突然のキス
家を出ると春らしい陽気が辺りに満ちている。待ち合わせ場所に彼の姿があった。彼がいたことに安堵しながらも、言葉では言い表せない複雑な気持ちを抱いていた。その原因は別れ際にみた、彼の笑顔が頭から離れなかったからだ。手の腹で頭を軽く叩く。
「おはよう」
彼に声をかけるが、昨日の笑顔がちらつき、目をそらす。
自分との格差を明確にされるのが怖かったのだ。
他人行儀でもあきれたような笑みでもなく、彼にとって特別を示す表情だ。
「今日は機嫌でも悪い?」
ほとんど話をせずに学校への半分の道のりを歩いたとき、彼はあきれた表情でそう問いかけてきた。
あの子にはああやって優しく微笑むのに、いつもわたしの前ではこんなんだ。
「別に。女の子の前でへらへらしている誰かさんとは違いますから」
「昨日、高校の友達にあわせたことを根にもっているわけ? ならもっと早く文句を言えばいいのに」
「そんなんじゃない」
そんなことは言われるまで忘れていた。
彼は不思議そうに肩をすくめていた。賢いと思っていた彼は想像以上に鈍かった。
もっともわたしがあの少女とのやり取りを見ていたと知らないなら、なおさらだ。
「宮野君って結構軽いよね」
「はあ?」
彼は眉をひそめていたが、すぐに口元に笑みを浮かべる。
「昨日の家に来たときのこと」
「当たり前じゃない。あんな風に言ってきて。その後すぐに」
ほかの女の子に対してあれだけ楽しそうに笑っていた。
ただの嫉妬だ。わたしは彼女の代わりでしかないのに、あまりの自分の情けなさに口を噤む。
本気で好きと言われたわけではないと分かっていたが、それでもいいようのない気持ちが胸にうまれる。
「本気なんだけどさ」
「そうやってからかっているだけじゃない。反応を見て」
「俺ってよほど信用がないんだ」
「当たり前。昨日だってキスするみたいな素振りしてからかってきたじゃない。軽すぎる」
「今更そんなことで怒るんだ。別にしてもよかったんだけど」
「嘘ばっかり」
もう彼に遊ばれて反応をしたりしないと心の誓い、言葉を根本から否定する。
「実際にしてもいいならするよ」
「できるならしてみたら?」
いつものように彼はあきれたように笑い、背を向けて歩き出すのだと思っていた。だが、わたしの前に伸びた影は長さを変えない。
突然、顎を持ち上げるようにつかまれた。何かを考える時間もなく、彼の唇がわたしに重ねられる。理解できないまま。その柔らかい感触が離れていた。
凝視していた彼の顔が不敵に笑う。
「これで本気だって分かった?」
今までの成り行きを一気に理解し、顔がいつにないほど赤く染まる。
わたしは口を押えて後ずさりする。
「今、キ、キス」
「誰かさんがしろって言っただろう」
「こんなとこで何をするのよ」
「大丈夫だよ。誰もいないし」
その言葉に思わず辺りを見渡していた。朝方の比較的早い時間であることが幸いしたのか人気はなく閑散としていた。だが、見渡してそうでないと我に返る。
「何でキスなんてしたんですか?」
「さっきからキスを連呼しているけど、あんまり大声出すと人に聞かれるよ。繰り返すけど、君がしろって言ったからしただけ」
彼は顔を寄せ耳元で囁いた。その言葉に何も言えなくなって口を噤む。ただ、最後の抵抗をするように頬を膨らませ、彼を睨んだ。
「あの子にも言われたらそういうことするの?」
「あの子?」
「昨日、私と別れた後に一緒だった子」
彼は目を閉じ、眉をひそめる。
「髪の毛が長い、君より少し小柄な子?」
そんな条件が該当するような子は数多くいたが、彼女もそうだった。
わたしが頷くと、彼は納得したのか軽い言葉を漏らし、苦笑いを浮かべる。
「ありえないって」
「どうして?」
「あいつはそういうやつじゃないよ。第一、あいつに言うと、怒られるよ」
彼の言葉を受け入れそうになるが、そのたびに昨日の笑顔が頭にちらつく。
「でも、仲がよさそうだった」
「同じ学校なんだから本人に聞いてみたら? 一年二組の里崎ののか。君は恐らく彼女のこと知らないか。あいつは知っていると思うけど」
「どうして?」
宮野君の言葉の通りにそんな名前の一年生はしらなかった。
そもそもわたしは他学年の生徒の名前もあまり知らないのだけれど。
「学校行かないならサボる?」
彼に時計を見せられ、我に返る。もう急いでいかないといけない時間になっている。
「行きます。サボるなんてとんでもない」
優等生というわけじゃないが、性格的にはそういうことはできない。
さぼってもいいと言い張る宮野君を引っ張ると、学校への道を急ぐことにした。
学校に着いたのはホームルームの始まる数分前。教室に駆けこむと、席に座る。
鞄を机に置き、胸に手を当て乱れた息を整える。
前の席のあいが振り向く。
彼女の挨拶に息をきらしながら返事をする。
「昨日のデート、どうだった?」
「デート?」
走った疲労感から、頭が働かず彼女の言葉に答えるだけで精一杯だったのだ。
「宮野君とのデート」
わたしはその言葉にびくりと反応する。反応したのはデートではなく、宮野君という言葉だった。今朝のことを思い出し顔が赤く染まる。
「何かあったの?」
あいは何かを察したのか身を乗り出して聞いてきた。
「今は言えない」
「気になるな。聞かせてよ」
「そういえば、里崎さんって一年の子知っている?」
「ののかちゃん?」
あいの口からさらっと名前が出てきたことに少なからず戸惑いを感じていた。
「知っているの?」
「名前だけはしってるかな。すごく可愛い子だよね」
昨日感じた予感の一つが当たる。
「あとで誰か教えて」
「いいけど、どうかしたの?」
「ちょっとね」
やきもちをやいているのか、ただの知りたい気持ちが先行していたのか分からずに、そう答えることしかできなかった。
昼休み、彼女を教えるといわれ、教室を連れ出された。彼女が向かったのは一年の教室ではなく、図書館のある方角だった。
「一年の教室じゃないの?」
「あの子は毎日図書館にいるから。そのときに見かけたの」
図書館には思ったより多くの人がいた。まだそれらしい姿はない。適当な本を物色しながら、彼女が来るのを待つことにした。
わたしは適当な本を手にする。三ページほど眺めたとき、あいがわたしの腕を引っ張る。わたしは本を置くと、棚の端まで行く。奥には本を閲覧するための机と椅子が並んでいた。その中に髪の毛の長い少女の姿があった。彼女だと一目見て分かる。
「あの子だよ」
ささやいたあいの言葉にうなずき、彼女の座っている机のそばを通り過ぎる。彼女は拳ほどの分厚さのある本を食い入るようにみていた。だが、まず彼女の容姿に引き寄せられていた。彼女はそれくらい目を引く、可愛い子だった。
長い睫毛に、ふっくらとした赤い唇。少し興奮しているのか頬はほんのりと赤く染まっている。濡れているような輝く優しい瞳をし、外国の人形の洋服を着せても似合いそうなほどだった。派手な顔でもないのに、頬の輪郭や、鼻のライン、唇のラインも全てが狂いないと思わせるほどだった。眉をひそめたり、目を細めたり、そんな些細な仕草の一つずつが絵になっている。
彼女は見ていたのは両手で抱えるほどの植物図鑑で、おもちゃを見つめるように楽しそうにそれを見つめている。
「可愛いよね。少し変わっているけど」
宮野君は彼女に対し恋愛感情はないと言っていた。二人がどういった関係なのか全く分からなかったのだ。
図書館から人気が引いていく。もうじき昼休みも終わるのだろう。
ののかも本を奥の棚に戻すと、軽い足取りで図書館から出て行ってしまった。
わたし達も教室に戻ることになった。
ののかという少女を見てただ一つ自覚したのは、わたしには遠く及ばないほどの美少女だったということだった。