序章 前編
「いらっしゃいー、アレットちゃん」
扉が開かれると同時に奏でられる鈴の音とともに、パン屋の中からおばさんの挨拶とお腹をすかせる匂いが彼女のもとに流れ込む──。
花の香り、青白い蝶が花壇の花びらに止まり、小鳥のさえずり、人々で賑わう商店街。町の外には広大な花畑が広がり、その遠くには緑豊かな山々。ここはそんなのどかな町だった。
パン屋にやってきたのは、通りかかる誰もが目を止めるほどの背まで伸びる金色の髪をした美しい女性。皮のドレスを身にまとい、決して着ているものは豪華ではない。しかし、エメラルドの瞳も相まって、その姿は暖かい包容力に満ちた女神のようであった。
「今日はこれとこれ、下さい」
「まいどー。アレットちゃん、いつもありがとうね」
「いえいえ、バウルおばさんのパンのお陰で、私も彼も毎日の仕事が頑張れますから!」
通貨を払い、出来立てでよく焼けたパンを持っている籠につめると彼女は店を後にした。彼は朝から剣を携えて山で猟に出ている。その間にパンを籠いっぱいに買っておき、家の近くにあるリンゴ畑の世話の仕事をしながら、遠くの国に勤めに行ってる彼が手土産を持って帰ってくるのを待つ。
それが彼女と彼の続けてきた生活だった。互いに相思相愛で、そろそろ結婚をしよう……互いに意識し始めていた。
今日も彼が帰ってくるのがとても楽しみだ──買い物を終えたその時。
カンカン!!! カンカン!!!
町の中央にある櫓の上にある非常を知らせる鐘が必死な力で何度も何度も鳴らされた。その音は町中に響き、彼女だけでなく民衆が一斉にその方向を向いた。
「悪魔軍だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! みんなぁぁぁぁぁ!! グラト・ヴェルゼバルが来るぞぉぉぉぉぉぉぉ!!」
その悪夢の知らせにどよめきが走る。この町に住む者は知らない者はいないその名前。近頃、地上に現れて軍を率い、付近の村や町、あるいは国を襲って勢力を拡大して覇を唱える総大将の名だった。その悪名は戦地から遠く離れた、花の美しいこの町にも既に知れ渡っていた。
「いけない!! リンゴ畑を守らないと!!」
パンの入った籠を放り捨て、走り出す──背後で巨大な爆発音と断末魔がした。振り返ると既に町はさっきまでの形はなく、業火の海に包まれていた。建物は燃え、沢山の人間が倒れて動かなくなっている。全身に走る恐怖の寒気に心身を奪われながらも走り続ける。
いったいどういうことなのか。敵は誰もいないのに突然爆発して既に町は壊滅状態だ。これが悪魔のチカラなのか。
家はまだ無事かもしれない。町から離れているためすぐには狙われないはず。信じて町の外を目指して走り続ける。
とはいえ、既に町の至る所が業火に焼かれている。そして、黒き翼を羽ばたかせる悪魔達が飛来し、逃げ惑う人々の首に食いついて貪る。
「うえええええええん!! 父さあああああん!! 誰か助けてよおおおおおおお!!!」
子供の泣き声が死角からした。その方向には炎の中で、男の子が泣き喚いていた。そしてその傍らには父親と思しき男性の血だらけの遺体が横たわる。
「坊や!! もう大丈夫だからねっ──あっ!!」
男の子を抱きかかえようと近づくと、舞い降りてきたのは翼竜を彷彿とさせる巨大な翼と、悪魔の背中だった。
もう助からないことを悟り、悪魔が背を向けているうちにその場を後にした。見たくない、見たくない見たくない見たくない!! 必死にその場と出来事を忘れ去るように。
町の出口が見えてきた。とっさに安堵の心が出た──
「うわああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
突如、右側が爆発し、焼けた壁に向かって吹き飛ばされた。服が燃え、思うように立ち上がれない。足が熱い。立ち上がれない。
ドッスウウウウン!!
そこに容赦なく降ろされた漆黒の足。
「あっ……」
その巨大な足の主の前に思考が停止した。大きな翼を広げ、こちらを見下ろす悪魔の姿──
燃え盛る町。逃げ惑い、容赦なく虐殺される人々。身体を貫かれ、蹂躙される人々。保存されていた食料、壊された金庫から出てきた大量の金品を貪る黒き悪魔たち。彼女が守ろうとした町から遠く離れたリンゴ畑も、主が挨拶代わりに呪文で焼き殺され、出来立てのリンゴは侵略者の胃を満たす。この美しい大地が、町を中心とした一帯全てが、地獄へと塗り替わる。
この町は侵略者たる彼らの勢力圏から山を五つ超えた先にある。辺境にある緑豊かで特別金目のものも多くないこの地までわざわざ攻めては来ないだろうというのが町の見解だった。が、その思惑と均衡が今、あっさりと嘲笑うように破られた。
「この地に安寧があると思うたか? 愚かな町人どもよ」
彼らにとっては祭りとも言うべき惨劇が一段落した所で、自ら虫の羽音を響かせ、焼け野原となった大地を赤い目で俯瞰しながら舞い降りたのは総大将たる大悪魔。それが大軍を引き連れ姿を現した。
「さあ、哀れな町人ども。我らの同胞となり、亡者となりて、この地をひたすら奪いつくせ!! 食らいつくせ!!」
虫の羽音とともに高らかに号令をあげる大将、暴食の悪魔グラト・ヴェルゼバル。その号令が響くまで辛うじて生き延びていた者もその登場に戦慄し、絶望し、寒気のままに恐怖するしかなかった──