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宮野君を家に連れてきた日

 見慣れた一軒家までたどり着く。彼はわたしを一別すると別れの言葉を告げ、そのまま去っていこうとした。彼の後ろ姿を遮るように、一筋の雨が横切っていく。


 宮野君は足を止め天を仰いでいた。足を早めようとした彼を呼び止める。

 意外そうな顔をした彼の表情に戸惑いながら、勇気を振り絞り声をかける。


「家で雨宿りしない?」


 彼は顔をしかめ、わたしを見ていた。

 そう口にしたのは宮野君のことをもっと知りたいという気持ちが残っていたからだ。

 失礼なことを言ってしまったかもしれないと思ったとき、彼の表情が優しくなる。


「そうさせてもらおうかな。本降りになったら困るし」


 そう苦笑いを浮かべる彼を、玄関の鍵を開け家の中に招き入れる。彼がドアを閉めると一気に雨音が遮断され、近くで聞こえていた音が遠くなる。室内に二人きりでいるのだということを強く自覚する。


 だが、わたしと宮野君の間にそうそう何かあるわけじゃない。今朝はキスされたけど……。冷静になるように言い聞かせ、靴を脱ぐとスリッパを履く。宮野君にもブルーのスリッパを出していた。彼はお礼を言うと、それを履く。


 彼を家にあげたのはいいが、どこに案内するか迷っていた。客間というのも何かおかしい気がしたが、部屋にあげる勇気はない。結局、リビングに案内することにした。


 親が出て行って二週間あまり。毎日学校との往復で、リビングに入るのは食事の時だけだったので、食器を洗う以外掃除はしていない。電気をつけると、彼を呼び寄せた。


 宮野君には二人がけのソファに座っていてもらい、閉めっぱなしになっていた雨戸を開けることにした。木製のつかえを外すと、窓を横に引く。


 木製の扉が灰色の世界に取って代わる。締め切っているよりはわずかな光が入ってくるからか、心なしか明るい。換気のために窓を拳ほど開けておき、彼に出す飲み物の準備をしようとした。


「学校に行くときも、雨戸締めているんだ」


 二週間締め切ったままだということを見透かされているような気がして、顔が赤くなるのが分かった。


「締めるというか、開けてないというか」


 その言葉で彼は気付いたのか、苦笑いを浮かべた。


「たまには換気くらいはしたほうがいいけど、しめ忘れるよりはいいかもね。 女の子の一人暮らしだし、戸締まりは気をつけたほうがいいと思うよ。ただ、閉めっぱなしだと、逆に泥棒が入りやすくなるかも」

「戸締りはできるだけ気をつけているよ。家に帰ったらすぐに戸締りするもの。でも、普段あけておいたほうがいいかな」

「その辺りは難しいけど、開けられるときはあけておいたほうがいいかもね。土日とか」

「そうする」


 わたしがそう返事をすると、宮野君が微笑んだ。


「困ったことがあればいつでも言ってくれればいいよ」

「ありがとう」


 それがただ単に取り繕った言葉であっても嬉しいことには変わりない。


「飲み物はコーヒーでいい?」


 彼の笑顔を受け、手を洗っていなかったことを思い出し洗面所で手を洗う。鏡に映る姿に水滴がついているのに気付きタオルで髪の毛を軽く拭った。宮野君のタオルを手にリビングに戻ってくるが、彼の姿を視界に収め、わたしはそんなことを忘れてしまったかのように、その場に突っ立っていた。ソファにもたれかかり外を眺める彼の姿は絵になっていたのだ。


 彼が不意にわたしを見て微笑んだ。


「見惚れていたわけ?」

「まさか。タオルを持ってきただけだから」


 わたしは彼の膝元にタオルを置くと、コーヒーを作ることにした。

 だが、内心は宮野君の姿やセリフに不意打ちのように胸を高鳴らせていた。



 空気の抜ける音が聞こえ、オレンジの電源ボタンを消す。戸棚からまだほとんど使っていない白いカップを取り出すと、コーヒーを注ぐ。それをテーブルの上に置く。


「どうぞ」

「ありがとう」


 彼はそれをすっと持ち上げると、口をつけていた。

 彼の斜め向かいに座ると、自分の分のコーヒーを飲む。その香りを口に含みはき出したとき、前方から視線を感じる。


「髪の毛に何かついているよ」


 手当たり次第に髪の毛を触るが、宮野君は眉をひそめたままだった。

 彼は身を乗り出し、わたしの髪の毛についているものをつかみ、わたしに渡す。さっきのタオルが原因のような気がしたが、まず彼にお礼を言おうとしたとき彼の顔と拳二つ分しか離れていないのに気づき、思わず顔を背けていた。


「ものすごく警戒されている?」

「当たり前です。キスされたんだから」

「そんな男を家にあげる君も十分不用心だと思うけど」


 わたしが思わず身構えると、宮野君は冗談だと笑っていた。


「君がするなというならしないよ」


 宮野君自体はどう思っているんだろう。

 彼の本心はよくわからないままだ。


 思わずじっと彼を見ていると宮野君が微笑んだ。


「してほしい?」

「そんなことない」

「そういうと思った」


 彼はそう言うと笑っていた。

 その言葉が少し引っかかる。

 彼はわたしが彼をどう思っていると考えているんだろう。

 嫌いじゃないとは思う。


 わたしの迷いに気付いた様子もなく、宮野君は言葉を綴る。


「理数系なんだよね? 数学のテキストを貸して」


 わたしは言われたとおりテキストを差し出す。


「どこまで進んでいる?」


 わたしは今日習ったところまでを彼に教えた。

 彼は同じように物理や化学なども確認していく。


「宮野君の学校はその辺りまで進んでいるの?」

「この前終わったよ」


 きっと彼に勉強を教えてもらえば、もっとこうした時間を一緒に過ごせるのだろうか。

 勉強をするのは悪くないはずだ。


「勉強しようかな。一緒に」

「じゃあ、今週の日曜辺りから始めるか。そっちの学校の傾向は分からないけど、分からないところは教えられると思うよ」


 わたしはお礼の言葉を彼に伝えた。



 宮野君のカップが空になった頃、光が差し込んできた。彼は外の世界を一瞥すると立ち上がる。


「帰るよ」


 靴を履いていた彼が思い出したように顔を上げる。


「言い忘れていたけど、たまにはごはんを食べにきたらいいよ。母さんからの伝言」

「今度の日曜日に一緒に勉強するなら、ごちそうになっていいかな」

「分かった。伝えておく。あと、何かあったら本当に言えよ。いつでも力になるから」


 さっきの言葉はその場を取り繕ったものではなかったんだ。

 わたしは嬉しくなって、何度も頷いた。


 家の外まで送ろうとすると、彼は気にしなくていいということと、戸締りをするように言い残し、帰って行った。





 寝る前、枕元に置いていた鏡に手を伸ばす。そして、自分の唇をゆっくりとなぞる。

 初めてのキスで、ただ混乱して感触なども正直よくわからなかった。

 どうして宮野君はわたしにキスをしたのだろう。

 誰にもするわけではないと言っていたんだから、誰でもよかったわけじゃないだろう。


 思い出すたびに頬が火照っていく。このままでは眠れなくなると思い、なんとか気持ちを落ち着けるために布団をかぶることにした。




 黒のボタンを押すと、自販機がうなり声をあげる。落下音が響き、プラスチックケースを右手の甲で奥に押し、紙製のパックをつかむ。それを手に教室の戻ろうとしたとき、目の前を小走りに女の子が駆け抜けていく。


「ののかちゃん?」


 彼女は長い髪の毛を震わせ、振り返る。あどけない瞳が一気に見開かれ、顔も赤くなってしまっていた。彼女は酸素を求めるかのように口をぱくぱくさせていた。


 昨日の今日で名前で呼んでしまったのに気付く。

 宮野君がののかと呼び捨てにしていたから、それが移ってしまったんだろうか。


「急に名前で呼んでごめんね」

「それはいいんです。急に話しかけられてびっくりして」


「昨日、挨拶がほとんどできなくてごめんね。わたし、武井優菜って言います」


 勢いよく頭を下げたののかちゃんの髪の毛がわたしに触れる。

 本当に彼女の髪の毛はびっくりするくらいさらさらだ。


「わたし、はっ。ごめんなさい」

「里崎ののかちゃんだよね。宮野君から聞いた」


 彼女は何度もうなずいていた。


「渉と知り合いなんですか?」


 彼女というべきなのか、友達というべきか分からないが、無難な答えを口にする。


「一応、彼女かな」

「えっ。噂では彼氏ができたとは聞いていたけど、渉だったんですか?」


 彼女はわたしを食い入るように見つめていた。


「そうだよ」

「渉なんてやめたほうがいいですよ。でも、先輩が好きなら仕方ないけど」

「どうかしたの?」

「渉は意地悪だもん。先輩にも意地悪なことを言うかもしれない」


 彼女は何かを思い出したのか、頬を膨らませて怒っていた。

 彼女の言葉に感じるものはある。


「いじめられたらわたしに言ってくださいね。仕返ししますから」


 真剣にそう口にする彼女をほほえましく思いながらも、昨日彼女に嫉妬をしてしまったことに対して申し訳ない気持ちがわいてきた。

 わたしが黙っていたためか、ののかちゃんが目を潤ませ、胸元で拳を握る。


「わたし、変なこといっちゃったかな。だったらごめんなさい」

「そんなことないよ。ありがとう」


 自分の嫌な気持ちを忘れるためにできるだけ笑顔でそう告げた。



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