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「投下」
その音が響いた瞬間、視界は激しく揺れた。
全身を軋ませるような空気抵抗はなく、血が逆流することもない。何も感じない。何も聞こえていない。ただ視ていた。
現在の状況を伝える感覚は、視覚、ただ一つ。それだけなのに、意識が、全身が、緊張する。遠近感、速度感は歪み狂っている。
意識は、浮遊感に支配されていた。それは快い錯覚だった。強く響く鼓動が心を奮わせる。
一〇〇二七メートル、二八〇キロメートル毎時、一三〇・八九秒。地表までの距離、落下速度、墜落までの推定時間、HUDに表示された数字が刻々と書き変わっていく。
怖れはない。絶対に死ぬことはないことが解っている。だが、それだけではない。それに迫る強い力で自信が支えていた。自身の実力を知っていた。
何なく成功させてきたことを、繰り返す。それだけに過ぎない。
闇だけがあった。何も視えはしない。標はない。宇宙を漂流しているような錯覚。感覚は溺れ、方向を失っている。ただ、失われていく数字が空から大地へと向かっていることを示していた。
ネームドは、ただ、時が止まったかのような時間の中で、その時を待った。
一瞬のようにも、永遠のようにも感じられる時間が終わり、そして、闇が霞み始める。
高度三〇〇〇メートル。微かな輪郭が象られはじめた。ネームドは、闇の深くを凝視しながら、両腕を広げた。空気抵抗により、落下速度が微かに削られていく。
高度一五〇〇メートル。数秒前、微かだった輪郭が確かさを纏いはじめていた。ネームドは、瞬きし、そして、両腕を握り込んだ。サインがトリガとなり、機体背部の降下ユニットから落下傘が放出され展開する。
低高度開傘とは、言えない高さでの開傘だが、失敗ではない。人型であっても、人間ではない。質量は、その比ではない。速度が同じであっても、減速には時間がかかる。
ヘッドアップディスプレイに投影される高度は、急激に減速した。だが、殺しきることはできていない。まだ、機体は自壊するに必要十分な運動エネルギーを纏っていた。
九〇〇メートル、七〇〇メートル、五〇〇メートル。
浮遊感が失われ、遠近感と速度感が機能し始める。輪郭だったものが、密林となり、森となり、そして、木々となり、迫る。だが、すべきことはない。ネームドは、風景の中へと吸い込まれる自身を空想し、俯瞰しながら、静かにその時を待つ。
三〇〇メートル、二〇〇メートル、一〇〇メートル。
数秒の一瞬があり、そして、ネームドは、握られていた両の手の指を強く広げた。
機体背部の降下ユニットから、左右にワイヤーネットが展開され、高い木々の枝々に絡みついた。木々をへし折りながら、一方で、木々を蹴り躱しながら、機体は減速を続け、やがて、運動エネルギーは完全に失われ、機体は落ちることを諦めた。
高度一三メートル。
人型は磔られたかのような姿で、ワイヤーに吊られ、揺れていた。
「機体の静止を確認。ワイヤーをパージする」
降下ユニットからワイヤーを伸ばして、吊られながら降りても良かったのだが、ネームドはそうしなかった。降下ユニットのワイヤーが切断され、束縛から解放された機体は、重力に導かれた。ふわりと舞うように落ち、間もなく、鋼の足跡を大地に深く刻んだ。
人型は、ゆっくりと膝を立て、身体を起こした。
「降下成功。降下地点はポイントF-8-3」
ネームドは、カメラを赤外線モードへと切り替え、周囲を警戒する。次いで、機体にダメージがないか確かめるため、自己診断プログラムをロードした。人の身体に備わった異常感知機能である痛覚、自己診断プログラムは、その代替に他ならない。
降下は完璧だった。ダメージはない。ネームドはそう考えているし、事実、そうであった。機体には、木々との衝突を想定し、機体へのダメージを最小限に抑えるため、耐衝撃外装が装備されていたが、それが効力を発揮することはなかった。
機体に違和感もない。だが、一方で、痛みを感じられるわけではない。異常がないか、確かめておくに越したことはない。
「ネームドより、各機、状況を報告せよ」
「こちらベル、降下成功。機体にダメージはない。降下地点はポイントE-8-6。周囲に異常なし」
続いて、スリープ、ノーマッドから、同様の報告が入り、
「こちらムーンキャット、降下成功。機体にダメージはない。降下地点はポイントE-9-6。周囲に異常なし」
最後に、ジェーンの声が響いた。
「ネームドより全機へ。オペレーションオーダーに従いポイントE-8-4に集結、その後、ターミナルの投下に備える。全機行動開始」




