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眠り姫とキス その7

 

「驚かせてしまい、申し訳ございません」

 ジャンが慌てたように頭を下げる。彼の姿を見て、気まずさに一瞬言葉を失った。

 わたしに何の用があるの? 知らぬ内に身構えてしまう。

「この間は、申し訳ございませんでした!」

 そんなわたしに、少年はいきなり謝ってきた。意外な行動だった。

「ずっとお詫びを言いたかったのです。お会いすることが出来てよかった……」

 ジャンは顔を赤らめて恐縮している。わたしは急いで彼に向き合った。

「止めて! わたしこそ、ごめんなさい。あなたにはとても失礼なことを言いました。許してもらえると良いのだけど……」

「そんな許すも何も、不信感を与えた僕が一番悪かったのです。それによく考えれば、こそこそしていた僕は怪しい奴に見えて当然でした」

「許してくれるの?」

「だから許すだなんて……、こちらこそ、お許しくださいますか?」

 わたしとジャンは緊張して向かい合っていたが、その内そんなお互いが、酷く滑稽に思えてきた。

「なんだか、二人して同じ気持ちのようね。もう、止めましょうか?」

 わたしの提案に、彼も硬くしていた肩から力を抜く。

「はい、分かりました」

 ホッとしたように表情を緩めるジャンと、ふと目が合った。

 

「プッ」

「フフッ」

 

 それから、どちらからともなく噴き出して、小さな笑い声が重なっていった。

 ジャンの屈託ない笑顔を見ていると、心からよかったと思える。この少年とだけでも、和解出来て本当によかった。

 

「あなたはキャリーと、どこで出会ったの?」

 曇りのない明るい瞳で笑うジャンが、とても眩しく見える。そんな澄んだ目をした少年が羨ましくて、わたしは思わず意地悪な質問をしてしまった。

「えっ?」

 案の定、目を丸くして笑顔を消してしまう彼。

「ごめんなさい。答えにくかったら、いいわ。ただの好奇心だから……」

「いえーー」

 耳まで赤くして、ジャンは首を振る。

「この前の生誕祭です。と言っても、彼女は僕のことを、覚えてくれていませんでしたが」

「生誕祭? つい最近のことじゃない? どういうこと?」

 彼は恥ずかしそうに目を伏せると、おもむろに口を開いた。

「実は生誕祭で、僕は生まれて初めて国王陛下に拝謁することが叶いました。それでその時、エミリアナ殿下のダンスのお相手をする機会を、陛下より頂くことが出来たのです」

「エミリアナ様と?」

「はい」

 ジャンと王女が、生誕祭で共に、ダンスをしていたことに驚く。

 だが王女は、わたしがジャンのことを尋ねた時には、そんなことは一言も話していなかった。

 キャリーだけでなく、王女も彼を忘れているらしい。何と言うか……不憫な少年だ。

「父は殿下の将来の婿候補として、僕を陛下に印象付けたかったのだと思います。それで殿下のダンスのお相手にと、熱心にお願いして、漸くお許しを頂いて踊ることになったのですが……」

「ちょっと待って、婿候補って、あなた何歳だったかしら?」

 わたしは、ジャンの話の腰を折ってしまった。だって、あまりにもびっくりしてしまったんですもの。ジャンがエミリアナ様の婿候補って、誰でも驚くわよね?

「十六です、以前も話しましたけど」

「あ、そうだったわね……、確かキャリーと一緒だったわよね」

 現在八歳のエミリアナ様に縁談なんて、どうもピンとこなくて驚いてしまったが、なるほど考えてみると十六のジャンとなら、年齢的には有り得ない話でもない。

 

 目の前の彼は、キャリーの名前に反応して下を向いていた。その恥じらった顔を見ると、純情少年と言うより他ない。

 改めて思った。

「本当に、わたしの目は曇ってたのね……」

 ケインの言った通りだった。わたしの目は、物事がいびつに見えていたのだ。まさに節穴。胸の奥が、キリキリと痛む。

「侍女長様?」

 ジャンが不安げにこちらを見ている。わたしは苦笑して、彼に話の続きを促した。

「何でもないの、こっちのことよ。それで、どうしたの?」

 彼は少しだけ言い淀む。

「僕は父の期待に応えたかった。少なくとも、あの時はそう思っていました。だけど……」

 そして、苦しそうな顔で話を続ける。

「だけど僕は……、あの日陛下の御前で大失態を演じてしまったんです。そして僕に大きな期待をかけていた父を、とても失望させることになってしまった……」

「大失態?」

「はい……、ダンスの最中、殿下のドレスの裾を踏んでしまい、殿下を巻き込んで派手に転んでしまったのです」

「まあ……」

 それはさぞかし、大変な事態になったろう。彼の慌て振りが想像出来る。

「お怒りになった殿下は、取り乱して涙を流されるし、父は僕を冷たく無視するし、周りにいた方々には不躾な視線を向けられるしで、僕は途方に暮れていました。そうしたらーー」

 ジャンは目を閉じて、噛み締めるように言葉を繋げた。

「そこに彼女が、現れたのです」

「彼女って、キャリー?」

「そうです。隅の方で控えていたキャリーが、殿下の元へすぐに駆け寄ってきてくれました。そして、泣いている殿下を優しく慰めてくれて」

 キャリーが? まあ……。

「それから暫くすると殿下も落ち着かれて、周囲も僕達に関心をなくしたのか視線も感じられなくなり、騒ぎはそれ以上の大事にはならずに済んだのでした」

「そうだった……の」

 驚いた。

 わたしのよく知るキャリーとは別人のようだ。ジャンはその場面を思い出したのか、くすぐったげに微笑んだ。

「彼女はその後、落ち込む僕にも笑顔で声を掛けてくれました。心細くて、内心困り果てていた僕は、彼女の明るい声に随分救われた……」

「そんなことが、あったのね」

 知らない間にキャリーも、ある程度の事態なら対処出来るようになっていた。わたしは、まだまだと思っていた部下の成長に驚く。

 この分では、いつかわたしなど必要なくなるかもしれない。その日は、思うよりずっと早いのかも。

「だから、あなたはキャリーに会いに来たの? ケイン様の従騎士になってまで?」

 わたしの質問にジャンは大きく頷いた。

「騒動のあと僕は一人で、あの日行われていた騎馬試合を見に行きました。父は僕の顔を見たくなかったらしく、一緒には来なかった。無理もないですね、僕に裏切られたのですから」

「裏切るって……、わざとじゃないでしょう? あなたはただ、緊張していただけじゃないの」

 ジャンは力なく首を横に振る。

「確かに、原因は些細なことだったのかもしれません。でも父にとっては衝撃的だったようです。なにしろ僕を、優秀な後継者だと信じていたのですから」

「ジャン……」

「でも結果的には良かったのです。お陰で僕は目が覚めた、自意識過剰で愚かな自分から……。そして、大事な人に出会えた」

 ジャンは目を輝かせて、まっすぐわたしを見た。その視線には何の迷いもない。わたしは、彼の眼差しを受け止めるのが辛いくらいなのに。

「僕はケイン様の試合を見ました。当初は、どう見ても負け試合にしか見えなかった。だが、ケイン様は諦めていなかったんです。相手の力を上手く利用して勝利された。試合中、僕の周りでは彼への中傷や誹謗が多かった。おそらく、若い女性の声援が多かったため、それを妬んだものだったのでしょう。でも試合が終わると空気は変わった。あれほど口汚く罵っていた人達も皆、ケイン様を祝福していた」

 何だろう? 胸が詰まされる。

「そして、試合が終わった後、ケイン様はすぐに、あなたの元へと行かれたのです。そうですよね、侍女長様?」

「あ……」

 いやだ。これ以上聞きたくない。聞いてしまえば、わたしはおかしくなってしまう。

「何をされるのだろう? 僕は不思議に思い、様子を見ていました。その後のことは勿論、ご存じですよね? だって、当事者でいらっしゃるのですから」

 止めて……。嫌なの、思い出したくないの……。

「あの日のお二人は、本当に素敵でした。僕は突然始まった思いがけない出来事から、目が離せなかった。本当にはらはらしながら、どうなるのか見守っていたのです。僕の周囲の人は、皆そうでした」

 そう言ってジャンは、悪戯っ子のようにわたしをからかって笑う。わたしの青い顔色には、少しも気付いてないようだ。

「侍女長様が、ケイン様の告白をお受けになったのを見届けた後、唐突にですが……、僕の胸にキャリーの顔が浮かんできた。彼女の名前すらその時は知らなかったのに、あの優しく少女のようにあどけない笑顔が、どうしても離れなくなった……」

 ジャンは恥ずかしげに、わたしから目を反らす。

「それで、自分の気持ちに気が付いたのです。僕はキャリーのことを、好きになっていたのだって」

「ジャン……」

「祭りが終わり、屋敷に戻ってからも変わらなかった。時が経てばそれだけ、想いは一層深くなる。僕はケイン様の告白を思い出しました。あんなふうに勇気を出して、この気持ちを告げてみたい。いつしかそう、思うようになっていた。何とか両親を説き伏せて、城に上がるのを納得させると、尊敬する騎士であるケイン様に直談判して、師事をお願いしました。もう夢中だった」

 わたしは溜め息をついた。ジャンの子供染みた考えが鼻につく。

「夢中って……、まさか以前わたしに話した理由を、ご両親に言ったの? 本当の理由は言えないものね、そうなんでしょう。それに尊敬する騎士って、どういう方面にかしら? 以前ケイン様に秘訣を教えて欲しいと言っていたのも、もしやそういう事柄なの……?」

 ジャンは頬を掻きながら、焦ったように笑う。

「えっと……、ご想像の通りかもしれません。あの時お願いしていたのは、剣の指導のことではありませんでした。どうしたら、彼女に思いが伝わるかを……」

「呆れたわ、そんなことより大事なことがあるでしょう? 全く何を考えているのかしら、あなた達は」

 しかし、わたしの責めるような声にも、彼は意見を変えなかった。真面目なんだかどうだか分からないが、困った少年である。

「同じようなことを、ケイン様にも言われました。僕の気持ちは一時の気の迷いだと、己の道を外してはいけないと」

「ケイン様が?」

 意外だった。彼は悪乗りして、ジャンの道楽に乗ったのかと思っていた。

 そう言えば最初にジャンを紹介された時、彼は随分素っ気ない言い方をしていた。ジャンを迷惑に感じているような、そんな言い方だったかも……。

 ケインは決して、進んでジャンに協力していた訳ではなかったのだ。最初は押しきられ、そして共に一緒にいる内に段々ジャンに感化され、遂には応援するようになっていったのだろう。

「己の道とは何でしょう? 父の望む通りの生き方を差すのでしょうか。既に一つ駄目にしてしまった僕が言うことではありませんが、その道には僕の意志など、どこにもない。自分で選び取った人生ではないから、父の操り人形でしかないのです。だけど、彼女を好きだと思う気持ちは僕だけのもの。これは誰にも代われない。そう気付いてしまったら、もう後戻りは出来なかった」

 わたしは黙って彼を見つめていた。圧倒されて言葉が出てこない。

「それにお父上に逆らったケイン様が、僕の行為を否定されるなんておかしいです」

「あなた、まさか彼に、そんなこと言ったの?」

「はい……、僕も必死だったんです。最後の奥の手を出すしかなくて……」

 わたしは、今の言葉にカッときた。奥の手だなんて表現で、彼の過去を軽々しく語るジャンに腹が立った。

「そんな、酷いじゃないの。彼はあなたが、自分と同じ轍を踏まないかと、心から心配した筈だわ。それなのに、そんな策の一つのようなやり方で彼の傷を持ち出すなんて……」

 少年は目を見張る。それから、項垂れて頭を下げた。

「仰る通りです。浅はかでした」

 ジャンの素直な態度に、わたしは声のトーンを落とした。彼のような神妙な性格の年少者が、周りにいないので内心やりにくい。

「彼は、あなたのことだけでなくキャリーのことも気遣ったと思うわ。彼女があなたを好きになった途端、ご両親に反対されて引き裂かれてしまうようなことがないようにと」

 ジャンは顔を上げて強く言い切る。

「そんな、そんなことは絶対起こりません!」

「絶対? 絶対なんて、言えるのかしら? ご両親に庇護されている、まだ子供の分際で?」

 わたし自身が経験しているから言える。子供は結局親には逆らえない。特に彼のように大事に育てられた人間には、逆らうなど到底無理なのだ。

「大丈夫です。彼女が僕を受け入れてくれた今、何があっても手放したりしない。泣かせるようなことは致しません」

「だけど……」

 誰でも最初はそう言う。自分には出来ると、根拠のない自信を感じてしまう。だが結局、どうにもならなくなって弱いものを切り捨てるのだ。わたしの胸に苦い痛みが広がった。

 

「いざとなったら、彼女を取ります」

 

 ジャンのあっけらかんとした声が返ってきた。

「えっ?」

「だけど、どちらも手放さない。彼女との未来も、それから両親の願いも、どちらも必ず叶えてみせます」

 彼は屈託なく笑った。日だまりのような明るい顔だった。

「あなたのその自信は、どこから来るのかしら?」

「自信と言うか、信念です。絶対成し得てみせるという、強い気持ちです」

「口では何とでも言えるわ……」

 ジャンは笑顔を消して、唇を硬く締める。真面目な顔で、わたしの言葉にじっと耳を傾けている。

 その顔に、こちらの方が気が緩んだ。何だか、もう降参だと言ってやりたくなる。

「絶対にキャリーを泣かせないでよ?」

 わたしは彼を見据えて言い聞かせた。

「はい、お任せください」

「もしもあなたが不実な真似をしたら、わたしが許しません。必ず罰を与えに行くから、覚悟をしておいて」

「心得ておきます」

 ジャンは真面目な表情のまま、答えた。

「それから……」

 さりげなく、彼から目線を外す。そして遠くに見える王城の外郭を見つめながら、何気なく口にした。

「ケイン様の、あなたへの信頼を裏切らないでね」

 

 ジャンは何も答えない。

 わたしは無反応の少年に目を向ける。

「ジャン?」

「……侍女長様」

「何よ?」

 彼の目は恐いくらい血走っていた。あまりの目付きの強さに、思わず怯んでしまう。

「ケイン様の元へ一緒に行きましょう!」

 ジャンが大声で叫んできた。わたしの腕を無遠慮に掴むと、どこかへ連れて行こうと強く引っ張る。

「い、嫌よ! わたしは彼の元には行きません!」

 少年の行動に驚き、慌てて声を上げた。

 行けない、行けないのよ。もう、彼の側には行けないの。どんなに、今でも会いたくても、一目でいいから顔が見たかったとしても……。

 大騒ぎをするわたしに、ジャンは静かに聞いてきた。

「やはり、そうなんですね? あの日から、ケイン様とはすれ違っておられるのですね……」

 彼はわたしの腕を強く握り締める。

「ついて来て下さい」

「えっ?」

「あの日からおかしいのは、何もあなただけではありません。それをお分かり頂けるでしょう」

 そして、硬い表情で言い切ると背中を向けた。そのまま、前へと歩き始める。

「止めて、お願い……、無理なの、わたしには無理なのよ」

 だって、わたしはもうケインに嫌われたのだから!

 

 しかし弱々しく抵抗を続けても、ジャンは歩みを止めてはくれなかった。結局わたしは、彼の思う場所へと付いて行くことになってしまう。

 

 

 

  ***

 

 

 

 ジャンがわたしを連れて来たのは、月桂樹の木陰の裏手だった。

「やっぱり、おられた」

 彼の弾むような声に恐る恐る顔を上げると、木の向こう側に、誰かが腰を降ろして座っている。

「最近は、いつもこの時間帯は、こちらにお出でなのですよ。どうしてなのでしょうね?」

 ジャンはその人影に、視線を投げ掛け笑った。それから、足音を忍ばせて更に月桂樹へと近付いて行く。

 わたしが、身振りでこれ以上は嫌だと首を振ると、彼は小声で話し掛けて来た。

「静かに……。そこから見ていて下さいますか? 僕はすぐに立ち去りますから、安心して下さい。後はあなた次第です。頑張って下さいね」

「む、無理よ。何を言ってるの? あれは、あそこにいる人は、あの人でしょう? 何も出来ないわ、わたしには……」

「大丈夫です。ケイン様のために、本気で僕をお叱りになった侍女長様なら、何も恐れるようなことはありません」

 ジャンは包み込むような視線で、優しく微笑む。その顔に、こちらの躊躇いなど問題ないと、簡単にかき消されてしまった。 

 彼は小さく頷くと、月桂樹の向こう側へと歩いて行く。

 突然響いた足音に、人影はハッとして振り向いたようだった。わたしは木の裏側で体を固くする。

 

「何だ、お前か……」

 

 懐かしい、気の抜けたような声が聞こえてきた。こんな柔らかい口調は、久し振りに聞く。急いで口元を押さえて、自分の声が漏れそうになるのを防いだ。そうでもしないと、叫んでしまいそうだったから。

 

「僕じゃなかったら、誰だと思われたのですか?」

 ジャンの意地の悪い声が続く。

 ケインは深い溜め息を吐くと、首を垂れて呟いた。

「うるさいな。お前ではない、それでいいだろう」

 彼の丸くなった背中が、月桂樹の葉越しに見える。そっと手を伸ばせば、その肩に触れそうなほど近い。

 細身のくせに意外と逞しい背中。だが今は、意気消沈して子供のように頼りなく見える背中。

「そのご様子だと、また、何事かを後悔されていらっしゃいますね?」

 ケインは答えない。ジャンはそんな彼に、更に追い討ちを掛ける。

「いい加減に謝られたらいいでしょう? いつまで意地を張っておいでです? いつも後で後悔されておられるくせに。何故ご自分の気持ちに、素直におなりにならないのですか?」

「なっ?」

 ケインが面食らったように、顔を上げて声を出した。

「何のことだ?」

「僕が気付いてないとお思いですか? 侍女長様と仲違いされているのでしょう? とっくに分かっていましたよ、全く。師のためと思い、敢えて口にしなかっただけです」

 ケインは驚いたのか一言も漏らさない。ジャンの態度に、ただただ呆然としているようだった。

「ですが、もう我慢出来ません。そんな腑抜けのようなあなたを、これ以上見たくありませんよ」

「お、お前……」

「フェミニストのケイン・アナベルとは思えない低落だ。情けない、以前のあなたはどこに消えたのでしょう……。たった一人の女性を幸せに出来ないで、いったいどうされるおつもりですか?」

 ケインはプイッと横を向いた。その仕草は、年下のジャンに甘えて拗ねているようにしか見えない。

「分かってる、分かってるんだ……だが」

「だが、何です?」

「リシェルを前にすると顔が強張るんだ。どうにもならない。僕は……、意気地無しだ」

 ケインの溜め息のような呟きが、胸に響いた。

「お話になりませんね。騎士とは思えない発言です」

「仕方ないだろう? どうせ僕は三流だ」

 ムキになったような声が突っ掛かる。

「誰がそんなことを? 何故そう卑屈になられているのですか?」

 ケインはグッと喉を詰まらせた。それから頭を掻きむしって「あーー」と叫ぶと、ジャンを追い払うかのように腕を振り上げた。

「もう、お前は帰れ! 僕はまだ暫くここに残る」

「それがいいですね。そこで少し頭を冷やされるのがいいでしょう」

 ジャンは辛辣な言葉を残して、月桂樹を後にする。彼はその際、項垂れるケインに気付かれぬようわたしに顔を向け、片目を瞑って笑った。

 応援してます、彼の唇がそう動いていた。

 

 

 

 

 

『応援してます』

 

 そんなことを言われたとして、はいそうですかと動ける人がどれくらいいるだろうか?

 少なくともわたしには無理だ。だって彼とは、ここ何日もまともに会話をしていない。

 顔を会わせば冷たい雰囲気を漂わせて、わたしを拒絶する男にどう歩み寄れと? 何かよい方法があるなら、是非とも教えて欲しいくらいである。

 と言う訳で、わたしはケインの後ろの月桂樹の陰から、ずっと動けずにいた。

 彼に気付かれたくないから身動ぎさえ出来ない。ピタリと固まったまま、息を潜めてじっとしていた。

 どれくらい、そうしていただろう?

 気づけば目の前の空間は、物音一つせず静かになっていた。

 ケインはと言えば、月桂樹の下に寝転んでしまっている。彼は何も話さないので、何を考えているかも分からない。

 こんな所で、いつまでこうしているのだろう? 空は夕焼けが薄暗く色を変え出し、そろそろ夜の闇が近付いてきているというのに。

 風邪だって引いてしまうかもしれない。春とは言え、朝晩は冷え込み寒いのだから。

 

 これ以上、ここでじっとしているのは不毛だわ。

 

 わたしは痺れを切らして覚悟を決めると、ケインの前に姿を現すことにした。

 その時、折れた枝を踏んだらしく、耳障りな音がして酷く慌てる。しかし、ケインの方からは何の反応もなくて、妙なことにがっかりしてしまった。

 彼に気付いて欲しかったのか、それとも気付かれたくないのか? 何がしたいのか自分でも分からない。

 だが全く動く気配のないケインに、少し不安になる。まさかとは思うけど、気を失ってるとか、ないわよね?

 わたしは意を決して木の陰から歩み出ると、声を掛けた。

「あの……、ケイン様」

 

 彼は眠っていた。

 

 月桂樹の根元に身を横たえ、腕を枕にして頭を乗せると目を瞑り、すやすやと気持ち良さそうに寝息を立てている。夕焼けに照らされた顔には、高い鼻梁に沿って陰影が出来ていた。

 その鼻から規則的な息使いが聞こえてきて、何だか随分のんきに見えてくる。わたしはその安らかな寝顔に、軽く怒りが湧いてきた。

 どういうこと? わたしは、すぐ後ろで物凄く悩んでいたのに。

 この人ってば、わたし達のことを考えるどころか、とっとと居眠りしていたなんて……。

 その怒りは、彼にとってはもしかしたら、理不尽なものだったのかもしれない。だけど、悔しくて悔しくて我慢出来なかったのだ。

 

「起きて下さい! ケイン様」

 

 わたしは、横たわる彼の側に座って起こしにかかる。

「ケイン様!」

 彼からは、何の反応もない。起きそうな素振りすらない。

「ケイン様ってば!」

 いつしか大声で名前を呼んでいた。それでも彼は、気持ち良さそうに寝ているだけだ。

 わたしはおかしくなっていたのかもしれない。

 だって、あれほど彼に見つかりたくないと隠れていたくせに、大声で呼び掛けているのだから。

 

「う……ん」

 

 ケインの体を軽く揺すっていたら、彼が寝返りをしてこちらに顔を向ける。

 急に動いた彼に、一瞬目が覚めたのかと心臓が激しく鳴って慌てるが、恐る恐る覗いた顔はやっぱり眠ったままだった。なんてこと。

「ずっと寝ているつもりなの?」

 静かに寝顔を晒している彼を見つめる。

 とても、綺麗な顔だ。

 沈む太陽で赤く染まる空の色を映して、赤みを帯びた頬。褐色の瞳を隠す瞼の縁にある睫毛は、羨ましいくらいに長い。

 夕日色に色付いた唇は薄く開いていて、とても無防備だった。

「なんだか、眠り姫みたいね……」

 不意に、王女が最近読んで、お気に入りとなった物語を思い出す。

 護衛騎士のアーサーが、その話に出てくる王子様みたいだと騒いでいらしたことがあった。あれは確か、仕立て屋が来た日のことだ。

「眠り姫はどうしたら目を覚ますのかしら?」

 そう、確か……。

 王女の声が蘇る。

 

『魔女の呪いでずっと眠り続けているお姫様がいるんだけど、王子様のキスで目覚めるの!』

 

 そうそう、確かそんなこと……。

 えっ?

 き、きすぅ?

「む、無理よ、キスなんて……」

 わたしは取り乱して、そこらにある石を意味もなく集めて握り締める。胸の動悸が異常なほど早くなり、手先が痺れてきた。

 それから横で、澄ました顔で寝ているケインを睨み付けた。

「あ、あなたが悪いのよ。いくら呼んでも起きないんだから……」

 わたしはケインの顔を覗き込む。

 本当に、キスしたら……目覚めるのかしら?

 ちょっと試してみようかしら。……だって、全然起きないんだもの。彼が起きるかもしれないんだったら、やってみる価値あるんじゃないの?

 

 少しずつ、少しずつ彼に近付いていく。だんだん端正な寝顔が目の前に迫ってきて、頭の中が真っ白になった。

 何がなんだか、もう訳が分からない。わたし、ちょっとおかしくなっているんじゃないかしら?

 

 気が付くと、ケインの艶めいた唇がすぐ前にあって、心臓が止まりそうになる。

 

「き、きゃあっ!」

 

 わたしは、彼の上から大急ぎで体を起こした。

 

 何をしようとしていたのよ、リシェル?

 あなた、まさか、就寝中の男性から了承もなく唇を奪うつもりだったの? 正常な婦女子のする行為とは思えない。なんて、はしたない振る舞いなのかしら……。

「もう、わたし。あなたの顔を見ることが出来ない! 恥ずかしくて……」

 

「なあ」

 

「この先二度と、顔を合わせられないわ。今の記憶を全て消し去ってからでないと……」

 

「おい」

 

「煩いわね、横でごちゃごちゃ言わないでちょうだい! 今頭の中を整理しているんだから」

 

 ん?

 

「そうか……、それでキスはするのか? それともしないのか? どっちなんだ?」

 わたしはびっくりして、声のした方を振り向いた。

 ケインが横になったまま、目だけを開けてこちらを見ている。彼は冷ややかな視線を向け、同じく冷たい声を出した。

「蛇の生殺しのような真似は止めて貰おう、……苛々する」

「あなた……、いつから気が付いてたの?」

 わたしは呆然として、ケインの視線を受け止める。衝撃が強すぎたため、羞恥心は飛んでいってしまった。

 彼は起き上がると、ブスッとした表情で呟く。

「君が理由は分からないが、僕の名前を呼んでいた時からかな」

「何ですって? そんな前から?」

「僕の体を揺すって大声を出していたじゃないか、起きない方がおかしい」

「どうして、起きていたなら目を開けてくれないの? 酷いじゃない……」

 意志に反して涙が浮かんでくる。女々しい自分が嫌になるが、抑えられなかった。

「リシェル……」

 ケインの表情が緩んだ。わたしの涙に慌てたみたいだった。

「もう、わたしのことが嫌いになったから? だから気付かない振りをしたの?」

「違う!」

 突然の大声に体が固くなる。彼はハッと口元を隠し、瞳を歪ませた。

「大きな声を出してすまない。君のことを嫌いになった訳じゃない、信じてくれ」

「じゃあ、どうしてよ? 嫌いになった訳じゃないけど、好きでもないってこと?」

 卑怯だよね、わたし。涙で彼を縛りつけようとしてる。

 ケインは目線をうろうろとさ迷わせ、狼狽えたように弱々しい声で呟く。

「違う、違うんだ、リシェル。そんな理由じゃない」

「じゃあ、何故よ?」

 

 だが彼は、わたしの問いかけに表情を険しくすると、きつく睨んできた。

「ーー君はどうして、そんなに意地悪なんだ?」

「わたしが? わたしのどこが意地悪だと言うの?」

「だって、そうだろう? 納得いく答えを聞くまで追及の手を止めない、期待して待っているこちらのことなど考慮もせず、自分だけで完結させて無かったことにしようとしている。これが意地悪でなくて、何だと言うのか?」

「……何のことよ?」

 さっぱり分からない。お陰で涙が引っ込んでしまった。

 ケインは目を丸くした後絶句した。それから、はあ〜と大きく息を吐くと、酷く脱力して力が抜けた声で独り言のように言った。

「本当に分からないのか……。本当に?」

「分からないわよ。あなたの言いたいこと、全然……」

 

「目を開けなかったのは待ってたからだ!」

 

 喚くような大声と共に、いきなり力強く抱き締められた。わたしは声も出せず、彼の胸に顔を埋めていた。

 

「君からの口付けをな! これで分かったか?」

 そして、怒ったように叫ぶ。苦しさから逃れようと体を動かすと、更に締め付けてくる。

「他には? 他には何が分からないんだ? 今だったら全部答える」

「どうして、わたしを無視したの? 何故、あんなに怒ったの?」

「それは……」

 何故か負けられないと思った。そっちがその気なら受けて立つわよ……。

 だけど、思いとは裏腹に声が震える。ケインの答えに、心が喜び震えてしまう。

「僕に仕えるなんて有り得ない、君が言ったあの言葉。あれに、堪えた……。それでつい、君に辛く当たってしまったんだ。僕は心が狭い男だ」

 なんてこと! わたしの軽はずみな一言が、彼の心を傷付けていたなんて。

「知らなかったわ、本当にごめんなさい。」

「いや、結果的には僕の方がもっと酷いことをしている。すまなかった。許してくれるか?」

 わたしと彼は体を離し、お互いの目を見つめ合っていた。誰もいない二人だけの空間。それがこんなに居心地良いなんて、こんな時をまた過ごせるなんて。

「あのね……、信じられないかもしれないけど、わたしはあなたを尊敬してる。本当よ。今更みたいに聞こえるだろうけど……」

「……リシェル」

 ケインが怯えるように彼を見つめるわたしに、表情をほころばせた。

「このタイミングでそんなことを言うとは、君はやっぱり意地が悪い」

 久しぶりに見た彼の笑顔に胸がときめく。わたしは急いで視線を反らした。

「何よ……、本当のことなのに」 

 あなたの方こそ、意地悪じゃない。笑顔一つでわたしを翻弄するのだから。

 彼は再びわたしを抱き締めた。そうすると、お互いの顔が見えなくなる。

 もしかして、照れてるのかしら?

「ねえ……」

 ケインは優しくわたしの髪を撫でる。時々髪の毛に柔らかい口付けが落とされて、それがとても心地良くて眠りに付いてしまいそうだ。

 だってわたしね、ここ最近、全然眠れてなかったのよ。そのツケが、今やってきたみたい。

「何だ?」

「わたしのこと、どう思ってる?」

 うっとりしながら、わたしは彼の胸で目を閉じた。ケインの優しい声が、子守唄のように遠くに聞こえてる。

「愛してる、誰よりも、愛してる……」

 わたしの額に熱い唇を押し当てながら、熱に浮かされたように彼は囁く。

「陛下の、深い森のような色のドレス姿の君は……、美しかった。とても、似合っていた……」

 本当に? 嬉しい……。

 わたし、わたしもあなたを愛してる。わたしの大切な王子様プリンス

 

 ねえ、

 だから……、少しだけ眠ってもいい?

 王子様のキスで、必ず目覚めて見せるからーー。

 

 

 

「リシェル、眠ったのか……?」

 

 少しだけ困ったようなケインの声が、耳元を甘く掠めてく。

 

 ちょっとだけ、ね、いいでしょう? でも、約束よ。後で必ず起こしてね。

 

 夢見心地のわたしは、広く愛しい胸の中で、幸せな子供のように眠りに落ちていった。





眠り姫とキスは終わりです。

次話から別のストーリーが始まります。次話はなんと、ケイン視点のお話です。次話もよろしくお願いします。


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