33話
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囚われていた少女は、ただその光景に立っていた。
男が首元の短剣を引き抜くと、噴水のように赤色が降り注ぐ。
――晩御飯の鶏を絞める際、手際が悪いと似たようなことになる。
命の危険が遠ざかったラーナは、どうでもいい感想を浮かべていた。
己に降り注ぐ血液は、まだ新鮮で温かい。
顔についた赤を、手で拭う。
「だめだ!? ラーナさん、避けて!」
知り合ったばかりの男の子が、悲鳴に近い警告をあげた。
避けろと言われても、ラーナを含め、後ろにあった像にまで、べったり血がついてしまっていた。
これだけの範囲に降り注いでいるのだ。
天からの雨粒をよけろというようなもの。
――それよりも、この汚れはおちるのだろうか。
旅に際し、お気に入りの一丁を仕立てたのだ。
それに臭いも気になる。
相談しようと、涙の跡を残したまま、不細工に笑っている従者に顔を向ける。
セラフィマの後ろ、兵士に捕まっていたはずのもう一人のローブの男が、この隙を狙い走りだす。
「セラ!? 後ろじゃ!」
男の気付き、セラフィマも動く。
助けを求め、リオネルの元へ。
その位置からなら、若干ファンのほうが近いのだが。
距離に余裕があるのだろう。
――それが命取りになった。
セラフィマがリオネルの胸に飛び込むより先に、男が隠し持っていた刃が煌めく。
「ああ、神を抱かぬ子らに、惜しみない愛を与えよう!」
――やはり、男自身の胸元に。
もう一つ発生した血飛沫は、主と同じようにその従者を赤く汚していく。
「ひーん、生暖かいし、気持ち悪いです!? リオネルー。――そこ、手を叩かない!」
持っていた杖を放り捨て、真っ赤になりながらも助けを求める婚約者を、リオネルは見事な体捌きで躱す。
その華麗さを讃えていたファンを、セラフィマが非難した。
「な、なにをやっているんですか! そのままじゃ危険です。急いで服を脱いでください!」
一連のやり取りから、我に返ったマウリが急かす。
「――え、えっと。私にはリオネルという夫がいるので、そこまで情熱的に求められても」
「セラフィマさん、悪趣味な冗談はやめてください! そんなことを言っている場合じゃ」
年下のマウリに叱られたのが、よほど応えたのか、『これだけ歳が離れて行き遅れた私は悪趣味だっていうんですか』と落ち込んでいくセラフィマ。
「神殿の一階に水場があります。そこですぐに洗い流してください」
神官兵は慌て、二人を案内する。
ラーナはよく効く己の鼻が恨めしくなってきたところ。
先程まで人質にされていたことなど気にもせず、綺麗な水を求めて彼らの後を追った。
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ここは大空に反逆する鶏亭、その二階、宿泊部屋。
廊下に向けて扉が勢い良く開いた。
欠伸をしながら出てきたのは、銀の髪の快活な少女。
昨日よりも意匠の細かい服装で、廊下を移動し隣の部屋の前に立った。
「ファン、リオネル、起きろー! 朝飯の時間じゃぞー」
リズムよく扉を叩いているが、中の相手に来客を知らせるだけなら必要はない。
だが、本人が楽しそうなら、そこまで咎めることでもなく。
誰も出てこないので、その曲はしばらく流れ続けた。
しかしうんともすんとも答えがない。
――昨日はいろいろあったから、寝坊も仕方ない。
だが、食卓を囲む人数は多いほうが楽しいし、美味しいことをラーナは知っていた。
「おーい、あと十数えるうちに、起きてこぬなら、お前らもセラフィマと同じ寝坊助じゃぞ。わらわの故郷ではそれはとても不名誉なことじゃ。それでもかまわんのかー」
ラーナの故郷で、幼い女を叱る時によく引き合いに出される。
朝早くに起きないと、好き嫌いをすると、手伝いをサボっていると、セラフィマのような行き遅れになってしまうぞと。
つい最近までは、女狩人タマラの名が挙がっていたのだが、代替わりした。
そのことをセラフィマは知らないし、タマラも知らない。
だから勢い良く扉が開いたら、ラーナは口をぎゅっと結ぶ。
――開いたのは目の前のものではなく、ラーナの部屋。
寝癖をつけて、あまり調子の良くなさそうなセラフィマが顔を出す。
「――ラナさま、忘れたんですか。二人はまだ帰って来てませんよ」
「おお、そうじゃった。――でもちょうどよい。セラフィマ、食事に行くぞ!」
「あ、あのちょっと待ってください。まだ、髪も整えていないし、服も着替えないと!」
そうだ、あの二人、特にファンの隠し持っていた武器が原因で、神殿に一晩泊まることになったのだと、マウリに説明されていた。
ちなみに、一緒に探検したモリスのことはどうでもいいのだろう。
だが、今は命の源の方が大切だと、少女は喚く従者を引っ張って階段を降りていった。
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朝食は焼きたてのパンに、野菜と茸を炒めたもの、それに燻製肉が二切れ。
ラーナは勢い良く皿を平らげていく。
対面に座るセラフィマは、まだ眠気が取れないのか、並べた料理に手を付けていない。
「しかし、ファンたちはいつ帰って来るんじゃろう?」
「――そうです、ね。旅券の報告とどっちが早いでしょうかね?」
口に物を入れたままでの発言。
いつもならセラフィマの小言がくるのだが、それがない。
旅の空、危険がある野宿でならともかく、屋根の下で、セラフィマが気を抜くことは多々あった。
遺跡でラーナの事情、旅券を盗まれたこと、そして犯人を追っての大冒険。
その犯人が、そこで転がっているビフだということを伝えると、神官兵はすぐに彼を締め上げた。
言い訳を並べるビフを後ろに、必ず旅券を取り戻してくれると約束してくれる。
今はその報告待ち。
連絡はこの宿にお願いしていた。
「なあ、ファンたちはもう臭い飯を食ったのじゃろうか?」
話の種にと、気になっていたことを尋ねる。
「さあ? たぶん、出されてもあの二人は食べないような気がします」
どうでもいいことのように、セラフィマが返事をする。
フォークを持ったまま、ラーナが考えこむ。
「それじゃあ、二人は腹をすかせているのでは? ならこの料理を差し入れに持って行ってやろう」
名案を思いついたと、少女が笑顔になる。
そして皿に手を伸ばした。
セラフィマもその優しさに微笑む。
「それはなんと良い考えでしょうか――ですがラナさま。そういったものは、御自分の分から用意しましょうね」
セラフィマはラーナが持って行こうとした、自分の分の食事を己の前に引き戻す。
そして唯一残っている、ラーナの好物の肉が載った皿を指した。
――ラーナは少しも葛藤することなく、皿をきれいにする。
二人は食後に茶を飲むと、すぐに部屋に引き返した。
宿に神殿の報告が来たのは、その夜のことだ。




