3話
もしや冗句の類いではないのか。ならば追従し笑うべきでは。
いや、考えにくいことではあるが、万が一、箒を用いて命の灯火を消す術があるとしたらどうだろう。
その場合、気分を害したリコウ自らがそれを味わうことになってしまう。
思考を終え、再び凶手の両手を見る。
そうすると、部屋の掃除をすることにしか使えないそれらが、とても禍々しい物に思えてくる。
結果、リコウがその場で行えた事といえば、口角を少しだけ上げ目尻を心持ちたらし、笑顔にも真面目な表情にもどちらともとれる顔を作ることだった。
普段使わない表情筋が、痙りそうであったがリコウは己を鼓舞する。
部屋の隅に備え付けられていた鏡台が目に入り、映し出されたリコウによく似た男の阿呆な顔が見える。
リコウはくじけ、膝を突きそうになる。
そんなリコウの苦悩や曖昧な顔面は彼にとってどうやら大した問題では無いらしい。
リコウに制裁を加える事もなく、彼は扉の前に移動した。
このまま頭領の待つアジトに連れていってよいものか。
リコウは悩む。
不備があれば、叱責を受けるのは凶手ではなく、当然リコウなのだ。
凶手に聞こえないよう気を使い溜息を溢す。
彼の後を追うべく踏み出したリコウの脚が、長方形の皮作りの袋に当たる。
袋の片側に柄と思われる部分が、開いた穴から顔を出している。
持ち上げてみれば確かな重量感と、鈍くぶつかり合う金属音が響いた。
元々が借金のかたに取り上げた建物である。
金目の物は愚か生活用品でさえ取り払った後だ。
あとは客人のために持ち込まれた最低限の必需品があるだけ。
つまりリコウに見覚えのないこの革袋は、凶手の私物に違いない。
先程の情報から推測するに、これが凶手の仕事道具であることは明白なのだ。
だがそれを指摘したとしよう。
それは相手の落ち度をあげつらうこと。
リコウの首が、物理的に飛んで行く可能性があり、指摘しないでもそれはそれで頭領と凶手、両方から不興を買うことになるかもしれない。
己の出世を阻む板挟みに、リコウが頭を悩ます。
熟考し、それを凝視していたリコウの視界の外から腕が伸び、袋を掴んだ。
この部屋にいるのはリコウと凶手だけ。
ならばのリコウの前を通り過ぎた腕は当然凶手のもので、そちらを見れば、袋についた紐に腕を通し担いでいる男がいた。
リコウが熟考しているうちに椅子に掛けてあった漆黒の外套を羽織ったのだろう。
ちょうど立てた襟が彼の口元を隠している。
黒い髪、黒い服、背の高さも相まって、のっぺりとした部屋の柱にも見えてくる。
『――間違エタ』
眉を顰め、リコウを睨むように主張する。
目付きが鋭い為に本当に睨んでいるかどうかの判断は付かない。
だが、リコウには彼が動揺しているように思え、琴線に触れたのかと肝が冷える。
その乾いた音が声であると認識されたと同時に、リコウにも漸く彼の言葉の意味が理解できた。
同時に、なぜ用途も存在意義もまるで異なる掃除道具と取り違えたのか。
疑念は尽きないが、彼が間違えたというなら間違えたのだろう。
彼が言うならば、黒いものは黒いし、白いものは白い。
鼠は猫に勝つし、犬は恩を忘れる。
つまり黙って従うのが最も利口な者である。
必要な物はもうない。
急ぎ扉を開け、凶手を誘導する。
その途中、何かを蹴っぽってしまったが、己の眼前を通り過ぎて行く凶手の背を追うことを優先し、廊下の隅に転がったそれを気にも留めなかった。
――それは馬を引く旅人の彫像だっただろうか。
●
リコウと凶手は、活気のある人々が生活する町並みを抜け、徐々に柄の悪い歓楽街の中を隣り合い、歩を進めていく。
リコウは初め、彼の前を先導するように歩いていた。
だが、凶手は足音を立てないし息遣いも聞こえない。
リコウが凶手を度々に見失ってしまうので、常に視界からはずさないように彼の隣を随行することになった。
歩いている間に会話もなく、そのことがリコウの腹をキリキリと締め付けていく。
隣り合って歩いている以上、彼の顔が常にリコウの視界に入っていくる。
仕方のない措置であったのだが、こうなってくると無言でいることは拷問と変わらない。
二三、話題を振ってみたのだが、そのことごとくに芳しい反応は帰ってこない。
リコウの話題選びに問題があったのかは判らないが、そもそも殺し屋相手に和やかに会話しようとすること自体に難があるのか。
店の前で客引きをしている顔見知りの娼婦が、リコウに話しかけてきたが無視し、二人はその隣の大きな酒場の中へ。
この酒場の二階部分が、リコウの所属する組織の拠点となっていた。
上がってすぐにある応接間の戸をたたく。
リコウは凶手を連れてきた事をドア越しに伝え、ようやく彼との二人きりから開放される。
つい安堵の溜息を吐きそうになったが、凶手がじっとこちらを見つめていたので慌てて咳き込むふりをしてごまかした。
●
応接間の中央、豪奢な長椅子に大きな尻をおろし、愛想のいい笑い声を上げている中年男がいた。
彼がこの一帯の店のオーナーでもあり、組織の長のカンランである。
リコウはカンランの背中の壁に、他の仲間と共に控えている。
笑うたびに揺れるカンランの腹部はとても大きく、必要以上の脂肪を蓄え緩みきっていた。
この街の金が組織に集まり、その利益が全てこの男のだらしない下っ腹を肥えさせていく。
酒樽と変わらない彼の体型を維持できる立場には憧れるが、なりたいとは思わない。
それが、リコウを含めた組織の下っ端の共通見解であった。
焼き菓子と白湯の乗ったテーブルを挟んだ反対側の椅子に、凶手が腰を落としている。
先程から響いているのは、カンランの大仰な笑い声のみ。
そしてカンランの額を流れる脂汗を見れば、彼が決して愉快な気分ではないことが分かってしまう。
カンランの他愛ない世間話や自慢話には、面白みの一欠片もないが、常人ならば気を使い愛想笑いの一つでも返している。
自慢の中で己の誇る権力を印象づけ、そこから交渉事に持ち込むのが彼の手管であった。
だが今度ばかりは相手が悪かった。
凄腕の凶手。
その印象から受けるものより年若く、威圧感のない青年に与し易いと思ったのだろう。
カンランはいつものごとく、この領内での組織の影響力の大きさをつぶさに説明した。
返ってくる相手の追従の世辞を待っていたのだが、それは一向にない。
言葉一つなく、凶手はじっとカンランの一挙手一投足を観察するだけだった。
これはたまったものではない。
カンランは重い空気を誤魔化すように大笑し、己の主導権を作り出すため、また別の自慢話を繰り返す。
先程からこれの繰り返しであった。
カンランの前にあるカップは既に空になっていた。
下っ端の一人が飲み物をとりに階下に走っていく。
話の合間に手を出した焼き菓子は、緊張のためか床に落としてしまったままである。
カンランの声が枯れ、咳をこぼし始めても誰も口を挟めない。
リコウ達は下っ端であり、主であるカンランとその賓客である凶手に口を挟むなど、例を失する行為である。
微動だにせず壁に張り付いていることしか出来なかった。
長い自慢話にようやく飽きたのか、凶手の視線がテーブルの焼き菓子に移った。
カンランは、天の助けとばかりに早口にまくし立てる。
「けほっ、ああ、うん。――では今回の依頼の内容についてご説明させてもらいますかいの。なに、凶手様の腕を持ってすれば難しい事ではござません。貴方様の同胞である我々の縄張りを土足で踏み荒らす者が現れたので、その御手を持って拭い去って欲しいのです」
事の発端はこの町の徴税請負人の代替りだった。
前任者はは組織からの贈り物を定期的に受け取り、時にはカンランの娼館にも足を伸ばす『模範的な』官吏であった。
それ故に、組織がせしめる場代、守代を快く認め、この町における後ろ盾にまでなってくれた。
そんな都合の良い好色な彼が、任期を終え涙で別れたそのあとに来た人物が問題だった。
新しい徴税請負人が到着したその日。
組織が届けた心ばかりの贈り物は全て突っ返され、カンランをひどく不快にさせてくれた。
新しい徴税請負人は三十代半ば、使命感に燃え、清廉潔白を掲げる人物であるのか。
それならばまだやりようがある。
男の妻、あるいは子供でもいい。
愛する家族をつけ狙う怪しい影がチラホラと見られれば、彼はすぐに首を縦に振ることだろう。
そう軽く高を括っていたのが仇になった。
領都にいる部下達に調べさせた、徴税請負人に関する情報。
それが届くのを待たなかったのも原因の一端を担う。
徴税請負人に数日遅れ、町にやってきた奥方。
それを襲った組織の人間は、徴税請負人が雇っていた私兵にすべて捕縛された。
カンランは窮地に立たされる。
計画を遠くで監視していた部下の一人が息を切らし、カンランのもとに走ってきた。
手元には今朝届いたばかりの徴税請負人の素性を記した手紙。
カンランの顔から血の気が消えていく。
手紙に書かれていたのは、他領での徴税請負人の優秀さとその噂を聞きつけた領主に請われ、この町に赴任してきたこと。
加えて少々の口さがない悪評であった。
領主にとって優秀な徴税請負人とは何か、それはとても単純である。
領民から税をきっちりと取り立て、領主のもとに贈ること、これに尽きる。
だが彼は、それ以上の働きを見せた。
課された税以上の税を民から搾り取り、それを領主と自分の懐にしまい込む。
税を水増しし、自分の益とする者は珍しくないが、彼の場合その量が多すぎた。
当然、領民の幸せを考える者より、領主は己の懐を暖める人間を重宝する。
この領内でも、彼に同様の働きを期待し招いたのだろう。
こうして聞くと、民から際限なく税をかき集めているように聞こえるが、そうではない。
彼が優秀であるのは、『無駄』なく税を集めている点だ。
民草からは、暮らしを切り詰めほんの些細な贅沢を取り上げない程度に集め、反乱の火が灯らないように注意していた。
であるなら、どうして他の領地よりも多くの金を集めることが出来るのか。
それは民の生活に欠くことの出来ない娯楽や用心棒の役割を担う者達。
そう、組織と同類の彼等を潰し、取って代わったからだ。
彼等を私兵で掃討し、己の息のかかったものを頭領に据え組織に流れる『無駄金』を丸ごと上納させる。
どこの領内でもカンランたちのような人間は存在し、領主から派遣された権力と持ちつ持たれつで共に生活している。
後ろ暗いことをしては、国の役人から睨まれる。
本来、徴税請負人は裏の組織の行う悪事を避け、表のみを受け持つ。
だが、表裏をすべて手に出来たならば、その利益は跳ね上がる。
彼のように、巧妙に己の行いを隠せるものならば、決して旨味がないわけではないのだ。
手紙の最後には、火急に対策を練るように警告が書かれていた。
そしてその対策というのが今、カンランの目の間で焼き菓子を手に取り、鼻を近づけ香を確かめている男なのだ。
●
説明が終わり、カンランは揉み手で凶手の言葉を待った。
テーブルには徴税請負人の似顔絵と、前任の時代に調べ上げた館の見取り図が置かれている。
『――コノ、館、全部、掃除?』
その物騒な質問が、部屋に入ってきて初めて凶手が発した言葉だった。
見取り図に伸ばされた左手。
もう片方に焼き菓子を持ったままカンランに問いかける。
室内に戦慄が走る。
暗殺者といっても狂人ではない。
どこか話が通じる人間であると、ここまで案内をしたリコウは考えていた。
時折、言葉が通じていないような素振りを見せるものの、出会い頭に首を切り落とされなかったこと。
その後の不手際を見逃してもらえたことで楽観視していた。
まさかいきなりの徴税請負人の館の人間を皆殺しにするとの宣言。
壁に張り付いていたリコウ以外の者は、一歩出口に近付き、カンランは仰け反り、重みに耐えられなかった長椅子ごと後ろに倒れてしまう。
「――いたたた、いや、あのそこまではしていただかなくとも! そうです、汚れを落とすのは奴の仕事部屋一室だけで、いえ別に余計なお世話だとかそういうわけではなく」
完全に格付けがなされてしまった室内。
人の命を奪うことに何のためらいもない。
むしろ嬉々として生首の数を増やそうとする二足歩行の獣の前に、リコウ達は立たされている。
リコウ達は誰一人として凶手の方を見ない。
気まぐれに奪われる命の中に、自分たちが加わらないためだ。
必死に抵抗し、なんとか死ぬ人間の数を減らそうとするカンラン。
たとえ後々の処理を考えての言葉だとしても、それが尊い行いに思えてくる。
カンランの流す汗が滴り落ち、赤い絨毯を湿らす。
その汗の跡は、絨毯の色のせいか、血が流れ落ちたようにも見えた。
『掃除、仕事部屋ダケ?』
「はい、そうです! 拙い説明のせいで時間はかかりましたが、まだ、日が落ちる迄時間はあります。リコウ! 凶手様を徴税請負人の館まで案内しろ! はい、今日は下見程度で結構ですので、終わった後はこれで酒や女でも楽しんできてください」
必死の説得が終わり、カンランはリコウを呼びつける。
懐の財布袋から銀貨を数枚抜き、リコウの手に握らせ、早く凶手を連れて出て行けと視線で彼に命令する。
案内役はリコウなので自然なことなのだが、指名されなかった者達の安堵の溜息に彼の心は沈んでしまう。
この受難が終わるまで、リコウの首と胴体が離れ離れにならないことを切に願う。
じっとテーブルの上を見詰める凶手を先導するべく、部屋の外に歩みを進めた。
●
己の部下が凶手とともに退室したのを確認し、ため息をつく。
「ふぅ、まったく、あそこまでぶっ飛んだ奴が来るとはとんだ誤算じゃったわ。八脚の監視員である『眼』の奴らがいない今こそ奴を取り込むいい機会じゃと思ったんだがのう」
凶手が部屋にいた時より、砕けた口調でカンランは呟いた。
安心したのか、喉の渇きを自覚し、部下が持ってきたお代わりの一杯を飲み干す。
薄ら気味の悪い男だった。
存在そのものが薄められたような人物。
一度目を切ると、たしかにいるはずなのにいつの間にか見失ってしまう。
視線を四方に飛ばし探すのだが、結局初めの場所から一歩も動いていない。
いる筈なのにいない。
その不確かさがカンランの心に不安という爪痕を残し恐怖を与える。
――室内に焼き菓子を頬張る音が響いた。
「あぁ、なるほど、奴らは交渉事を進めるためだけの存在じゃと思ったんじゃが、たしかにあれには鎖が必要じゃ。あんな化け物を野放しにしていたら、命がいくつあっても足りんわい! やめじゃやめ。ちっ、本国に対する札が一枚増えると思ったんじゃが、しばらくは大人しくしとくかいの」
ようやく重圧から開放された反動か、大それた発言をし、腹の底から声を出して笑う。
――室内に、噛み砕いた焼き菓子を嚥下する音が流れる。
いつもならあるはずの、追従する部下の笑い声が聞こえない。
不思議に思い壁を見れば、部下たちが青い顔でカンランの頭越しに何かを凝視している。
胸騒ぎが起こり、恐る恐る振り返ろうとするよりも先に、部屋の外から足音が近づいていくる。
「あぁ、凶手様、こんな所におられたんですね。探しましたよ、って頭領、青い顔してどうしたんですか?」
扉から現れたのは先程、狂人をともなって出て行ったはずのリコウ。
ならば、テーブルの向こう側にいないはずでいるのは誰なのだろう。
――いないはずの凶手は、視線が己に集中したことに驚いたわけでもないだろうに、持っていた菓子を床に落とした。
赤い絨毯の上にもろく砕け散ったそれと、カンラン達を交互に確認し問いかける。
『コノ、部屋、奇麗、スル?』
幾人かは胸元に隠した短刀を取り出し、幾人かは凶手の怒りを収めるべく膝をつく。
逃げるように体重を預けた主人の重みに耐えられなかった長椅子は、脚が折れてしまい、カンランは床に頭を叩きつけることになった。