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依存性のある「マゾヒスティックな正義感」について

作者: 暇庭宅男

人生においては本当に色々な人間と出会い、善き人と知り合って感銘を受けたりもするし、逆にとんでもない人間に出くわして痛い目をみることもある。


以前いじめっ子に関することも書いたが、実はあの手合いは比較的やりやすい方だ。楽しみのために人を打ち据えて平気な奴というのは、例えば反撃されたりしてリスクが生じ割に合わないと思ったら手を引いてくれる。


今回は、未だに私の中でどうすればいいか答えが出ていない、『被害者になることでお安く正義感を得る』ことの話をしようと思う。


被害者になることで正義感を得る、という文言そのものが、ちゃんと説明しないと意味不明なので、少しゆっくり語ろう。


まず、正義感について。読んで字のごとくなのだが、私は正しい事をするのだ。という気持ち、そして正しい事を貫き通そうとする心のエネルギーを正義感という。これはヒトであるならたいていの人は持っている。強いか弱いかの個人差はあるが、何かの判断をするとき自分でも間違っていると思う方に進む人はあまりいないだろう。人は大なり小なり、正しいと思う方向へ進みたいのだ。


さあではここから少し考えてみて欲しい。正しい事をしたいと願う私たちは、しかし、正しい事をいつでも選択できるわけではない。

理由は様々あるだろう。たまたま判断を間違えたのかもしれないし、自身の望ましくない心を良くないとは知りながら行動に移してしまったのかもしれないし、これまで習ってきた『正しいこと』が実は偏りがあったり、立場によっては正しくなかったり……過ちもまた、たいていの人はやってしまうものだ。


とすると、その時々によって『正しさ』の出力にはじつはかなり大きなエネルギーがその都度必要になる。自制と利他と未来志向のハイブリッド、正しいことは非常に疲れるのだ。正義は貴重品だと言葉を変えてもいい。


そこまでして捻出した正義も、正しいことをしたからといって誰かから褒められたりするわけではない。残念ながら、よほど目立たない限りは、大概の正義には見返りがない。感謝の言葉がもらえればありがたいくらいのものであり、当たり前の事として報酬もなく食われることもたくさんあるのだ。


大概、正しさを出力した結果のあまりの報酬の乏しさに、我々はがっかりして利他的な行動の出力を絞る。骨折り損はしたくないのだ。こんなのは当たり前のことである。


だが、そこで正しさの概念が悪性の変異を遂げる場合がある。


誰かのために何かすること、世の中のためになること……()()()()、そもそも自分が損をすることが正義である……とか。


誰それが自分を打ちすえること、()()()()が私に罪のないただひとつの証なのである。とか。


誰それが先に手を出して来さえすれば()()()()()()()()()()()とか。


そういう善悪と損得と、攻撃性と被害者意識のごった煮のようなものが、唐突に湧いてくる場合があるのだ。


彼の名誉のため名は伏せるが、とある男がいる。大々的に元妻を攻撃し、我こそはDV被害者である、と、ネットでもリアルでも2010年代直前まで盛んに活動する人物であった。


彼がブログの流行期にその波に乗っていた時代、彼の書いたブログをもとにした本を読んだことがある。


私は首をひねらざるを得なかった。

「わざと嫁さん怒らせてねえか、この人?」


私自身男女の情にはけっして敏感ではないが、それをしてこの男の言動は変だと思わされた。


自分の失敗は、何々のせい誰々のせい……が山のように出てくる。何かをされたから、してくれなかったから、だからゴミ出しを忘れるし、仕事でも失敗するし……。


なのに嫁さんの言動については、たしかに彼女の言動は、ーー独り身の期間が長かった女性ならではの苛烈さはあるとしてもーー失敗を決して許さないのだ。


失敗というか、失敗を彼女からの害意とすり替えているように見えた。


辛いものが食べられない僕に辛口カレーを作るのは僕を苦しめたいからだ。

風呂を沸かすのを忘れたのは僕に風呂を洗わせるためだ。少しばかり嫌味を言ったらとんでもない人間あつかいされた。ああいやだ。等々。


確かに嫁さんも少々口が荒いのだろうが、いや、これは……その本を読んでから、私は手に入れたばかりの自分用のパソコンでその男のブログを読みに行った。


「この人、自分の記憶書き換える人だぁ……」


ブログを辿るうちに、そんな人格の輪郭が見えてきて、げんなりする。たくさんの日付があったが、何日分か読むうちに言った人、言った内容、やられたこと、がコロコロと変わるのだ。それをコメントで指摘されると、突然何日分も内容を削除し、最後に残るのは「僕がいかに被害者であるか」という趣旨の文章だけだった。かれは離婚が成立してからも延々、何年もの間数百万円の損害賠償を求め戦っていた。彼いわく、「すべての弱者のために」。


そしてブログからツイッターへと活躍の場を移すと同時に、なぜかその人は急速に電子の海から姿を消していった。

DVの()()()が終わったのだろう。特に女性から男性へのDV、というそもそも弱い風潮がツイッター登場とともに完全に潰えた瞬間でもあった。男性はまとまった文章なら同じ土俵に立てても、細切れのマシンガンのような発信をするにあたって、女性の声の大きさとリアルさには勝てなかったのだ。


今その人を検索すると、ブログもとうに閉鎖されているのだが、元支援者が書いたと思われるツイッターの発言が出てくる。裁判に負け、支援者にたかり始めたために、その男とは縁を切ったのだと。その男は前へ進めなかった。DV被害者の立場に固執してしまい、新しい何ものも生み出せず、もし生きているのなら、きっと彼は今でさえも、思い出の中で、人の皮をかぶった悪魔のような嫁にいじめられる夢の続きをみているのだ。お安く手に入るマゾヒスティックな正義を抱えるために。



その後、私はその男の再来を目にすることになる。しかし、今度は女性主軸で。



ツイッターを主戦場にするフェミニズム思想家たち。彼女らが取り上げられ、私がそれを知ったのはいわゆるハッシュタグMeToo運動だろう。


これも名誉のため名は伏せるが、主力として頻繁に発言していた女性の文章に、ブログで対DV格闘録を発信していた男と同じものを感じたのだ。


これこれこれをされて嫌だった、つらかった、不利にされた……。徹底的に固定された、被害者としての視点。

そして嫌な予感とともに発信履歴をさかのぼると、その予感は的中していた。


「記憶をいいように書き換えてるんだ……」


いつ何をされた、がコロコロかわる。いきなり発言内容を消しては、また被害者として語り出す。

そうして、過去、DVと戦っていたと主張する男と同じフレーズがくり返し出てくる。

「弱者のために」


その瞬間に、私は彼女らの辿る未来をみたような気がした。被害者だから、損をしたから、私は正義でいられる……。

その願望に絡め取られ、その実自分の生活はスカスカの空虚なものに成り果てていく。


でもやめられない。被害者の正義をやめられない。だってそれがあればいつだって仲間がいて、私が頑張る必要もないまま、正義を出力できる。

実際は別に今は頑張っていないけれど過去の被害をだしにして無限に正しくいられる……


そうなるだろうと思ったし、半数は実際にそうなった。そこから先に進めないまま、何もしようとしないまま、被害者であることにしがみついた。


弱者なのだからと当然のように権利を求めながらも、義務が発生する可能性には敏感に否定的に反応した。


もう半分は、被害者の正義をすっぱりやめるか、あのマゾヒスティックな正義は自身のその時持ち合わせた欠落のせいだったと分析した。


そうできた人々は実に幸運だと思う。そうでなければ一生被害者という檻の中で、自由を語りながらその実不自由さに縛られて暴れ続けるしかない。かつてのあの男のように。


そして、私はそれから、被害者の正義、マゾヒスティックな正義の在り方を、ありとあらゆるところに見出すようになった。まさかと思って自分の内面を探る。果たしてそれは自身の内側にも容赦なく存在したし、近所付き合い、仕事、政治、創作……世界の至る所にあった。


そして今予感している。このマゾヒスティックな正義感は、間違いなく我々に強い酩酊をもたらして狂わせる。


誰かにやられたから。と口にして誰かを殴りつけることが、やめられなくなる。私がやめられなくなるときもあるかもしれない。それがとても怖い。自分の罪は8割引きにして誰かを殴る口実を延々と探すだけの人生。ひどく虚ろで、でも楽ちんでそこそこに気持ちのいい、幸福な人生だ。


私はその誘惑に耐えられるだろうか。わからない。わからないから、そのおそれを書いて残しておこうと思う。最悪の事が起きた時に、誰かが私を叱責してもう一度シャンと前を向けと言ってくれるように。


私は進みたい。誰かを害することがあり、あらゆる罪を重ねるかもしれないとしても。


私は自身に正義のすべてがある夢など見ない。見ることがあるとしたら、誰か。誰でもいい。誰でもいいから、私を叩き起こして止めてくれ。

ジェンダー論が深々と入ってしまったのでアンチフェミニズム的に見える文章かもしれない。


でも、私自身はいわゆるツイフェミにすら、その発言になるほど自分が女性なら、そう思うこともあろうなとは思う人間である。性別によって意見が変わることは、あっていいと思うしその衝突もあって良いものだと思うのだ。


ただし、作中でも述べたように、被害者の正義に中毒している様がことさらによく見える界隈でもある。それがとても悲しいし、自分の行く末を見せられるようでとても怖ろしくもあるのだ。

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