2話
ベッドに木製の机と椅子、窓が一つあるだけの部屋だった。
ベッドは少しかび臭い。
座っている椅子は、足が欠けているのか、ゆらゆらと揺れる。
窓枠には埃が溜まっており、生活感がない。
机には、馬の手綱を引き歩いている男の彫り物が置いてあった。
閉じられたカーテンの隙間から光が注いでいる。
まだ日は高いのだろう。
目を覚ました男は、しばらく椅子に座り、左右に揺れていた。
そして疑問が浮かぶ。
『ここは誰の部屋で』『自分は何をしているのか』
常人ならば、その二つがわからない時点で、慌てふためきそうな内容なのだが、男に焦った様子はない。
――こういった時は、記憶を一つずつ遡っていけば良い。
そう思考し、指折り数えていく。
――まず、この部屋で目が覚めた。そして眠る前は確か。
二つ目の指を折る前に、回想は終了した。
――おかしいな、何も解決しない。
男は特に落胆することもない。
覇気のない、枯れ木のような雰囲気の男だった。
男は事実の確認ができただけで満足したのか、椅子から立ち上がる。
この狭い部屋で調べられる情報はもうないと、今度は窓に向かった。
これまたカビ臭いカーテンを捲り、立て付けの悪くなった両開きの窓を開け放つ。
――心地よい風は、潮の匂いがした。
海風に乗って人々の喧騒が届く。
それは、子供の騒ぎ声だったり、男の野太い怒鳴り声だった。
で、これまた一つ疑問が増えた。
――知らない言葉だ。
使われている言語に、男の耳が馴染まない。
だけど、不思議なことに、そのすべてを理解できないかというと、そういうわけではない。
――まるで、今思い出しているような、今学習しているような。
ところどころ、単語の意味が拾えてしまう。
だが、全体の繋がりは不明瞭で、会話の意味を理解できない。
街並みにも、見覚えはない。
ここは見知らぬ部屋どころではなく、見知らぬ国なのかもしれない。
ここまでくると、気の弱いものなら卒倒でもしそうなのだが、男に変化はない。
すべてを受け入れる度量があるのか。
そうではなく、ただ心が鈍くなっている。
感情が鈍く、驚くだけの火が灯らない。
それでも一つだけ、知っておかなければ不便だと思うこともあった。
――窓ガラスに映る、黒い外套の痩せた男。
それが、一体誰なのだろうか、という根本的な問題だった。
だが、知る手段はここにはないように思える。
そう諦めると、すぐに興味を失い、男は椅子に腰掛け、瞳を閉じた。
思考するためではなく、ただ眠くなったから。
記憶を失ったはずの男は、呑気に寝息を立て始める。
――見知らぬ部屋で、見知らぬ国で、見知らぬ世界だとは気づかないまま。
そしてしばらくして、部屋の扉がゆっくりと開いた。
◇
――やばい、待たせてしまったか。
世界における人の居住領域。
その一つである始大陸の端。
東方との貿易が盛んに行われる港から、街の中心に向かって歩く男がいた。
年の頃は二十と四つか五つ。
赤茶けた髪を後ろで縛り、黄色の服。
その上に橙色の東方製の布を肩に掛け、巻きつけている。
中央に向かうにつれ、商店やら出店などで賑わっていく。
その風景をよそに男の表情は厳しい物になって行く。
田舎とは違い整備された石畳の上を早足で駆け抜ける。
するとようやく目的の建物が見えてきた。
活気のある中央区画を抜け、東人街のさらにその奥、男の所属する組織が所有する建造物だ。
始大陸の物とは趣の異なる木製の二階建て。
己の上役から管理を任された鍵を使い、中に入る。
――いくらなんでも、問答無用で殺されたりしないよな。
階段を登り一番奥の部屋、その扉の前で男は立ち止まった。
先程まで張り詰めていた表情を解し、精一杯の笑顔を顔に浮かべ、戸を叩く。
よく見れば男の額からは、一筋の汗が見える。
決して急いで来たからという訳ではない。
この部屋の一時的な主に対する感情のせいだ。
端的に言えば畏怖である。
連絡に不備でもあったのか。
この部屋の主が約束の時刻になっても彼等の前に姿を表さなかったために、男は急ぎ駆けつけたのだ。
男の組織はこの街を二分する、裏の代表である。
娼館の経営、盗品の売買、スリの元締め、飲み屋の用心棒など幅広く手を出している。
男――リコウはその中の下っ端。
家族もなくスリで生計を立てていたところを、組織に拾われた。
リコウは、育ちの所為か貧しいという事に引け目を感じ、金に強い執着を持つ。
だから出世のため、誰も手を挙げなかった今回の仕事を買って出たのだ。
――早まったかもしれない。
仕事の内容は、東方からの賓客の身の回りの世話、主に仲介など。
どうして、この程度の雑事に誰も名乗りを上げなかったのか。
面倒臭かったなどという理由では、もちろん無い。
そのような理由ならば、組織内での立場が上がることはない。
ならばなぜ、その理由は一つ。
――客人があの『僧院』から派遣された人間だからなんだよな。
東方における宗教組織『僧院』。
他にも色々呼び方はあるが、始大陸に住む人間にはこの通称が一番通りがいい。
宗教と政治が密接な関係にある東方。
そこで絶大な権力を持ち、民の大半の暮らしに関わっている。
つまり、客人とは、徳の高い僧侶か何かなのか。
それもちがう。
悪事を為す組織が、己を改心させるため呼ぶだろうか。
そんなことのため、わざわざ高額な寄進をするわけがない。
頭領の東方での親戚筋を頼りに、大量のお布施をしたのだ。
後ろ暗い想像しかできない。
頭領の言葉では凶手――僧院にいる高位の人物子飼いの殺し屋であるとのこと。
それを聞いたリコウを始め同僚の誰も、言葉を出せず、口を閉ざしてしまった。
僧院が凶手を囲っている。
そういった噂を耳にしたことはあったが、いわゆる噂。
根も葉もない陰口の域を超えず、本気にしている者は殆どいない。 ――一般の民の間では。
だが、そういった後ろ暗い仕事を生業にしている者の間では、噂話ではなく、警告の意味として使われている。
どこぞで僧院に対立する商家の大旦那が殺された。
ならばあの辺りでの商売は今後控えるようにしよう。
僧院の後ろ盾のない者達の幾ばくかが迎える突然の変死。
利害を突き詰めれば、いつもそこに彼らの名があった。
誰も噂話以上のことは話さない。
だからこそ、それが僧院の手の者であると理解する。
殺しを誇り、看板にし、新たな客を探す常道の殺し屋とは違う。
僧院の凶手は姿を現さず、彼等は闇に紛れたまま。
実際、金で容易く動く名の知られた者より、彼等を上とする者の方が多い。
彼等『八脚』。
僧院における守護獣が一つ。
八つの足に八つの目を持つ大蛸の化け物の名を冠する凶手。
その一人がこの扉の先にいる。
リコウが顔を合わせるのはこれが初めてだ。
――っていうか、それは本当に人間なんだよな。
彼らに対する噂の内、真実はほんの一割だとしても、およそ人間の所行には思えないものばかり。
合鍵は、僧院側の仲介者を通じて届けられた。
だから案内をした者はおらず、組織内では彼が最初の目撃者になる。
逸る心臓を抑え、中からの返答を待つが、一向に答えは返ってこない。
もしや留守にしているのか。
本来、凶手との直接のやり取りはせず、それ専用の人間がいるのだが、今回の訪問に際しては彼らの姿ががない。
だからこのような不幸が起こるのもまた考えうることであった。
戸を叩く手に力を込めすぎたのか、はたまた建物の築年が原因か、衝撃に扉がゆっくり開いていく。
そして一介のチンピラでしか無いリコウが、不用意に恐怖を忘れ、好奇心を出してしまったこと。
多少知恵の廻るものならば、すぐに目を覆い隠すか、背を向け一目散に逃げ出したことだろう。
暗殺者の顔を覚えて特することなど一つもなく、厄介の種でしかない。
だがリコウは目を瞑らないどころか、部屋の中央、備え付けの椅子に座りこちらをじっと見ている青年に対して。
――存外、綺麗な顔をしているのだなと、拍子抜けしていた。
年の頃は若い。
椅子に掛けているので正確な数値は分からないが、背はリコウよりも高い。
しかし肉付きに関しては、己のほうが確りしているのではないか。
凶手の姿を例えるのなら、実から葉まですべて散り去った後の枯れ木。
あまりにもな存在感の希薄さ。
それは、狭い部屋の中、青年を見つけるのに一拍以上の時を必要とさせた。
突発的な事態から己を取り戻したリコウ。
叱責の言葉が来るの頭を下ろし待っていたのだが、依然として軋む床の音以外に響くものがない。
もしや己の粗忽な対応を許してくれるのかと、リコウは上目で相手の顔色をうかがう。
じっとこちらを見つめている青年と視線が交わり、リコウの額から汗が流れた。
その視線はこちらを観察している様に思えるが、そんなはずがあろうか。
リコウは街のチンピラに過ぎず、凶手にしてみれば道にあるゴミも同然。
ならばなぜ、リコウから目を離さないのか。
リコウのよく回るとはいえない頭が煙を上げ回転する。
そうしてようやく口からこの場に最も相応しい言葉が絞り出される。
「――我、僧院に両腕とこうべを捧ぐ、問いかける、貴様は誰ぞ」
リコウは片膝をつき、頭を下げる。
両拳を合わせ左胸の前に置き、僧に対する礼をとった。
普段よく使われる簡易式の物と違うため、自信がない。
――こんな大仰な礼を自分が取ることになるとは。
リコウは凶手が来ると聞いた後に、頭領からこの敬礼を教えられたのだ。
堂に入っているとは決して言えないだろう。
またも室内を沈黙がつつむ。
最悪な凶手と聞いていたのだが、リコウの頭が今を持って首の上につながっている辺り、そう短慮な人物ではないのだろう。
しかしそれならば、リコウの礼に何も返さないのはなぜなのか。
再度、凶手の顔を盗み見る。
凶手の手が頭を下げたリコウの肩を叩き、身体が硬直するも、彼の言葉が続いたので、一言一句聞き漏らさないよう神経を集中する。
『――私、誰。何、スレバ――』
若さの感じられない乾いた声は、水気の抜けた老木を燃やした時に出る音に似ている。
苦痛があるのか、凶手の顔に初めて感情が浮かぶ。
なにかしら声帯に問題があるのだろう。
長らく使っていない者が声を出した時に痛みが出ると聞いたことがある。
リコウは返礼があったことに安堵し、言葉の先をつぐ。
「御身、僧院の守護、海獣の八脚が一人。この度、我ら住まう地に蔓延る『汚れ』を取り去るために、召喚に応じる訪れの者なり。――頭領を待たせています。ご案内しますので、俺の後について来てください」
手招きし部屋の外に出ようとし、そこでようやくリコウは凶手の素顔を覚えてしまったことに気付いた。
暗殺者は極力己の素性は隠すもの。
自身の安全のために、そして殺しをより確実なものにするため。
己を見知った者を生かしておくのだろうか。
リコウの背筋に嫌な汗が流れる。
自分は取り返しの付かないことをしてしまったのでは。
この建物の管理を任されていた者が、入り口で彼の来訪を確認した時、凶手は不気味な仮面で隠していたと話していた。
ならば、素顔を晒しているのは、好ましいことではないのでは。
「あの、これから表を歩くんですが、顔を隠さなくていいんですかい? いや、別に凶手さまがそれでいいんなら、構わないんですが。ほら、仕事の時に必要になるんじゃ?」
つい考えなしに、言葉が口から漏れる。
藪をつついてなんとやら。
凶手が裁きを下さないのなら、そのままにしておくべきだった。
ここから生きて出られたのなら、リコウは考える事すべてが口に出る癖を、どんな手を使ってでも直すことを誓う。
死を覚悟して数秒、凶刃が己の首を断ち切ることはなかった。
不思議に思い薄目を開け確認する。
『汚レ? 掃除、スル?』
なにか呟いていたが、リコウには聴こえない。
凶手はポケットをあさり黒い布を出すと口に巻きつけた。
たしかにそれで人相を隠すことはできるのだが。
リコウはベッドの枕の横、無造作に置かれた黒塗りの老人の顔を模したお面を見詰める。
――顔を隠すなら、あれではダメなのだろうか。
不思議に思いながらも、何か意味があるのだろうと言葉を続ける。
「後、すぐに仕事の話になるんで、得物の方も携帯しておいて頂けますか」
リコウの言葉に、凶手は部屋を見回し仕事道具を探している。
素顔を晒したことは許してもらえたのだろう。
リコウは安堵の溜息をつく。
余り広くない部屋を端から端へ行ったり来たり、ようやく準備を終えたのか、男はリコウの前に戻ってきた。
その男の両手にある物を確認し、リコウの中に疑問が湧き上がる。
部屋の隅、木箱の奥に閉まっておいた箒と、汚れを落とすために使う古くなった衣服の切れ端で、どうやって人の命を奪うのだろうと。