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ヘッドアップディスプレイを外すと、そこには月があった。赤みがかった真円の月。窓の外、区切られた狭い夜空の彼方。美しくも妖しい輝きを放つ月を仰ぎ、ネームドは深くため息をついた。
蒼い空も、霧の森も、そして、軍事施設も、どこにもありはしない。
都心のベッドタウン、閑静な住宅街の一角にある特徴のない戸建て、その二階北に位置する一室。モニターの光だけが灯る薄暗い部屋。冷房装置の駆動音が響き、キーボードの音だけが鳴る部屋。整然と配置された家具。床に散らばる衣類。机の上に並ぶ抜け殻のペットボトル。積み重なる塵芥で許容量を超えたダストボックス。汚れてはいない。ただ中途半端に散らかった、広くもなく狭くもない領域。ここが現実だ。
ネームドは、手のひらに視線をやる。黒い装甲を纏った機械の腕はそこにはない。青く白く細い手首があった。これが現実だ。
どうしようもないくらいにリアルだった。どうしようもない現実がそこにはあった。
虚しいものだ。ゲームの中で、最強の名をほしいままにしようが、それは仮想に過ぎない。現実はこんなものだ。"ネームド"は、誰も知らない誰かに過ぎない。
名が知られている?
笑わせるな。
学級で最も成績が良い生徒。或いは、何らかの競技で全国大会に出場した学生。閉じたコミュニティで語られる有名人の知名度など、良くて、その位に過ぎない。コミュニティの住人にとっては有名人だが、コミュニティの一歩外に出れば誰も知らない。誰も気にかけてなどいない。いなくなったとしても誰も困らない。すぐに忘れ去られる。ただの"名無し"に過ぎない。
貴重な時間を費やしても、ゲームの中で強くなろうとも、得られるものなど何もない。
惨めだな。
「ああ、解っているさ」
ネームドは、自問に自答し、オフィスチェアから立ち上がると、窓へと手を伸ばした。暑く粘りつくような空気が室内へと流れ込み、腕を、頬を、撫でた。夏だった。
日本の夏らしい不快な風が快くもあった。だが、それも一瞬のことに過ぎない。身体が、じっとりとした汗に包まれ始めると、ネームドは月を見限り、自室を出た。
廊下を歩く足取りに気負いはない。ネームドは、引き籠もりではないし、家族との間に不和があるわけでもない。ただ社会不適合者なだけだ。
浴室で汗を流し、冷蔵庫から飲み物を補給し、自室へと戻る。そして、オフィスチェアに身体を預け、変わらぬ姿勢でディスプレイを覗く。
ネット上に散乱する情報を眺めながら、ネームドは、ため息をつく。
やることがない。やるべきことはあるのだろう。だが、やりたいことはない。現実はひたすらに退屈だった。
ふと、気づけば、無意識のうちにネームドの指先は、ヘッドアップディスプレイに伸びていた。
あと一戦。ネームドは蔑むように笑う。そして、自問自答する。
もうやらないんじゃなかったのか?
「そんなこと言ったかな」
寝るんじゃなかったのか?
「眠くないから」
やれば眠れなくなる?
「そうかもな」
何故、やる?
「言うまでもないだろ? 中毒だからだよ」
何を言っても意味がない。無意味だと解っていても、それでも、やってしまう。
指先を震わせながら、煙草を吸いつづける者。血を吐きながら、酒を飲みつづける者。痩せほそり壊れながら、薬物に依存し続ける者。彼らと何も変わりはしない。
狂っている。
「ああ、そうだ」
自覚している。
「何が悪い」




