第二話
「おい……。誰かいるのか?」
廊下を見回していた久人を呼んだのは、おずおずとした雅浩の声だった。
「いるよ」
「っ! その声……、久人か!?」
「当たり」
「おい、てめえっ……」
沈黙が言葉をかき消したようだった。
「なんだ……これ」
「僕は力がないからね。すまないけど、寝てる間にそうさせてもらった」
わずかな月明かりと電灯しか差し込まない、しかし完全な暗闇ではない教室で、久人は雅浩の横に立った。机を並べた上に、ガムテープで動きを封じられた雅浩の横に。
「楽しかった? まあ、楽しくなけりゃやらないよね」
「なんのことだよ……」
「気付かないほど習慣になってたんだ。僕のことこそこそ言うのが、日記を書いたり風呂に入ったりするのと、おんなじくらい」
久人の目は、怒ってはいなかった。むしろ怒りさえも超えたのか、それはあまりにも静かだった。
「僕だってバカじゃないから、こんなことしてただで済むとは思ってない。今だって自覚してる。バカな事やってるって」
「じゃ、じゃあなんで」
「もう止められないんだよ。天井に向けて投げたボールが、空中で止まる? でも、僕も悪いよ。誰にも相談しなかったんだから。でも元凶は変わらない。お前がいたから」
片手に持っていたハサミを、久人は目の前に掲げた。
「おま……」
「言葉で言うほうが心に傷を負いやすい。でもその言葉を考えるのは面倒だ。僕は自分の手で、仕返しがしたい。だからこうする」
振り上げられたハサミの先は、勢いよく机に突き刺さった。そのすぐ脇には、雅浩の頬があった。
「……どうしたんだい? 僕がそんなに怖い? ただハサミを持っただけで。でもこれはお前が今までやったことの報いだ。僕がやらなくてもいずれは受ける報いを、僕が今早めただけだ。それぐらいわかってやってるんだと思ってたよ」
楽しい。威張っていたやつが、今はおびえている。そんな感情に染まりつつも、久人にはまだ冷静な心があった。その心で、もう自分は壊れてしまったんだと、諦めていた。
「どうする? どこを最初に刺してほしい?」
再び掲げたハサミの取っ手を、久人は両手で掴んだ。雅浩は、ただその凶器を凝視するだけだった。
「……面倒だから、すぐ心臓刺しちゃおうか」
狂気から来た楽しさから、久人の口が不気味な弧をえがいた時だった。
「ひさ、と……くん?」
静かゆえに響いた、か細い声。殺人者になろうとしている男子ははゆっくりと、被害者になろうとしている男子は即座に教室のドアを見た。
「何……? 何やってるの? ねえ、久人君だよね。それ、何? そこにいるの、誰?」
「きょ、京子! 俺だ!」
嘘だとでも言いたげに、呆然の上に薄く笑みを貼り付けた京子の表情は、雅浩の裏返る寸前の声で、我に返ったようになった。
「まさひろ? 雅浩なの、そこにいるの。ねえ、久人君! 何……。どうして……」
「ごめん……京子さん。もう止められないんだ」
「やだ、やめて! 違うよ、久人君はそんなことする人じゃない!」
「ううん、そんなことない。京子さん、僕みたいな大人しくて、真面目そうで、そういう人間こそ、こういうことをする可能性を秘めてるんだよ。嫌なことも全部、背負ってしまうから。だから人に知られないで、溜まったものが静かに爆発する。そして……こうなるんだ」
久人の手に、力がこもった。
「久人君、お願いやめて! あたし久人君がこんなことするの見たくない! 雅浩が殺されるのも見たくない!」
「……京子さん、雅浩のこと、かばうんだ」
振り向かずに放たれた声に、京子は久人の背を見つめた。
「…………久人君、確かに、あたしは雅浩が嫌いだよ。久人君のことずっといじめてて。でも、死んでほしいなんて思ってない! 今に報いが来るって、雅浩にも言ってた。でも、それは死じゃないよ!」
久人の手から力が抜けていった。それを抑えようと再びこめるが、その手は震え始めていた。
「だめだよ久人君……こんな一時的な感情で、こんなことしちゃ。絶対後悔する。わかるでしょ?」
「……わかるさ……。でも……」
「お願い……久人君」
止めたい。でももうどうしようもない。自分さえコントロールできない自分がいやだ。自分が――
「終わらせないと」
そうすれば解放される。
頭の上まで勢いよく振り上がったハサミが、一瞬光った。
「久人君だめ!」
京子の叫びも虚しく、刃物は対象を突き刺した。
「久人……」
見開かれた雅浩の目には、体をくの字に折り曲げ、腹部を赤く染めた久人が映った。彼の目から、久人はゆっくりと消えていった。
「あ……あ…………ひさ、久人君!」
久人の横に、京子は膝をついた。
「なんで、なんで自分を……」
「……ぶんが…………」
人に聞かせるようではなく、おのれにだけ聞かせるようなかすれた声が聞こえた。
「自分が……嫌だったから…………。自分の感情さえ操れないなんて……そんな……自分が、嫌になって、嫌いになって……」
「そんな……」
大きく息を吐き、久人は続けた。
「行って……。雅浩を……」
「……うん」
よろめきながらも立ち上がり、京子は雅浩に張り付いたガムテープをはがし始めた。
「いで!」
「何よこんくらい。今まで久人君いじめてた報いだと思いなさい!」
手の甲をさすりながら、雅浩はゆるゆると立ち上がった。
「久人君、立てる? 肩貸すよ」
「僕は……いい……。ほら……、昇降口、閉まっちゃうから」
「よくないよ! 久人君を置いてなんか……」
「みーつけたー」
どこか調子の外れた女子の声が、教室の中に入ってきた。
「だ、誰だあれ」
「絵那……。高屋絵那? な、なんでここに」
「えな?」
振り向いた京子の顔が驚きの色一色になっているのを見て、雅浩は入り口に立ちふさがる女生徒の名を繰り返した。
「陰湿ないじめにあってるって噂されてた子。顔だけは知ってたから……ひっ!」
立ち上がっていた京子が、短く鋭い悲鳴と共に一瞬大きく震えた。
「田野雅浩って、その人だよね? なんでこんな夜に学校にいるのかなー? まあ手間が省けていいや」
歩みを進めた絵那の制服は、朱に染まっていた。右手に、カッターが力強く握り締められている。一番色が濃いのは、その右手とカッターだった。
「何を……何したの、あなた。誰を……」
「いじめっ子をねー、やっつけたの。たくさん刺したの。ざくざくざくざく。面白いんだよ。刺すたびに声が出るの! でもね、あんまり刺したから壊れちゃったの」
「まさか、こいつ……」
「殺したんだ。この子をいじめてたって子を。学校で。ついさっき」
口を覆った京子の両手は、がくがく震えていた。
「いじめっ子はねー、あたしがみーんなやっつけてあげるの。その人もいじめっ子でしょ? あたしがやっつけてあげるから」
絵那は机のせいでジグザグに進むものの、雅浩を目指していた。ゆがんだ笑顔を貼り付けたまま。
「ふふ……。いじめっ子はみんな消えちまえ!」
叫びと共に絵那は突然カッターを逆手に持ち替え振り上げた。そしてあと数歩の距離を駆け、刃先を雅浩の胸に定め――
「ぐ、うっ」
髪の毛が雅浩の鼻先に触れた。彼はカッターではなく京子の小さな体当りで、半歩下がっただけだった。
「何ー? あなた。あなたもいじめっ子だったの?」
絵那がカッターを引き抜くと、京子は膝をついて横に倒れた。雅浩もそれに続くように、腹を押さえうめき声を漏らし倒れた。
「まーいいか。雅浩っていじめっ子も死んじゃったみたいだし。他にも残ってないかなー、いじめっ子……」
暗闇に紛れ込んでいたためか、絵那は久人に気付いた様子もなく、すっと踵を返してふらふらと教室を後にした。
「いじめっ子ー、いないー? ふふ……」
声が遠ざかると、床に伏していた三つのうち一つの体が、起き上がった。雅浩だ。彼の腹部には何の外傷もない。絵那を騙すため、一芝居うったのだ。
「京子……。おい、大丈夫……なわけねえよ、何言ってんだ俺!」
悔しげに叫ぶと、雅浩は京子を仰向けにした。彼女は人形のように力なく転がった。
「京…………くっそあの女!」
京子の制服の半分以上が、絵那の右手と同じ色に染まっていた。雅浩は京子の口元に手をかざし、ほっと息を吐いた。息はまだあるようだ。
雅浩が後ろを見ると、そこには久人が倒れていた。同じく腹部を真っ赤に染めて。
「……っ、救急車呼ばないと」
立ち上がって携帯を取り出そうとしたまさにその時、まるで念が届いたように、サイレンの音が聞こえ始めた。




