三章:その一歩は重く、遠く①
訓練、また訓練の訓練漬けの日々。
あのピンク色の花。『桜』という名の大樹から花弁が舞い散り、葉が青々と生い茂っていく。夜気のひんやりとしていた風は暖かさを孕み、それとともに湿気が気になる気候になっていた。
極東には『四季』というものがあるらしい。今は春から夏になる途中の雨期。極東ではそれを『梅雨』というらしい。湿気が身体に絡みついて重く感じる。気分も落ち込み、憂鬱になりやすいといっていたが、今のところ俺は大丈夫だ。日々の訓練で自分の不甲斐なさに落ち込むが、落ち込んでいる暇があったら、どうしたらできるようになるのかを考えている。
基礎訓練の筋トレを終え、走り込みの準備をしている時だった。今日もいつもと変わらない訓練、のはずだったが……。
「い、今、何て言ったんすか?」
カイルの群青色の瞳が夜空の一等星のような輝きを宿す。爽やかに微笑む諫早さんに問いを返す。
「聞こえなかった?」
理解不能という顔で、マリにティリエラにユエラウがぎこちなくうなずく。まるで壊れて錆びついた機械のようだ。マリにティリエラ、ユエラウの瞳には畏怖の成分が広がっていく。ユエラウに至っては顔色がだんだんと青ざめていく。
「もう一度言うからしっかり聞けよ?」
いつか必ず来ることは分かっていたが、こんなに早いとは思わなかった。
覚悟を決めて、どこか楽しげな諫早さんの声に耳を傾けるしかない。緊張の静寂の中、誰かの喉が鳴った。
「今日の午後から実戦訓練を始めるぞ」
「よっっっっしゃぁああああああああああっ!」
訓練場にカイルの気合いの雄叫びが響く。迷惑そうに耳を塞ぐギルフォードの切れ長の赤い眼がカイルを見下げる。サイと似てギルもあまり感情が表に出ないほうみたいだけど、今は怒が滲み出ているのを感じる。うるさいのが嫌いのようだ。
実戦に喜ぶカイルを横目に、正直いうと俺は訓練がずっと続けばいいなと思っていた。実戦ということは囚俘との命を賭けた戦いが始まるということだ。数ヶ月とはいえ、戦いから離れたことで少し逃げ腰になっているのかもしれない。
歓喜のカイルと今にも卒倒しそうなティリエラとユエラウを見て、苦笑を浮かべる諫早さんがさらに言葉を紡ぐ。
「一応確認な。実戦経験がある者は?」
俺は右手を軽く挙げる。サイも俺と同じように右手を挙げていた。俺とサイ以外の手は挙がらなかった。少し意外に感じたのはギルフォードの手が挙がらなかったことだ。どんな訓練でも、いつも一番にクリアしていたギルだから、実戦経験があるものだと思っていた。
俺の視線に気づいたギルが俺を見る。二人の赤い瞳が互いを見つめるが、睫毛の長い切れ長の眼は気怠げに視線を逸らしていく。
「各自基礎訓練が終わったら、五階の報告指令会議室A-Cに集合な。今回討伐する対象の囚俘を簡単に説明する」
諫早さんはそれだけ言い残すと訓練場に背を向け歩き出す。訓練場の出入口には周さんが控えていた。俺たちに丁寧に頭を下げ、右手を振ってくれた。俺は頭を下げて挨拶を返す。ユエラウが豊かな胸の前で、小さく手を振っているのが見えた。周さんに手を振ってもらったことが嬉しかったのだろう。とても嬉しそうに笑っている。
「やっとだ……」
カイルが呟いた。その声音に俺の心が不安でざわついた。
「やっと、やっとだ。やっと囚俘をぶっ殺せる……」
両手の平にある自身の<核>を見つめて、カイルが黒い笑みを浮かべていた。震える両手が強く握り締められ、親指の先が白くなる。カイルの黒い笑みが不安を煽り、背筋に悪寒が走った。
駄目だっ!
「カイルっ!」
「……っ」
俺の声に我に返ったカイルが顔を跳ね上げる。不安そうに見つめているマリやティリエラの視線に、カイルの右手が自身の顔に触れる。凍った引き攣った笑みに触れ、隠すように右手で顔を覆い「わりぃ。なんでもねぇよ……」と気まずそうに顔を逸らした。
暗い沈黙が支配する。誰も動けなかった。
カイルは囚俘を恨んで復讐したいのだろう。カイルの気持ちは……よく、分かる。分かってしまう。
囚俘に家族に恋人に友人、大切な人たちを殺されて、残された人たちは恐怖の絶望に震え、憤怒の恨みや復讐に駆り立てられる。俺も大切な人たちを、居場所を奪われ囚俘を恨み復讐したい気持ちはある。だが、そんな人たちは短命だ。自分の命を軽んじて復讐するために手段を選ばないからだ。
カイル、それじゃ駄目だ。その気持ちは痛いほど分かるけど、駄目なんだ。
俺の視線から逃げるようにカイルが基礎訓練の走り込みを始めた。
両手を打ち付ける乾いた音が響く。
「ほ、ほら、訓練を終わらせないと、諫早さんをお待たせちゃいますよ」
「そうだった、わね」
「訓練を再開します」
ティリエラの明るい声音が俺たちの止まっていた時間を動かした。大輪の花の笑顔が暗く冷たくなっていた場の空気を暖かな光で満たしていく。
「リュウもほら、急いでください」
華奢な両肩を竦めて、恥ずかしそうに微笑む。ティリエラの気遣いに感謝しつつ、俺も四〇〇メートル全力疾走十周を開始する。
途中でカイルを軽く抜き去ると後ろから「てめぇっ! 俺を抜いてんじゃねぇよっ!」といつものカイルの怒声が背中に叩きつけられる。いつもの調子のカイルに嬉しくなり、速度が上がる。
怒気を超えて殺気すら孕んだカイルの気配が俺の背中に突き刺さる。俺は笑っていた。
誰一人として欠けさせない。守ってみせる。
******
「それで、お前たちは一体何をしてたんだ?」
俺とカイルの前に仁王立ちする諫早さんが呆れて溜息を吐いた。ティリエラやマリたちも呆れて物も言えないという顔を並べて席に座っていた。
報告指令会議室A-Cの出入り口で、両肩を上下に動かして息を吸っている俺とカイルがいた。息苦しさに喋れない。
「先程もご説明しましたが、リュウとカイルが競うように走り続け、声をかけたのですが聞こえていないようで、マリがあのバカたちはほっとけというので、その指示に従い私たちだけで参りました」
サイが業務報告のように淡々と告げていく。その事実に恥ずかしくなる。それにしてもバカは酷い。
諫早さんの口からまた溜息が漏れた。
「リュウは周りがよく見えているヤツだと思っていたのだがな……」
「すみません……」
言えない。むきになって追いかけて来るカイルが、負けん気の強い小型犬のように見えて可笑しくって、楽しくなってしまったなんて、絶対に言えない。
「てめぇが俺を抜きやがるからっ」
「カイル?」
俺とカイルを見下げる諫早さんの、目が笑っていない笑顔に背筋に悪寒が走り、身体が硬直する。
「すみませんでしたっ」
腰を直角に曲げてカイルが頭を勢いよく下げる。
「刀使いはチームワークが大切だ。仲間同士の闘争心も大事だが、協調性も忘れるなよ」
「はい」
「……はい」
俺はカイルを見る。カイルは俺を見る。朗らかに笑ってみせるが、カイルからは威嚇が返ってきた。別にカイルと争うつもりはないけど、カイルはどうやら俺を敵とみているようで、困ってしまう。なんでそうなったのかは、まぁ、たぶんサイのことだろうなぁと思われる。
漢の器のデカさはどこへ行ったのか。現在は行方不明ということにしておこう。
「じゃ、席に着け。ブリーフィングを始めるぞ」
諫早さんに言われて会議室に入ると、ティリエラが手招きしていた。手招きのまま俺はティリエラの隣へと席に着く。どうやらもう席は固定らしい。みんな始めてこの報告指令会議室を使った時と同じ席に座っていた。
「お疲れ様です。お水飲みますか?」
ティリエラの繊手が透明な液体が入ったペットボトルを差し出す。
「いいの?」
「はい。リュウのために用意したので」
「あ、ありがとう」
嬉しい。ティリエラから水の入ったペットボトルを受け取る。青いボトルキャップを外して、水を喉に流し込む。乾いていた喉が潤いを取り戻す。水はすこし温くなっていた。水の温度が温くなるまで待たせてしまったのだ。申し訳なさにティリエラを見ると、嬉しそうに微笑んでいた。翡翠の瞳が宝石のように輝く。その笑顔につられて俺も笑っていた。
「はいそこ、イチャイチャしない。始めるぞ」
「そんなことしてません。ね?」
諫早さんの揶揄に呆れて、ティリエラに同意を求めようとしたら、そこには顔を真っ赤にしたティリエラがいた。金糸のようなの髪の間から覗く耳朶までも赤く染めて、恥ずかしそうに華奢な身体をさらに小さく縮ませていた。
「え、あ、うん。うん……」と視線を彷徨わせて、髪の毛先を右の人差し指先に絡めて弄んでいた。
あれ?
いや。いやいやいや。そんな反応が返ってくるとは思わず、焦る俺。なんでか分からないけど、よく分からないけど、焦ってなぜが諫早さんに助けを求めるように視線を投げる。体温が一気に上昇したのを感じる。
「あー……悪ぃ」
俺と目が合った諫早さんはばつが悪そうに顔を逸らした。どうやら助けてくれないようです。
諫早さんは咳払いをして何事もなかったように「始めるぞ」と教卓の上に置かれたノート型の端末を起動させる。
横目でティリエラを見ると、まだ恥ずかしそうに毛先を細い指先に絡めてそわそわしていた。様子を窺っていた俺の赤い眼と、視線を彷徨わせていたティリエラの緑の眼が出会う。
俺とティリエラの身体がびくんと跳ねる。二人して愛想笑いを浮かべ、視線を前へ向けた。またさらに体温が上昇して変な緊張とともに汗が流れる。
「さて、今日の午後から実戦訓練を開始するわけだが……」
諫早さんのよくとおる声に耳を傾け、集中すればこの変な緊張感もなくなるだとう。ティリエラもそう思っているようで真っ直ぐ諫早さんを見据え、集中していた。
「実戦に慣れるまでは支部周囲の小型囚俘を討伐していくぞ。ヴェルダンディー資料を出してくれ」
「りょっですよ」
ノート型の端末から愛らしい声音が響く。天井から吊された投影機から光が放たれ白板に導かれる。受け取った光を白板が反射したかのように画面から光が放たれる。眩い光に眼を細める。
「呼ばれて即参上とおもいきや、女神召喚の祝詞を発動っ!」
「…………は?」
何を言っているのか理解不能という言葉がカイルの口から漏れた。俺の頭上にも極大の疑問符が浮かんでいるだろう。
愛らしい声音は気にも止めず続けていく。
「時の糸を紡ぐ優しき御手は運命の歯車を回す。運命は必然。時の環に刻まれし我が名は運命の糸を手繰る者なり。運命の糸を断つ者なりっ」
あ、自分で呪文言うだ……。
愛らしい声音は力強く言葉を紡いでいく。会議室には理解不能の疑問符が増えていく。
「運命を司りし汝の名において我が必然に名を刻め。今ここに過去と未来を繋ぐ運命よ、我が必然の糸とともにこの声に応えよっ!」
力強い声とともに煌びやかに輝く無数の星が白板から放たれる。その光の中から左手を腰に添え、右手を高らかに挙げた少女が現れた。
白い布を身体に巻きつけ艶めかしい身体を隠していた。金色の大きな瞳。長い銀髪が靡く。両手首と両足首にそれぞれに二枚の純白の翼が生えており、括れた腰にも純白の翼が二枚生えていた。どこか見覚えのある美貌の顔立ちは青年にも少女のようにも見える。
「ノルン三姉妹が一人。現在を司るヴェルダンディーことベルちゃんだよ。よろぴっ!」
沈黙。
え、ええぇぇぇー…………。
どう反応したらいいのか分からない。みんなも唖然としていた。
輝く笑顔が可愛らしい少女は片目を瞑って、右手の人差し指と中指を立てて勝利のサインを頬に寄せてのポージングをしてみせる。
ヴェルダンディーと名乗った少女の姿を見て、諫早さんが鉛のような重い溜息を吐いた。
ノルン三姉妹というと、極東の全てのデータを記憶管理しているウルドと同じ人工知能のAIだ。たしかにウルドと顔立ちが似ている。
「えー……ヴェルダンディーだ」
「ベルちゃんです。ベルちゃんって呼んでね♪」
両手を使ってハートマークを形つくり、楽しそうに笑っていた。
「ベルちゃんは現在のデータを記憶管理しているよ。簡単にいうと現在の支部と地方地区の状況情勢、極東の全刀使い個人データ、囚俘のデータなどなど現状で分からないことがないのがベルちゃんです」
白板の中の少女は、白い布で包まれた胸を張って得意げに鼻を鳴らす。
「えー……こんなんだが優秀なAIです」
「こんなんゆーなし」
「あ~……はいはい。先進まないから早く今回の任務の資料出してね」
「は~い。かしこまり~」
ヴェルダンディーは片目を瞑って右手を額あて敬礼してみせると、そのままその場で一回転。銀糸の髪を靡かせて「これでーす」と俺たちに向かって何かを投げてきた。白板の画面が切り替わり、現れたのは小型囚俘の画像だった。
獣種囚俘<ハウンドヘッド>頭部が異常に巨大化した犬を模した囚俘だ。
「今回討伐する囚俘はこのハウンドヘッドだ。特徴は巨大な頭部。前脚が長く後ろ脚が短いため動きは速くないが、血の臭いに敏感な囚俘だ」
「頭部も重いから鈍足だし、眼もないからね」
「だからって油断すると死に直結するぞ」
ヴェルダンディーがハウンドヘッドの色んな画像を細かく分けていく。
犬の頭部。眼球があるはずの眼窩はただの空洞になっていた。大口を開けた口腔内には無数の短剣の刃のような歯があった。その奥の闇の中には薄らと見える人の顔のようなものがあった。口元が笑みを浮かべていることに嫌悪感が喉の奥から這い上がってくる。
「獣種ハウンドヘッドの脳のある場所はここだ」
諫早さんが白板に映るハウンドヘッドの喉のあたりを指で示す。ちょうど人の顔が見えた部分だ。
「前にも説明したが<核>は個体によって数も位置も変わる。だから狙うは脳だ」
「どんな囚俘も弱点の脳の場所は変わらないんだよ。まぁ、例外っていうのはいつの時代もいるだもんだけどね~」
「それは、まぁ置いといて。ハウンドヘッドは常に一体から三体くらいで行動している。眼がなくても嗅覚に優れているからにおいで俺たちの位置や人数を把握して襲って来る」
静止画が動画へと切り替わる。荒廃した大地に爪を立ててゆっくりと歩くハウンドヘッド。鼻をひくつかせて臭いを嗅ぎながら周囲を探っていた。毛ではなく鱗に包まれた筋肉の束のような尻尾が鞭のように振るわれる。
「小型は知能が低く動物的思考でたいして強くないが、侮っていると足を掬われ、死ぬ」
諫早さんの真剣な紫色の眼差しと言葉に、室内に緊張が走る。重い言葉が心にこだまする。
緊張の空気が流れる中、報告指令会議室の扉がノックされ、その音に驚き扉に注視が向く。
「失礼します」とゆっくり扉が開き周さんが顔を覗かせる。周さんの愛らしい顔を見て安堵した俺たちの口から盛大に息が漏れた。周さんは一体何がと困惑しながら室内に入り、後ろ手に扉を閉める。
「すみません。タイミングが悪かったですか?」
「いや、大丈夫だよ」
優しく微笑む諫早さんを見て「よかった」と、ほっと一息吐いた周さんの右腕に抱えているのは黒い箱。抱えるほどの大きさの長方形の黒い箱を諫早さんへと渡した。お礼と言って箱を受け取った諫早さんが箱を開ける。箱の中から取り出したのは黒色のチョーカー。
「このチョーカーは防刃線維でできている。小型囚俘の斬撃や牙なら耐えられるので、首の保護として必ず任務に行く際は装備するように。色の種類はたくさんあるから自分の服装にあったものや好きな色を選んでくれ」
黒い箱の中から赤や黄色、緑に橙に紫と多種なチョーカーを出していく。
次に諫早さんが取り出しのは緑の液体が入ったペン型の回復薬だった。緑の液体がベンの中で踊る。
「回復薬などの携行品も忘れるなよ。初回は必要分を周が配るが、それ以降は自分で管理だからな。足りなくなったら自分で買って、必要ないものとか余ってる分は自室で保管な」
「命の関わる大切なことですからね。本当にしっかり管理をお願いします!」
心配性の周さんからダメ押しの注意喚起。俺は力強くうなずいておく。
本当に実戦が始まるんだと段々実感が湧いてくる。隣にいるティリエラの横顔が緊張で強張って、頬や唇から血の気が失せ白くなっていた。握り締めていた両手が微かに震えている。
「諫早さん、ティラとユエも行くんですか?」
ティリエラが心配になって確認したくなった。ティリエラとユエラウは刀がまだ抜けない。戦えない二人が実戦に行く必要はないのではと思ったからだ。
「班として一緒に任務に行く。画面で見る囚俘と実際目の前で見る囚俘とはまるで別物だ。訓練を受けていても、目の前で動く囚俘を見て動けなくなる者は少なくない」
分からなくは、ない。
初めて囚俘を見た時のことを思い出した。肌で感じる嫌悪感や臭い、何より恐怖で足がすくんで動けなくなった。
「スパルタで悪いが慣れてもらう意味でも任務には参加してもうら」
ティリエラとユエラウの顔色が蒼白を通り越して土気色になっていた。震えが手から全身へと伝染していく。ユエラウを心配して美夕はパイプ椅子の座面で立ち上がり、ユエラウの右頬を舐める。長い尻尾が左右に振られる。しーちゅも左肩に飛び乗り左頬に額を擦りつける。か細い鳴き声がした。
「大丈夫だ。危険がないよう俺が守る」
力強い意思の言葉。柔和に微笑む優しい紫水晶の瞳には真剣さが宿っていた。慈父のようにティリエラとユエラウを見つめる諫早さんの眼差しに、俺の口から安堵の息が漏れた。そんな自分に軽く驚き、俺が安心してどうするんだと頭を振るう。
「あ、ありがとうございます……」
ユエラウの震える唇から声が絞り出された。か細く震える声音だが、顔は真っ直ぐと諫早さんを見つめ、どこか嬉しそうにも見えた。ユエラウの白雪の頬に赤みが差す。美夕としーちゅはまだ心配そうに身体を擦り寄せる。
だが、ティリエラからは恐怖と不安は拭えなかったようだった。諫早さんを見つめる翡翠の瞳は、まるで敵を見るような憎しみと怒りが宿っていた。宝石のように輝いていた瞳が漆黒の深淵に沈んでいく。
「ティラ……」
「大丈夫です。怖いけど大丈夫です」
俺の呼びかけに微笑むティリエラ。
ティリエラは気づいていない。その微笑みが歪んでいることに……。
「ハウンドヘッドの主な攻撃は、巨大な頭部で突進、噛みつき、太い尻尾でなぎ払い、だ」
「尻尾が意外と長いから注意だよ♪」
ヴェルダンディーが映像のハウンドヘッドの尻尾の周りを浮遊し「コレ、コレぇ~」と示す。大木のように太い尻尾は浮遊するヴェルダンディーの身長とあまり変わりなかった。尻尾だけでも一五〇センチメートルは超えているだろう。
「新人がよく尻尾でぶっ飛ばされてるのよく見るよ♪」
「ベルちゃんっ!」
笑いながら不吉なことを言う優秀なAIに周さんの可憐な唇から怒号が飛ぶ。ヴェルダンディーはまったく気にせず声を押し殺して笑う。金色の双眸には幼女のような無邪気さがあった。金色の幼女の瞳は悪戯をおもいついたように輝く。
「周は怒るとちょーコワだから注意だよ♪」
「ベルちゃんっ!!」
周さんの青い瞳に憤怒の炎が燃えさかる。
「お前らは人をおちょくるのが好きだな……」
「おちょくってなどいません。吾は事実しか言えぬ女神。吾の言の葉は全て現在生。許すがよい」
急に口調と雰囲気が変わったヴェルダンディーに唖然とする。これが本当の優秀なAIヴェルダンディーなのかと思ったが、諫早さんが何度目かの重い溜息を吐いてそれが違うことがすぐに分かった。
「……そういうところだよ」
「あんっ、諫早さんバカっ。最後くらい女神っぽく終わろうと思ったのにっ」
頬を膨らませて諫早さんに抗議していた。
悪意がない分たちが悪い。ヴェルダンディーには気をつけようと思った。
「さて、ぐだぐだになってきたのでブリーフィングを終わろうとおもいます。質問はあるか?」
周りを見渡しが誰も手を挙げていなかった。諫早さんがうなずいてみせる。
「それでは四時間後に一階の自動昇降機広間に集合な。それまでに昼食や装備を整えておくように。以上」
「それでは携行品をお渡ししますね」
周さんが黒い箱から回復薬を数本取り出していく。ヴェルダンディーは両手を振って画面から消えた。諫早さんはノート型の端末の電源を切って片付けていく。
人の流れとともに刻々と時間も流れていく。今から四時間後に実戦訓練が始まる。想いはそれぞれあるだろうが……。
マリと話しながらチョーカーの色を選んでいるティリエラを見つめる。今はいつもの明るく花のようなティリエラだが、俺はあの歪んだ微笑みが忘れられない。黒い不安が心を支配していく。
自分に大丈夫だと言い聞かせる。諫早さんが「守る」と言った。極東最強エース諫早さんがそう言ったんだ。心配はない。が、心のざわつきを抑えられない。
不安を抱えたまま、時間は容赦なく時を刻んでいく。