第五話 俺は二度死ぬ
毎話のことですが、サブタイトルにはあんまり意味はありません。
ズル、ズル……。
ヤツの腹が擦れる音が薄暗い院内の廊下に響くたびに、人生の終わりが着実に近づいている気がする。
死刑執行のカウントダウンが始まっているというのに、俺の体は主人の言う事を受け付けない。
のしかかった婦長の重い身体とグロパンを見てしまった精神的ダメージのせいか。そして避けられない絶対的な死の予感を感じて俺の全細胞は半ば諦めかけているのだろう。
妙に落ち着いている自分に気づく。感情移入していないホラー映画みたいな感じだ。
……?
どうして襲ってこないんだ? もう間合いに入っていることは、気配でわかる。
――おい、まだかよ。早く殺してくれ。
半ばヤケクソのような思考が冷めた脳内から吐き出され、そのギャップに自分でも違和感を感じてしまう。
ジェットコースターの最頂点で停められたまま放置された状態を高濃度で圧縮したような不快感。
ああイヤだ……こんなにじらされると思考がヤバイほうにいきそうで……あ、ヤベヤベ……!
……ああ、いっちゃった。
鼓動が早まり始めた。
これだ。芽生えてほしくなかった思考が俺の中に芽生えてしまった。
さっきまでは諦めてたのに、時間が生まれたことで警察の突入を期待し始めている。
それを自覚した途端、呼吸が荒くなり恐怖が再び襲ってきた。
やばいやばいやばい……死にたくない!!
どうしてだよ!
殺されると思ってからもう数十秒も経っているのに、一向に攻撃される気配はない。
お願いだ、外で何をしているのかわからないが、警察が到着しているのなら早く突入してくれ!
ちくしょう。
死にたくない、死にたくない、死にたくない。
全力で婦長の体を動かそうとする。重い。何食ってんだマジで。一〇〇キロどころの重さじゃないぞこれは。
お願いだ、どいてくれ。動いてくれ。
死にたくないんだ。あと数秒、警察が突入してきたら助かるかもしれないんだ。
こいつを退治できないとしても、俺が逃げる時間を作るくらいは注意を引けるはずだから。
渾身の力を振り絞る。
力を込めすぎて血管が切れそうになっても、力を入れ続ける。
どいてくれ、婦長!
ぬおおおおおおおおおおおおおおっ!!
……今、ちょっと動いたぞ。この勢いで…………どうだ!!?
婦長の体が横に転がった。隙間から這いずり出ると、すぐ目の前にウナギの頭が迫っていてちびりそうになった。
しかし、ウナギは動いていない。いや、よく見ると一秒間で〇.一ミリくらいのペースでゆっくりと動いている。
どうなってんだ? さっきも同じようなことがあったような。
そんなことより、避けないと。
ウナギの攻撃の軌道から体をずらす。
その直後。スローモーションを解いたビデオのように周囲の風景が動きだし、ウナギの頭は俺と婦長の間の床を貫いた。
地震のような轟音が響き、床に亀裂が走る。ヤツが砕いた床の破片と砂煙が噴火のように立ち上った。
なんてパワーだ。
それより、逃げないと。抜けそうな腰に気合いを入れて立ち上がると、ウナギは地面から顔をあげてこちらに狙いを定めた。そして俺めがけて猛スピードで頭を伸ばしてきた。
ヤバイ、今度こそ殺られる!
そう思った瞬間、ウナギの動きが超スローモーションに変わるのがわかった。
宙に飛び散る破片や砂煙も物理法則に逆らって動きを緩めていく。
――もしかして、俺以外のすべてのものの動きが遅くなっているのか?
亀のようなノロマな攻撃を体をひねって悠悠とかわした。
直後、解除されるスローモーション。
ウナギの頭が俺の脇腹をかすめて後ろの壁を貫いた。
今だ、逃げよう。
婦長には悪いが、警察と合流しなくては。
俺は玄関ロビーめがけて走り出した。
目の前にある右の壁をぶちぬいてヤツの頭が飛び出した。
うわっと。
驚いてしまったが、命中する距離じゃない。ウナギは廊下を横切って反対側の左壁をぶちやぶった。
ヤツの体をくぐりぬけ、さらに走り続けると、今度は左壁からヤツが飛び出る。
しまった、今度は避けきれない! 左腹を貫通される。
覚悟して目をつぶったが、衝撃はない。目を開くと、例のスローモーション。
ウナギの軌道をまたいで越えるとスローモーションは解除された。
――ヤツは、俺に攻撃しているのに、命中する瞬間にわざと速度を緩めているのか? なぜ? 何のため?
いや、「何のため」という考えはおかしい。
ヤツが動きを遅くしているんじゃない。
周囲の砂煙まで遅くなるんだから。
正体もわからない化け物だが、ヤツの意志で物理法則までは歪められるわけがない。
じゃあ、どうして?
頭の中に疑問を浮かべながら玄関ロビーが見えてきた。
割れたガラスから、重装備の機動隊のような連中が入ろうとしていた。
助かった。
油断した瞬間、ウナギは地面から顔を突き出してきた。
俺の仮説が正しいなら、スローモーションになるはず!
そしたら右にかわして警察と合流だ。
そう思ったのも束の間、ヤツの攻撃は俺の脇腹をかすめていった。
「がはっ」
真っ赤な血が目前に噴き出し、バランスを崩した俺は倒れてしまった。
痛ててて……どうして? スローモーションにならなかったんだ。
床には血が広がっていく。
痛い。痛い。こんな痛みは味わったことはない。
小学校の時にマンションのベランダから近所の不良中学生に小便をひっかけたらとっつかまって、思い切り金的蹴りをくらった時より痛い!!
痛い……なんてこった。
せっかく助けが来たのに、こんな油断で俺は死ぬのか。
頭上を見上げると、天井あたりで鎌首をもたげたウナギが俺を見下ろしていた。
そして、一瞬後、ヤツの頭が残像を残して迫ってきた。
――終わった。
しかし、終わりではなかった。再びあのスローモーション現象が起きたのだ。
ヤツの頭がパラシュートのようにゆっくりと降りてくるのがわかった。
だけど無理なんだ。もう俺にはこれを避ける力はない。
死ぬのが俺にとって数秒間延びただけのこと。
こんな出血ではヤツの攻撃から軌道をずらすほどの力が残っていない。
俺、どうやって死ぬのかな。
食われるのか?
床ごと頭を叩き潰されるのか?
ああ、外にあったマグロがコイツの獲物だったのなら、きっと後者だろうな……グロいんだろうな。
どうしよう、目は閉じたほうが怖くないかな?
いや、現世の最後の記憶はしっかり目に焼き付けておいたほうがいいのかな。
優柔不断だな、俺。
まあ、もう死んじゃうし、どっちでもいいか。
実時間ではきっと一秒くらい。俺の体感時間でも数十秒後には俺の頭は粉々になってしまうのだろう。
こんな死に方イヤだー、せめてゆっくり走馬灯を見せてくれ!
その時、青いものが視界の右隅に見えることに気づいた。
何だ、ありゃあ。
ウナギに気をとられていたけど、あんな色のものロビーにあったかな?
視線を右にやると、青い服を着た女が地面スレスレを飛んでいた。
誰? てか、飛んでる?
いや、これは『跳んで』いるんだ。
俺が凛夏をかばった時のように、俺を突き飛ばして助けようとしているんだ。多分。
ていうか、ヤバイかわいい……!
凛々しい表情だが、彫刻品のように美しい造形の少女が両手を出して俺に近づいていた。
俺を助けようとしている?
俺は上を見上げた。
ヤツの攻撃が俺に届くまで、俺時間であと十秒くらいか。
そして、美少女が俺を突き飛ばすまで多分――九秒強。
……間に合う!
俺は待った!!
ただ突き飛ばされるのを待った!
堂々と待った!
ヘイ、早く助けてくれお嬢ちゃん!
あ、このままだと怪我をした脇腹を押されるかも。
それより俺的にはもっと押していただきたい場所があるんですが。
よし、スローモーション中でも俺の動きだけは等倍みたいなので、いっちょ彼女のほうにプライベートな部分でも向けてやろうかのう。ぐふふ。
……いや、そりゃいかんて!
彼女から見たら、横っ腹を見せていた相手が突然高速で動いて股間を向けてきたら最悪だろ!
ただキモいだけじゃなく、オカルト的な要素すらある。
しかもあの勢いで股間を押されたら潰れる恐れすらある。
ついでに言うなら、お巡りさんが見てるんだぞ! 一発タイーホですがな。
何考えてたんだ、俺。
危ねえ危ねえ。
と、現実では一瞬だろうが俺にとってはそれなりに長い葛藤をしていると、彼女の両腕が俺の脇腹を突き飛ばした。
「痛ェェェェェッ!!」
悲鳴をあげた瞬間、スローモーションは終わり俺は廊下の隅に突き飛ばされた。
あの子はどうなった!?
振り返ると、切れた電線のようにウナギの胴体が力なく落ちてきた。
そして、その向こうでさっきの少女がこちらを見て立っていた。
少し遅れて、切断されたウナギの頭部が床に落ちる。
え? え?
どうなってんの?
死んでるの、それ? 誰が? どうやって? ていうかやっぱかわいいな。誰?
いくつもの疑問が瞬時に脳内をよぎったが、少女は思考に浸る暇も与えてくれなかった。
歩いてきた少女は片膝をついて言った。
「……外に医療班が待機しているから安心しろ」
少女の右手からは鮮血が滴っていた。
俺の血か!? こ、こんなに出血してるの、俺?
緊張の糸が切れたのか、それともただの貧血なのか、俺の意識はそこで途切れた。