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薄闇の中、時計の針の音だけが静かに響いていた。
ネームドは、自室のベッドに横たわり、虚空を視ていた。意識は、はっきりしている。眠れなかった。眠らなければならない。休まなければならない。だが、心がそれを許さない。
機動装甲歩兵の操縦は、軽い労働なわけではない。疲れていないわけではない。全身は倦怠感に包まれている。それでも、眠ることができない。何故かは、言うまでもない。人を殺したからだ。
敵とされる存在であっても、悪とされる存在であっても、人を殺したことには変わりはない。そんな、なまぬるい思想に、ネームドは囚われていた。
平和の国に生まれ育った者は、奪い殺し合うことなく生きてきた者は、倫理、或いは、道徳というシステムによって縛られる。無意識に刻みつけられた呪いに支配される。
ネームドは、日本人だった。ただ何となく生きているだけで、生きてこられた。だから、心が軋む。
優しい世界ばかりではないことを知っている。綺麗な世界ばかりではないことを知っている。第四世界においては、戦場においては、全く意味のない感傷でしかないことを理解している。それでも、ネームドは、懊悩する。責任を転嫁しない。
任務だから、命令だから、悪だから、だから、仕方なく殺した。などとは考えない。自身が殺すことを選び、そして、殺した。それを認識した上で、それでも、ネームドは、自身の行動を否定しない。
意識は理に拠って、支えられていた。倫理武装に破綻はない。それは、つまらない論理でしかないが故に、絶対だった。
だが、それでも、心は拒絶する。理を無視し、感情に任せて、ただ蔑む。責め、呪う。対話できない。
ただ、不快だった。そして、それは、新たな感覚だった。弱さを知った。思い知っている。
ネームドは、闇に掌を翳す。
感じていた。うずく。あるはずのない感覚を幻視していた。人の肉を刺し貫いた感覚。感じられるはずがない彼方の感覚。ありえない感覚。
擬似体感によってもたらされる感覚は繊細なものではない。触れているか、触れていないか、その差を感じることはできる。だが、触れているか、握っているか、その強さを感じることはできない。
だが、感じていた。その瞬間の感覚。その残滓を現視していた。硬くもなく柔らかくもないその質感を、抉る感覚を錯覚していた。
ネームドは、てのひらを握り、そして、開くことを繰り返す。まとわりつく不快な疼きをまぎらわすために、振り払うために、繰り返す。だが、疼きは止まない。
眠れなかった。
ふと、ノックをする音が微かに響いた。
忘れていた。既に、どうでもよくなっていた。性欲などありはしなかった。それでも、ネームドは、身体を起こし、追い縋るように、ベッドから降りた。
誰かがいれば、考えなくていい。何かをしていれば、感じなくていい。まぎらわせたかった。ただ、それだけだった。そこに、感情などありはしない。そこに、想いなどありはしない。
ネームドは、鍵を解き、扉を開いた。そこには、制服を纏った金色の髪の美しい女がいた。ネームドは、女を自身の領域に招き入れた。
女は、女でしかなかった。幾度となく言葉を交わし、情を交わした。だが、未だ名を知らない。
「着替えたのか」
「私も、シャツ一枚で来たいんだけど、そんな姿で貴方の部屋に入るところを視られでもしたら、お互いに困ったことになるわ」
ジェーンは、言いながら、上着を脱ぐと、放るように椅子にかけた。
「此処に来るところを視られたことはないのか?」
「時間を選んで来ているから、でも、なくはないわ」
「どうやって、ごまかしているんだ?」
基地の敷地面積は狭くはない。だが、コミュニティは狭い。噂があれば、数日で広がる。それが、色恋話となれば、特に速い。
ベルとノーマッドの名は、しばしば、囁かれるが、ネームドとジェーンが、主人公となることは今のところはない。
「誰かに犠牲になってもらうことが多いわね」
「どういう意味だ?」
「選んだ人の部屋に行って、呼び鈴を鳴らします。部屋には入らず、出てきた誰かを廊下から叱責し続けます。三〇分も続ければ鼠が消えます」
「酷い話だ」
ネームドは、ジェーンと寝た次の朝、顔色の悪い人間をみつけたら、朝食を奢ってやろうと誓った。
「さ、そろそろ、はじめましょうか」
細い指がシャツのボタンを外していく。
性欲はなかった。だが、白く美しい肌があらわになるにつれ、否応なく、欲望は高められていく。
ネームドは、手を伸ばす。そっと彼女の胸に触れる。鼓動を感じた。暖かさを感じた。その柔らかさが、その生が、穢れを拭っていく。




