君と僕 その11
君と出会っていくつかの季節が通り過ぎ、気がつけば二年の月日が経っていた。
新参者だった僕も過ぎ去った日々の中で、少しは成長していってると思う。生真面目で融通の利かない侍女長殿がどう判断しているかは、正直言って自信がないが……。
捻りに捻り、ねじくれまくりつつあった僕達の関係も、なんとか修復出来き、最近では落ち着いてきているのではないか? 「わたしの広い心のお陰ですからね」と、鼻息も荒く断言する君が目に浮かぶようだ。
きっと、僕達はこういった関係を続けていくのだろう。
リシェル・ブラネイアが、近衛騎士の恋人の元へ嫁ぐその日までーー。
「ケインさん!」
詰所前にある井戸の縁に腰掛け、のんびり風に吹かれていた僕の前に、アーサーが大声を出してやって来た。季節は春。うららかな日差しが眠気を誘ってくる時期だ。
「見てくださいよ。俺のこの晴れ姿」
「ふん、格好だけは一人前だな」
アーサーは正騎士の甲冑を身に付け、得意げに敬礼をしてみせた。
この春こいつは騎士の叙任を受け、正式に殿下の護衛騎士に任命された。これで僕らは、めでたく仲間となったわけだ。
「酷いな、ケインさん。やっと追い付いたのに」
「悪かった、これからもよろしく頼む」
僕が笑うとアーサーは隣に腰掛けてくる。兜を脱いで軽く頭を振り、ため息混じりにぼやき始めた。
「ケインさんやランス隊長の元で、共に任務につくのは嬉しいのですが……、正直付いていけるか不安です」
「何がだ?」
「……エミリアナ殿下ですよ」
呆然とする僕を無視して、アーサーは不満をぶちまけてくる。
「あの大げさで無駄に興奮する気性とか、はっきり言って苦手ですね。まあ、子供なんだから仕方ないとは思いますけど。だけどあの方が主かと思うと……、本当気が重くなりますよ」
アーサーは盛大なため息をついて笑った。
「お前、その言い種は不敬だろ」
「いいじゃないですか、この場でぐらい……。安心して下さいよ。ご本人の前ではおくびにも出しませんから」
「お前な……」
「俺のことより、どうするつもりですか?」
「何をだ?」
「ニーナさんですよ。ずっと会ってないでしょう?」
アーサーの鋭い視線に息を飲む。六つも年下だとは思えないほど大人びた顔で、隣の男は僕を睨んでいた。
そう、二年前のあの夜以来、僕は彼女の店から遠ざかっていた。
「お前、何故……」
「ニーナさんと知り合いなのは、何もケインさんだけじゃありませんよ。俺の耳にだって色々と入ってくるんです。ケインさんが本当にフェミニストで女性を尊重する男だったら、こんな捨て置くような状態を続けたりはしない筈です」
アーサーは濁りのない澄んだ真っ直ぐな視線を、僕に向けてきた。何も言い返せやしない。
「会いに行ってあげて下さい。そしてーー、ちゃんと答えを出してやって、彼女の背中を押してあげて下さい。それが男ってもんですよ」
「……お、お前は誤解してる。ニーナは僕のことなど……」
「ケインさん」
みっともなく反論を始めた僕の声を、騎士に成りたてでどこか幼さの残る男が冷静に断ち切った。
「本当は分かっていたのでしょう? 彼女の気持ちを。だから避けてきた。違いますか?」
ーーああ、……全く。
「迷いを捨て去る手伝いを、あなたの手でしてあげるべきだ。それが優しさだと、俺は思います」
僕に比べて、つくづくお前は大人だよ。こちらはぐうの音も出ないのだから。
至極真面目な顔をして説教をしてくる青年に、僕は小さな声で、「分かった」と呟くことしか出来なかった。
***
懐かしささえ感じられる裏通りの小さな店へと訪れてみると、彼女の姿は店内にはなかった。
「ケイン様、これはお久しぶりですね。ようこそいらっしゃいました」
入り口に近い隅の席に座った僕の前へ、女将が酒を運んでくる。愛嬌のある朗らかな性格の女性なのに、どことなく寂しげな顔だ。店の中にも以前のような活気がない。
眩しいほどの輝きを放つ看板娘の彼女がいなければ、この店はどこにでもある寂れた酒場の一つでしかないのだろうか。
「女将、ニーナは?」
僕は痛むほどに動き出した心臓をなんとか鎮め、背中を見せて立ち去ろうとする年配の女性に声をかけた。
「あの娘は……」
女将が瞳を曇らせて僕を振り返る。
「もうずっと店へは出ていません。去年ぐらいからかしら、だんだん笑顔が減ってきて、塞ぎ込むようになってしまって」
女将は唇を噛むと、涙を堪えるように作り笑いを浮かべた。
「どうも失恋したようです。わたし達が薦める縁談に首を縦に振らなかったのは、好いた人がいたからだったんですね。全然気づかなかったですよ、ええ全く。だけどその男には振り向いてもらえなかったみたいで……。見る目ない男ですよ。あんなにあの娘は別嬪で、気性のいい働き者なのに」
女将の悔しそうな物言いに胸が傷んだ。
その男とは、本当に僕のことなのか……。
「あの娘に誰かと一緒になってもらって、この店を夫婦で盛り立てて欲しかった。それがわたしと旦那の夢だったんです。だけどニーナは変わってしまった。今はね……、好きなようにさせてやるつもりです。したいことがあったらすればいいし、わたし達に縛られることはない。そう思っているんですよ」
女将は薄く涙に滲んだ目を細め柔らかく微笑む。全てを達観した人間が見せる、深い愛情に溢れた優しい笑みだった。
「あの娘のしたいことを応援してやるつもりです。それで以前の明るい娘に戻ってくれるなら、わたし達はそれで満足なんですよ」
僕は女将の出してくれた酒を一気に煽った。
思った以上にニーナの現状はよくないらしい。それが自分に責任があるかもしれないとは、自らの迂闊さに歯噛みしたくなる。器をテーブルに置くと彼女を見上げて尋ねた。
「……それで……ニーナは。今、どこに?」
声が酷く掠れていた。
酒で喉を湿らせた筈なのに、上擦ったようなしわがれ声しか出ない。
あれから彼女の身に、何があったと言うのだろう。僕がしたことはそんなに酷いものだったのか。
「ニーナは……」
女将は動揺する僕を戸惑いがちに見ていた。それから僕の質問にしばらく答えあぐねていたようだが、小さく息を吐くと決心したように口を開く。
「あの娘なら教会の養護施設に行ってる筈です。何かあったら、いつも帰ってたから」
「帰る?」
「ニーナは孤児だったんですよ。あそこは幼い頃育ったところだから」
「孤児? そんな彼女は、店主の遠縁の娘だと……」
口籠る僕に、女将は眉尻を下げ困ったように笑った。
「あの娘があまりにも気にするから、お客さんにはそう話していましたけどね。本当のところは違うんですよ。ニーナは子供が欲しかったわたしら夫婦が、教会から貰い受けた孤児だったんです」
驚きのあまり言葉を飲み込んだ。隠されていたニーナの真実は、明るくて陽気な彼女の表面からは窺い知れないものだった。
遠い昔を懐かしむように女将は笑って続ける。
「旦那は男の子を欲しがったんですけどね。痩せてガリガリだったあの娘を見たとき、わたしは運命を感じてしまって。無理やり女の子を引き取ってしまいました。でもね、今では旦那も、ニーナを本当の娘だと思ってるんですよ」
フフフと笑い声を上げたあと、女将は片目を瞑ってこちらを盗み見た。
「ケイン様、今の話はどなたにも内緒で、よろしくお願いしますね」
***
教会へと向かう僕の前方に、長い金髪を風で揺らしながら歩いてくる女性が見えた。
彼女は僕の姿に気がつくと、急いで来た道を戻ろうと背中を向ける。僕は夢中で追いかけた。
「待ってくれ、ニーナ」
「離して!」
逃げようともがく細い手首を掴まえる。痛いと小さく悲鳴が聞こえ、慌てて手を離した。だが、このままでは逃げられてしまうだろう。僕は急いで大声を出す。
「お願いだ、話を聞いてくれ」
自由になったのに、彼女はその場に立ち止まって動かなかった。僕の話を聞いてくれる気になったのだろうか。
両手で肩を覆うように細いその身を抱き締めて、彼女は小さい声を上げ泣き始めた。
こんなに脆くて弱いニーナを、僕は知らない。いつだって生命力に溢れ、輝くような美貌で男達を魅了していた姿しか。
胸が痛い。
彼女をこんなふうにしてしまったのは、他でもない僕自身なのか?
「ーー話って何よ」
「えっ?」
「え、じゃないわよ! 話があるから来たんでしょう。聞いてあげるわ! 聞いてあげるから、さっさと言いなさいよ」
感傷に暮れる僕の前で、儚げだった女性は突然、豹変したように大声を出してきた。既に涙のあとなど消えてしまっている。
「君、いったい……」
「あなたね、わたしを誰だと思ってるの? 美しくて情熱的な聖女様よ、わたしは」
「それは……」
以前僕が、彼女を評して口にした言葉だ。覚えていてくれたのか。
度肝を抜かれたように茫然とする僕を見て、ニーナはフフンと鼻で笑った。
「大方、アーサーにでもけしかけられて来たんでしょう。わたしが弱ってるから、謝って来いと言われたのではなくって?」
「い、いや、それは……」
鋭い突っ込みにしどろもどろになってしまう。アーサーの差し金であることは確かだが、それにしても自分の意志で来てないことが見透かされてるとは、なんとも情けない気持ちになってくる。
「ニーナ、僕はーー」
「いいの、もういいのよ」
ニーナは僕の口元に、細い指を当てて言葉を奪った。
「あなたの気持ちなら、とっくに分かっていたんだもの」
動けない僕の顔を覗き込んで、紫の瞳を近づけクスリと微笑む。
「愛する人が出来たのでしょう? ええっと、誰だっけ。確かあなたに全然なびかなくて、おまけに堅苦しくて可愛げもない、不美人とかだったわよね?」
リシェル・ブラネイアのことなのか。どうでもいいが散々な言い方だ。
「ーーどうしてそれを?」
「分かるわよ」
僕の口から指を外した彼女は、踊るように軽やかに歩き始めた。
「好きな人のことなら、なんだって分かる。あなたがその女をどう思っているかなんて、手に取るように分かっていたわ」
「ニーナ……」
君は本気で僕のことを?
「すまない」
何も気づかないで。
項垂れる僕を見て彼女は慌てて戻ってきた。
「やめてよ、ケイン様。もう、いいって言ったでしょう」
罰が悪そうに彼女は首をすくめる。
「元々あなたの弱味につけ込んだだけだったし。あわよくばわたしのものにと考えていただけなの。あなたはわたしの計略に嵌まっただけ。それだけなのよ。ーーだってあなたは精神的に参ってる時だけしか、わたしの相手をしてくれなかった。元気になったあなたは、いつもわたしと距離を取りたがったわよね? 一人の友人として尊重してくれてるのは分かってたけど、でも堪らなかったわ。だって少しも、振り向いてくれないんだもの」
「誤解していたんだ。僕らは似た者同士だと。だから君との関係は何があっても変わらないと思っていた。君も僕と同じように、何かを忘れるために一緒にいるだけで、二人でいるのに深い理由なんかないと決め込んでいたんだ」
「そうね。だって、そう振る舞っていたから」
息を飲む僕の前でニーナは艶やかに微笑む。
「あなたの心まで欲っしているのだと、絶対気づかれたくはなかった。そんなわたしの下心を知ればきっとあなたは逃げてしまう。友人としての位置だけは、なんとしても失いたくなかったのよ。わたし」
眩しいほどに美しい笑顔だった。どうして僕は彼女に恋をしなかったのだろう。
「ケイン様、あなた。酷くわたしを哀れんでるみたいだけど、言っとくけどわたしはモテるのよ! 男はあなただけじゃないし、今のわたしは馬鹿みたいな男に振られたあとで、大概の男は素敵に見えるんですからね」
「酷い……言いようだな」
「本当のことじゃない。こんな聖女のようにいい女を受け入れないなんて、そんな奴、大馬鹿者に決まってるわ」
「そう、だな……」
いつの間にか、以前と変わらぬ魅力を取り戻した目前の女性から、そっと視線を逸らす。再び生きる気力を手に入れた彼女は、燃える真夏の太陽のように光を放っていた。
僕にはそれを正視する度胸はない。不甲斐ない自分を呪いたくなるほどだ。
「情けないわね、ケイン・アナベル。わたしの顔も見れないの?」
呆れたようなニーナの声がする。
「ああ、僕は惨めな大馬鹿者だからな」
「まあ、何てことかしら。あなたって本当に、うわべだけの軟派男なんだから!」
下を向く僕の前に、怒ったようなニーナの顔が飛び込んできた。腰を屈め頭を低くして、上目遣いにこちらを睨んでくる。
「僕のことか……、それは」
「ええ、そうよ。女心をまるで分かってないもの。どっちかと言うと朴念仁みたいだわ。そんな調子じゃ、やっと見つけた愛する人も手に入れることなんて出来ないわよ」
「ニーナ……」
急にどうしたんだろうか、ニーナは。はっきりしているのは、彼女の中に僕への未練など微塵もないってことだ。それが分かっただけでも少しは救われる。
「そうよ、どうせその女はあなたの気持ちになんて全然気づいてないんでしょ? 気づく筈ないわよ。だってからっきしダメなんだから」
「僕は別に……」
リシェル・ブラネイアへ本心を打ち明けるつもりはない。この気持ちには一生蓋をして、誰にも告げたりしないだろう。彼女はその内恋人と幸せになる筈だ。その姿を見ることが出来たら、僕の想いも跡形もなく消えてなくなる。
「……もう」
言葉を返さない僕に、ため息をついてニーナは叫んだ。
「わたしは、新しい恋をするわよ! そしておじさんとおばさんの店を、素敵な旦那様と継いで立派な店主になるわ。あなたとわたし、どちらが先に幸せになるか競争よ。でも勝負は目に見えてるわね。わたしの勝ちってこと」
「ーーああ、君の勝ちだ」
「馬鹿!」
苦笑した僕を見て、いきなりニーナが殴りかかってきた。女性と思って侮っていた僕は慌てた。意外と重い拳を情け容赦なく叩きつけてくる。
「馬鹿ね、本当に馬鹿よ、あなた! わたしが……、こんなにいい女のわたしが側にいるのに、見向きもしないでそんな人生諦めたような顔をして」
「……やめてくれ。君、結構痛いんだぞ」
しばらくすると、彼女の腕から力が抜けていった。遠慮もなく振り回していた腕をダラリと下へ降ろし、細い肩を小刻みに揺らしている。
「ニーナ……、僕は……」
突然彼女が、しがみつくように抱きついてきた。美しい紫の瞳には、今にもこぼれそうな涙が光っている。
「わたしは絶対幸せになってやるわ! あんたなんかよりずっと、ずっと幸せになってやるんだから! その時になって後悔してもしらないわよ。いいえ、ものすごく後悔して、痩せるくらい苦しめばいいのよ」
「分かった、分かったよ。ニーナ」
子供のように大きな声で泣き喚くニーナの背中を、僕はずっと柔らかく抱き締めていた。
暖かい風に吹かれた、春の穏やかな日差しの中。
僕達は気のおけないただの友人同士に、今度こそ本当に戻っていったのだ。




