11
現時点においては、フェブラリーの言葉に偽りはなかった。
ネームドは、同じ空間にある、同じ席に座っていた。操縦席はシミュレータであり、シミュレータは操縦席だった。無機的な言い方だが、それが事実でしかない。
オペレーターの環境は何も変わらない。ただ、動かす対象だけが変わる。仮想ではなく、現実で動かす。幻ではなく、現実を動かす。ただ、それだけだった。
「何もないか」
ネームドは、フェブラリーの言葉を、ため息をつくように紡いだ。
「これより、機動装甲歩兵の第二段階操縦訓練を開始する」
ジェーンの声に、ネームドは現実に引き戻された。考えるのをやめ、声に集中する。
「起動方法は変わらない。接続先はこちらで入れ換えている。シミュレータの起動と同じ手順を踏めば、現実の機体へのリンクが確立される。繰り返すようだが、何も変わることはない。気負わず、機体を操縦することに集中しろ」
「了解。起動シークエンスに移ります」
ネームドは答え、ユーザーアイディーとパスワードを入力する。網膜認証を抜け、初期設定、調整などの項目が表示される。そこまでは同じだ。そこまでが同じだった。
瞬きをすると、視界には、憶えのない、オペレーションシステムの起動画面が展開していた。黒い単色の背景、中央には、オペレーションシステムの名称"Links"と、そのバージョンが銀色の文字で表記されており、下方には、長くもなく短くもないインジゲーターが表示されていた。
処理の進捗状況を知らせるプログレスバーは淀みなく充ち、そして、全てが失われた。
数瞬のブラックアウト。
そして、世界が創造されるかの如く、光は広がった。
色が収束し、歪みが収束する。視界に世界が投影される。
眠りから、還るように、醒めていた。
その場所には、薄く暗い空間があった。そこは、シミュレーターで幾度となく、観てきた格納庫だった。
ネームドは、ゆっくりと身体を起こした。
身体は動いた。
地に足をつけ、寝台を降り、立ち上がる。問題は何もない。意識しなくても、考えなくても、ただ、思うがままに動く。自身の身体のように動く。
動く。動かせる。違和感はない。だが、違っていた。いつものようであって、いつものようではない。
ネームドは確かめるように、初めてシミュレーターを起動した時のように、掌を覗く。そこには、やはり、黒く無骨な外骨格があった。
壁に近づき、右の手を伸ばす。壁面にそっと触れると、触れていると感じられた。グロープに充填された空気によって、指先は圧迫され、そう錯覚させた。繊細な感覚が求められる前腕にのみ実装される機能ではあるが、それは相変わらず、気持ち悪いくらいにリアルだった。
ネームドは、おもむろに左の手を握りこみ、弓を射るように腕を引き、壁に殴りかかる。
「距離感も問題ないか」
壁に接触する寸前に拳は止まっていた。意図した行動を機体は完全に実現していた。
ネームドは、歩き、走り、跳ぶ。触り、掴み、投げる。感覚は全く同じだった。わずかな狂いさえもない。
それは、ナノマシンによる脳波増幅の効果に他ならなかった。シミュレーターにおいては、手脚の動きに追随して機体は動いていたが、現実においては、脳波に追随して、現実の自身と現実の機体が同期して動く。完全なる一体感は、それ故のものだった。
「私の偉大さを身を以て知ることができます」
フェブラリーの言葉が想起させられる。言葉は現実となっていた。確かに、感謝し、尊敬せざるを得ない。機体に合わせる必要は全くなかった。ただ、動かしてきたように、動かせば、動かすことができた。
だが、それだけではなかった。より高みへと至れる予感があった。
まだ、動かして間もない。機体の限界は、まだ解らない。解らないほどに、至れないほどに遠かった。
計り知れない機体の完成度に感嘆しながら、同時に、シミュレータの再現性が如何に高かったのか、ネームドは、あらためて、気づかされていた。現実で機体を動かし、それを身を以て知った。広く深く高くなった。だが、噛み合わないところは何もない。だからこそ、この機体についていける。
「何もないか」
フェブラリーの言葉を呟き、苦く笑う。
ネームドは、ただ、心の中で笑いながら、機体を動かし続け、やがて、気づけば、息が上がっていた。動き疲れ、天を仰いだ。射し込む陽光が微かな塵の存在を曝していた。
現実的ではない。だが、それは、現実だった。
シミュレータは、シミュレータとしては、完璧だった。ただ、どうすることもできない領域がある。風景、設置されたオブジェクト、そして、機体。それぞれの輪郭を凝視すれば、それがつくりものであると解ってしまう。
探さなければみつからない。だが、探せば世界の綻びがみつかる。完璧ではない。現実のようであっても、現実ではない。そうであるはずがない。現実ではないのだから、
ネームドは、格納庫の扉を押し開いた。
一面に広がる乾いた大地。地平線、青い空、白い太陽。世界を吹き抜ける風。空気の色。
ここには現実があった。世界の完璧さ、そして、美しさを想わずにはいられない。
瞳に映るものが違う。それだけなのに、どうして、こんなにも心が動かされるのか?
知らず視界が歪んでいた。頬が濡れていた。ネームドは、惑うしかなかった。
茫と彼方への想いを馳せていると、ふと、砂を噛む音が響いた。振り向くと、そこには三機の黒い人型がいた。そして、
ネームドの口元が歪む。
「そういうことか」




