ハルソラ
どこまでも澄み渡る青い空。
快晴という言葉はまさにこの空のためにあるのだろう。
そんな空を見ていると、あの日のことを思い出す。
* * * *
それは、とある春の昼下がり。
ある病院の一室で、僕は花瓶の水を替えていた。
「ねえ、ソラくん。わたし、空を飛んでみたい!」
そんな突拍子のないことを、ベッドに横になっている彼女が言い出した。
「突然何言い出すんだよ」
そう言って視線を彼女に向ける。
髙橋深春。
僕の幼なじみで、大事な恋人でもある彼女は、数年前からある病気を患っていて、こうしてしばしば入院することがあった。
とはいっても、数日間の検査入院が主ではあったのだが。
しかし、今回ばかりは違うようだ。
「そんな状態じゃ、そもそも外に出ることすらできないでしょ。……てか、人が空飛べるわけないし」
彼女の小さく華奢な体は、ここの病院の病衣に包まれていて、何やらいろんなコードが伸びている。心電図のモニターはわかったが、そのほかの機械は見たことがない。
恐らく、これらの機械が、今の深春の状態を管理しているのだろう。
左の腕には点滴がされてあった。彼女が言うには気休め程度にしかならないらしいが。
「んもう……。ソラくんは夢がないなあ」
彼女はそう言ってこちらを見る。
「夢?」
「そう。夢!」
夢、か……。
考えたことがなかった。
目の前のことで精一杯で、彼女のことだけを考えていて。
今よりずっと先の未来のことなんて、考えたことがなかった。
「…………」
「どったの、ソラくん?」
花瓶を持ったまま黙り込んだ僕を心配したのか、ハルがそう聞いてきた。
どうやら少し、考え込みすぎていたようだ。
手に持っていた花瓶を、窓辺の、ハルから見える位置に置く。
視線をハルに向けると、不思議そうな表情でこちらを覗いていた。
「すこし、考え事をね」
「そっか」
ハルはそう言って、にこりと微笑む。
ハルはコロコロ表情を変える。それは昔から変わらず、ハルの魅力の一つである。
しかし、今となってはそれが不安に思ってしまう。
「そんなハルには、夢はあるの?」
ひとつ、聞きたかったことを聞いてみた。
先ほどの話からすれば、「空を飛ぶ」というのが、ハルの夢なのだろうか。
「わたしの夢?」
「うん」
「えっとねぇ……」
僕の質問に、ハルは目を閉じて考え出す。
はたして、その口からどんな言葉が出てくるのだろう。
「わたしの夢は……。うん。やっぱり、お嫁さん、かな」
ドクリ、と僕の心臓が跳ねた。
「お嫁さん」という言葉はもちろんのことだが、それよりも、そう言ったハルのまぶしい笑顔に、不覚にも見とれてしまったのだ。
いつまでそうしていただろうか。
長くもなく、短くもない時間、僕はハルの笑顔に捕まっていた。
……しかし、なんともまあ、うん。
「ハルらしいね」
数秒間の沈黙を破り、思ったことをそのまま口にする。
「そう?」
「うん」
「そっか」
そういってはにかんだハルは、どことなく物憂げで、何故か僕には、それが本心だと思えなかった。
いや、本心ではあるのだろうが、でも、それが叶わない夢で、自分が思い描いている風景は、遠い未来には存在しないことに、ハルは気付いているのではないか、と。
そんなことを、思ってしまう。
「……でね? ウエディングドレスを着たわたしの隣には、ソラくんがいるの。今よりももっと背が伸びていて、白いタキシードがとてもよく似合ってて、かっこよくて。おっきな教会で、いろんな人に祝福されて……。お母さんと……お父さんは、そんなわたし達を見て、涙を流していて……。誓いの言葉を言った後に、君がそっとキスをして…………。それでね? それで………。あれ………? おかしいな」
ハルは、自分が思い描いている未来の話を、僕に聞かせてくれた。
その途中で、彼女の頬を一筋の光が、すうっと流れ落ちて。
彼女は静かに、涙を流す。
「悲しいわけじゃないのに……。なんで……? どうして……?」
ああ。そうか。
ハルはそんなこと、もうずっと前からわかってたんだ。
自分に残された時間が、残りわずかだということに。
それでも。それを周囲に、僕に悟らせないように、今までその笑顔を絶やさなかった。
けれど、もう全てを自分の中で押し込めておくことに、疲れたのだろう。
ハルの頬を撫でた一筋の涙は、今までの全てを打ち明けるような、そんな涙だった。
その上で、全てを理解した。
ハルがなんで、空を飛びたいなんて言い出したのか。
できもしない、それこそ、夢のようなことを言い出したのか。
少しでも僕を安心させたかったのだろう。
僕と出会ったあの頃の、明るく元気な自分でいようと。
それが、今の自分に唯一できることで。
……たしかに、ハルは昔から空を飛んでみたいといっていたことを思い出す。ずっと昔のことだったし、ハルの病気がわかってからは、あまり口にすることが無くなったから、忘れてしまっていたのだ。
ハルが「空を飛んでみたい」といえば、僕は決まって「できるわけないじゃん」と返す。
あまりにも自然に無茶なことを言い出すハルに、それでもクスッと笑って答える僕。
ハルはその時間が好きで、そう言えば僕が笑うことを知っていたから。
だからハルは、ベッドでの絶対安静を言い渡された今、「空を飛んでみたい!」なんて言い出したのだ。
それを理解した瞬間、僕の胸が温かくなるのを感じた。
昔も今も変わらない、コロコロ変わる表情の中でも、笑顔がとびっきり魅力的で、いつも明るく元気な性格の、僕の大好きなハル、こと髙橋深春は、どうやら自分のことはどうでもよくて、僕のことを一番に考えていたようだ。
僕の悲しむ姿が見たくないから。僕の涙が見たくないから。
少しでも僕には、笑っていてもらいたいのだろう。
そんなハルに、ハルの想いに気付いた僕は、いつのまにか涙を流していた。
すん……すん……と、鼻をすすり上げながら涙を流すハルと、それを見て、ハルの思いの丈を知り静かに涙を流す僕。
二人の涙は、お昼の回診で医者が来るまで流れ続けた。
その様子はまるで映画のクライマックスシーンのようだった。というのは、後日、医者から聞いた話だ。
* * * *
回診を終えて病室を出て行く医者。
それを見送った僕は、視線をハルの方へ向けた。
そこにいたハルの顔は赤く染まっていた。
おそらく、泣いているところを医者に見られたことが恥ずかしかったのだろう。
かく言う僕の顔も、きっと赤くなっていることだろう。
僕と視線が合ったハルは、「ん、ん、」と咳払いをした。
「もう一度、訊くね?」
スッ………。
空気が変わった。緊張が病室を支配する。
「ねえ、ソラくん。ソラくんの夢は、なに?」
そう言って僕を見るハルの眼差しは真剣だった。
少し考えて、一つの答えを見つける。
「僕の夢は、キミのそばにずっといること、だよ」
僕のその言葉に、ハルははっと驚きの表情を浮かべる。
「たとえキミがどこか遠くへ行ったとしても。キミが僕のことを忘れてしまったとしても。僕はキミのことをずっと覚えているから」
これまでと、これからの全てを許すような僕の言葉は、とうとう彼女の涙腺を崩壊させた。
止めどなくあふれ出る大粒の涙。
僕の胸に顔を押しつけて泣きじゃくる彼女の頭をなでる。
ハルの頭を撫でつつ、今までのことを思い出していた。
ハルと出会ったあの日のこと。
ハルと一緒に遊んだ日々。
学校で席が隣同士になって、ともに勉強に励んだ日々。
いつのまにか抱いていた気持ちを伝えて、恋人同士になったあの日。
体育祭の時の応援の声。
一緒に回った文化祭。
時々ケンカはしていたけれど、次の日には仲直りして。
一緒に笑って一緒に泣いて。
時には走って、時には転んで。
そうやってずっと一緒に歩いてきた。
ハルと一緒に過ごす毎日は、いつもキラキラと輝いていて。
ハルが隣にいてくれて、それだけで幸せだった。
そんな日々を思い出して。
でも、この先にそんな日々が続くことはないのだろう……なんて思って。
だったら、今を。ハルが元気でいる「今」を。
その日が来るまで、僕は。
「……ずっと、キミのそばにいて。キミとの時間を、目一杯楽しむよ」
泣き疲れたのか、いつのまにか眠ってしまっていた彼女にそう言って。
このままの態勢だとつらいだろうと思い、ベッドに寝かせて。
目元にまだ輝いているしずくを指で拭い、そっと、優しく、唇を落とす。
「だって僕は、キミのことが大好きだから」
その言葉が聞こえたのか、ハルの顔に、笑顔が浮かぶ。
ふと、窓の外へ目を向ける。
そこには。
快晴という言葉はまさにこの空のためにあるのだろう。
どこまでも澄み渡る青い空があった。
了
こんにちは、こんばんは。お初にお目にかかります。
七星天導です。
このたびは、私の初投稿作品「ハルソラ」を御一読いただき、まことにありがとうございます。
本作品は、少し前に別目的で執筆したものに、少しの加筆・修正を加えたものとなっております。
タイトルの方も、その頃から変更しております。
加筆・修正前のものはどこにも出すつもりがありません。
(前のデータが残っておりませんw)
少々、拙いところや支離滅裂なところがあるかと思いますが、初めての執筆ということで、ご容赦願います。
本作品へのご感想・アドバイス等ありましたら、ぜひ、お願いいたします。
批判等も、あまりにもひどい内容はしかるべき対応を取らせていただきますが、ある程度であれば許容します。
それでは、次の作品でお目にかかりましょう。
*本作品はカクヨム様でも投稿しております。