名前で呼ばれた朝
家を出てすぐの場所にある交差点の前に宮野君の姿を発見した。
わたしは足を止め、胸に手を当て意図的に呼吸を整える。
宮野君の「彼女」になって二日目の朝。
彼と一緒に学校に行くと思うと寝付けずに、朝起きるとすでに待ち合わせ時刻になっていたのだ。
眠気もうせた頭で彼に電話をしたが、彼は待ち合わせ場所にいるらしく慌てて家を飛び出した。髪の毛をセットするどころか寝癖だけを確認して飛び出してきたような状態だった。
やっと呼吸がおさまってきて、今なら宮野君に普通に声をかけられる……そう思ったとき、彼がわたしのいるほ方向をちらりと見て、目をそらした。
まるでわたしが様子を伺っていたみたいだ。
タイミングが悪すぎる。
わたしは泣きたい気持ちになりながら、彼のそばまで行く。
「ごめんなさい」
「遅刻すると言ったわりには随分余裕だな」
目を細め、さらっと嫌味を言ってくる。
もっと心の余裕をもって彼に会いたかったが、そういうわけにもいかなかった。
「昨日も遅刻だったんだよね。連日遅刻するなら、君にはあらかじめ早めの時刻を伝えたほうがいいみたいだね」
「時間が早すぎなんですよ」
意味ありげに笑う彼の言葉に拳を握り反論する。
彼が指定した時刻はわたしが普段学校に行く時間よりも十五分も前だった。そのためか、同じ学校の生徒もあまり見当たらない。
「遅刻するよりはいいかと思ったんだけど。君の両親から聞いたけど、君ってかなり朝が弱いらしいね」
彼は笑顔で、わたしの一番堪えるところをついてくる。
というか、わたしの両親はなんてことを宮野君に言ってしまったのだろう。
「早く眠ればいいのに」
「いつもは十一時前には眠っていますよ」
いつもはというのは昨日は違ったためだ。
宮野君の連絡先を手にしたわたしは、それを無意味に何度も見てしまい、なんだか寝付けなかったのだ。
最後に時計を見たときには十二時を回っていた気がする。
嫌味に満ちた瞳が、柔らかくなるのに気付いた。
「遅刻するのは困りものだけど、健康的でいいんじゃない? 行こうか。優菜」
その言葉が何度も脳内でリピートされていた。
「突っ立ってどうかした?」
「名前」
「武井さんのほうがいいならそう呼ぶけど」
わたしは首を横に振る。
思わず顔がにやけてしまいそうになる。
「俺のことは渉でいいよ。そっちのほうがらしいだろう?」
「わ、渉?」
口にしただけで顔が火照ってくる。
「言えません。無理です」
「さっき言ったのに?」
「無理です」
「変なの。別に強制はしないよ。行こうか」
彼はあまり気にしたそぶりもなく歩き出す。
名前で呼んでみたいが、やっぱり無理そうだ。
上ずったりしたら、また宮野君にからかわれてしまう。
ためらいながら彼の後をついていくと、彼がちらっとわたしを見る。
「手をつなぎたいならつないでやってもいいよ」
「そんなことありません」
思わず彼の手を見て反論したことで、数秒間が空いていた。
彼はそんなわたしを見て笑い出す。
きっと彼はわたしの反応を見て面白がっているのだろうか。
「君って面白いくらい顔に出るね」
「宮野君が変なことを言うからです」
「君の反応が面白くて、つい言いたくなるんだよ」
「意地悪」
わたしが頬を膨らませると、宮野君はまた笑っていた。
面白がっているという気持ちが確信に変わった時、彼の足が止まる。
目の前の信号が赤信号になり、車が目の前の横断歩道を遮っていた。
横目で宮野君を見ると、彼は無表情で車の流れを見送っている。
こうしてみるとやっぱりかっこいいな。
宮野君には子ども扱いしかされていない気もするし、微妙な扱いをされているけれど。
そのとき、笑い声が遠くから聞こえてきた。同じ学校の生徒だが、見たことはない。
学校の近くに来たからか、わたしたちがゆっくり歩ていたのと、学校の近くに来たのも重なり、同じ学校の生徒を見かけるような時間帯になってたのだろう。
「そういえば、起きてすぐに来たんだよね」
「そうですよ」
「朝食は?」
「今朝は食べてません」
「好きな食べ物は?」
話が飛躍したのを不思議に思いながら、思いついた食べ物の名前を口にする。
「カレーとか?」
口にしてもっとケーキとかパフェとか可愛いものを言えばよかったと後悔する。
それに朝からカレーはいくら好きでも胸焼けしそうだ。
「軽食で。パンとか」
彼の真意の見えない言葉に首をかしげながらも答えることにした。
「好きなパンならチョココロネとか、アンパンとか。サンドイッチとか」
さっきのカレーよりは可愛い商品を並べられたことにほっとする。
そのとき、信号が青に変わり、彼は何も言わずに歩き出す。
ただの思いつきで何かを言う人なのか、彼の本意がさっぱり読めないでいた。
その信号が色を変えた数分の間に、信号近辺に人だかりができる。そして、同時にいくつもの視線がわたしたちに向いているのに気付く。興味本位でわたしを指差してくる人間も少なからずいた。信号を渡ると、向かい側の歩道を歩いていた生徒と目が合ってしまった。
その理由は宮野君と一緒だからだろう。
わたしはあまり人の視線を集めることに慣れていないため過剰に反応するが、宮野君は気にした素振りも見せない。これが普段から人の注目を集めているか、否かの差なのだろうか。
今までペースを崩さず歩き続けていた彼の足取りが木製の看板を掲げたパン屋の前で止まる。
「入るけどいい?」
淡いオレンジ色の光を放つ店内にはちらほらとわたしの学校の生徒がいた。
「お昼はパンなんですか?」
彼は曖昧に返事をすると、店の中に入っていく。高い鐘の音が静かな町並みに響いていた。
彼は自動扉の前にあるオレンジ色のプレートとステンレス製のトングを取る。彼の両手がふさがってしまったことに気付き、躊躇しながらも声をかける。
「よかったら鞄を持ちましょうか?」
無言で荷物を渡され、鞄を抱きかかえるようにしてつかんだ。
辞書でも入っているのか意外とずっしりしている。
彼は店内を見渡すと、チョココロネとか、アンパンをプレートの中に入れる。宮野君もこのパンが好きなんだろうか。
会計を済ませると白の半透明のビニール袋を手にわたしのところに戻ってくる。わたしから鞄をうけとると、店の外に出てしまっていた。
慌てて彼の後を追ったわたしの前にビニール袋が差し出された。
「やるよ」
反射的に差し出されたものを受け取る。彼が渡したビニール袋は彼がさっきお店で購入していたパンだったのだ。
「やるって。宮野君のお昼ごはんなのに」
「いつも学食だし」
そのとき、彼の行動の意味に気付いた。わたしが朝ごはんをたべなかったと言ったから買ってくれたのだろう。悪いという気持ちはあったが、彼の好意を受け取りたくて拒むことはしなかった。
「ありがとうございます。お金は払いますから」
「別にいいよ。これくらい。そんなことよりさすがに急いだほうがよさそうだよ」
彼に促され、辺りを見ると、わたしと同じ制服を着た子が心なしか足早に歩いていた。
時刻を見ると、いつも学校に行く時間とたいして変わらない。
要は遅刻の時間が目前に迫っていたということだ。
わたしは少し前に歩き出した彼の後を追うことにした。
ホームルームを終え、目の前のパンに灰色の影がかかる。顔をあげると、あいが苦笑いを浮かべていた。
「おなか空いたなら食べたら?」
「おなかはすいたけど」
さっきから何度も食べようと思いながらも実行に移すことができなかったのだ。
「早く食べないと先生が来ちゃうよ」
「分かっているんだけど」
「仕方ないな」
あいは袋に手を突っ込むと、パンを取り出した。
「優菜は本当にこのパンが好きだね」
彼が買ってくれたのはチョココロネとアンパンだった。
サンドイッチは品切れだったので、この二つを買ってくれたのだろう。
彼女はセロハンテープをはがすと、わたしに渡す。
宮野君からもらったと一言いえば、彼女の行動は変わっていたんだろうか。
そんなことを考えながら、一口食べる。
宮野君が買ってくれたからか、いつもよりおいしいと感じていた。
「そういえば、今朝、宮野君と一緒だったんだってね」
あいの言葉に思わずパンを喉に詰まらせそうになる。
メールで伝えきる自信がなく、まだ彼女には「彼女」の話さえも伝えていなかったのだ。
「いろいろと事情があって」
「後でゆっくり聞かせてよ」
彼女の興味本位な視線を覚えながら、パンの続きを食べることにした。いつも自分で買うのと同じパンのはずなのにいつもよりおいしく感じていた。