宮野君の彼女
まばゆいばかりの太陽の日差しがおきて一時間とも経たないまぶたを叩く。あまり朝が強くないわたしにはなれた状況ではあったが、今日の瞼は一際重かった。その理由はすぐに分かる。
重たい気持ちを抱え髪の毛を耳にかけたとき、背後から軽く突かれた。反動で足がよろける。
「ごめん。大丈夫?」
体を立て直したわたしの脇からショートカットの少女が目を輝かせながら覗き込む。友人の永坂あいだ。
「大丈夫」
「昨日、そのお世話になる人に会いに行ったんだよね。どんな人だったの?」
「宮野君に会った」
「帰りがけに?」
わたしは首を横に振る。
「宮野君のお父さんだったの。その相手の人」
口を大きくあけたあいを目でけん制し、右手の人差し指を口元に当てる。
「よかったじゃない。仲良くとかなった?」
昨日の明らかに引いていた宮野君の姿を思い出し、首を横に振る。
「何かやらかしたんだ?」
学校に行きながら彼女に昨日のあらましを一通り話した。
「そんなこと?」
「そんなって、宮野君とは初対面だし、変に思われたくないじゃない」
「好きな相手だから?」
「違うの。憧れだけなの」
からかいの色を見せた友人に対し強く説得しようとしたとき、あいの動きが止まる。彼女はわたしの後方を指さしていた。
その指の先を追い、思わず身を仰け反らせる。
紺のブレザーを着た宮野君が立っていたのだ。彼はわたしと目が合うと、優しく微笑む。
濃紺のネクタイを緩めているが、決してだらしなく見えることもなくそれが逆に決まっているように見えたのだ。
「おはよう」
「おはようございます」
彼と目を合わせられずに手元の鞄をじっと見る。
「そちらの方は?」
上目使いに確認した宮野君の視線があいを見ているのに気づく。
「わたしの友達で、永坂あいさんです」
あいは頭を下げる。
「そっか。じゃあまたね」
彼は道の端にそれると、知り合いなのか近くにいた男子生徒に話しかけていた。
「またねだって」
「言葉のあやだよ。ただの」
そう強く主張しながらも、彼の言葉を思い出し、気持ちが弾むのが分かった。
◇◇
わたしは思わずあくびが出てきそうになり、あくびをかみ殺す。そのたびに目が潤み、視界はにじんでいた。
前の席のあいは振り返ると、あきれたようにわたしを見ている。
「本当に一人暮らしなんてできるの?」
「明日から頑張るよ」
昨日、親が家を出た。そこまでは何も問題がなく、親の作っておいてくれたカレーを食し、早めに寝たのだ。だが、起きて時計を見た瞬間、そんな余裕も吹き飛んでいた。起きた頃にはもう補習どころかホームルームの寸前の時間になっていたのだ。
制服に着替え、家を飛び出す形で出てきたのだ。ホームルームの終了後に教室に入り、まだ残っていた担任の南原に軽く嫌味まで言われていた。
「毎朝、お母さんに起こしてもらえば?」
「明日は大丈夫だよ」
そう口にするが、口からあくびが漏れる。
「本当によく眠るよね」
「眠いんだもん」
夜更かしをしているわけではないが、あまり睡眠を削るということができない。徹夜などわたしにとって理解の範疇を超えていた。
「毎朝、起こしてあげようか?」
「いいよ。悪いし」
そんな子供みたいなことを親友には頼めないと思ったのだ。
「明日はがんばらないとね」
あいの言葉に力なくうなずく。
「そういえば、今朝、宮野君に会ったの」
「そうなの?」
「優菜に用事があったみたいで、放課後あの帰り道にある公園に連れて行くと約束したの」
さらりと流されたセリフを聞き、眉をひそめた。
「誰と会うの?」
「宮野君に優菜が会うの」
思わず椅子を引きずり、後退する。
「無理だよ」
「嫌ならわたしが代わりに行って断るけど、仲良くなれるチャンスだと思うな」
親友の甘い誘いの言葉に窓ガラスに映った自分の姿を確認する。前髪ははね、毛先は四方八方に飛んでいた。クラスメイトに見られるくらいなら気にならないものも、宮野君に見られるとなると別問題だった。
「髪の毛なら結べば大丈夫だよ。寝癖が残ってたら放課後にでも治してあげる」
「お願いします」
彼女は鞄からポーチを取り出し、木製の櫛を取り出す。わたしの背後に回ると、乱れた髪の毛に櫛を落とす。時折、引くような痛みが皮膚を刺激していく。
彼女は手際よく髪の毛を一つにまとめてくれた。
「器用だよね」
「慣れだよ。昔はわたしも髪の毛が長かったもん。放課後にきちんとしてあげる」
放課後、彼女は言葉通りにわたしの髪の毛の寝癖を手際よくなおしてくれた。
あいと彼と待ち合わせをしている公園まで一緒に行く。だが、入口付近で優菜の足が自然と止まる。すらっとした男性の姿を確認したからだ。
「じゃあね」
そう言って立ち去ろうとしたあいの手をつかんでいた。
「待って。一人にしないで」
「もう目の前にいるじゃない。用事は何ですか?とでも軽く聞けばいいんだよ」
そう軽く言ったあいの言葉に小さくうなずくと、彼女はわたしの頭をなでる。
「分かった。ついていくだけだよ」
先導してくれるあいの陰に隠れるようにして、宮野君のいるところまで行くことにした。
宮野君は足音が聞こえたのか、距離を半分ほど詰めたときに顔をあげた。満面の笑みを浮かべると、わたし達の元に歩み寄ってくる。びくつくわたしの腕をつかむ。
「じゃあ、借りていくから」
彼はあいにだけそう断りを入れると、わたしの手を引き歩いていく。
宮野君に引きずられながら振り返ると、あいはこちらに小さく手を振っていた。
すでに二人の間で話はついているということなんだろうか。
理解できずに、何度も深呼吸し、彼の背中に話しかける。
「あの、宮野さん?」
君と呼んでもよかったが、おこがましい気がしたのだ。
一定のテンポで地面を蹴っていた彼の足が止まり、振り返るとわたしを選別するように眺めていた。
「悪くはないか」
「何がですか?」
「俺の彼女にするには合格かな、と」
彼の言葉の意味が分からなかった。彼女というと、一般的に考えて恋人同士ということだろう。だが、彼と今まで知り合ったこともなく、話したこともない。電話番号も知らないし、友達でもなかったのだ。そこで一つの結論にたどりつく。
「冗談?」
「本気」
宮野君に対して憧れていたが、それが恋心に直結するかと言われると即答は難しい。
彼の淡々とした表情はわたしの頭を混乱させていく。
「だってわたし達は会って間もないし。全然知らないし」
そう口先では否定しながらも、宮野君に告白されたかもしれない。
どうしよう。
そう思いながらも、答えは半分くらい決まっていた。
だが、予想外の言葉がわたしに届いたのだ。
「別に彼女って言っても振りだから、難しく考えなくていいよ」
「振りなんですね」
と納得しかかったり、思わず眉をひそめた。
「告白じゃないの?」
「そう期待していた?」
彼が顔を寄せてきたことで、思わず体を仰け反らせる。
「そんなことないです。それに振りなんて無理ですよ。わたしにそんなことできない」
「俺が決めたんだから、決定」
「嫌だって言ったら?」
「別にいいけど、君のことを周りに彼女と言ってしまったら、そんなことを言い出しても無駄だってわかるよね」
その横暴な言葉に言葉を失っていた。
今までわたしの中の彼のイメージは寡黙で知的な人だった。だが、そうひょうひょうと告げた彼は今まで知っている宮野渉ではなく、今まで見たことのない彼がそこにいるとしか思えてならなかったのだ。
「何か問題がある? 別に彼氏がいるわけじゃないんだろうし」
「なんで知っているんですか?」
「勘」
澄ました笑みを浮かべる彼を見ていると、遠くで見ていたころを思い出し臆してしまっていた。
「わたしには無理ですよ」
「俺が決めたんだから無理じゃない」
「彼氏がいたことないから、彼女の気持ちなんて分からないし」
「そんな人によって違うことを延々と考えるのは時間の無駄だと思わない?」
わたしが何か言えば拒否の言葉をかたっぱしから反論していく。次第に拒否する言葉も思い浮かばなくなり、黙ってしまっていた。
「その代わりできることなら頼みを聞いてやるよ。買い物につきあってもいいし、買い出しとかでも近場なら行くよ」
その言葉に彼を見る。
「デートとかもしてくれるってこと?」
「そういうこと」
「携帯の番号も教えてくれるの?」
「そっちのほうが便利だろうから教えるよ。何なら今すぐでも教えようか?」
笑みを浮かべた彼の姿にぐらりと心が揺れていた。今まで遠かった宮野君が近くにいるのを実感したのだ。
だが、その誘惑の言葉を受け入れていいのか分からなかった。
「せめて理由を聞かせてください」
「告白とかされると、ためしにつきあってと言われるのが面倒なんだよ。その点『彼女』がいたら話も早い」
彼から帰ってきたのは魅惑的な返事でも、心を躍らせるものでもなかったのだ。彼に対する憧れの気持ちがその言葉に必要以上に反発していた。
「呆れた。そのためだけに人を彼女に仕立て上げようとしているんですか? あなたに告白してくる子は真剣にあなたのことが好きで告白してくる子がほとんどなのに」
「君の言う意味も分かるけど、要は考えようじゃない? 好きになれない子に変な期待を持たせるほうが残酷だと思うよ」
「でも、その中に好きになれる子もいるかもしれない。そんな片っ端から否定しなくてもいいじゃないですか」
「そのときはそのときだと思わない?」
この関係を終わらせればいいと言いたいんだろう。
彼ならわたしに頼まなくとも、その話に乗ってくれる人もいるはずだ。
なぜ、わたしにその話を持ちかけてくるのか分からなかった。
「どうしてわたしなんですか?」
「君が気に入ったから。それだけだよ」
そう淡々と語る。そういった彼の本心は見えないままだ。
だが、宮野君とデートできるなら悪くないかもしれない。
「決まりだな」
彼の言葉に小さくうなずく。
わたしの体に影がかかり、大きな手が差し出される。
彼はさっきまでの自信に満ちた笑みとは程遠いような優しい表情を浮かべていた。憧れていた彼の笑顔に否応なしに胸の鼓動が速くなる。
「家まで鞄を持つよ」
「自分で持てますよ」
「一応、『彼氏』だから」
その言葉が嬉しくて、彼に鞄を渡した。
「明日の朝、コンビニ前の信号だから遅れるなよ」
「朝?」
「一緒に学校に行こうという誘い」
その言葉に口元がほころぶ。だが、まだ新しい今朝の記憶がわたしを現実に引き戻した。
「朝は起きれないかも。朝が弱くて」
「何なら家まで行って起こしてあげてもいいよ。俺の家には万が一のときにということで君の家の鍵があるから」
「やめてください」
わたしは思わず後退する。
宮野君に寝起きの姿は見られたくない。
「冗談だって」
彼は笑うが、どこまで冗談なのか本気なのか分からなかった。
好きでもないのに付き合うなんてどうかしているのは分かっていた。
それでも、宮野君の彼女という言葉はわたしにとって何よりも甘い響きだったのだ。