17話
国境を過ぎ、風花の国に入って三日目。
街道沿いを馬車が急ぎ走る。
旅路を急いでいるわけではない。
そもそも、重い荷を載せた馬車を長時間走らせては、最悪馬が潰れることさえあるのだ。
御者はそんなことも知らないのか。
そうではない。
急がせる原因は、馬車の後方に迫っている。
牙をむき出しにして獲物を追う、黒狼の群れ。
追いつかれた後の事を考え、馬車の持ち主である御者の商人は冷や汗を流す。
馬車の中、幌の内側では、相乗りした母娘が抱き合って、神に祈りを捧げていた。
母親は悲壮な顔で、強く抱きしめられた娘は、状況がわからずされるがままに。
「ったく、街道の魔物は戦士団が駆除してくれたんじゃないのかね! ええっ!」
怒鳴る御者の言葉に、反応を返すものはいない。
流通を守るための街道の整備や、魔物の駆除は国の仕事だ。
そして国がそれを怠ることは、国力の低下にも繋がるのでありえない。
それに御者は街道を何度も通行しているが、魔物に襲われたことなど一度もなかった。
だからこれは異常な事態であり、国に文句をつけるのは筋違いかもしれない。
だが人間追い詰められた状況では、誹謗中傷の相手をゆっくり吟味している暇などないのだ。
「ああ、駄目だ。このままじゃ追いつかれちまう! 何か奴らを足止めするいい方法は」
馬車の中、乗り合い賃を取り、同乗させている皆に問う。
祈りに熱心な母娘は当てにならないし、膝に腕を汲んで座っている黒い外套の男は、先程からピクリとも動かない。
馬車の後方で、狼の様子を確認している残った二人に叫ぶ。
一人は隣国の紋章が彫られた鎧の若い男。
そしてもう一人は、彼より年のいった、二十三、四といった金髪青眼の美丈夫。
「こうなったら仕方がない。荷を幾らか捨て、奴らがそれに喰いついている隙に距離を稼ぐしかないな」
リオネルの提案に御者は首を振る。
「おい、おまえ。この期に及んで命より荷が大事だとは! 商人というのは一体どこまでがめついんだ」
御者に腹を建てたのは鎧のモリス。
「この糞ガキがぁ! そんなわけあるか。今積んでいる荷はなあ、絹布が殆どで食いもんなんてありゃしないんだよ! 後もう少しでフェタンに着くんだ。そうすりゃ、街の警備隊に助けてもらえるのによお。どうしてこうツイていないんだ、俺は」
怒りの矛先をモリスに見出し、御者は怒鳴りつける。
だが、そんなことをしてもなんにもならないと気付き、己の不幸を嘆く。
「いや、君の荷物の中にないのは分かったが、我々のがそうでないとは限らないんじゃないかな?」
リオネルは言葉の後に、馬車の客達を一人ずつ眺める。
御者もモリスも視線を追った。
三人の視線が、祈る母娘に集まり固定された。
馬車内で一番か弱く、狼達に好まれるであろう存在。
そして街中ならともかく、こんな人気のない街道である。
当人達が口を閉ざしてしまえば、誰にもばれることはないだろう。
視線に気づいたのか、母親の祈りは、いつの間にか止まっていた。
背中をモリス達に向け、娘を守るように抱きしめて首を振り続ける。
「お願いします! どうかこの子だけは。ケイトだけは! 餌になるのなら、私一人で足り――」
懇願する母親がなぜ泣いているかわからず、慰めるよう娘も抱き返す。
その母娘の姿に、魔が差したと御者も沈黙する。
「リオネル! なんて提案をするんだ。見下げ果てたぞ! お前は彼女達の姿を見てなんとも思わないのか?」
「ふむ、素晴らしい親子愛だ。彼女達を絵画にすれば、どれほどの人々を感動させられることだろう」
鼻息荒いモリスは、すぐに手のひらを返してきたリオネルに、つんのめる。
だが気を取り直して、すぐに拳を掲げた。
「何、安心してくれ。あの黒狼の群れは俺達が撃退する! 俺は勿論、癪なことだが、この二人もそれなりの腕を持っている。協力すればあれしきの魔物、物の数ではない!」
宣言する年若い戦士に、御者だけでなく母親も、疑いの眼差しを向けた。
熟練の戦士ならば、言葉だけで安心出来ただろう。
視線に気づいたモリスは咳払いをして、馬車の後口に足をかける。
「ふむ、私には少々扱いづらい。コレは君が使いたまえ」
そういってモリスに、片手剣を渡した。
受け取り、モリスは笑う。
「はっ、お前らが喰われそうになったら、しょうがないから、助けてやるよ! お前らは俺が挽回するための、大事な、大事な、ああと、証拠、犯罪者? まあいい、行くぞ!」
モリスは適切な関係が思い浮かばなかったのか、途中で言葉を切り、馬車を飛び出した。
狼の群れに立ち向かうその勇ましい背中に、
――リオネルも、ファンも、続かない。
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「ふむ、今だ、御者くん! 馬を急がせたまえ! ――何、口をぽかんと開けっ放しにしている、早くするんだ!」
勇敢に剣を振るモリスは、リオネルが馬車に残ったのに気づかないまま。
馬車は速度を上げ、彼の後ろ姿はどんどん小さくなっていった。
御者だけでなく、母親も眼を丸くしている。
己を抱く力が弱まったことに気付いた娘は、母の腕から顔を出し、周りを見た。
「ねえ、格好いいお兄ちゃん。お母さんや御者さんは何に驚いているの?」
「ふむ、賢いお嬢さん。誤解があってね。私は最初から、私達の『荷物』である鎧の彼を捨てると言っていたのに。どうやら、君のお母さんと御者さんは、『彼』ではなく『お嬢さん』が荷物だと間違えていたらしい」
娘は不思議そうに首を傾げる。
「嘘だあ。だって、私と鎧のお兄ちゃんは全然似てないよ! おかしいのー」
大人の間違いを見つけたのが嬉しいのか、娘ははしゃいだ。
「まあ、そういう彼も、『なぜか』君と自分のことを勘違いしていたようだがね」
はしゃぐ娘と目を合わせ、リオネルは不思議だなあと一緒に笑う。
「なに、仮にも王国戦士団の一員だ。死にはしないだろう。御者くん、安心して馬を急がせたまえ!」
その言葉を信じていいものか分らず、それでも恐怖から逃げるように御者は手綱を握る。
――遠くから黒狼の吠える声が聞こえている。それが失くならないうちはモリスも生きているのだろう。
騒動の間、一切動かなかった黒い外套の男の口から寝息が漏れていた。
御者の視線の遠くに、商人と神殿の街――フェタンの大門が見えてきた。




