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585万3425円。
現金自動預け払い機の液晶、そこに刻まれた数字は、どうしようもなく現実だった。銀行の口座管理システムが告げているのだから、疑う余地はない。だからこそ、ネームドは、ため息をつくしかなかった。
ネームドは、繁華街を歩きながら、記憶をさらい、そして、考える。口座の残高は、280万円ほどであったはずだ。だが、現実は違っている。300万円以上が上積みされていた。
現実感がない。実感がない。重さがない。
1時間ほど前、ネームドは駅前にある銀行の支店に行き、口座の残高を照会した。既に、ネットを介して照会を行っていたが、あらためて、確かめておきたかった。
結果、自室のブラウン管で視た現実は、銀行の液晶で視た現実と変わりなかった。そこには、共に、同じ数字が並んでいた。
ネームドは、ため息をつきながら、"スマートグラス"と呼ばれる眼鏡型の携帯端末から、ネットバンクにアクセスし、そこでもう一度、口座の残高を照会した。網膜に投影された数字は、現金自動預け払い機の画面に表示されている数字と一桁たりとも違っていない。
ネームドは、仕方がないので直視することにした。
一片足りとも、惑いを表すことはしなかった。ただ、数瞬、考えた。
考え、そして、答えがないことを悟り、ネームドは、20万円を引き出した。額に意味はない。ただ、なんとなく、そうした。
事務的に吐き出された札束を一枚づつ指で弾いて数え纏め、備え付けの封筒に入れた。ジャケットの内ポケットにしまい、銀行の自動ドアをくぐった。
それから、あてどなく街を彷徨っている。それが、ネームドの現在であり、現実だった。
金を賭けて試合をする。アヴァロンは、そういうことをするクランだった。
"エレクトロニック・スポーツ"は、プロスポーツとして、未だ成熟の途上にあった。
日本の外では大会の賞金総額も、開催頻度も増えているが、上層にいるプレイヤー、その多くの生活を一定の水準で保障できるほどのものではない。有名プレイヤーが、ハードウェアメーカーとスポンサー契約を結ぶことはあるが、あくまで、広報としての意味合いが強い。何れにせよ、一握りが一時の恩恵を享受するだけのものでしかなく、費やしてきた莫大なまでの時間に釣り合う対価を得られるわけではない。
プレイヤーが競い合い対価を受け取る。ファンが観戦し対価を支払う。プレイヤーとファンの関係によって、継続して成り立っていく、そういった競技環境がつくられる気配はない。
だからこそ、先んじて、システムを構築し、利益の独占を図ろうという動きがあった。"ファーストパーソンシューター"への世間的な興味の高まりに呼応するように、"マネーマッチ"の仲立ちをする"クラブ"が幾つも創設された。
"マネーマッチ"とは、プレイヤー同士が自身の勝利に賭けて競い合う、単純な賭け試合のことだ。個人の賭けを規制する法律がある日本では、考えられないことだが、欧米では、オフラインイベントの場で、公然と行われている。
そんな"マネーマッチ"をオンラインで行うサービスを提供するのが"クラブ"である。
アヴァロンは、そんなクラブの中でも、最も巨大でありながら、最も知られていない、クラブを中心に活動していた。
クラブの名は、"アーク"。
金の動きに敏感な社会の裏に生きる者か、或いは、エレクトロニック・スポーツを愛する富豪か、誰が創ったかは解らない。だが、そこには、一定の競技環境が整備されていた。確かな実力を認められたプレイヤーがいて、金を賭け試合を観戦するスペクテイターがいた。
アークでは、ファーストパーソンシューターに限らず、リアルタイムストラテジーや、ファイティングゲームなど、様々なジャンル、様々なタイトルで賭け試合が昼夜を問わず行われている。アヴァロンは、そんなタイトルの中でも、特に競技人口が多く、人気が高い、『ExFrame Tactical』でランキングトップに君臨する最強の存在であった。
アヴァロンが得る報酬は、通常の試合であれば1試合で2万円前後。1ヶ月に1度行われるランクマッチでは100万円。1年に1度行われるトーナメントリーグでは、8位以内に入れば500万円以上の報酬が約束される。
なんとなく、凄い金額であるかのようだが、人気タイトルのトップチームの報酬であることを考えれば、大した額ではない。500万円を5人で分ければ、100万円にしかならない。
高いと感じられるのならば、ゲームに対する価値観がその程度でしかないということだ。
振り込み代行サービスから、ハックザワールド名義で、口座に振り込まれた額は、2万5000円。その全ては、ハックザワールドが支払ったものだ。昨夜の試合は、アークのシステムを介して行われたものではないため、賭け金を負担してくれる観戦者はいない。そもハックザワールドは、アークの会員ではない。
アヴァロンにとっては相場であるし、額に見合うだけの力を示し、圧倒した。負い目はない。だが、それが理解されないことを、ネームドは知っていた。
球技、陸上、モータスポーツ、盤上競技。それらにおいては、強いということ、上手いということに価値が認められている。1つの試合で、億の金が動くこともある。
だが、ゲームにおいては違う。たった、2万5000円の賞金でさえ、高いと感じられる。それがこの時代での正常であることをネームドは忘れていない。アークという場所が異常なだけであることを解っている。
だが、
ワールドオ-ダーは、正常ではなかった。異常だった。
試合の対価として、ワールドオ-ダーが振り込んだ額は、302万5771円。桁が違っていた。
「理解している」
そう示威するような額だった。
ネームドは、戦慄した。
ワールドオーダーが接触してきたのは、ネームドがログアウトして、間もなくのことだった。クラン戦を挑まれ、アヴァロンは、それを拒否した。ネームドが不在であったし、やる気がある者はいなかった。
だが、ワールドオ-ダーは、引き下がらなかった。
パステッィクが、賭け金を支払えるなら、挑戦を受けると伝えた。提示した賭け金は300万円。言うまでもなく、それは断るための方便にすぎない。
だが、返答は期待していたものではなかった。ワールドオ-ダーは、振込先を指定するようにと返し、パステッィクが、振込先を伝えると、間もなく、前金として50万円を振り込んだと告げてきた。確かめようにも、口座を管理しているネームドはいない。
引くに引けなかった。
これがワールドオ-ダーとの試合後、ネームドがパスティックから聞かされた話だ。
現実感のない話だった。だが、現実だった。
確かに、振り込まれていた。惑うしかない。
まず、すべきことは、アヴァロンの共用口座から受け取った賭け金を引き出し、メンバーの個人口座に分配することだった。常ならば、そうする。だが、そうしなかった。警戒せざるを得なかった。
独占するつもりはない。それほどの額ではない。金に困っているわけでもない。ネームドの個人口座には、それなりの金額が入っている。
300万円は、リアルな数字だった。それなりのものは買える。数日の間であれば、白昼の夢を視ることができる。だが、それだけだ。現実を現在を、日常を変えられるほどの額ではない。
何ができるだろうか?
ネームドは自問し、そして、自答する。何もできはしない。何もありはしない。何も変えられはしない。
現実感がない。重さがない。一方で、一生遊んで暮らせるほどの額ではない。だが、一方で、投げ捨てられる額でもない。どうしようもなく、扱いに困る金がそこにはあった。
矛盾していた。
ネームドは、アヴァロンの強さには、価値があると考えていた。であれば、相応の報酬として、気負うことなく懐に納めればいい。
だが、そうできてはいない。そうできないのは、かつて、アークで獲得した賞金とは、何かが違っているように感じられたからだ。アークは普通ではない。だが、ワールドオーダーはそれ以上に普通ではないように感じられた。
ネームドは、常に最悪を考える。だから、ため息をつくしかなかった。




