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誰も知らない恋の始まり

作者: 蓮夜

 私は今、美術館にいる。大学の講義で、指定の美術館へ行きレポートを書くように言われたのだ。初めはいつものように一人で来るつもりだったが、大学でよく一緒に授業を受けている人と意気投合し、一緒に来ることになった。もはや“友達”か“親友”と呼んでもいい人だろうか。

「ねぇ、栞、これ読める?」

 一緒に来た親友とも呼べる人、薫に声を掛けられた。指をさされた先を見ると、日本の古い巻物に文字が書かれている。大学で習った、くずし字だ。

「ん?……微妙にしか読めない。」

「いかんな。何とかの……何とかなりけり……。お手上げだ。」

 薫は観念したように首をすくめて笑う。少しかじった程度の勉強では、さすがに美術館の巻物の文字はほとんど読めない。まともに読めるようになればいいのだが。

 それでも、二人で読めない字の解読を楽しんで、美術館を出た。

「さて……3時ですか。これからどうする?」

 12月の寒空の下で、薫に伸びをしながら聞かれた。

「うーん。せっかく外出したし、このまま帰るのも勿体ないね。」

 一人行動が好きな私なのに、珍しく、用が済んでも人と一緒にいたい気分だった。というより、薫といるのが想像以上に落ち着いたのである。女子より男子とつるむほうが気楽な自分には、割と中性的な性格の薫といるのも気楽なようだ。私にしては珍しく、心を開けそうな相手でもある。

「じゃあさ、カラオケでも行っちゃいます?」

 薫は少し遠慮がちに提案してきた。だが、私はカラオケに行ったことがないし、だから持ち歌も特にない。歌うのは好きだしカラオケにも興味はあるが、親世代が歌うくらいの古い曲しか知らない。それを知っている薫は、少し気を遣っているのだろう。しかし、そこまで知っている上で誘ってくれるのならば、興味の赴くままに行ってみようか。好奇心の赴くままに。




「さて……3時ですか。これからどうする?」

 美術館を出た俺は、凝り固まった体を伸ばしながら栞に聞いた。

「うーん。せっかく外出したし、このまま帰るのも勿体ないね。」

 俺と栞は同感だった。初めて大学以外で会ったんだし、レポートのおかげで珍しく外出した引きこもりの俺は、せっかくならついでに何かしたい。

「じゃあさ、カラオケでも行っちゃいます?」

 栞が以前、カラオケに興味があると言っていたのを思い出して提案した。初めてのカラオケが俺とで良いのか分からなくて不安だが、俺は歌が得意だ。カラオケの要領なら知っているし、古い曲もそこらの同い年よりは知っている。体は女である俺が最近出せるようになった男声的な歌声も、そういえば栞は聴いてみたいと言っていた。この機会に聴いてほしい。

「いいよ、行っちゃおう。」

 クールに答えているようで嬉しさが滲み出ている栞。二人の好きな曲の違いからしてカオスなカラオケになりそうだと想像しながら、二人でカラオケボックスへ向かった。


 カラオケの機械の使い方も知らない栞が可愛らしかった。俺は曲の予約方法などを説明しながら、先に曲を入れた。栞には無縁であろう、パンクに近い激しいロックの曲。歌いながら栞の方を見ると、目を丸くして聴いていた。

「すごい……普段こんなに激しいの聴かないから新鮮だし、薫は歌上手いし。」

 一曲終えた時、栞はそう感嘆した。

「そっか、よかった。自分の歌声で女の子を口説き落とすのが夢だから、頑張って歌唱力上げてるんだ。」

 いたずらっぽく笑いつつ、何気なく一言余分に言ってしまった。栞は鋭くつっこんできた。

「へぇー、いいね。 え、てことはさ……やっぱり、薫って中身は男の子なの?」

「あー、んーとね……男までは行かない気がする。中性? だからFtXってやつかな、今のところ。」

「そうなんだねー。」

 測らずも、想像以上にあっさりとしたカミングアウトをしてしまった。俺はいつかさらっと言うつもりだったから言ったものの、反応がここまであっさりだとは思わなくて、さすがに拍子抜けした。

「あれ?気づいてた? てか、驚かないの?」

「何となく前から気づいてたしね、やっぱりかって感じ。」

 普通に笑っている。カミングアウトを大事のように捉えられるのを懸念していたから、助かった。それにしても、いつから気づいていたのかが少し疑問だ。

「そっかそっか、そんならありがたいわ。じゃ、次は栞の歌声も聴かせてよね。」

「うわーっ、薫の後に歌うのイヤだなー。この曲、古いから知らないかもだけど……いいかな。」




 カラオケがこんなに楽しい場所だとは思わなかった。テンションが上がったままカラオケボックスを出て、薫と二人で今回のカラオケを振り返った。歌うのが好きなだけあって、私も薫と共にカラオケにハマりそうだ。薫の歌唱力が素晴らしくて、音痴な私が歌うのはちょっと気が引けたけど。

「いやいや、栞は音痴じゃないからね? 大体は音合ってたし、いきなり適当に移調したときの対応がめちゃくちゃ早くてビックリした。」

「えー?そうか?」

「うん、あれは練習したらもっと上手くなるやつだよ。」

 前々から音痴だと嘆いていた私に薫がかけてくれた言葉は、本心からの言葉に聞こえる口調だった。

「そういえば薫、歌う曲合わせてくれてたでしょ?」

「あぁ、多少はね。一緒に歌うのも楽しそうだと思ったから。案の定大盛り上がりだったし。でも普段からたまに、演歌とか昔のアニソンくらいなら歌うよ?」

 薫の選曲、幅広すぎじゃなかろうか。

「確かにすっごく盛り上がったし、また一緒に歌いたいと思ったもんな。それにしても選曲幅広いよ。おまけに、男声で歌ってると思いきや女声も飛び出すし……。」

 その男声ボイスで歌われたら落ちる女の子もいるよな、という言葉は飲み込んだ。何となく言う気になれなかった。


 日が沈んだ街へと繰り出すと、街はイルミネーションの白と青の光で彩られていた。クリスマスにはまだ早いが、いかにもカップルが手を繋いで歩いていそうな雰囲気である。恋愛にさして興味がわかない私には、カップルで手を繋いで歩くという行為は遠いもののように思える。

「さてと。どこかで夜ご飯食べなきゃだけど、栞は何か食べたいものある?」

 そうだった、これから夜ご飯を食べねばならないのだった。しかし、カラオケではしゃぎすぎたせいなのか、空腹感があまり無い。

「うーん……何でもいいよ?」

 聞けば薫もお腹が空かないのだと言う。適当に歩いて適当な店に入る流れになり、適当に街をぶらぶらと歩き始めた。

 ひたすら歩いた。あっちに歩き、こっちに歩き、とりあえずイルミネーションがある大通りを歩けば何かあるだろうと踏んで、歩き続けた。ところが、ピンと来る店になかなか出会えない。

 辺りには、ぱらぱらと人の姿がある。予想通り、手を繋いで隣同士で歩いているカップルもたまにいる。そして、私の右隣には薫がいる。……薫はさっきカミングアウトしてくれた。でも私はとっくに、3ヶ月以上前には、薫の心は女でないかもと勘づいていた。学校で会話を交わす時の言動で何となく。心は完全に男だという友達にかつて出会っていたから、気づきやすかったかもしれない。だから、今日は白黒はっきりした感はあったものの、大して驚かなかった。今隣を歩いている薫がどの性別であろうと、私にとっては何の問題もない。

 ボーッと考え事をしている間、薫も何かを考えているかのように静かだった。さっきも見たような道を、二人並んで無言で歩き続けている。

「あの……さ。」

 薫が突然、前を見たまま口を開いた。いささか驚いた私は薫の顔を見た。

「ん?」

「いやぁ、こんだけ歩いてると、さすがに手が冷えてきて。ちょっと温めてくれん?」

 薫は突然、左手を私の右手に伸ばした。そして、私の手をしっかりと握った。




 夜ご飯を求めて、恋人のためにあるような街並みを栞と二人で歩いている。雰囲気に酔って、隣にいる栞になぜかキスしたい欲求がわいてしまう俺は変態だろうか。

 実は栞へのキス欲求は今日が初めてではない。今までも学校で授業を受けながら栞の横顔を見ると時折、頭をよぎっていたのだ。この人に不意討ちでキスを仕掛けたらどうなるのか……と。怒られるだけならまだしも、授業すら一緒に受けられなくなったら嫌だから、実行しようとは思わなかった。それに俺には、キスする仲のMtFの友達、つまり体が男で心が女の友達がいる。あっちでもこっちでも口づけを交わすような真似は出来ない。栞を汚すような真似は出来ない。

 でも今日は……例えば、例えば手を繋いでみたらどうなるのだろう。ちらっと左隣を見る。今なら許されそうな気がする。この寒さを口実に手を握れば、嫌がられても自然と手を離せるだろう。

「あの……さ。」

 やばい。声はかすれ気味だし、少し演技がかったかもしれない。でももう後には引かない。

「ん?」

「いやぁ、こんだけ歩いてると、さすがに手が冷えてきて。ちょっと温めてくれん?」

 そう言うと同時に栞の手を掴んだ。一瞬だけ、栞の動きが固まったように見えた。

「やっぱり栞のほうが温かいわー。」

 ぎこちなくなりながら言うと、薫の手が冷たすぎるんだよーと、笑いながら返された。どうも手を繋がれるのは嫌じゃないらしい。安心した。

「あ、手の温度が同じになってきた。」

 しばらくして栞が呟いた。いつの間にか俺の左手は温まり、栞の右手と一体化したような錯覚に囚われた。心地よい温もりだ。

「うん、すごく温かくなった。」




「あれ?靴ヒモほどけてるよ?」

 そう薫に指摘された途端、思ってしまった。もうこの手を離したくない、ずっとこのまま歩いていたい、と。よりによってこのタイミングでほどけてしまう靴ヒモが恨めしい。靴ヒモを無視して歩き続けようとしたものの、どうにも歩きにくかったので、ついにそっと、繋いだ手を離した。

 どことなく残念な気分になりながら、その場にかがんで靴ヒモを結んだ。立ち上がると、薫は無言で右手を私に差し出していた。視線はそらしている。嬉しかった、また手が繋げる。もう夜ご飯はすぐそこだったが、店に入るギリギリまで繋いでいたかった。


 遅めの夜ご飯を済ませて店を出た。予想以上に夜ご飯にありつくのが遅かったせいで、時刻はもうすぐ9時になるところだ。1時間以上動き続けた足は、休ませたとはいえ疲れている。

「さて……早く帰らないとね。」

 薫が呟く。魔法が解けてしまう、という気分にかられた。12時の鐘が迫るときのシンデレラの気持ちはこんな風だったのだろうか。

「なーんか今日、デート気分だったな。デートごっこ?恋人ごっこ?みたいな。」

 なぜか薫の言葉のテンションが高い。酒を飲んでほろ酔いになった人のようである。ということは……この勢いで、デートをキスで締めくくるという展開もありかもしれない。突如としてそんな、自分でも驚くような思考が舞い降りてきた。まさかそんなことが起こるとは夢にも思わないし想像もつかない。が、魔法が解けないうちに、酔ったつもりで試してみたかった。

「デートごっこって言うならさ、この際キスしちゃう?」

 かなり冗談めかした言い方にするよう努めた。そのおかげか、薫も笑いながら冗談っぽく返してくれた。

「お、ありかもしれんな。」

 二人で談笑しながら、地下鉄の駅へと向かった。




 どうも夜というものに酔ってしまう質らしい。酔った中で、早く帰らないとね、と現実的なことを口にしたのには妙な違和感があった。

「今の俺、テンション高くない?」

 栞に聞いてみた。妙にテンションが上がっている自覚はある。案の定、笑って頷かれた。どうも栞と二人で歩いているのが心地よい。安心するような、ワクワクするような、変な感じだ。デートごっこ?恋人ごっこ?といった不思議な感覚。

「デートごっこって言うならさ、この際キスしちゃう?」

 栞からそう持ちかけられたのには驚いた。冗談っぽく、でも半分くらい本気で言っているようにみえる。そんなこと言う人だと思っていなかっただけに、夜というものの魔力を痛感した。


 二人で地下鉄に乗り込んだ。談笑を楽しむ裏で、別れの時間が否応なく迫ってくる。俺は先にこの地下鉄から降りなければならない。

「あぁ、もうあと二駅だわ。」

 電車のアナウンスを聞きながら言うと、話の展開が思いもよらぬ方向へ向かった。

「じゃあ……、一緒に降りようかな。」

 俺と一緒に降りる? 降りてどうするのだろう。思い当たる節は一つだけあるけれど、全く確証は持てなかった。

「えっ?栞が降りる駅はまだずっと先でしょ?」

「いいのいいの、どのみち今日は一日乗車券持ってるから。地下鉄ならいくらでも乗り降り出来るよ。」

「いやぁ、でももう今日は遅いし、直で帰ったほうがいいんじゃ……?」


 話しているうちにとうとう俺が降りる駅に着き、本当に二人一緒に電車から降りてしまった。一緒についてきた栞をどうしていいのかわからず、とりあえず改札を抜けた。そのまま駅の外へ出る。いつの間にか栞と手を繋いでいた。

 栞から無言でキスを迫られている気がするのは気のせいだろうか。でも、わざわざ俺と同じ駅で降りて改札まで抜けたのだから、少しはその気があるのだろう。

「えっと……。歩道橋の上にでも行く?」

 俺が恐る恐る聞くと、栞は頷いて、行こっかと言った。ならばと歩道橋の階段をゆっくり登り、車道の真上まで足を進める。栞のほうを見ると、欲しているのが見てとれた。けれど確信はもてない。ならばと、思いきって聞いてみた。

「これから、キスするの?」

「……うん、しちゃおう。薫が嫌じゃなければ。」

 想像はついに確信に変わった。歩道橋の上でキスなんて、どこかのドラマの話じゃなかろうか。現実の世界でそんなキスを交わす人が、どれだけいるものなのだろう。

 ところが、歩道橋は案外、人通りがあった。さすがにここでは出来ない。だが、今更引くのも不可能だ。二人っきりになれる場所を考えた。思いつく場所は一つしかない。栞の手を引っ張って、すぐ近くの鉄道の駅へ向かった。


 行ってみるとここの駅は、新しいだけあって地下鉄の駅より建物が綺麗だ。中に入ると想像以上に閑散としていた。人もほとんど通らなさそうだ。ここでやってしまってもいいくらい……。でも念には念を入れ、人目を確認しながら女子トイレへと入っていった。こんなときに同性カップルというのは便利なのかもしれない。異性カップルよりもキスに持ち込める場所が多いから。


 個室の中で荷物を下ろし、栞と向き合った。栞にとってはきっと、これがファーストキスだ。ファーストキスの相手が俺なんかでいいのかと不安になると、俺は簡単にキスを仕掛けられなかった。せっかく、度々抱いてきた淡い欲望を試すチャンスが巡ってきたというのに。

 今ここで本当にキスするのなら、リードするのは経験済みの俺であろう。だが俺は、自分から誰かにキスをしたことがない。キスを交わすあの友達とも、いつも受け身でしているだけなのだ。自分からしようとすると、相手を汚すような気がして、どうしても一歩を踏み出せない。固まってしまう。今も既に動きが固まってしまった。思考だけはぐるぐると動き回っている。




 薫が動かない。キスをする準備は整ったのに、動かない。どうしたのだろう。本当は私とキスしたくないのだろうか。正直のところ、私はなぜここまで薫についてきたのか分からない。見えない大きな力に動かされるがままに動いている。薫とならキスをするのも平気な気がしたから。むしろ、してみたいと思ったから。もちろん無理にしてもらおうとは思わない。薫が自らキスを仕掛けた試しがないのも知っているから。ただ、ここまで来たからには出来ればしたい。とりあえず、薫の気持ちをちゃんと聞こうとして、沈黙を破った。

「キス……嫌?」

「嫌……じゃないよ。でも……。」

 いつもは元気だったりクールだったりする薫が、頼りなさげで小さくみえる。

「でも?」

「俺なんかがキスしたら……栞を汚すような気がして……。あと、上手く出来ないし……。」

 やっぱりな、と思った。薫は以前も、あのMtFの友人に自分からキス出来なかったと嘆いていたときも同じ理由を言っていた。

「大丈夫だよ、汚れたりなんかしない。それに、上手いも下手も分からないから気にしないもん。」

「……本当に、いいの? そんなこと言ったら、本当にしちゃうよ?」

「いいよ、して?」




 本当に、いいのだろうか。この状況は普段の栞からは想像できないだけに、戸惑いを隠せない。けれどもこれで、双方合意が確認できたのである。俺が恐れることはもう何もない。

 目を閉じた栞にそっと体を寄せ、腕を回す。そして、唇を近づけていった。ゆっくり、失敗してもいいから落ちついてリードしよう。恐れることはない。




 産まれて初めて、唇を触れあわせるという行為をしている。それも一瞬ではなく、十秒も二十秒もじっくりと。唇がこんなに柔らかいなんて知らなかった。手を繋ぐよりも触れ合う部分が小さいのに、手を繋ぐよりもドキドキする。だが嫌なドキドキでもなく、徐々に安心感が生まれて心地よくなった。

 ドキドキの中の心地良さに身を委ね、薫の腰に手を回した。

 すると、唇に暖かい塊が触れた。少し触れて、引っ込んで、引っ込んだと思うと今度は、口の中にゆっくりと入ってくる。私は訳が分からず驚いたが、すぐにハッと気づいた。これが世に言うディープキスなのか。話に聞いたことしかない上に、経験する日が来るとは思っても見なかった。体の鼓動が速くなり、個室中に聞こえているのではと感じるほど全身に響き渡った。熱い。唇から、口に、そして全身に熱いものが広がっていくようだ。




 栞の体が熱くなり、ついに小刻みに震え始めた。ディープキスはさすがに刺激が強すぎただろうか。今まであの友達にされてきたものを思い返し、初めてでも刺激が強すぎず、かつ気持ちいいと感じられそうなやり方をしたつもりだが。嫌な思いをさせたかもしれないと、少しだけ不安になった。

 さすがにもう止めなければと、舌を引っ込め、重ねていた唇をそっと離した。栞の目は風邪で熱が出たときのようにとろんとして、体はガタガタ震えている。大丈夫か?と声を掛け、栞の体を支えるように強く、しかし優しく抱き締めた。すると栞は、全身の力が抜けたようにへなへなと便座の上に座り込んでしまった。キスでこんな風になる人を知らなかった俺は慌てた。この後の展開があまりにも想像できず、混乱を隠せなくなりながらも、栞を抱き締め続けた。




 感じたことのない体の震えと脱力に驚きながら、薫の体温で全身が包み込まれている。腰が抜けるとはこういうことなのだろうか。熱い。とにかく熱い。でも嫌じゃない。むしろ今まさに、これまでの人生で最高のひとときを過ごしているのではなかろうか。そんな気分になる。

「んーと、そろそろ立てるかな?」

 いつの間にか震えはだいぶ治まっていた。うん、と返事をして、薫に支えられながらゆっくりと立ち上がる。


 言って良いのか、わからないけれど。

「あーもうだめだ、叶わない恋しちゃったかもしれない!」

 薫と共にトイレを出て、他に誰一人いない閑散としたコンコースで言葉にしてしまった。どうしても頬が弛んで、動かずにはいられないうずうずした気分になっている。

「でも。薫はそんなこと言われても困るよね……? あの人がいるんだし……。」

 そう、私は忘れてはいけない。薫にはもう、私より先にそういう人がいることを。まさか私と薫が恋仲になるなどあり得ない。




「いや、でも……俺も栞のこと好きになっちゃったかもしれない。」

 何となくそんな気がする。それに、誰かに恋愛対象としてはっきりと好かれるのはこれが初めてだ。自分のことなど好きになってくれる人は生涯いないと思っていたのに、目の前には自分を好きになってくれている人がいる。そんな風に思ってくれる人を蔑ろにはしたくない。

「ただ、ものすごく申し訳ないけれど……付き合うとしたら、俺があの人とキスするのも許してもらわないといけない。あいつに、他に支えてくれる相手が現れるまでは。あいつも孤独だからさ……。」

「それでもいい、付き合いたい!」

 栞の返事は驚くほどの即答だった。自分も付き合いたいかもしれない。口づけを交わした場面を思い出して胸が高鳴った。

「あ……うん、わかった。」

「やった!」

「でもちょっと待って、しばらくはお試し期間にしよう。それで、付き合ってもいいと思ったら付き合おう。」

「あぁ……そうなるの?」

「そうなるの。今この瞬間で決めちゃうのはよくない。」

「ん、わかった。そうしよう。」

 今は確実に気分が高揚しているし、正確な判断ができないに違いない。だから時間をかけて考えよう。明日からも大学で一緒に授業を受けるのだから。




 その後、二人がめでたく付き合うようになってからのお話は、また別の物語。

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