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狂っている。そう断じ、背を向けることができなかった。
そうしたとしても、日常へ帰ることができないことは解っていた。ここは、既に日常ではない。ネームドは、理解していた。
通帳に刻み込まれた烙印、懐の封筒の重さ、そして、眼の前に現れた金色の髪の美しい少女。全てが、告げていた。こんな日常など、あるはずがない。踏み外していると、そう告げていた。
「逃げなければどうなる?」
「殺されます」
心がざわめいた。少女の表情からは、微笑みが失われていた。そこには、憂いだけがあった。
「逃げられるのか?」
「解りません」
「時間はあるのか?」
「解りません」
ネームドは、自身が名前のない個人でしかないことを、一人では何もできない存在であることを識っていた。だから、
「解った。行こう」
ネームドは、少女を信じることにした。
「あっさりと、信じてしまうのですね」
少女は、微笑んだ。その微笑みは、どこか苦かった。
「嘘なら嘘で、構わないさ」
ネームドは、瞳を瞑り、想う。狭い世界。閉じた世界。繰り返される世界。演算装置の駆動音と視覚装置の光に支配された世界。仮想と現実とを繋ぐ境界。仮想に蝕まれた現実。過去、現在、未来。ただ、時間が堆積していくだけの空間。それが、ネームドの領域であり、全てだった。
全てだった。だが、それは、しがみついてでも守りたいものではなかった。
だから、構わなかった。
ただ、そこで生きていた。どこに、行くこともできなかった。だが、それを望んでいたわけではない。逃げだしたかった。逃げだせるものならば、
何かを、誰かを、待っていた。そんなことは、ありえないと、諦めながら、それでも、待ち望んでいた。そして、少女は現れた。
「解りました。行きましょう」
嘘でも構わなかった。怯えながら、それでも、この現在が、この状況が、愉しくて仕方がない。
ネームドは、存在を確かめるように、その手を伸ばした。
少女の手に指先が触れる。手と手が重なる。暖かさを感じた。そんな気がした。
「いつか、どこかへ」
そして、少女は口ずさむように、透んだ声で告げた。




