4話
街の入り組んだ小道を、心なしか大股で歩く男が一人。
大通りの喧騒とは打って変わって、湿った空気が流れ、すれ違う人も殆ど無い。
男は人目を気にしながら、後方を何度も振り返る。
目を凝らしてみれば、もう一人、彼の背を追う様にゆったりと歩く、薄い印象の青年がいることに気づく。
前を行くのはリコウ。
彼は道案内をしている。
もう少し早足であったのならば、追い立てられ逃げる獲物にしか見えない。
足音を立てない凶手の不気味さに我慢しきれず、頼み、靴を鳴らして歩いてもらっている。
だが、彼の踏み出す靴音が地面に触れる瞬間に響かず、わざとらしく後からずれて音を出す。
凶手の足下に目を凝らしていたリコウは、己の眼に騙されたような気分に陥り、背筋に冷たいものが走る。
組織の応接間であった一悶着は、刃物を取り出した部下を、カンランが殴りつけ、謝罪することでどうにか収めた。
収めたのはいいが、その後すぐに凶手と二人きりにならなければいけない哀れな部下のことも少しは考えてくれまいか。
凶手が怒りを一欠片も見せないことが却って恐ろしい。
リコウは薄情なカンランに対する罵りを胸中に零さずにはいられない。
周りの建物が富裕層の住む大きく頑丈なものに変わる頃、不規則な足音でリコウの影によりそう凶手との道程も終わりを迎えた。
他の屋敷と比べ、一際高い塀と、狼の意匠が施された鉄製の門。
カンランの報復に対する備えとしてか、屋敷の出入り口には徴税請負人の手下である強面の男が並んでいる。
ニメール程度の長さの鉄棒を地面について睨みを効かせていた。
肩が剥き出しの服。
そこには大きな爪痕がくっきり残っている。カンランの組織のような街中で幅を利かせている人種と違い、外の獣などを相手にしている者達だ。
素手での殴り合いならばまだしも、命の遣り取りともなると、どうしても彼等の方に分がある。
リコウは気付かれないように、向かいの家の塀の角からそっと顔を出し様子を伺った。
「凶手様、あそこが徴税請負人の屋敷です。門番に立っているのは、奴が雇っている傭兵でしょうね。見取り図通りなら、入り口はあそこだけ、裏口の類はありやせん。――ん、なんだ、なんかもめてますぜ」
凶手とともに視線をそちらに戻せば、屋敷に入ろうとする老女を門番が引き止めている。
老女は使用人服をまとい、背には大きな箱を担いでいた。
「なんだい、あんた! あたしを通さないってのはどういう了見だい! 好みのうるさい新しい旦那様のために朝から市場を駆けまわって紅茶の茶葉やら、食材を買い集めてきた精勤なあたしの帰りを邪魔するってことがどういうことか、その身に叩き込んでやろうか、坊主!」
老メイドは憤懣やるかたないといった態度で、自分より二回りは大きい門番に詰め寄っている。
「悪いな、婆さん。今この屋敷は、旦那が取り締まったゴロツキどもの報復に備えて警戒中だ。だから怪しい奴は通すことが出来ないんだ」
言った言葉の割に、全く悪びれる様子もなく面倒くさそうに老メイドを追い払おうとする門番。
これにますます腹を立てた老メイドの金切り声は、離れた場所にいるリコウの耳にも不快な声量になっていく。
「あんた、今なんて言った! あたしが怪しいって言ったのかい! 先代、先々代と、この屋敷のメイドを務めてきた人間に向かって馬鹿言っているんじゃないよ! ちょっと尻を出しな、目上の者に対する口の聞き方ってやつを教育していやろうじゃないか!」
背中の箱からめん棒を取り出し振り回す老婆。
彼女の迫力にたじろいだのか、それともさすがに歳を召した女を力尽くで退けるのに抵抗があるのか、それは判らないが、門番は防戦一方で逃げ回っていた。
「大体、この家の使用人であるあたしをどうして門番が把握していないんだい。それこそ職務怠慢だろう」
「いや、ちょうど俺も今朝、この街についたばかりで、すぐに前の門番と交代したんだ。だから悪いが面通しが出来るまで婆さんには――」
「何を悠長なことを! 今、屋敷の中にいるのは尻の青いハンナだけなんだよ! これでもし新しい旦那様に粗相があったら、あんたが責任を取ってくれるのかい! ――ああ、これはいい考えだ。新しい旦那様は切れ者だって噂だからね。あんたみたいな融通の効かない人間が門番だってことを報告すりゃ、バッサリと給金を切り取ってくれることだろうさ」
老婆の言葉に心当たりがあったのか、男は顔を青くし腕を組んで考えこんでしまう。
情けなく唸る門番の姿を、楽しそうに眺めていたその折、リコウの目の間を横切る影があった。
「って、凶手様。いったいどちらへ?」
疑問に取り合わず、ゆっくりとした足取りで屋敷の入口に近づいていく。
なんでもない様子の凶手に、リコウは呆気にとられていた。
リコウは慌てて、彼の前に回り込み制止する。
『屋敷、掃除イク』
リコウは胆力をすり減らしながら、凶手に対峙する。
リコウの見立て。
おそらく凶手の人殺しに対する欲求が限界まで来たのだろう。
凶手を宥め、どうにか思いとどまらせようと言葉を続ける。
大体、こんな明るいうちに街中で殺しなど、正気の沙汰ではない。
専門家ではないリコウが言うのも何だが、暗殺というものは、夜の帳が下り、燭台に灯った火が揺らめいて、昼間の人の喧騒が置き去りにされた世界で静粛に行われるものだ。
それをまだ人気の少なくない今やるとなれば、一時的にとはいえ凶手を囲っているリコウの組織に飛び火することは間違いない。
面相を精一杯変化させ、大仰な身振り手振り。
リコウは、この場で騒ぎになれば意味が無いと説得にかかる。
『――静カニ、入ル、イイ?』
凶手の返す言葉に、やっと理解してくれたのかと、安堵し頷く。
――そう、静かにやるべきなのだ。
必要以下の言葉での意思の疎通は誤解を生みやすい。
胸を撫で下ろし凶手の方を見れば、リコウが伸ばした足の方向――下見の後の接待に使おうと思っていた酒場がある歓楽街とは逆方向へ。
つまり、今行くなといったばかりの徴税請負人の屋敷に向かい歩を進めていく。
慌てて、そしてそろそろ苛立ちが燻ぶるリコウは、眼前、不可思議な光景を見ることになる。
――凶手が一歩、踏み出すと、彼の足音が消える。
これは納得できる。これから忍び込もうというのだ、物音を立てるはずがない。
――二歩、踏み出す。するとどうだろう。
凶手が薄くなったような錯覚を覚える。別に彼がリコウの前から消えたわけではない。
そこに存在していることは認識している。
だが、ひどく儚い。
今まで彼を構成していた色がゆっくりと淡く不明瞭に変わっていくようだ。
――そして三歩。『それ』から少し視線を外したリコウは歓楽街に赴き、カンランからもらった金で上等な酒でも飲むかと思案し、はっとなりもう一度屋敷を見る。
なぜここに己がいたのかを考え、凶手を案内してきたこと。
彼が屋敷に正面から乗り込んでいくことを思い出し、ぞっとする。
リコウはたった今、『それ』をどうでもいいと考えていたのだ。
まるで凶手を屋敷に転がっていく石ころ程度に考え、踵を返しかけた。
あの一瞬でリコウの心中、彼が占める凶手の割合が、驚くほどに小さなものに変わっていった。
理性と筋道を立てて凶手の重要性を再認識し、声をかけようとした時にはもう遅く、彼は言い争う門番と老メイドの間をくぐるように横切るところだった。
――軽く頭を下げ、ゆっくりとした足取りで二人の間を通り過ぎる凶手。
老メイドと門番の視線の間を抜けて行った。
なのに言い争いをしたまま、見送った。
たしかに視界に入ったはずの凶手を無視し、今度は無理矢理にでも押し通ろうとする老メイドを門番が両腕で拘束する事に忙しくしていた。
それを尻目に、凶手が屋敷の扉の中に消えていく奇妙な光景。
リコウは己の額に手を当て、愕然と立ちつくすだけだった。