃなあ! 何やその態度は! 何やそのむ……はっ!」
何かに気付いた様に萌々華の顔が強張った。かと思ったら今度は胸を隠す仕草をしてがばっと後ろを向く。
「……べっ、べっ、べべ別になな何とも思てへんわ! む、むむ胸なんてあった所でちっともおもろないねん! むしろちっさい方がネタに出来ておいしいんや! せ! せやねん! せやねんっ! ……せやねんっっ!!」
「その様子がまた可愛い!」
「うああああああもう嫌や! 『可愛え』とかいらへんねん! 『おもろい』やねんウチが欲しいのは!」
悲痛な叫びを上げながら彼女は年季の入った床で地団駄を踏み始める。
「萌々華は芸人を目指してんだ」
「へー! 凄い! 可愛いだけじゃなくて面白いんだ!」
「せやから可愛えは余計や! ああんもう自己紹介終わったんなら出てけ! この発育ビッグバンがああああ!」
扉は内側から力強く閉められた。またも中途半端になるが、萌々華のターンはこれで終了である。
「いやあ恐ろしい……同い年の女子の精神を一瞬の内に壊すとは……そんな使い方があったのか……恐ろしい……」
「よくわからないけど私の手は多分叶君のほっぺをぶつためにあるんじゃないかな」
「ごめんなさい」
これで一階の住人へのあいさつは終わった。この叶荘、なかなか個性的な面々が暮らしているらしい。
Life goes on...next DAYS.
今回も長くなったので今回は切りました。ほんとは今回で一区切りの予定だったんですが……次回こそ。