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「シューズ、シート、グローブ、ヘルメットはパーソナルデータに基づいて最適化してあります。求められれば、調整には応じますが、とりあえずは、現状を試してみてください。違和感を掴める領域まで感覚が辿りつくには時間がかかると思います」
デバイスは調整が可能。
ネームドは、フェブラリーの言葉を圧縮し、頭の中で繰り返す。
「機体は此処にはありませんが、訓練で得られたパターンデータは、シミュレーターからプロトタイプを経由し、それぞれの機体の主記憶装置に蓄積されていきます」
シミュレーターで得た経験値によって、機体は最適化されていく。
言葉を繰り返し、記憶を刻みつけていく。
「脳波、呼吸、脈拍など、バイタルサインは監視しています。平常値を逸脱した場合は、こちらでシステムをカットします。ただし、基本的に、体調の管理はご自身で行なってください。体調の不良を自覚した時は、ただちに申告し、休息をとるようにしてください。私は心優しいですが、あなた方を心配しているだけというわけでもありません。不健全なデータは、健全なデータと干渉、競合します。体調が感覚に影響を及ぼすことは、言うまでもないでしょう。常とは異なる感覚で得られたデータは、全体の精度を下げるノイズに、他ならないということです。無理をすることは、ゼロでさえなく、マイナスであることを、理解していてください」
監視されている。嘘はつけない。コントロールルームから、システムのカットができる。
ネームドは、繰り返しながら、その時を待った。
そして、言葉は告げられた。
「では、はじめましょう」
その時が、ついに来た。
身体の中心から、鼓動が響く。高く、重く、強く。深く呼吸をして、抑えようとする。だが、抑えられない。
「ディスプレイを投影。視覚を同期させます」
声の残響に操作されたかのように、ヘルメットのインナーシールドに世界が広がった。
憶えのない構造だった。だが、それは現実的だった。剥き出しの鉄骨が入り組む天井、強い光を放つ大口径のライト、眩しく、だが、それでも、薄暗く感じられる空間があった。その中央に立っていた。視界を巡らせる。人の痕跡はない。ただ整然として、破綻がない空間。仮想の現実、現実のような仮想がそこにはあった。
感覚が狂っている。
眼球を動かすと、投影される視界が同期して動いていた。まるでそこにいて、それを視ているような錯覚に背筋が震えた。
「腕を同期させます。ゆっくりと動かしてみてください」
なんとなく、意識せず、腕を動かした。抵抗はない。腕を動かす感覚に変わりはない。ただ、胸の前にある掌は、視界に映る掌は、そこにあるべきものではなかった。己の手ではなかった。人の腕ではなかった。
厚く大きな掌、太い指、黒い外装。機械の手が、機械の腕があった。
ふと、掌をみつめている自身に気づき、その事実にネームドは驚愕する。意識してはいない。だが、みつめていた。みつめることができた。視界には、何の違和感もない。まるで、そこにいるかのように、ここにあるかのように掌を視ていた。
感覚が狂っている。
指を動かすと、指が動いた。指を動かして、機体の指を操縦しているというより、ただ、指を動かしている。それだけだ。視界に映る光景に描かれる、それは機械の指が自らの指になったかのような錯覚に、他ならない。
「脚を同期させます。右足、左足の順に、足を上げてください。まだ、歩いたりはしないで下さい」
ネームドは、言葉に導かれるままに、そっと、足を動かした。
足は、腕のように、自由ではない。座席の足元、シューズのソール、それぞれの円状の突起が噛み合い、繋がれている。
軽い。だが、軽いながらも、微かではあるが抵抗は確かにあった。だが、それを疎ましいとは感じられない。抵抗があることこそが自然であるように感じられた。歩いている時、走っている時、そして、立っている時。足は常に抵抗を感じているからだ。
腕のように、全てが同期した完全な感覚というわけではない。だが、不自然な感覚ではない。そも、姿勢が同期していない。オペレーターは座っている。一方で、操られるヒトガタは自立している。
跨がりながら、座りながら、立たせる。
跨がりながら、座りながら、座りながら、歩かせる。
跨がりながら、座りながら、座りながら、走らせる。
感覚が同じであるはずがない。そして、同じであることが、最適であるとは限らない。
この機構を創造した開発者と同様に、ネームドもまた、機体と自身を完全に同期させるべきであるとは、考えられなかった。
仮に、同期させたとすれば、確かに、動かしやすくはなるだろう。だが、オペレーターは、常に立っていなければならなくなる。操縦する時間が長くなればなるほど、負担は大きくなるだろう。
それに、ただ立っている時はともかくとして、歩く時、走る時、跳ぶ時には問題が生じる。コックピットの中で、歩き、走り、跳ぶことは現実的ではない。
ネームドは、ふと、仮想空間の中で、分身を動かしている時のことを連想した。キャラクターを動かす時、プレイヤーが全く同じ動作をすることなどない。自身と分身の姿勢は同期していない。指先だけで全身を操っている。だが、それでも、違和感を覚えることはない。
下半身は、その必要がないから、そうなっている。一方で、上半身は、その必要があるから、そうなっているということなのだろう。
「暫定ではありますが、最適化が終わりました。自由に動かして、いえ、自由に動いて結構です。無線を開放するので、ご質問があればどうぞ」
「機体の重量は約二五〇キログラムということですが、走っても問題は?」
ネームドは、試しに、言葉を投げかけてみる。
「愚問ですね。問題ありません」
どこで音を拾っているかは解らない。だが、答えは返ってきた。ただ、フェブラリーの声、その聞こえが違っていた。先刻までのように、シミュレーターに据え付けられたスピーカーから聞こえてはこなかった。声は、ヘルメットの外からではなく、ヘルメットの中で響いていた。声は、頭の中に直接響いてくるように錯覚させるほど、透んでいた。ノイズのない音だった。
「跳ぶことは?」
「脚部アクチュエータの衝撃吸収性能は、極めて優秀です。二五メートル落下しても、機体がダメージを受けることはないでしょう。着地姿勢が整えられていればという前提の話ですが」
「仕様上は問題ないということですね。姿勢制御は?」
「姿勢制御は、いえ、それはご自身でお確かめを」
フェブラリーは答えず、そして、ネームドは追求しなかった。声の色に、フェブラリーの意図、いや、企みを感じた。
「な、なんだ、これ! うわっ!」
突然、ノーマッドの声が聞こえてきた。
「どうした?」
ネームドは、声をかけた。
「どうしても、こうしたも! これっ、どうなってるんだ!」
ノーマッドの叫びは、そこで途切れた。
「危険はありませんので、ご心配なく」
代わりに、フェブラリーの冷静な声が響いた。
ネームドは、言葉ではなく、吐息を紡いだ。疑問はあるが、この状況で問い質しても、答えはない。言いたいことはあるが、何を言っても、意味はない。ならば、切り換えるしかない。ただ、機体を動かすことに集中する。
右足から、
静かに足を上げる。連動して膝が曲がる。身体は意識せずとも、自動的に動いてくれる。その精巧さ、異常さを、実感する。
引き上げた足を踏み込む。すっとした感覚、そして、ぐっとこらえるような反発が爪先から太腿に響く。地に足がついていることを伝える抵抗、その錯覚は強く、確かでありながら柔らかい。筋肉が吸収し、和らげた衝撃。自身の足で歩いている時、無意識が感じているそれに、あまりに近い感覚だった。あまりに自然な感覚だった。
姿勢は違う。だが、同じように感じている。奇怪だった。だが、自然だった。
ネームドは、笑いを抑えられない。声には出さない。だが、ヘルメットの中で、幼い子供のように笑っていた。
右足、左足、右足、左足、右足、左足、右足、
交互に、交互に、交互に、交互に歩みを進める。ぎこちなさはある。だが、初めてにしては、悪くない。
いける。
心の中で言葉が響いた。その、瞬間だった。過信が脚に絡んだ。テンポが崩れ、そして、バランスが崩れた。
「くっ!」
姿勢を制御しようとするが、踏ん張れない。上手く操れない。視界が揺らぐ。体勢が解らない。
数瞬の過去に掴んでいた感覚。一体感は、失われていた。
幼い子供に弄ばれる糸繰り人形のように、前に振れ、後ろに振れ、それでも、倒れまいとする。だが、それはただ、耐えているだけに過ぎない。限界まで、時間はかからなかった。
墜ちた。それは、正に、墜落だった。二五〇キログラムを越える円柱が倒れたと考えればいい。
衝撃はない。だが、機体が軋む音で、床を抉る音で、そして、激しく揺らぎ震えた視界から、それを感じた。それを感じさせるほどに、シミュレーターは完全だった。
機体が倒れた。
ネームドは、ため息をついた。
倒れ伏したおかげで機体は静止している。まだ、終わったわけではない。起き上がり、はじめればいい。それだけのことだ。そのはずだった。
だが、
「なんだ、これは?」
言葉では表せないほどに不快な違和感がネームドを撫ぜた。背筋が震えた。肌が粟立っている。
感覚が狂っていた。
座っている。前を向いている。なのに、地に伏している。這いつくばっている。
世界が狂っていた。
わけが解らないわけではない。どうしてそうなっているのか、どうしてそうなったのか、ネームドは解っている。冷静だ。錯乱してはいない。だが、だからこそ、同時に、このままでは壊れると、予感していた。
ネームドは、姿勢を正そうと四肢を動かす。上半身を腕で支えながら、下半身を、
どうすればいい?
そこでネームドの思考は停止した。
無意識がしていたことを、意識してできない。
ふと、我を失い。身体は、また、地に墜ちた。衝撃はない。ただ、視界だけが揺らぐ。
もがき、あがく。だが、起き上がれない。立ち上がれない。姿勢を制御できない。
「はぁ、はぁ」
呼吸が熱を帯びていく。意識が霞んでいく。何をしているか解らない。空間を掴めない。感覚が信じられない。自身と世界が乖離していく。
ネームドは、地の上で、溺れた。
「うっ、」
嘔吐感。
喉にせり上がる衝動を懸命にこらえる。暖かく、甘く、そして、苦く、酸いた刺激が口の中ににじむ。
ネームドは絶望した。
こんなはずではなかった。描いていた理想が、いや、理想以上のモノが、ここに現実としてあった。だが、それを操る自身の姿は、現実ではなかった。理想でしかなかった。
一時間、シミュレーターの中に留まることさえ叶わず、アヴァロンは敗走を強いられた。跪き、嘔吐を続ける四人の姿は、無様でしかなかった。
だが、それは或いは福音であった。四人は解らされていた。まだ、自らが何者でもないことを。




