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眼の前で観るとシミュレータは、遠くから観た時より、遥かに大きく感じられた。棺と称するには大きすぎる五つの立体が整然と屹立している様子は、企業のサーバールームに鎮座するメインフレームを連想させた。
シミュレータ後方に存在するハッチは、ワンボックスカーのリアゲートのように、上下に開閉するようになっていた。とはいえ、印象は全く異なっている。方式こそ同じではあるが、重厚さが違いすぎた。
覆いかぶさるようにしてある、それに威圧感を覚えながら、身を屈め、棺の中を覗き、そして、ネームドは、言葉を失った。
眼前に象られた真白い構造によって、もたらされた衝撃に、唖然とした。ただ首を傾げるしかなかった。それは戦闘機や戦車の操縦席とは、その基礎となる方向性からして異なっていた。
そこには、何もなかった。
ディスプレイがなかった。全面どころか、前面にさえ存在しなかった。ないものは、それだけではなかった。そこには、操縦に使うと推される入力装置さえも存在しなかった。
白い無機質な虚の中央に、ただ、跨り身体を支えるために、備えられているのであろうと考えられる立体的な構造、小さな繭を連想させる流線型の椅子のようであって椅子でない、そんな鞍のような何かだけがあった。
入り口に置かれていた甲の部分にダイヤルがついた前衛的なデザインのシューズに履き換え、ネームドはシミュレータに足を踏み入れた。足取りは覚束ない。シューズのアウトソールは硬質で、指先と土踏まずの間には突起があり、歩き心地は良くない。そもそも、歩き回ることを想定してつくられてはいないのだろう。
ネームドは、慎重に歩を進め、シミュレータの中央まで辿りつくと、座席であると推定したそれに跨り、その身を預けた。そこから伝わる感覚は、全く体感したことのないものだった。
太腿の間から股間を支える鞍の前部、腰から太腿の裏を支える鞍の後部、それぞれが独立していた。
ネームドは、身体を左右に傾け、バランスを敢えて崩し、何故、そうなっているかを実践し、頷く。結論として、推定した機能は正解だった。
跨っている鞍の前部は、太腿の左右内側を柔らかく支え、倒れることを防ぐ楔となり、一方、流線型の鞍の後部は、腰から太腿の裏にかけてを抱き包むようにして体重を支えている。
跨っているとも座っているとも感じられる感覚は奇妙ではあったが、不快ではない。寧ろ快い。
入り口からは解らなかったが、座席の足元は深くなっていた。最も深い部分にはベアリングを彷彿とさせる金属的な光沢を放つ円状の突起があり、ネームドは、それをどのように扱うべきかを想定できたが、とりあえず、そこには触れず、次いで、脚を伸ばし、暴れさせた。
鞍の後部は、ずれることなく、脚に追随して動き、また、鞍の前部の横幅は狭く、そのため、脚の動きを妨げなかった。鞍の両サイドは深く掘られているため、座った状態で脚を動かしても、可動範囲においては、何かに触れることはなく、触れようとしても触れられない。
「よくできている」
ネームドは、呟きながら、腕を左右に大きく伸ばし、そのまま、体操をするように振り回し、確かめる。やはり、指先まで自由に動かせすことができた。広いわけではない。だが、狭くなかった。
「よくできている」
ネームドが同じ言葉を呟くと、ふと、シミュレータの中にフェブラリーの声が響いた。
「こちら、コントロールルーム。全員、座席につくことができたようですね」
ネームドに驚きはない。オペレーターの様子を監視するためのカメラがシミュレータ内に設置されているであろうことは解っていた。オペレーターを守るため、そして、オペレーターを制御するため、ないはずがない。
ぶら下がったバナナを棒でつつく、チンパンジーの如き姿を観られていたことは想定していた。
「上方をご覧になってください。機体を制御するために使われるユーザインターフェースがあります」
頭部全面を保護するフルフェイスヘルメット、そして、指先から肘までを覆うロンググローブ。ネームドは天を仰ぎ、そこに存在する装具の輪郭を認めた。
足元に気を使っていたせいでもあるだろうが、それでも、気を向けられなかったことは、うかつだった。冷静なつもりではあったが、やはり、舞い上がっている。ネームドは、深く息を吐きだし、それから、自戒するように奥歯を噛みしめた。
「まずは、グローブをつけてください」
ネームドは、指示に従い、グローブに手を伸ばした。
白と黒を基調とする前衛的なデザイン、前腕の外側にあるダイヤル。グローブは、先ほど履き換えたシューズと特徴を同じくしていた。
腕に嵌め、ダイヤルを回すと、気体の流動を表す乾いた擦過音が鳴り、腕とグローブの間にあった遊びが一瞬で充填された。
手を握り、それから、指を伸ばす。違和感はない。肘を曲げ、それから、腕を伸ばす。圧迫感はない。ネームドは繰り返し、感覚を確かめる。微かだが重さは感じる。だが、腕につけているという、気はしない。ため息をつくしかないくらいの完成度だった。
「では、ヘルメットを被ってください。扱いは丁寧にお願いします」
腕の準備が整うと、新たな指示が響いた。ネームドは、丁寧に、一方で、零さないように、しっかりとヘルメットを掴み、胸元まで引き寄せた。
ヘルメットは驚くほどに軽く、そして、シンプルだった。
酸素マスクがないことを考慮しても、ただ硬質な印象を受ける戦闘機のヘルメットとは、良いにせよ悪いにせよ、一線を画すデザインであった。
モータースポーツで使われるフルフェイスヘルメットを連想させた。だが厳密には、フルフェイスではない。バイザーだけではなく、額から顎までヘルメットの前面をフリップアップで開放できるモジュラーヘルメットであった。
ネームドは、ヘルメットを被り、フリップアップを閉じる。深く息を吸い、吐き出してみるが、空気がこもることはなく、息苦しさは感じない。
フリップアップの内側、眼前には、HUDとして機能すると想定されるインナーシールドがあった。ネームドは試しに、眼球を左右に動かしてみるが、インナーシールドの境界を覗くことはできなかった。視界は完全にカバーされていた。映像が投影されれば、瞳は違う世界だけを視ることになるだろう。
ネームドは、どうしようもなく、笑い出したくなった。望んでいたモノがここにあった。そして、それは、自身が想像していたそれよりも、精緻であり、秀逸であり、完全であり、そして、美しかった。
ネームドは、深く静かに、息を吐く。まだ、触れているに過ぎない。まだ、掴んではいない。心を鎮め、声を待った。




