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あこがれの人

 ブラウンのほんの少し色あせた観のある外壁の広がる傍にはこの辺りには珍しく背丈の高い木が壁に沿うように息づいている。


 わたしは手を頭に当てると髪の毛を何度も整えた。門越しに見える家を視野に納め、何度も深呼吸をした。だが、整えた鼓動も表札を確認したとたん、一気に乱れだす。


 今まで彼の家を知るどころか、近くによったこともない。その彼の家にほんの数歩踏み出せば入ることができる。


 そんな状況になったのは一ヶ月前に決まった親の転勤が原因だった。

 高校二年という中途半端な時期だったこともあり、ついていくかどうかの話し合いがおこなわれた。


 志望校が地元の国立大学だったこと、今更学校を変わるのが大変ではないかということ、それに加えわたしが大学二年になる頃には戻ってこれるのではないかという条件が重なり、結論として一人でこの地に残ることになった。


 小さい頃から親の手伝いを当たり前にしていたわたしにとって、家事はたいした問題ではない。一人暮らしといっても仕送りさえもらえるなら暮らしていけないこともないと思ったのだ。


 親は不安に思う気持ちがあったのか何かあったときは近所に住む知り合いに頼るようにと言ってきた。相手はそのことを快諾し、顔を合わせておくだけでもということになったのだ。


 何かあったときに大人の存在は力強いし、友達の家族に頼るよりは親の知人を頼ったほうが気楽だったことから、その話を受け入れていた。父親の物腰の柔らかい性格から似たようなタイプの人だろうと漠然と想像をしていた。


 何気なくその人のことを聞いてみたのが今朝のこと。


 起きたばかりでボーっとする頭をはっきりさせるためのコーヒーを口に運び、寝癖の残る髪の毛を整えながら親にたずねたのだ。


「その人はどんな人なの?」


 父親の武井信明は湯気の少ないコーヒーを口元に運び、はっきりとした二重の目を細め笑みを浮かべる。


「大学の古い友人だよ。息子さんがお前の近くの高校に通っているらしいよ」

「偶然ってあるんだね」


 わたしの学校の近くには徒歩二十分以内なら高校だけで四校ほどある。その中の一つだろうとあまり物事を深く考えずに、彼の言葉を流し聞きしていたのだ。


「そう。その人の名前は宮野といって」


 その言葉を聴いた瞬間、心が乱れるのが分かった。

 冗長な話をしようとした父親の言葉の意味を確認する気持ちを込めて、思わず問いかける。


「宮野ってまさか宮野渉とかいう息子さんがいたりしないよね」


 多い苗字ではないが、そんな偶然あるわけない。

 期待と不安の入り混じった気持ちはあっさりと打ち砕かれる。


「そうそう。渉君と言ってすごく感じのいい子ですね。優菜に話をしたっけ?」


 否定の返事を返さなかった父親をにらむように見つめていた。

 当然のように彼はそんな娘を怪訝そうに見る。


「冗談だよね?」

「何が?」

「息子さんの名前が渉って」

「いや、本当のことだけど」


 娘の異変に気付いたのか、彼は心配そうに顔を覗き込む。


「知り合いなのか?」


 父親は遅い結論にやっとのことで達したようだった。


「知り合いじゃなくて、わたしが一方的に知っているだけで」


 本当に一方的に知っているだけの、遠くからたまに見かけるだけの関係だった。関係という言葉をつかうこともおこがましいほど。


「その人の家に、明日行くんだよね」

「その予定だけど、都合でも悪いのか」


 言葉にならない声をあげていた。部屋を飛び出し、自分の部屋に戻る。明日着ていく洋服を探しながら、昨日食べたお菓子の山を心から悔いていた。


 慌しい朝を過ごし、つい先ほど彼の家の前に到着した。

 父親は慌てふためく娘の様子を不思議そうに眺め、母親は何か感じるものがあったのか、あきれたような視線を送っていた。


 時折吹く強い風に髪の毛をまくし立てられないように注意をしながら、何度も深呼吸をした。

 父親のごつごつとした指がチャイムをはじくと、甲高い音が周囲に響く。ライトがつき、思わず身じろぎする。


「はい」


 どこかあどけなさの残る、それでいて低い声。その声はしつこいほど耳の奥に残り続ける。

 拳を作り、胸を叩くわたしをよそ目に父親が名乗ると、「待っていてください」との言葉を残し、インターフォンが途切れる。すぐに玄関が開き、一人の男性が外に出てきた。

 艶のある黒髪に、無表情でいると冷たい印象を与える瞳。それをより冷たく見せている長い睫毛。通った鼻筋。具体的にどこが整っているかということを言ってもきりがないくらいある。


 彼の視線が辺りを泳ぎ、わたしにたどり着く。その人を吸い寄せる力ある瞳に見つめられ、より胸を高鳴らせていた。

 わたしは挨拶もできないどころか、顔を直視しているのも辛くなり、頭だけを下げる。

 再び顔をあげたとき、目が合う。どうしようか迷っていると、彼はふっと目を細める。

 さっきまで冷たい印象を与えていた彼の周りの雰囲気が柔らかいものに変わるのが分かった。


「どうぞ」


 彼はそう優しい声色で告げると、家の中に入っていく。

 父親がまず先に入る。歩き出した母親の足取りはわたしのすぐ隣で止まる。


「すごく綺麗な子ね」


 わたしはその言葉に相槌を打つ。宮野渉は有名でわたしの通う高校でも彼の話を耳にしたことがあった。

 天は二物を与えずと言うが、彼に関しては欠点を何一つ与えなかったんだなと思っていた。

 温和で、誠実で、勉強も運動もできる。

 まさに申し分ないような人。

 少なくとも、このときはそう信じて疑わなかった。




 彼の家の玄関は三人が入っても窮屈さを与えない。

 彼は入り口付近にあるスリッパを三人分並べて会釈した。両親が家の中に上がるのを待ち、スリッパに足を通す。


 彼は大した反応もせずに、玄関の右手のドアを開ける。その部屋は殺風景な玄関とは対照的に絵画や皮のソファなどが並べられていた。

 彼はわたし達に座るように促すと、深々と頭をさげ出て行った。

 そこでやっと胸の辺りを圧迫していたものがほどけていくような気がした。


「疲れた」


 そう呻くと肩を落とした。

 わたしとは対照的に談笑している二人の気楽さが羨ましくもある。


 唐突に扉が開き男女が入ってくる。一人は背丈の高いからだつきのがっしりとした男性だった。その目は無表情でいると身じろぎしてしまうほどの鋭さがある。対照的に傍にいる女性はダークブラウンの髪の毛も相まってか優しい雰囲気を醸し出している。


 宮野衛さんは三人の座っているソファまで来ると、一礼した。彼と一緒に入ってきた女性はコーヒーを一つずつわたし達の前に並べていく。


 宮野君の母の宮野奈々さんが座るのを待ち、宮野君が口を開く。


「わざわざ来てもらって悪かったね」

「こちらこそ変なことを頼んで悪かった」


 わたしは目の前の二人の視線を感じ、軽く頭をさげた。

 そこから簡単な挨拶が行われる。二人はそのときも初対面のイメージを悪い意味で崩すことはない。宮野衛さんは穏かな話をしていく人で彼の姿に宮野君の少し先の未来の姿を見た気がし、直視をできないでいた。その意識をそらすためにコーヒーを飲むと、あっという間にカップが底をつく。そのとき、宝石のように澄んだ目をした奈々さんと目が合う。


「お代わりを入れてきましょうか?」

「大丈夫です」


 一人で飲み物を飲み干してしまった状況が気恥ずかしくなり顔を伏せる。


「気にしないで」


 拒み続けるのも悪い気がして、彼女の言葉に小さく頷く。

 彼女はすぐに新しいカップにコーヒーを入れて戻ってきた。


「ありがとうございます」

「いいのよ。作るのが大変なときはいつでもこの家に食べにきてね。食事は多いほうが楽しいから」


 クールな彼の家庭を覗き見た気がし、弾む気持ちを抑えながらカップに手を伸ばした。


 彼の両親と軽く言葉を交わし、そのまま家を後にする。少し離れた場所で足を止め、小さくなった宮野君の家を見つめた。

 不意打ちのような展開だったとはいえ彼ともう一度くらい会えるのではないかと期待していたが、そんな期待は泡となり消える。このまま現実に戻るのは少々歯がゆかった。


「優菜?」


 不思議そうに呼んだ母親の言葉に青く澄んだ空を仰ぎ、ゆっくりと息を吐いた。


「わたし、そのまま出かけてくるから」

「帰り道は分かる?」

「大丈夫。近くなら学校帰りに通ったこともあるの。分からなかったら電話するよ」


 心配する両親を説得し、その脇にある細い道に入った。


「この辺りに住んでいたんだ」


 だからといって彼の家の近くをうろつく気にはならずに、近くをぶらっとすることに決めた。

 辺りを見渡しながら歩いていくと、奥に家にしては飾り気のある建物が目に入る。何気なくそこまで行くと、ショーウインドウの奥には春らしいピンクの薄手のワンピースを着たマネキンが立っていた。だが、洋服だけを売っているのではないようで、その奥には籠やペンケース、蝋燭などの雑貨が並べられている。


「こんな店があったんだ。可愛い」


 商品に惹かれ店の中に入ろうとしたとき、背後に人の気配を感じた。そのガラスに映る人の姿を確認した途端、思わずガラスに背を当てるように後退する。


「今帰り? ご両親は?」

「さっき出てきて、別々に帰ろうということになったんです」


 言葉が不自然に波打つのを自覚しながら、彼の背後にある自転車に焦点を合わせていた。


「そういえば君の学校に」


 彼が何かを言いかけたことにびくりと肩を震わせ、彼を見る。だが、力強い目を直視してしまったことで、頭が真っ白になり喉が乾きを覚えていた。


 彼の目に驚きの色が映り、過剰に反応してしまったことに胃の奥が痛む。

 素直に親と一緒に帰らなかった自身を恨みたくなった。


「またね」


 彼は会釈をすると、わたしが歩いてきた道を歩いていく。

 振り返ることもしない彼の後姿が見えなくなったのを確認し、素直に家に帰ることにした。


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