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16話

 ◇


――ここはどこだろう。


 窓もなく扉もない、閉じられた白い部屋だった。

 壁を見れば緩く曲線を描いており、上から見た部屋の形が扇型の特殊な物であることを察することができる。

 部屋の中央にある椅子に腰掛けて、瞳を閉じていた青年が顔を上げた。


――ふむ、お腹は空いていない。


 腹具合から、眠っていた時間はそう長くないと推測する。

 青年は、己の置かれた状況を理解できない。

 ここがどこなのだろうかと、見覚えのない場所に首を傾げる。

 着せられた覚えのないやや大きさに余裕のある白衣。

 それらを気にすることもなく、この不可思議な状況に好奇心が湧く。

 青年は、あたりを見回し図太い神経で物色を始めた。


――それにしてもこの部屋は一体何を目的として作られたのかな。


 部屋の出入口がないのでは、監禁の用途には使えない。

 中にいる人間を餓死させ、棺桶として使うには広く大仰すぎる。

 中央にはこれまた床や壁と同じ白の基調でまとめられた備え付けのテーブルと、青年の座っていたものとは別にもう一脚椅子があった。


 ざっと見回した限りそれ以外に目立ったものはなく、壁を叩いて反響を調べてみたが素手で壊せるような脆い物ではない。


 青年は先程座っていた椅子をテーブルの横に持ってきて腰掛ける。

 どうしたものかと思案する青年の視界に、チラチラと映り込む影があった。

 怪訝に思い、目を凝らすと、それが人間の手だという事に気付く。


――生きている人間か。


 そしてようやく向かいの椅子に座って、必死にこちらに手を振っている自分と同じ白衣に袖を通した男を認識した。

 ●


 今迄男の存在に気づかず無視していたことになるのか。

 男に気にした素振りはない。

 嬉しそうに目尻を下げ、青年の手を取ると幼子のようにブンブンと振り回した。


――こちらに害意はないらしい。


 楽しそうな男の気分に、謝罪の言葉は水をさすようで気が引ける。

 彼の気が済むまで、青年は大きく上下に動く己の手から力を抜いた。


 男が握手に満足してから、改めてお互いの顔を確認する。

 男の年の頃は自分と同年代で十代後半から二十に届く位に見える。


 二人の顔立ちはどこか似ているが兄弟という程に近いものではない。

 なのに家族のような共感があった。


――もしかしたらここは病院なのかもしれない。


 服装は互いに白い一枚布を体に巻きつけているだけ。

 青年達の黒髪に黒目だけがこの部屋で唯一の有色を表していた。

 部屋や服の白は清潔さだけではなく、病気や死を連想させる。

 とすると自分たちは患者なのか。

 この部屋にいる経緯を思い出せないのは、精神的な病気のせいかもしれない。


 青年と男はどこか夢見心地の様子で、今いる部屋の壁などを触り質感を確かめる。


――これは手詰まりだ。


 数秒見回すだけで、すべての確認が終わる狭い部屋だった。

 家具といえる物は二人の座っている椅子とテーブル。

 その上にある、手のひらに乗るぐらい彫刻。馬の手綱を引き歩く、旅人をかたどった物があるだけ。

 早々に探索が終了してしまい、二人は時間をもてあます。

 彫刻すら白く、部屋の作り主は病的にまで色を付けること嫌っているのか、もしくは白に特別な思い入れでもあるのかと二人は首を傾げる。

 男は言葉を喋ることはせず、手振り身振りで意思の疎通を青年に図ってくる。


――なんでわざわざ、手振りで。


 ここで初めて男の口がきけない可能性に、青年は気がついた。


 喋れないことにコンプレックスでもあるのだろう。

 青年の視線が、己の口に注がれていることに気がつくと、男は白衣の袖をちぎり巻きつけ口元を隠した。


 口布を付けた男は、青年と比べ存在が希薄で、枯れ木を連想させる。


――申し訳ないことをしたのかな。


 男の手振りを受けた青年は、それを理解するために、一つ一つの動作の後に、確認の質問を繰り返す。


 ある程度、意思の疎通が可能になった後は、話し手は、口布の男の独壇場であった。

 手振りだけではあるが、話し手となった口布の男は、まるで数年ぶりに人と話でもするかのように奮って動き続ける。

 その表情は作り慣れていないのか、不器用なものであったが、それでもなお歓喜で溢れてることが分かる。


 受け手となった青年は話し手の両手の動きがだんだん早くなるに連れ、内容の半分も理解できなかった。

 だが、話す内容ではなく、男が満足することが重要であると、尋ね返すことはしなかった。


 部屋の中、誰かの残していった鉢に、小さな花が咲いたこと。

 齢十と少しの頃からつけている日記を最近サボり気味だなど、当人ですら、内容の連なりが理解できない程になってようやく、男が満足する。

 己が夢中になっていたことに気づき、恥ずかしげに笑う。

 それに青年が微笑みを返した。


 弛緩した空気が部屋に満ちる。

 外界との繋がりがない白い世界。

 薄々ではあるが、ここがどこであるか彼等には検討がつき始めていた。

 青年が、ポツリと呟く。


『これは夢だ』


 余りにも現実味がない白の中、その言葉は響く。

 頷いたのは声を発せない男だけではなく、青年も己の言葉に首を縦に振る。

 その動作が揃っていること、それがおかしく、二人は吹き出してしまう。


――妙な、そして楽しい夢なのかな。


 夢の中。自分の想像の人物である眼の前の男。

 その男が、夢であることを肯定してしまった事。

 それが青年の笑いを誘ったのだろう。


 青年はこんな夢もあるのだろうか、笑みを留めたまま首を傾ける。

 それを見た口布の男は眩しそうに目を細めた。


 そろそろ夢から醒める刻限なのだろう。 

 部屋の壁にいつの間にか扉が現れていた。

 その扉の外から光が漏れ、よく知る誰かが青年の名を呼ぶ声が聞こえた。

 青年は失語の男に、夢から醒めることを告げ別れを切り出す。

 寂しそうに手を差し出してくる彼の手を握り返す。

 己の頭の中での出来事なのだが、また会えたらいいなと、他愛もないことを思う。


 目があった口布の男の暖かさをたたえた瞳から、この出会いを、この夢を、彼も喜び、惜しんていることが察せられた。

 ただ、その後に視線をそらし、男が自身の両手に憎しみ込めた視線をくれていたことが、青年には気がかりだった。


――また夢で逢えたら。


 別れの声に対して、手を振り返し男も扉に向かい歩いて行った。

 この部屋に残る気はないらしい。

 そうして現れた扉を失語の男がくぐり抜けていくのを見て、それに続こうとしたのだが、彼が部屋を出るのと同時に扉がただの壁に戻ってしまった。

 少しの間呆然として、残された青年は目を点にするが、気を取り直し夢が覚めるの待つ。



 しかし、一行に、夢が終わることはない。

 現実での時間は分からないがそろそろ目を覚まさないと、色々なことに支障が出るかもしれない。

 夢の中なので、具体的に思い出せないが青年は焦り始める。

 

 どうすればいいのか。

 焦り部屋を見回すと、先ほどの扉とは反対側の壁に、もうひとつ扉が出来ているではないか。

 青年は飛び上がり、扉を開け、外へと向かう。


 ――ちなみに、その扉から聞こえてくる言葉が、青年が今まで一度も聞いたことのない言語であることに気づく間もなく。



 ●


 そして『彼』が眼を覚ましたのは狭い部屋だった。

 手入れが行き届いているのだが、人が長らく住んでいた気配がない。

 窓から入る陽射しが起きるにはいささか遅い時間だと教えてくれる。

 その暖かさが瞳にしか感じられず、手を顔に伸ばすと己が面をつけていることに気付いた。

 特に顔を隠さなければいけない理由も思いつかず、引っぺがしベットに放り投げる。

 転がった面は、黒塗りの立派なもので、美術的に価値が有るものなのかもしれないが、普段使いにするには奇抜すぎるし、そもそも顔を隠して生活する事自体間違っているような気もした。

 

 ドアを叩く音が聞こえる。

 己は部屋の主ではなかったはずだ。

 応答するのはためらわれ、息を潜める。

 だが、ドアはしっかりと閉まっておらず、赤茶けた髪を後ろに束ねた男が顔を見せた。

 『彼』はその男の顔に覚えがない。

 しかし、男は彼を見知っているように話を進めていった。

 普通ならば、すぐに男の素性を尋ねるべきなのだろう。

 だが、『彼』が訊いたのはもっと根本的なもの。


――素性の知れぬ男が、礼を捧げている黒い外套の男。そんな己が一体誰なのかということだった。


 ●

 記憶がないことを理解した男にとって、初めて見る世界の情報量は、膨大で新鮮なものであった。

 だから口を挟めず、次に顔を合わせた樽腹の中年男の言葉にも、流されるままに従う。

 もっとも、口を挟まなかったのは声を出すと喉に痛みが走るという理由もあったからなのだが。

 そして流されるままに仕事の依頼を請け負う。

 生きる上で、労働とは己の根幹に関わるものである。

 たとえ記憶がなくとも、ないからこそ、それらをぞんざいに扱うのはひどく危うい気がした。

 立っている場所がわからない。

 そして周りを囲むのは見知らぬ人ばかりの現状、頼れるのは己だけだ。

 だから己の生きる糧を失うわけにいかない。

 そうして、出会う人々から情報を引き出す綱渡りが始まった。

その途中に、話の中から、わからない言葉を思い出し、己の取った行動から、躰の使い方を把握していく。


 ――ただ、不思議なのは、気配の殺し方、この大陸の言葉、それらを男が思い出すと、身体に、喉に馴染むのに、心にひどく違和感を覚えることだった。


 

 もとは己がしてきた事。

 だが当たり前である事を行うたびに驚きもした。

 己はこんなに早く走れただろうか、これほどの距離を跳べただろうか。

 だからといって出来る事をやらないわけにはいかず、それらを行使し領城の牢屋の前に来てしまう。


 そこで己は『掃除屋』ではなく、『殺し屋』であると知ったが、職業に貴賎を作るのは間違っていると気を取り直し、与えられた仕事を全うすることにした。


 それが今までの流れ。


『――牡牛の月、二十、と一つ。現場、拾った杭でこなす――』


 己のことを知るため外套の内ポケットにあった手帳の一文を指でなぞる。

 

「まさか君が馬に乗れないとはね。男を後ろに乗せる趣味はないので、近くで乗り合いの馬車が捕まって助かったよ。ああ、どたばたしていて肝心なことを聞いていなかった。――私はリオネルだ。殺し屋に尋ねるのは気が引けたのだが、大切な旅の友になるのだ。君の名を教えてくれるかな?」


 朝日が昇る時刻。

 小川のすぐ傍にある木に背を預けた暗殺者に、牢屋での汚れを落とすため水浴びをしていた髭の男――リオネルが尋ねた。


――名前、か。


 手帳の裏表紙、整った大陸共通文字で書かれたものはバッテンが上から書かれている。

 他に名前らしいものがないので、適当に開いたページの頭から取った。

 汚い東方文字で記された一文字、それを名乗る。


『――ファン』


 宜しくと差し出したリオネルの手をファンは握り返す。

 

――交わしたのとは反対の手で、ファンは素早く短剣を構えて、リオネルの顎に突きつけた。

 少し離れた草むら。

 商人の馬車の横に身体を隠して、未だ半裸の男――モリスが二人の様子を窺っていた。



――仲間割れか。

 二度も痛い目に遭わされ、消沈気味であったモリスは嬉々として駆け出す。

 モリスの人生は昨夜の数時間たらずで、勢い良くどん底に落ちていった。

 これを挽回するには、犯人である二人を、自らの手で捕縛するしかない。

 しかし、認めるのは悔しいが、モリスの実力では二人を拘束するのは難しい。

 領都の門を出て何度かリオネルに襲いかかったのだが、全て返り討ちにされ、そう悟った。

 だから、モリスは二人に同道し、気を抜いた隙を狙うことにした。

 そして早くも機会が訪れたのだ。

 逃すまいと、近くにあった木の棒を握りしめて、二人の下へ。


「ああ、助かるよ。いい加減、鬱陶しくってね――で、君も懲りない人だね」

 

 突きつけられた刃を手に取り、リオネルは髭を切り落としていく。

 行き場を失ったモリスは川原で、日課の素振りを始めた。


「ついでに、あれも、そう。ファンが使っていた紐も貸してもらえるかい」


 もっさりとした髭がなくなり、一緒に切り揃えられた髪は、鋼糸で後ろに束ねられていく。

 ただそれだけの事で、切れ長の瞳、整った鼻梁の甘い容貌に。

 くすんでいた髪は、小川の水で汚れが落ちて、鮮やかな金糸に変わる。

 十人に聞けば十人が口を揃える。

 文句のつけようのない美男がそこにいた。

 馬車から出発の声がかかる。

 唖然とするモリスを残して、服を羽織りリオネルは馬車に向かう。

 そしてファンも後を追った。

 水面に映る己の顔と見比べ、どこか釈然としない物を感じながらも、モリスは取り残されるわけにはいかないと二人の後を早足で追う。


「――ところで、君はいつまで付いて来るつもりかね? そろそろ諦めてはどうかな。もう手遅れなわけだし」


「ふん、俺は絶対にお前達を逃すつもりはな、い――まて、手遅れってどういう意味だ?」

 

 前を行く背中、引っ掛かりを感じモリスは問いかける。


「――ここまで愚鈍な人間を見るのは久し振り、いや、初めてかもしれないな。ふむ、その愚かさに敬意を評し、説明してあげよう。まず、ファンの実力は見たものでなければ信じられない程の腕だ」


 阿呆を見る目のリオネルに腹を立て、モリスはそんなことは知っていると話を切った。

 だから二人を捕まえるのはモリスには到底かなわぬことだ、諦めろと言っているのだろうか。


「少しでも賢い人間になりたいのなら、話は最後まで聞き給え。次に彼はその技術を駆使して誰にも気付かれずに、警備のある表門から侵入した。そして、見事、私を救い出し裏門を強引に突破したわけだ」


 リオネルはまだわからないのかと挑発するように立てた指をモリスの鼻先に持ってくる。

 モリスはそれを払いのける。

 説明されたことは、実際にモリスが目撃したことだ。

 それのなにを理解していないというのだろう。


「だから、君はそれを見たから実感し、理解できた。ならば、彼を見ていない城の者達はどう思うのだろうね?」


 暗殺者の技量は人伝に教えられても信じられないものである。

 おそらく目撃した者の証言でも、懐疑的な視線を向けられることであろう。

 少し考えるがリオネルが伝えたいことが分らず、先を促す。


「つまり、だ! 連想してみたまえ。 裏門は内側からしか開かず。そして表門は無事だ。侵入者は一体どこから現れたのか? もちろん、ファンは誰にも目撃されていない」


 モリスの脳裏を嫌な想像がよぎる。


「――極めつけが、昨夜、牢の警備を任され、依然、行方をくらましている若い兵士」

 

 ほとんど答えが出尽くした。


「まあ、手配書が出回るのは、顔を知られている君、次に私の髭面の順番かな? ところで、この鎧なんだが、私の趣味ではないし、君に返しておくよ」


 牢屋破りの内通者、モリスの現在の肩書だった。

 彼は悲鳴を上げ、それに馬車に繋がれた馬が動揺する。

  

 それが旅の始まりだった。

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