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最初の一月は、地獄だった。その後、二月が過ぎ、地獄は日常となった。そして、半年が過ぎ、日常は退屈へと変わった。
北アメリカ大陸南西部、乾いた風と赤い大地、見渡す限りの荒野がそこにはあった。圧倒的な自然に支配された人が諦めた世界。そこに、世界と比するには、あまりに矮小な四つの影があった。
四人は、時間と方位を確かめながら、黙々と走り続けていた。
時刻は午前五時。まだ陽射しが強くない早朝に、一〇キロメートル前後の距離を走ることが彼らの日課であった。それは、故郷から離れて間もなく、始まった訓練の一環であったが、現在では、ただの散歩でしかなくなっていた。
鍛えれば鍛えるほど、力はついてくる。それを実感すれば、そういう嗜好を持った者ならば、はまらざるを得ない。
先頭はベル、その後方に、ネームド、スリープが続き、それをノーマッド追う。
四人は、砂漠迷彩の戦闘服をそれぞれに着こなしていた。着こなせる体型になっていた。
もとより、日本人にしては、それなりの身体つきをしていたネームド、ベルの身体は、半年間の不健全であるとさえ感じられるような健康的な生活によって、鍛えられ、絞られ、同性でさえも見惚れるような機能的な美を備えた身体となっていた。
頼りなさを感じさせたスリープの身体も、ネームド、ベルには及ばないものの、逞しく成長している。細かった腕、脚は太く、青白かった肌は色を帯び、かつての脆弱な印象はそこにはない。
だが、最も大きな変化は、やはりノーマッドである。みっしりとつまっていた贅肉は筋肉へと変貌し、そもそもの身長の高さと相俟って、その輪郭は、重量級のスポーツ選手を想わせるものとなっていた。かつての面影がないわけではないが、知っていても、言われなければ、ノーマッドであるとは、気づけないだろう。
「今朝は、涼しい。ペースを上げるぞ」
ネームドは、腕時計の温度計測機能を使い、気温を確かめると英語で告げた。体温の影響で正確な温度を測ることはできない。だが、毎日、計測していれば、相対的な高低差を数値として認識できる。
「了解」
ベルは日本語で応え、僅かにペースを上げる。
「つまらない」
スリープがうんざりするように日本語で呟く。
「何がだ?」
「世界が」
ネームドが英語で問い、スリープは日本語で答えた。走るのが苦というわけではない。その口ぶりにも、足取りにも余裕があった。ただ、地平線を越えても、彼方まで続いていく風景に気が滅入っていた。
「仕方ない。諦めろ」
ネームドは、英語で応える。淀みなく、流暢な発音だった。それは、言い飽きた言葉だった。
「了解」
スリープは、日本語で応え、天を仰いだ。どうしようもないくらい、青い空が広がっていた。
「日本語でも良い時は、日本語で話さない?」
ふと、ノーマッドが、ネームドに声をかけた。
「まだ、発音に自信がないんだ。はっとした時に英語が出てこない時もある」
「日本語を忘れないようにね」
英語で答えたネームドに匙を投げるように、ノーマッドは日本語で返した。
効率的な語学教育によって、既に四人は日常生活で困らないという段階を越えた実践的な英会話をこなせるようになっていた。
中学、高校、大学、一〇年以上を費やしても、英会話を習得させることができない日本の英語教育が、どれほどレベルの低いものであったかを、彼らは実感し、それを身を以て証明していた。
ただ、教育の問題は、英語に限ったことではなかった。ここ半年の間に彼らが受けた教練の在り方は、過去受けてきた教育の在り方を嘲笑するものであった。論理的に構築されたカリキュラム、優秀な人材による講義、それによって実現される高度かつ効率的な教育。最高の環境がここにはあった。
四人は、砂漠で水を欲するように、知識を求め、力を求め、吸収し、己の者としていった。心身共に、いや、ありとあらゆる面で、成長していった。
成長している、強くなっているという実感。それを証明する現在の自身。できなかったことが、できるようになる。それは遠く幼い頃、彼らが経験し、久しく忘れていた歓びだった。
「選択は正しかったか?」と問われれば、ネームドでさえも、「選択は間違っていなかった」と答えるだろう。
それほどに、充実した日々だった。
四人が黙々と走り続けていると、ふと、後方から、重い振動を感じさせる駆動音と軽やかに砂塵を跳ねる走行音が聞こえてきた。高機動多用途装輪車両の音だ。
ネームドは時間を確かめる。気づけば、走り始めてから、一時間が過ぎようとしていた。
やがて、追いついた高機動多用途装輪車両は減速せず、砂埃だけを残して、四人を置き去りにした。それから、一キロメートルほど前方で、軽やかに転進すると、四人の前に立ち塞がるように、停車した。
ネームドは、ベルにペースダウンを命じた。それから、間もなく、四人は停車した車両に近づき、足を止めた。車両の前には、サングラスをかけた名のない女性の姿があった。
全長四.八メートル、全幅二.二メートル、全高一.九メートル、小柄な女性とは言えないジェーンと比べても、車両の大きさは際立つ。だが、その巨躯も、広大な荒野の中においては、ささやかなものだ。
「お疲れ様」
ジェーンは、サングラスを外しながら、微笑みながら、日本語で声をかけた。
「お疲れ様」
ネームドは、愛想なく英語で応じた。
「ビールはあるかい?」
ジェーンが何かを言おうとしたが、それを遮るようにノーマッドがおどけてみせた。
「コーラで我慢しなさい」
「コーラはあるのかよ」
スリープは右手を出して、寄越せと要求するが、何かが返ってくることはない。
「ここにはないわ」
「だろうな」
ベルが諦めていた言わんばかりの口調で呟く。
「基地に帰ったら、飲めばいいわ」
「気が利かない」
「気を利かせる理由がないわ」
スリープは、ネームドに不平を示すように肩を竦めてみせた。
じっとりと汗をかいてはいるが、息を切らしている者はいない。半年前、基地から放り出され、暑さにうなされ、息を切らせ、二時間以上をかけて彷徨い歩いた道は既に過去の記憶にしか存在しない。
「戻ろう」
ネームドは、振り払うように、告げると車に乗り込んだ。




