9話
リコウにとって、領都までの旅は想像以上に神経をすり減らす最悪なものだった。
その最たる原因は、街の出口、カンランの用意させた二頭の馬の前で判明する。
『馬、乗レナイ』
凶手が漏らす驚愕の事実。
事態を理解したリコウは、祈るように天を仰いだ。
馬一頭に、二人の人間を載せて走ることを強要されてしまう。
早馬でも二日はかかる距離。
二人乗りであれば三日はかかる。
その間、殺し屋に背中を任せるなど、正気の沙汰ではない。
だが、それでもリコウは耐えた。
組織で、のし上がる輝かしい未来の為にと、自分を騙しながら。
三日目の夜に、領都を囲む高い外壁が見えてきた頃には、リコウの頬はこけ、幾分か体重も減ったかもしれない。
ろくに睡眠を取れなかったのは、旅が急ぎのものであったからなのか、それとも極度の緊張のためなのか。
疲労は人間を駄目にする。
最後には高い笑い声を上げながら、馬を走らせていたリコウを、気味の悪いものでも見るように、すれ違う人々が道を譲っていった。
領都には東西南北に出入口があり、リコウの住む港町から街道を通ってくると、北門に着くことになる。
カンランからの話では、街の外に部下を待機させているはずだ。
凶手と二人きりの状況から解放されたい。
リコウは馬をとめ、目を皿にして、仲間を探した。
そして北門から少し離れた先の街道の脇に、領都にいる組織の人間を発見する。
彼等に気付いたリコウは、馬の番をしていた凶手を置き去りにして、上機嫌で手を振り走り寄っていく。
睡眠不足で血走った目、同じく不眠のせいでよろめく足。
それでもなお笑顔でリコウは足を進める。
昇り始めの月明かりの下、うっすらと照らされるリコウの不健康な笑みは、子供ならば瞬く間に泣き出し、大人であっても踵を返し逃げ出すほどである。
たとえ太陽の下であっても、常識を持ち合わせている者ならば、狂人であると絶対に近寄りはしないだろう。
だから、領都の部下たちが、懐から護身用の短剣を出したのはやむを得ないことである。
そして、彼等の白刃の威嚇行為をまるで介さず、擦り寄ってきたリコウが刺されることなく、ナイフの柄で殴られただけですんだのは、むしろ幸運だったのかもしれない。
●
少しして、リコウは目を覚ました。
領都の部下たちの説明に、腫れた右頬をさすりながらリコウは耳を傾ける。
彼等の視線には、幾分か恐れが混じっていた。
話に聞いた凶手の評判の所為か、それは納得できるのだが、リコウが彼等を見た時にも居心地が悪そうに目を逸らすのはなぜなのか。
それと殴打を受けたような己の顔を少し不思議に思ったが、おそらく馬を走らせている途中に木の枝にでもぶつかったのだろうと、それ以上の関心は持たない。
愛想を笑いを返し、それにすら怯えたような彼等の説明を己の中で反芻する。
領都への潜入は大事を取って、横にある彼等の用意した馬車の中に隠れて行う。
緊急時であれば門を閉じ、片門に小さく開けられた入り口から一人ずつ検査し通していくなどの面倒くさいやりとりが行われる。
だが、戦時中でもない限り、一領都の警備など大したものではなく、目につくほどの怪しい者以外は開放されている門をほとんど素通りだ。
商人に偽装した彼等が何食わぬ顔で通り過ぎ、万が一、兵士に呼び止められても二重底になっている馬車の床にリコウ達は身を隠して凌ぐ。
警戒のしすぎに思えるが、これから城に忍び込むことを考えると、極力騒ぎは起こしたくない。
「で、リ、リコウさん、これが俺等が知っている限りの城の見取り図です。街の中央に位置する石壁に囲まれた領城。その城壁の内側、領主の部下たちが政務を行う本城の隣。警備隊宿舎の地下に牢屋部屋あります。その一番奥の牢を一人で独占しているのが、ゴンズさんです。凶手様は顔を合わせたことがないそうですが、屈強な男と覚えていれば問題ないでしょう」
懐から出した見取り図にはおおまかな町の通路、城の見取り図が書かれており、合流地点に目印が付けられていた。
男は手をやり、順をおって説明していく。
「城から脱獄出来たのなら、西門に向かってください。何、門番の一人にはもう金を握らせています。見知らぬ領民からの差し入れである睡眠薬入りの酒。それ仲間に振る舞って門番全員で酔いつぶれてくれる手筈になっておるんですわ。もし西門の奴らの何人かが酒に口を付けなかったとしても、今夜は城に警備が集まっているとかで手薄になってるそうです。俺達で襲撃をかければ問題ありやせん。それよりも凶手様の方は? いえ、失礼しやした」
説明に飽き、空に浮かび始めた星と星を指で結び遊んでいる凶手の態度を、絶対の自信からくる余裕と解釈したのか男はそれ以上の警告を止めた。
リコウの二、三の質問に応えた後に、彼等は凶手の方を窺うが、口を開くことがないとわかると馬車の入り口の布を上げる。
「さあ、もうそろそろ閉門の時間です。馬車にお乗りください。凶手様を大通りまでお送りしたら、俺達とリコウさんは西門のそばで待機することになりやす」
それぐらいならば失礼に当たらないと思ったのか、部下の男はお気をつけてと凶手に声をかける。
先に馬車に入る凶手の背を追いかけながら、この男であればこの難事も容易いものなのだろうとリコウは計画の成功を確信していた。
リコウ達を載せた馬車が、北門に向かって蹄の音を鳴らした。
●
領城内、本城で行われている、領主が開いた歓迎の晩餐の漏れた明かりが届く隊舎。
それすら届かない隊舎の裏側、地下へと続く階段の前に二人の男が並び立っていた。
一人は鉄の鎧に身を包み、緊張したように直立を保っている中年男で、隣に立つ己よりも二十以上若い軽鎧の少年に気を払っている。
それもそのはず、数カ所にへこみがある男の傷んだ鎧と比べ、たとえ軽鎧であっても王都の戦士団で支給されるそれとでは物が違う。
だからと言って戦士団の中では一番の若輩になる少年――モリスに男をどうこうする権利があるわけでもなく、只々、座りが悪いだけだった。
モリスは己の茶髪の先のくせ毛を弄りながら、ため息を吐く。
それをどう受け取ったのか、強張った顔でますます緊張する領都の兵士に、また息を漏らしそうになるがぐっと堪えた。
今頃、本城の広間で、今回の視察の責任者である副団長が、豪華な食事でもてなされているのであろう。
それを羨ましがるのは行き過ぎだが、せめて隊舎で領都兵に歓迎されている先輩団員達と肩を並べていたかった。
しかし、一番の新米であるモリスは、やれと言われれば頷くしかできない。
歓迎会のために足りなくなった領都の人手を率先して少年が埋めることになったのだ。
王都の戦士団に対して、領都の彼らが尻込みしてしまうのは理解できる。
それこそ、口がうまく、こういうことに慣れている古参の団員達は、今頃打ち解け、楽しく杯を酌み交わしている頃であろう。
だが、モリスはそういった大人の処世術よりも、剣の腕などの剛健さを求めた。
団員達も、戦士としてまず必要な物は戦う術であり、世辞の数など後から増やせばいいと、若輩を諭す者はいなかった。
結果、今この場でモリスは話術を実践し鍛える羽目になった。
上から物を言うには年齢が。へりくだるには立場が邪魔をし、最初の言葉が思い浮かばない。
とりあえず天気の話でもと思い、空を見上げ、先輩団員の教えを思い出す。
「なかなか鍛られてた肉体をしていますね。それにその髭も立派です」
「へ? あ、ありがとうございます」
唐突な褒め言葉に、礼を返し、その後、生理的に嫌悪した瞳をモリスに向け一歩遠ざかる。
先輩の教え通り、まずは外見を褒めることから、次は、声を讃えればいい。
なれぬ酒の席での助言を思い出しながら距離を縮めようとするのだが、モリスが足を踏み出すと、男は恐怖を浮かべ二歩下がる。
致命的な間違いに気づかぬままのモリスに、恋人がいるので勘弁して欲しいと男は懇願する。
噛み合わぬ会話に首をひねったモリスが彼の肩に手をかけた時、野太い男の悲鳴が上がった。
その叫声は領都兵のものではなく、ましてやモリスのものでもない。
次いで鈍い音が響いてきた。
二人して地下に続く階段を見る。
「はあー、またか」
男は嘆くようにため息をつく。
説明を求めるモリスに、ばつが悪そうに男は語ってくれた。
先ほどの悲鳴は、恐らく奥の牢屋にいる鉄頭のゴンズが世話係に上げさせたものである。
本来ならゴンズのような凶悪な罪人には一人部屋を用意するのだが、それを曲げて囚人の中から世話係を一人あてがっていた。
それが戯れに絞め殺されでもしたのだろうと、領兵は言う。
「これで三人目なんですがね。はあ、あんな奴、さっさと王都でもどこでも行っちまえばいいのに」
なぜわざわざ世話係など用意するのかと憤るモリスに、仕方がないと男は首を振った。
領都の兵士すらゴンズの仲間の報復を恐れ、言いなりになっているそうだ。
モリスは、たかだか街のゴロツキに過ぎない彼等を、領主がどうこうできないのかと疑問に思う。
それが彼にも伝わったのだろう、言葉を続ける。
「いいですか、確かに戦力で見れば俺達のほうが圧倒的に上です。奴らが領主の財産にでも手を付けようものならあっという間に解体できますよ。しかし、奴らは狡猾だ。あいつらは、領主や権力には近寄らず、俺達、一兵士やその家族を付け狙うんです。領都の戦士団は、領主を守るための盾であって、俺達やその家族をわざわざ守ってはくれないんです」
男は諦めたように愚痴をこぼす。
恐らく牢屋番の男も、家族を狙うと脅されて、この状況を黙認しているのだろう。
彼等にはこの領内での暮らしがあるのだ。
それを責めることは出来ない。
それに死罪を執行する処刑人も王都にしかいない。
だから、視察が終わり次第、戦士団はゴンズを連行して王都に帰るのだ。
「しかし一昨日入ったばかりの新入りも運が無いな。たかだか無銭飲食で命を落とすことになるなんて。って、どちらに行かれるんですか?」
恐らく悲鳴の主であろう食い逃げ犯に同情を寄せている男を無視し、モリスは牢に続く階段に向かう。
何をしようとしているのか思い当たったのだろう。
止めようとするが、それをモリスは手で制し、これ以上はついてくるなと相手を案じ、言葉を掛ける。
モリスが憧れた、物語の中の英雄達は、罪なき人々を決して見捨てたりはしなかった。
騎士の称号を欲する少年は、彼等を己の姿に重ね、足を進めていく。
モリスは正義を胸に、尊い命を守るべく巨悪に立ち向かう。
――実際、彼がしようとしているのは、剣で檻を叩き、警告の一つでも飛ばしてやろうという小さいもので、助けようとしている人間も決して無辜の民ではないのだが。
牢屋番に入る前に、先輩に勧められて引っ掛けた一杯が彼の心を大きくしていた。
そして牢屋部屋の扉を開き、気づく。
鍵がかかっていない。
階段を降りた先、扉の横に目をやれば、鍵束がかかっているであろう爪にはなにもない。
背筋に悪寒が走り、腰にある片手剣の柄に手をかける。
ただの閉め忘れであればいいが、鍵がなくなっているのではそうはいかない。
慎重に息を潜め、一番奥の牢をモリスは覗く。
――牢屋には三人の男がいた。
一人は枯れ木を思い起こさせる黒の外套の男が、牢の入り口に。
一人は長く伸びた髪に、整えられず伸びるままの髭の男が、部屋の奥に。
二人は対峙するように、立っている。
モリスには状況がわからない。
降りて来なかった領都兵の説明を思い出したモリスに、理解できたたった一つのこと。
――それは鉄頭の由来が鉄をも砕く禿頭のことであり、ならば床に白目をむいて転がっている中年の屈強な男こそがゴンズであるということだった。