君と僕 その3
夕方宿舎に戻ると、相部屋の少年に入り口の所で出会った。丁度夕食の時間帯であったため、彼は食堂へと行く途中だったようだ。
「ケインさん、随分遅かったですね、どちらへ行かれてたのですか?」
僕に声をかけてきた少年は、隊長付きの従騎士アーサー。十六になったばかりの素直な気のいい奴で、弟のように可愛がっている。
「あ、すみません、ケイン様。もう正式に騎士になられていたのに……」
アーサーはハッとしたように顔色を変えると、慌てたように頭を下げた。
僕はそんな彼の肩に軽く手をかけて、笑いながら声をかける。
「何言ってる。ついこの間まで、先輩・後輩の仲だったろ? 今まで通り気楽に呼んでくれ、頼む」
「分かりました、ケインさん」
アーサーは嬉しそうに返事をした。
「で、どこへ行っておられたのですか?」
その切り返しに僕は「うっ」と詰まってしまう。まずい、こいつは知っているんだ。
「いや、ちょっと野暮用さ。たいした所にはーー」
途端に奴から離れてそそくさと部屋へ戻ろうとする僕の側に、アーサーは鼻を鳴らして近付いて来る。
「なんか、匂いますね? これは酒の匂いだな。呆れました、昼間から飲んでいたのですか?」
「仕方ないだろう。どこにいてもからかわれて、これが飲まずにやってられるか?」
僕はクンクンと匂いを嗅いでくるアーサーを避けながら、階段を駆け足で登って行く。アーサーはそんな僕の後を性懲りもなくついてきた挙げ句、目を丸くして噴き出した。
「侍女長様とのことですか? 本当だったのですね」
「やっぱりお前も知っていたんだな。誰に聞いたんだ?」
「ランス様にです。冗談かと思ったけど……、ケインさんは凄いなあ」
アーサーはおかしくて仕方ないのか、肩を振るわして笑っている。くそっ、そんなに笑うか?
「何が、凄いんだ?」
「だって、侍女長様って、あの、リシェル様でしょ? 凄いですよ、本当」
あんな恐そうな女の人によくもまあ、アーサーの目はそう言っているようだった。僕のひがみ根性が見せた、気のせいかもしれないが。
「あれは、あの侍女をからかっただけだ。あっちが本気にして勝手に腹を立てたんだ」
「侍女長様をからかったのですか?」
アーサーは笑うのを止めて見つめてくる。
「ああ……」
少年のまっすぐな、正義感を感じさせる視線に、僕は居心地が悪くなり横を向いた。
「では、叩かれても仕方ないですね。女性をからかって遊ぶなんてケインさんらしくない。皆に笑われて罰を受けたとしても、同情の余地はないな」
「い、いや、違う」
「何が違うのです?」
アーサーは涼やかな瞳を光らせる。子供のくせに妙な迫力があった。真面目な気性で、可愛らしい坊主といった風体のくせに侮れない奴だ。
「あ、だからな、その……」
からかったと言ったのは照れ隠しだ。
あの時は本当に、彼女は僕に気があると思ってしまったんだ。
今思うとあり得なさすぎて、馬鹿みたいなんだが。しかしそのことを、こいつに言うのは……、僕にもプライドというものがあるらしい。
アーサーは口籠ってしまった僕に溜め息をつく。いったいどっちが年上だと思っているんだろう? 時々、こいつは忘れてしまっている気がする。
「まあ、いいですよ。次から気をつければ」
「ああ」
「それよりも……」
「なんだ? 他にも何かあるのか?」
お前、食事はいいのか? 僕は食って来たんだぞ。
思わずそんな言葉を飲み込んでしまうほど、アーサーは真剣な顔をして問いかけてきた。
「ケインさん、彼女に会って来ましたね?」
***
厨房へと消えて行ったニーナに、僕は何も言えなかった。
そんなつもりで来た訳ではないと、はっきり言うことが出来なかった。
彼女に会って少しばかり愚痴を聞いて貰えたら、そんな思いが全くなかったと言ったら嘘になる。だがそれ以上の何かを、期待していた訳ではなかったんだ。
確かに僕は昔、彼女と関係があったことがある。あの頃の僕は、つまりは子供だった。
抱えきれない不安と悩み、それから欲望を、ニーナにぶつけていたに過ぎない。彼女は僕なんかよりずっと大人で、いつも広く暖かい心で包んでくれていた。僕はすっかり、そのぬるま湯に甘えていたんだ。
そこに愛があったかどうかなんて分からない。きっと彼女もそうだろう。
僕達は、似た者同士が引き付けられていただけなんだ。多分、そんなものだと思う。
そんな甘えた時期が一時の熱病みたいに過ぎてしまうと、落ち着いてきたのかだんだん店で羽目を外すこともなくなり、彼女とも元の友人に戻っていった。
そして、もう既に何年か経つ。彼女だって今は新しい恋人がいる筈だ。何しろ、あの美貌と気性なのだから。
僕は……、僕は今はいいかな。
正直今は、新しい生活に慣れるのに必死で、それ以外のことは全て煩わしい。城でも恋人のような存在はいないし、いらないと言った方がしっくりくる。
まだ二十二の若さで、自分でも枯れているなとは思うんだが……。
僕にとって女性とは、いつしか、母の代わりのような存在になっていたのかもしれない。
僕の母は気の毒な人だ。
まだ若い娘のような年の頃に、館の主人である父に無理やり奪われた。母にはどうしようもなかった。
使用人の分際ではね、どうすることも出来ない。抵抗することも、逃げることも、出来てしまった子供と死ぬことも何一つ出来なかったんだ。
僕が産まれてからも、父は知らん顔を通した。
一人の人間の人生を無茶苦茶にしておいて、いい気なものだと思わないか? 父には恐い奥方がいたから、母に優しくなど到底無理だったろうが。
僕達は、嫌がらせのようなものを受けながらも、しぶとく館に居座り続けた。他に行くところもなかったし、仕方なかった。
母は奥方に睨まれ、随分無理をした。
僕は母に本心を聞いたことはない。尋ねてみても、答えてくれたかは分からない。だがきっと、父の暖かい言葉が欲しかったと思うんだ。
もしかしたら、母は父を愛していたのではないか?
だから僕を、憎い男の子供の筈の僕を、慈しみ育ててくれたんだ。深い愛で。
今ならその気持ち、少しは分かるような気がするよ、母さん……。
だが、父は母とは違ったようだ。ただの一度として、父が母を振り返ることはなかった。
僕のことを正式に息子として認め、母を夫人の一人として迎えた後でもね。そうさ変わらなかったのさ、何一つ。
それから母は……、
無理がたたって病気になり、呆気なく逝ってしまった。
僕が従騎士として城へ上がってすぐのことだ。もう随分、昔の話になる。
母の死後、僕は心に決めたんだ。
女性には優しくしようと。
子供過ぎて出来ない時期もあったが、今はこの信念を曲げるわけにはいかない。
母のように寂しく笑う女性を見たくない。彼女達に、僅かでも幸せを感じて欲しい。
だが……、
「答えてください、ケインさん。会ったんでしょう、ニーナさんに?」
「う、まあ、あいつの店には行ったけど……」
「けど?」
「行くには行ったけど、何もないぞ? 第一、僕らはもう何年もただの友人だ。お前だって知ってるだろう?」
「知りませんよ。俺が知ってるのは一年前からのお二人です。ついでに言えば、俺にはどうでもいいことです」
「どうでもいいのに何故そんなに気にする? 訳が分からない」
僕は驚いてアーサーを見た。いつの間にか、部屋にまで着いてしまっていた。戸口の所で、アーサーの奴は溜め息をついて頭を振った。
「いや、そうなんですよね。ただ……、俺はニーナさんが……」
「お前、惚れているのか? あいつに」
僕の大声にアーサーは目を丸くした。
「違いますよ。何でそうなるんですか? あ、ああ、聞きようによっては、そう聞こえますね。でも違います。安心してください」
「安心て……」
アーサーは僕をまっすぐ見るとニヤリと笑った。こんな品のない笑い方、こいつにしては珍しい。
「俺、飯食って来ます。後でニーナさんとのこと聞かせてくださいね。どうせ、びびって逃げて来たんだろうけど」
「なっ」
「やっぱ図星でしたか?」
アーサーは笑いながら部屋を後にした。僕は奴の鋭い洞察力に驚く。
何故、分かったんだろう?
***
「だからね、わたし、お馬に乗りたいの」
エミリアナ殿下が顔を赤くして僕を見つめてくる。
「いけませんわ、エミリアナ様。今日はわたしとダンスのお稽古をする約束ですわよ」
だが、恐い顔をしたリシェル・ブラネイアが、殿下の頭を押さえつけて睨みを効かせていた。いや、頭を撫でているだけか、羽交い締めにしているように見えたじゃないか、全く。
「嫌よ」
殿下はスルリと侍女長の手を逃れ、僕に抱き付いてきた。
「ダンスなんか、嫌! わたしはお馬に乗ってみたいのよ」
「何ですって?」
侍女長はギロリとした目を僕に向けてくる。
ちょっと待て、何故僕なんだ? 君は王女と話をしていたのではなかったか?
「ケイン様、またあなたが何か吹き込まれたのかしら? 今までこんなにわがままを言われたことはないのよ。おかしいじゃない?」
彼女は王女を無視して僕に詰めよって来た。その冷気を感じさせる視線には、はっきり言ってかかわり合いたくなどなかったが、僕は周りを見回してみる。
キャリーとルイーズとかいう二人の侍女は、さっさと奥へと逃げてしまっていた。
いったい何故僕が、代表して絡まれなければいけないんだ?
全く訳が分からない。
ことのおこりは、王女の一言だったらしい。
らしいと言うのは、僕は現場を見てないからだ。あくまで勝手な想像なのだが、当たっていると思う。
僕らはいつも通り、王女の私室の前で警護を担っていただけだ。そうしたら扉が開いて、エミリアナ殿下が通路へと飛び出して来られたのだ。
王女は焦ったように息を弾ませて、転がりそうになりながらこちらへやって来る。
その後ろを侍女達の集団が追いかけて来た。
彼女達のやり取りを聞いて判断するに、侍女長とのダンスのレッスンを、直前になって王女が拒否し始めたらしい。それで二人の攻防が始まったようだった。
僕は呆れたように、目の前で牙を向く女性に視線を向ける。
「何かしら?」
彼女はブスッとした表情で、僕を邪魔者だと言わんばかりに見つめていた。
何かしら、じゃない。相手は六歳の幼子だぞ? 大人が一緒になって子供とやり合うなんて馬鹿げている。
僕は屈んで王女と同じ目線になった。
すみれ色の瞳が僕の視線を必死で探している。兜越しなので分かりにくいらしい。僕は兜を脱いで王女に笑いかけた。
「ダンスのお稽古は、いつされるのですか?」
輝くように微笑まれた王女が僅かに口元を歪ませる。
「……明日よ、明日ならできる」
「本当ですね?」
王女は頬を膨らませて断言した。
「うんっ、ぜったいする。約束するわ、だから……今日は」
「分かりました」
僕は王女の両手を取って、その手を軽く握った。
「我らでお供を致しましょう。今日は乗馬のお稽古でいいですね?」
王女の顔が満面の笑みに変わっていく。
「うん!」
「ちょっと、お待ちになって!」
僕と王女の会話に、彼女が肩を震わせて割り込んできた。
「何を勝手なことを、スケジュールは決められているのです。わがままで変更などしたら、また同じことをしてしまう日がくるわ」
「……よいではないか」
「はあ?」
「殿下の人生はまだ始まったばかり。いくらでも学ぶ時間はある。長い時間の内には、たまには息抜きや冒険も必要だと思うが?」
怒りに震えるリシェル・ブラネイアとは、正直目を合わせたくない。だが無視する訳にもいかないので、僕は覚悟を決めて彼女に微笑みかけた。
それから同僚の騎士に声をかけ、急遽変わった王女の予定を説明する。その間エミリアナ殿下は、大人しく側でじっとしていた。
王女の支度をキャリー達に頼んでいると、低い声が呪うように聞こえてくる。ああ、そうだった、彼女が黙っていたのですっかり存在を忘れていた。
侍女長殿は通路にポツンと、一人迷子のように立っていた。
「殿下がまた倒れられたらどうするのですか。……あなたって人は、ろくなことをしないのね」
彼女は顔を伏せて愚痴のようにブツブツと呟いている。毒のある言葉を吐いているのに、その横顔には少しも覇気がない。
こんな彼女は初めて見た。その肩を落とした頼りなげな姿に、少しだけ気の毒になる。
「ならば君もついて来い。我らと供にいる殿下が心配なんだろう? だったら側で見張っているといい」
気がつけば、僕は彼女に近寄って話し掛けていた。
その細い肩に気安く手をかけ笑顔を見せる。こんな僕を見れば、君は必ず真っ赤になって怒るだろう。そんないつもの彼女が見たかった。何とかして、元気を出して欲しかったんだ。
君と話すのに、苦手意識を感じなかったのは、この時が初めてだったのかもしれないな。




