君と僕 その5
「ケイン様」
リシェル・ブラネイアは恥じらったように俯いた。
「せっかくのご好意を、こんな形でお断りしたくはないのですけど」
彼女は口惜しそうに唇を噛み締める。今の自分の状況は、決して勝負に負けたのではないと言ってるようだ。
「断る? 何故」
僕は涼しい顔をして聞き返した。いや、もしかしたら笑っていたかもしれない。彼女より優位に立てれるなんて、滅多にないことだからね。
「何故って、わたしをご覧になったらお分かりでしょう? 今日、わたしが着ている物は乗馬には向かないものだわ」
彼女は顔を赤くして噛み付いてくる。自分の足元を隠す裾の長いドレスを、ことさら僕に見せ付けるように振り払った。
「無理ではない。横乗りすればいい。現に殿下もそうされただろう?」
平然と言ってのける僕を睨み付けて、リシェル・ブラネイアは肩を振るわせる。その仕草が一々子供っぽくて面白い。彼女、僕より実は年下なんだろうか? そうは見えないんだが。
「殿下はあなたが同乗して補助をされていたから……。けれど初心者のわたしに、いきなり横乗りなど無理ですわ」
そこまで言って、彼女は顔をハッと青冷めさせる。それから僕の顔を心底嫌そうな表情で眺めてきた。たった今、それらの問題が一挙に解決するすばらしい手立てに気が付いたらしい。遅すぎるな、いつものキレがないようだ。
「まさか……?」
怯えたようにこちらを見つめる瞳に微笑んでみせる。
「そんなことなら、心配無用だ」
僕は愛馬のクインシーの肩を軽く叩いて、彼女の目の前で颯爽と騎乗してやった。そして凄い顔で睨んでくる女性に、わざとらしく手を差し出す。
「殿下と同じく補助しよう。さあ、どうぞリシェル殿」
「そ、そんな困るわ。だってわたしは……」
僕の挑発的な行為に、顔を強張らせて彼女は拒否を示した。この程度の拒絶は、勿論こちらだって想定内だ。しかし、どうしようか。あまりしつこいとギィと殿下にとんだ勘違いをさせてしまう。
だがその時僕達の中に、割り込んでくる声がかかった。
「いい加減にしてよ、リシェル。さっさとお馬に乗って!」
声の主は殿下だった。馬場から少し離れた場所に休憩用に設けられた敷布の上で、侍女長が用意していたお菓子を口にして、寛いだご様子でこちらを見ておられる。
口一杯に頬張ったお菓子がポロポロとこぼれているのを、騎士であるギィが殿下のドレスから慌てて払っているようだ。
まあ仕方ない。侍女長殿の他に侍女はこの場にはいないのだから、彼がするしかない。
僕の側に立つ彼女は、その様子をやきもきしながら見ていた。ギィになど任せておけないと苛立つような背中が言っている。僕も、その意見には概ね賛成だった。
だが今は彼女を放す気はないのだが。
「エミリアナ様、わたしはよろしいのです。ですからこちらへいらしてーー」
「嫌よ、わたし今はお菓子を食べたいの。それより、お馬に乗ったケインを見てみたいわ。早く一緒に乗ってよ、リシェル」
「で、ですが……」
なおも言いすがる侍女長の声を、殿下は癇癪を起こしたようにピシャリと撥ね付けた。
「リシェル、これは命令よ。ケインと二人でお馬に乗って!」
リシェル・ブラネイアの目に、もしも恐ろしい力があったとしたら、僕はこの時、間違いなく焼け死んでいただろう。それほどに気合いの入った眼差しで、彼女はこちらを憎々しげに見つめてきたのだから。
***
「リシェル殿、そんなに体を固くしていては辛くないか?」
「何がですか? わたしはちっとも苦痛など感じておりません」
そう言いながら僕のすぐ前にいる女性は、肩をいからせてカチコチになっている。本当にこんな彼女はとても新鮮だ。
「そんなに姿勢に困っているのなら、こちらにすがればいい。君が体を固くしていたらクインシーにも負担がかかる」
「あなたに……すがるだなんて冗談じゃないわ。え、クインシー?」
歩く馬の背にふらふらと体をとられながら、それでも彼女は僕を頼らない。根性だけは立派なようだが、如何せん運動能力とバランス感覚の方はないようだ。
この意地っ張りな性格。どうにかならないだろうか。だがそうは思いながら僕は、いつの間にか彼女との会話を楽しんでいた。
つい今しがたまであった、彼女への復讐心めいた暗い感情も、知らぬ内に消えてしまっている。
どうしてしまったのだろう。
今の僕は下心などなく、純粋に乗馬に親しんでもらいたいと思っているようだ。
「ああ、クインシー。この馬の名前だ」
そう言って僕は愛馬の肩を優しく撫でた。クインシーが嬉しそうに顔を上げ尾を振る。
僕達の下で突然顔を上げたクインシーに驚き、リシェル・ブラネイアは肩をビクリと上げ悲鳴をあげそうになった。
「大丈夫だ。彼女は喜んだだけだから」
噴き出しそうになりながら、目の前で必死に悲鳴を飲み込む女性に告げた。茶色の緩やかに編まれた髪の毛が振り向いて、緑色の瞳が目を丸くしていた。
「彼女って、もしかしてこの馬は牝馬なの?」
「そうだが、それが?」
彼女は僕の返事に呆れたような視線を寄越したあと、皺を寄せていた額をふっと和らげ笑った。
「あなたって本当に、どこまでも食えない人ね。愛馬までメスだなんて、どれだけ女好きなのかしら」
「女……好き?」
「そうよ、だって実際に牡馬じゃなくて牝馬じゃない」
彼女はコロコロと弾けたように笑った。よほどおかしかったのか、恐怖心も忘れてリラックスしてしまったようだ。
ガチガチだった体が嘘のように緩んでいた。高い声を出して、若い娘のように軽やかに笑い声を上げている。いや、そんなことよりも……。
僕はこの女性の、笑顔など見たことはなかった。
だから、リシェル・ブラネイアのあまりの変化に、戸惑ってしまったのだ。
気難しい顔をした、嫌味ばかり口にする年増の侍女長。今までの、僕の中の彼女のイメージはこうだ。
だが今、目の前で微笑む女性はどうだ?
気難しいだって? 新緑の瞳を茶目っ気たっぷりに輝かせて、僕をいたずらっ子のように上目遣いに見上げてくるこの女性が?
嫌味ばかり口にする年増の侍女長?
ああ、彼女は確かにあの侍女長ではあるが、柔らかそうな桃色の唇は好奇心を隠して、嫌味と言うより僕をからかって遊んでいるようにしか見えない。
年増云々ーーに至っては、何故そんなことを思っていたのか最早分からなくなっている。
彼女の頬は明るい薄紅色に色付き、化粧っけがないにも関わらず輝くような若さを放っていた。
「あなたみたいに徹底していたら、いっそそれも潔くていいかもしれないわね」
クスクスと笑うリシェル・ブラネイア。そんな彼女の口元に小さく現れたえくぼ。
えくぼの横の唇が、少しだけ開き不思議そうに声を出した。
「ケイン様?」
それを見た時、僕の胸に浮かんできた衝動が分かるだろうか?
その衝動に一瞬、心を支配されそうになったことも?
「どうされたのよ?」
他人を魅了するような深い緑色の瞳が、怪訝そうに見返してくる。大丈夫だ。この目は何も気付いていない。
「何でもない……」
僕はやっとの思いで声を絞り出した。
冷静になろう。目を閉じて深呼吸を軽くすると、気持ちを切り替えることに成功した。
「クインシーは牝馬だが、牡馬には負けない我慢強さと、それに申し分のない意地の強さがある。僕はいい馬を手に入れることができた」
どうかしている。
「どこかの侍女長殿といい勝負だ、そう思わないか?」
頭を冷やせ。おかしな考えは捨てるんだ。
「何ですって? 誰のことを仰ってるの」
駄目だ。
僕は足に力を入れてクインシーに命じた。愛馬は僕の号令に従い自らの脚を速める。
「ちょっと、ケイン様。酷いわ、いきなり駆け足になるなんて。や、止めて」
リシェル・ブラネイアが非難するように悲鳴を上げた。
だがその声を無視をして、更に馬の速度を速めていく。彼女が我慢出来ずに僕の方へと倒れてきた。
その小さな衝撃に、信じられないくらい激しく心臓が動いた。視線を下げ目の前の彼女を見る。
髪を振り乱して、僕への罵倒を思いのまま大声で叫んでいる姿。先ほどまでの魅力的な笑顔は、すっかり影を潜めてしまっている。それなのに。
何故、こんな?
そうだ、一時の気の迷いに決まっている。
だって、そうとしか考えられないじゃないか。
そうさ、あり得ない。
僕が、
この口煩くて、やかましいだけの可愛げのない侍女長に
思わず口付けをしたくなっただなんてーー
何かの間違いなんだろう?




