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「Portalより酷い」
ノーマッドがとつと呟いた言葉に、その意味が解る者は強く共感せざるを得なかった。
「気を落とす必要はありません。誰もが強いられた、避けられない通過儀礼ですから」
フェブラリーが紡いだのは慰めの言葉だった。表情には微かに翳りがあったが、それは失望しているというより、どこか拗ねているようだった。こうなることは、解っていたが、それでも、もしかしたら、もしかする。そういう気持ちで望んでいたのかもしれない。
「無様ね。解っているでしょうけど、床掃除は貴方たちがするのよ? ヘルメットの中で吐かなかったことだけは褒めてあげるけど」
そして、ジェーンは相も変わらずに容赦がなかった。
格納庫の床を磨かされた日から、アヴァロンは嘔吐感との戦いに明け暮れることとなった。
数日後、酔い止めと称される錠剤を渡されると、四人は無言でそれを受け取った。
「何故、初めから渡さなかったのか?」
言葉はなかったが、鋭い視線は、そう告げていた。
フェブラリーは、恨みがましい視線にたじろぐと、釈明するように話した。
「薬はバイタルに影響が出るから、飲んで欲しくないんです。それに、気休めでしかありません」
果たして、その言葉通り、その日も、四人は盛大に嘔吐した。
四人は、考えあぐねた末、転倒してから立ち上がるまでの動作を機械的に身体に憶えさせることから始めることにした。転倒する度に、打ち上げられた魚の如く跳ね廻った挙句、嘔吐していたのでは、歩行訓練さえままならない。
うつ伏せの状態のまま立ち上がることを、まずは諦め、仰向けになり、それから上半身を起こし、床に座った状態から、直立へと移行する。実戦的とは言えないが、前後上下が把握しやすく、確実性が高いこの行程を習得してからは、嘔吐の頻度は確実に減った。
減りはした。だが、それだけでは、零にはならない。歩いているだけでも、せり上がってくるものはある。上下に揺れる視界が、臓腑を刺激する。結局のところ、身体が、感覚が、もう一人の自身の存在を受け入れるまで、繰り返すしかなかった。
「地球上に存在する如何なるノリモノに乗っても、酔うことはなくなった」
スリープが公言し、それにネームド、ノーマッド、ベルが同調するまで、結局、一月を要した。意外なことに、身体能力が最も高いベルが最も順応に時間がかかったが、とはいえ、数日の誤差に過ぎない。
嘔吐期間中、ジェーンは、ヒステリックに喚き散らし、アヴァロンを罵倒し続けた。だが、アヴァロンが、酔いを克服した日を境に、女性士官の叫声は失われ、代わりに、その口元に怪しい微笑みが灯るようになった。
酔いの克服如きで、ジェーンが穏やかになるわけがない。呪縛から解き放たれたアヴァロンが、その片鱗を、その力を、示し始めたからに他ならない。たった数日の間に、機動装甲歩兵の動きは、劇的に変わった。生まれたての鹿から、人のそれへと至り、遂には、陸上競技選手の領域に手をかけた。正に、進化であった。
アヴァロンは、下半身の制御をより完璧なものにするため、ただひたすらに、歩き、走り、跳んだ。軽やかにステップを踏み、或いは、力強く地に足を根付かせ、感覚を磨いていった。反復し、反復し、反復し、新たな神経に刻み込んでいく。
半規管が順応してから、半月、転倒した時、座り直してから立つという安定行動を選択していたということは、既に、過去の話でしかなくなっていた。アヴァロンは、既に直立へと体勢を復帰させ得る姿勢の限界点を完全に把握するに至っており、そも、転倒すること自体がなくなっていた。
ただ、研鑽のために身体を伏せ、そこから、如何に、正確に、そして、早く、身体を起き上がらせることができるか、四人は試行錯誤を繰り返した。
うつ伏せから、仰向けから、様々な姿勢から、実戦的に、或いは、曲芸的に、様々なやり方で、その身を戦闘態勢へと移行させる。そこに機械的なぎこちなさはない。まるで人のようだった。
アヴァロンが絶対的な感覚を掌握したと判断されると、訓練は次の段階へと移行した。世界を構成する自身以外の何かとの対峙。すなわち、相対的な感覚の掌握である。
アヴァロンが初めて行った機動装甲歩兵同士の組手は、間の抜けた演武に過ぎなかった。
殴る、蹴る。それぞれの機動は様になっている。迫力があった。空気を裂く音が、その速さ、その重さを証明している。一つ一つが、人間を絶命させられる威力を伴っていると伝えている。
だが、距離感が掴めていない。だから、中ることがない。
操縦しているオペレーターは真剣である。だが、傍から視れば、緊張感のない盛大な空振り合戦が繰り返されているようにしか視えない。
「何を怯えている! 踏み込め!」
ジェーンの声がヘルメットの中で鳴り響く。だが、それでも、前に出れない。
「腰抜けめ!」
その言葉は的を射ていた。
ただ、距離感が掴めていないだけではない。眼前で猛威を揮う威力が恐ろしかった。
中っても、死ぬことはない。痛くもない。中てても、殺すことはない。壊すこともない。感触は伝わらない。それは解っている。仮想だと解っている。それでも、眼前の光景は、あまりに現実的で、心が竦む。どうしても、無意識がそうさせる。
だから、ネームドは、瞳を瞑った。一歩、二歩、踏み込み、瞳を放つ。眼前には、暴力があった。
躱せた。
躱し、それに合わせて、反撃することもできた。だが、ネームドはそうはしなかった。
その威力を体感すべきであると、そう判断した。そうしなければ、憶えない。だから、ネームドは、そうした。
視界は、左から右へと跳ね、そこから心なしかゆっくりと舞い、漂い、そして、激しく揺さぶられた。地に横たわり、天を仰ぎながら、ふと、ネームドは呟いた。
「憶えた」
真っ白だった。初期化されていた。
その痛みを、感じない痛みを、体感した。解っていたことだ。確かめるまでもないことだ。だが、確かめる必要があった。感じない痛みに怯えていたのだから。
ネームドは考え、行い、そして、確信へと至った。この訓練において、まず、すべきことは、痛みを憶えることであると、恐怖の克服に他ならないと。
「ベル、スリープ、ノーマッド、動くな」
ネームドは命じ、そして、容赦なく殴った。




