23話
□
ペタンの大通り。
暖かい日差しが、道行く働き者達を照らしている。
活気に満ちた人々の流れ。
そこから少し外れた小道を一家分、奥に入れば、寂れた酒場がある。
看板は小さく、そこに彫られた文字もまた小さい。
自己主張に乏しい店構え。
客商売に向いていないのは、外面だけではなく内装も。
以前にあった宿が潰れた後に、残っていた古いテーブルや椅子をそのまま使っている。
だから、ここにある目新しいものといえば、カウンターで食器を磨いている爺。
そして客がいないせいで暇なのか、客用のテーブルに寄りかかっている若い女性だけだった。
「――マスター、開店してから一ヶ月、今日も来ませんね?」
膨よかな胸をテーブルに押し付けたまま、店主に声をかける。
誰がこないのかは省略したが、当然客に決まっている。
店主は少し眉を上げ、それで反応を終わらせた。
女の言葉を無視して、食器の汚れを入念に調べ始めた。
「もう! 客が入っていないのに、汚れなんて付くわけないじゃない? あー、あー、もー、暇!」
使用していなくとも、埃はたまるし、湿気はつく。
だが、女の見る限り、店主の持っている皿は、昨日から数えて三巡目。
そこまで磨いていると、逆に傷みそうである。
結局、それも仕事ではなく、ただの暇つぶしなのだ。
今日も、閉店まで返事のない店主と二人、時間を潰すのだろうか。
――そう嘆いた矢先、立て付けの悪くなった店の扉がギギギと開く音が聞こえてきた。
入ってきたのは二人組。
先を行くは銀糸に黒曜の瞳の少女。
そしてその少女の後ろ、引っ張られるように現れたのは、枯れ木を連想させる黒い外套の青年だった。
しばらく、女はその二人をじっと観察する。
観察から数秒経って、ようやく脳が客だと認識してくれた。
女は弾けるように席を立ち、開店初日に練習した客用の笑顔を作った。
「いらっしゃい! ええっと、ご注文は何にします? おすすめは――おすすめ?」
――そういえば、勧められるものがこの店にあっただろうか。
保存の効く酒類、乾き物。
それ以外の食料は残ると腐るので、開店から二週間で常備するのをやめた。
外套の男はともかく、可愛らしい少女に酒をすすめるのは、ちと早い。
夕に食べる予定だった、数種の野菜と豆をミンチにして揚げたものを、出すことも考えた。
だがそれらは、まだ食材のままで手がつけられていない。
慌てる女に、二人組の視線がじっと注がれる。
それで、席に案内すらしていないことに気づいた。
「ええっと、お二人様だから、カウンターでよろしいでしょうか?」
賑わいがあり、席が足りないならともかく、テーブルが余っている状態でそれはなかったか。
「うん、頼む! ここは『黄金の麦踏み亭』で間違いないだろうか? 人と待ち合わせでな」
少女は気にしていないようで、案内された席につくと、すぐに人懐こい笑みを見せる。
「ええ、たしかに『黄金の麦踏み亭』で間違いなく。いま飲み物を用意しますね。何にしましょう?」
女は久しぶりに店の名を口にした。
あまりにも名乗る機会がなく、正直忘れかけていたのだが、ぎりぎり残っていたらしい。
それは店主も同じことだったらしく、顎に手をやりそういえばと頷いている。
「いっぱいサービスしますから、今日はゆっくりしていってくださいね!」
女の笑顔は作りものではない心からのもの。
厳密に言えば、来客を素直に喜んでいたのではない。
――これで返事をしない店主との不毛な会話で、時間をつぶす必要がなくなる。
そう、女にとって二人組は格好の暇つぶしだった。
――喜んでいる女の耳に、また扉が開く音が聞こえた。
「いらっしゃいませ! 黄金の麦踏み亭にようこそ!」
今度は呆けることなく、笑顔が決まる。
だが、入り口にいたのは見知った顔。
女の愚かな妹分だった。
「おおう、アネキの満面の笑顔って気持ちわりい! ってそうじゃなくて。なあ、アネキ。黒い外套の男が、アタシをたずね、――お、何だ、ちゃんと来てるんじゃねえか!」
己と同じ赤茶の髪で、幾つか年下の少女。
少女は給仕の女越しに、外套男の姿を見つけると、手を振って歩いていくる。
その光景を、アネキと呼ばれた女と店主が、呆然とみつめていた。
この酒場を訪れるのは、火急の用があるときのみ。
裏口から、それも変装して来いと教えていたはずなのに、そのどれも破っている。
それに加えての、あねき呼ばわりとは。
――落ち着くため、そして愚妹を落ち着かせるため、女は持っていたトレイで思い切り妹分の頭を叩き伏せたのだった。
●
酒場に、小気味の良い打撃音が響く。
むくりと起き上がった妹分――カルは姉を睨みつける。
「いってえ! いきなり何すんだよ、アミル!」
返ってきたのは言葉ではなく、再びの打撃。
今度はトレイを縦向きにして、攻撃力を上げている。
悶絶するカルは、アミルが激怒していることにやっと気づいた。
だが全く心当たりがない。
昨日の夕、仕事に向かう時は平静だったように思う。
それ以降は、初仕事のため、顔を合わせていないはずだ。
わからないものはわからない。
自問自答。
ここは素直に尋ねてみるのもありか。
もう一度殴られる予感がするのでやめておく。
頭をさすり、血が付いていないことを確認する。
「お客さん! アミルってのは誰のことですか? 私とは初対面ですよね。誰か他の方と勘違いしていません?」
カルの目の前におり、こちらの襟首を掴んで凄んでくるのは、姉貴分のアミルのはずだ。
それを人違いだなどとは、一体どういうことだろう。
胸にしか栄養が回らず、脳が腐ったのか。
『――腐っているのはあんたの目でしょうが! 状況を考えなさい!』
荒くなった鼻息がかかる程の距離。
密やかにアミルが叱責する。
カルは姉の忠告をうけて、店の中を見回した。
人がおらず閑散としている、いつもの酒場だった。
――そういえば、この場所がカル達の活動拠点であることは秘密だったか。
得心し、また殴られる前に早口で言い訳をする。
「って、アネキ、そいつは同業者なんだ! だから、別に秘密がバレたわけじゃねえよ!」
「――同業? へー同業ね?」
同じく後ろ暗い裏稼業。
一般人に触れ回ることも、役人に密告するということもないはずだ。
カルの言葉を聞き、アミルは外套の男を頭から爪先まで観察する。
その隣りにいる銀の髪の少女を見てから、もう一度トレイを振り上げた。
「あのねぇ。子連れで殺し屋やってる馬鹿がこの世にいるわけないでしょう! あんたが馬鹿なのは知っていたけど、せめてもう少しまともな言い訳できないの!」
「この! 何度も気安く人の頭を殴るなよ! アタシは仕事を成功させたんだ。今日からアネキと同格になるんだぞ!」
カルは飛んできたトレイを両掌で抑えこみ、強気で押し返す。
「――だからこの馬鹿! この場所がバレたんじゃ、成功も何もないでしょ! あんたはまだまだ半人前がお似合いよ! わ、か、る、わ、よ、ね?」
アミルはトレイから手を離すと、素早く袖口から短刀を引きぬき、その切っ先を妹分の鼻の穴に突っ込んだ。
「――はひ、わはり、まふ」
それに反応できなかったカルは消沈し、鼻の穴が無事であるうちに、姉貴分に服従を示す。
たしかに、殺し屋が子連れなどありえないことか。
だが、カルは昨夜、デールの館で彼と会っているのだ。
ならば正しいのはカルで、間違っているのはアミルか。
――もしくはこの黒い外套の男。
それを主張しようとするが、鼻の粘膜にあたる冷たい感触のせいで、身体を動かせない。
カルは、精一杯の可愛らしい妹分を演じ、媚びを売るようにアミルを見つめる。
思いが通じたのか、アミルは短刀を収めてくれた。
「その気持ち悪い顔をやめて!――いいわ、話を聞きましょう。でも、それが、糞にも劣るものだったら、わかっているでしょうね?」
カルの粘液で汚れた刃を、これまたカルの服で拭いながら、アミルは脅しつける。
姉貴分の瞳は、底冷のする殺意で静かに揺らめいていた。
カルは震える手を確かめ、首を傾げた。
――カルは昨日、人生で初めて命を奪った。
目の前と存在と同じ殺し屋になったのだ。
なら人殺し同士、対等になったはずだと思っていたのに。
それどころか、ギルド幹部という重要人物を的にしたのだ。
もしや姉貴分の頭を超えてしまったかと、浮かれていた自分はなんて滑稽なのだろう。
アミルを顎でこき使う時に、精一杯の皮肉を考えていたのだが、それも無駄になった。
そんな慎ましく、ささやかなカルの願いは、儚く散ったのだ。
「ええっ、嘘! なんでいきなり泣いてるのよ! ちょっと、もう、私も言い過ぎたわ。そうね、カルの話が間違っていても、そんなひどい罰は与えないから、泣き止んでちょうだい」
突然の涙に、視線を氷解させ、焦る姉貴分。
テーブルに短刀を突き立て、空になった手でカルの頭を優しく撫でる。
「ほら、あなたの知っていることをゆっくり話して。よしよし、もう怒っていないから大丈夫ですからねぇー」
アミルはカルをあやしながら、ゆっくりと言葉を吐き出させる。
口調も、声にこもる温度もやわらぐ。
その手のあたたかさがとても心地よい。
涙を流しながら、カルは自分が張り詰めていたことに気づいた。
思えば初めての殺人。
追手を巻くため、指定された潜伏場所で一夜を過ごしてから、ようやくの帰還だった。
変に浮かれていたのもの、今涙していることもその証拠だ。
幼き日々をともに過ごした姉の元に戻り、タガが外れたのだろう。
冷たく恐ろしく、かつ優しい姉は、途切れ途切れのカルの言葉を全て聞き取り終える。
そして、テーブル拭きでカルの涙と鼻水を拭い、しばし熟考する。
「うーん、このお客さんが、殺し屋って言われてもねえ? そうだ、いい考えがあるわ! そうよ、そうしましょう!」
名案を思いついたと、アミルは両手を合わせる。
――そして、笑顔のまま、反対の袖に隠していたもう一本の刃を素早い動作で投げつける。
「――カル、あんたの言っていること、少し信憑性が出てきたわね」
先程から、姉妹のやりとりを暇そうに観察している外套の男。
いきなり投擲された短刀、その柄を握り受け、慌てた様子もない。
その横、外套の男の早業を讃え、美貌の少女が小さく拍手をしている。
アミルは先程よりも険しい目付きになり、カルは目を丸くして驚いてた。
空気が張り詰めていく。
――それを防いだのは、今まで言葉を発していない最後の一人。
「ふう、まずはこれでも飲んで落ちつきな」
店主は片眉を釣り上げて、そっと酒を注いだグラスを二つ、客に差し出した。




