ニ章:はじまりの黎明③
集合時間の午後十三時。その十五分前に一階の自動昇降機広間に到着。休憩場となっている広間には背筋を伸ばして凜と立つ、周さんの姿があった。俺に気がつくと周さんは淡く微笑み、手を振る。近くの長椅子には読書中のサイと、壁に背を預けているギルフォードがいた。
静かに読書をしているサイの隣で、壁に寄りかかるギルフォードは腕を組んで両目を閉じていた。ただそこにいるだけの二人だが、美男美女が並んでいると絵になり見とれてします。
「お疲れ様です。リュウさんも早いですね」
「遅れないようにと気にしていたら、落ち着かなくなってしまって……」
「分かりますその気持ち!」
周さんの可憐な顔が勢いよく俺の顔に近づく。
ち、近いっ!
「遅刻とか嫌ですし、相手を待たせたくないから集合時間の十数分前に来て、待たせるより待っていたい、ですよね」
「そうですね。俺もそう思います」
同意を示した俺に、嬉々と周さんの笑顔がさらに華やぐ。
「二人はさらに早いね」
「これといって、やることもありませんでしたから」
「………………………………」
目線を本から俺へと向けるサイ。本に栞を挟んで閉じると、腰にある小さなバックにしまった。ギルフォードは安定の寝ている、かな?
「よ、良かったです。間に合いました」
小走りでユエラウと美夕が合流する。ユエラウの右肩に掴まっているしーちゅが挨拶するように「みゃー」と鳴く。その背景では自動昇降機からちょうど降りてくるカイルとマリ、ティリエラの姿が見えた。
「あれ、諫早さんは?」
周りをきょろきょろと見渡すカイルが、俺も思っていた疑問を口に出す。
「諫早さんは準備のため先に訓練場に行っています。ちょっと早いですが、皆さん揃いましたので地下三階の訓練場に行きましょうか」
周さんが歩き出す。サイが立ち上がり壁に背を預けているギルフォードに「行きますよ」と声をかけていた。ギルフォードの双眸がゆっくり開き、寝ぼけている鮮血色の瞳が現れる。サイが小首を傾げて顔を覗き込む。
ガラついた怒号のような悲鳴があがる。地響きのような重低音の悲鳴に、何事かと周りにいた人たちが驚きに足を止め、声をあげた人物に目線を向ける。
カイルは顔を真っ赤に染め、身体を硬直させていた。群青色の瞳に映るのはサイとギルフォードの姿。二人の顔の近さに驚いて声が出たのだろう。残念な溜息が出るのを止められない。
足を止めていた人たちはすぐに興味を失い、止めていた足を動かし通り過ぎていく。雑踏が動き出す。
「うっさ……」
今の大音声に完全に目が覚めたギルフォードは、迷惑そうに額の中心に眉根を寄せる。
「起きましたか?」
「今ので。最悪の目覚め……」
切れ長の赤い瞳がカイルを睨みつける。怒気を孕んだ視線にカイルがたじろぐ。まるで小型犬がキャンキャンうるさく吠えて威嚇していたら、無視を決め込んでいた狼に黙れと一喝されて尻込みしてしまったように見えた。
「ギル?」
「大丈夫。怒ってない。てか、それすら面倒くさい……」
欠伸をしながら答えるギルフォードに、じゃないかと思っていたので、苦笑が漏れた。
それにしても、サイとギルは仲が良い?
二人とも中央総本部出身だからだろうか。感情や表情の変化に乏しいサイのことを、ギルはよく分かっているように感じる。昔からの知り合いのような、幼馴染みのような。サイとギルの纏う空気感がよく似ているからそう感じのだろうか。
「もうぉ、カイルさん。急に大声出したらいけませんよ」
「す、すんませんっ」
周さんが頬を膨らませて指摘する。カイルは素直に頭を下げた。
「さ、訓練場に行きますよ」
自動昇降機広間に戻り、矢印が下を示すボタンを押す。低音の電子音が鳴り自動昇降機の扉が開く。ぞろぞろと乗り込んでいく。
自動昇降機内では誰も口を開くことなく静かだった。機械の駆動音だけが狭い空間に響く。
「もしかして、緊張してますか?」周さんが優しく問いかけに「まぁ、それなりに……」とマリから素直な言葉が漏れた。あまり余裕がないようだ。
「それでは昨日説明しましたが、もう一度この地下施設の説明をしますね」
気を紛らわすための周さんの提案が嬉しい。
「地下一階はプラントです。ここで野菜や果物などを生産しています。ここ以外でも野外栽培はしていますが、気候に左右されず安定した供給ができるのでプラント生産頑張っています」
自身の顔の横で右手を強く握り締める周さん。オペレーターをしながらプラントの方も手伝っているのかな。凄いなと思いながら、そんな周さんに頬が緩む。
「地下二階は大浴場となっています。天然温泉にマッサージなどを受けられるスパ施設があります。一階にも大浴場施設はありますが、ここは刀使い専用の施設となっていて、二十四時間開放していますのでお好きな時間に利用してくださいね」
温泉。南にはなかったものだ。実は少し楽しみにしている。あまりお湯に浸かるということが分からないけど、楽しみだ。
「そして、地下三階が訓練施設となっています」
周さんの言葉と重なるように、電子の女性の声が地下三階に到着したことを知らせる。地下三階というのに到着までの時間の長さが気になった。
自動昇降機から降りると、灰色のコンクリート壁に茜色の絨毯が敷かれた廊下が前方へと続いていた。自動昇降機広間の左右には簡素な休憩場があり、自販機が小さな稼動音を漏らしていた。
蛍光灯の白々しい光が降る廊下を周さんが進んでいく。俺たちもその後を追随していく。数メートル進むと下へ誘う階段があった。下から吹き上がってくるひんやりとした冷たい風が頬と肌を撫でていく。
「ここを下りたら訓練場です」
周さんの右手が階段の下を示す。
「諫早さんが待っていますので急ぎましょう」
茜色の絨毯を踏み、階段を下りていく。十数段の階段を下りていくとガラス製の扉がその先を塞ぎ、さらにその先を鉄製の扉が門番のように佇んでいた。ガラス扉の右横には高さ八十センチメートルくらいの黒い円柱。直径三十センチメートルの円柱の上にはパット型の小型端末が置かれていた。
「訓練場入室にはここで必ず入室登録してくださいね」
周さんが手本を見せるように、右手の平を端末の画面に乗せた。軽い電子音。登録が終えたようだ。
「退室時にも忘れないようにお願いしますね。この登録は今誰が訓練場にいるのか、すぐ確認できるようにするためのものですので、ご協力お願いします」
右手の手袋を外し、小型端末の画面に触れた。電子音と画面には『OK』の文字。端末に登録が終わると自動でガラスの扉が左右に開き、奥の重厚な鉄製の扉も左右に開いていく。訓練場の入口から怒号のような声が飛び交い、金属が打ち合う甲高い音が響く渡る。
みんなが訓練所に向かう中、マリの足が止まった。不安に歪む顔が入口を見据えていた。溌剌と朝日のような橙色の瞳が暗雲に覆われていく。
「マリ?」俺の呼びかけに我に返り、少し吊り上がった大きな瞳が俺を捉える。
「な、何……よ」
不安と恐怖を隠すように俺を睨む。俺とマリの間をカイルが「ガラじゃねぇぞ」と呟いて通り過ぎた。
「なっ!」マリの顔に怒りがさす。俺は苦笑を浮かべているだろう。
「ガラじゃないってどういう意味よっ」
カイルを追いかけて襟を捕まえたマリ。舌戦が始まる。マリからの猛攻に負けじと応戦するカイルだが、マリの右足が鞭のようにしなりカイルの尻を蹴りあげた。
「はぁ!? てめぇ蹴るとかなしだろうっ」
「うっさい。黙れちび」
「ちびじゃねぇしっ!」
踵を上げるカイル。つま先立ちでようやくマリと同じ背の高さとなったが、足がプルプル震えているのを見て、俺は何だか悲しくなってきた。
そんなカイルを見下げるマリが嘲笑うかのように鼻を鳴らす。悪意が凄いですのマリさんっ!?
カイルの自尊心が負けを認め、踵が静かに地に落ちる。試合終了である。
マリからはもう不安も恐怖も消えていた。カイルなりの死を覚悟した気遣い、ということにしておこう。
訓練場に入るとその広さに驚く。前方に広がる赤茶色の樹脂製の床は弾力性があり滑りにくい。高い天井を支える大樹のような石柱。天井は高すぎて見えない。白線で床に描かれた楕円に、壁には赤や青、黄に緑、紫にピンク色の突起物が点在していた。
金属のぶつかり合う甲高い剣戟音に注視が向く。刀使い同士が刃を交じり合わせていた。そこには手加減などなく、本気の打ち合いは互いの間で火花が散る。「ぶち殺すっ」「負け犬は黙れっ!」と叫んでいた。
「………………」何があったんだろう。
「諫早さんお待たせしました。遠征第八班、全員集合いたしました」
「おう、お疲れ」
諫早さんが軽く手を挙げる。その隣には紺色の背広に身を包んだ背の高い女性がいた。黄金の髪を靡かせ、振り向いた女性は挑発的な笑みを見せる。碧眼には強い意思があった。
「訓練前にすまない。まずは初日に挨拶できなかったことを謝罪する」
言葉とは裏腹に女性は両手を腰に当て、豊かな胸を張る。堂々たる立ち姿は王者のようだった。
「私は極東支部刀使い戦闘総司令兼今は支部長代理も務めている。アリス・リヴィ・有栖川だ。アリス司令と呼べ」
有無を言わせぬ力強い声音と言葉に呆然とする。
「何だお前たち、返事もできんのか?」
「いや、アリス司令。そんな胸張っての謝り方ってあります?」
「態度がデカいと言いたいのか?」
「いえ。何でもないです」
切れ長の青い瞳が肉食獣のように諫早さんを見据える。捕食者に睨まれた諫早さんはゆっくりと目を、顔を逸らしていく。
「そうか。では……」
アリス司令は深く息を吸って吐いた。青い双眸が力強く見開かれる。
「返事ぃいいいいっ!」
「「「はいっ!」」」
「ひゃいっ!」
大気が揺れる裂帛のアリス司令の声に、俺たちや諫早さんに周さん、訓練中の刀使いたちが姿勢を正す。口からは畏怖に彩られた声が訓練場を揺るがした。
本能が訴えている。この人に逆らってはいけないと。
「うむ。及第点としておこう」
下々を見下げる美貌の女王陛下は満足げに薔薇色の唇に笑みをのせる。
「それでは私は防衛班の訓練に行く。諫早は早漏だからついていくのが大変だとは思うが、早く仲間の背中を守れる刀使いになれ。期待している」
「だから誰が早漏ですか。下で例えるの本当にやめてください」
苦い顔の諫早さんが小さな声で「一応女性なんですから……」と呟いた。
が、アリス司令の耳に届いていたようで「一応?」青い怒りの業火を宿した瞳が諫早さんを睥睨する。諫早さんは亜音速で顔を逸らした。
「文句があるなら私の旦那に言え。私は支部長と旦那の言うことしか聞かん」
「それは、ずるいですよ……」
「ふん、知らぬ。では私は行く」
長い黄金の髪を左手が払い、タイトなスカートから伸びる引き締まった美脚が訓練場の奥へと歩を進める。高いヒールで颯爽と去って行く姿は、まるで嵐が過ぎ去っていく感覚だ。
「驚かせてすまんな。あの人が極東の刀使いを総括しているアリス・リヴィ・有栖川司令。極東至上最強の元エースだった人だよ」
「い、今ので怖い人かもと、おもってしまったかとおもいますが、本当はとてもお優しい方なんですよ。アレはですね、恥ずかしさを隠しているんです。きっと!」
「まぁ、あんな感じだから誤解されやすけど、誰よりも刀使いのことを想っている人だよ。不器用なだけで、きっと……」
周さんが慌ててアリス司令の印象を塗り替えようと言葉を紡ぎ、諫早さんもそれに加勢するが、二人のぎこちなさに素直にうなずけないでいると、遠くから「そんなへっぴり腰で囚俘と戦えるかっ! 貴様の腑抜けたナニをぶち抜くぞっ!」とアリス司令の怒号が響いた。
諫早さんと周さんが引き攣った笑みを浮かべ乾いた笑声をあげながら、顔を逸らした。
諦めの溜息が諫早さんの口から漏れる。
「口が悪いのが残念というか、美人なのに勿体ないよね」
「いや、人妻狙ったら駄目だろ」
「カイルなんでそんな話になった?」
沈黙。視線だけが諫早さんを責めるように突き刺さっている。
耐えきれなくなった諫早さんの声が静寂を破った。
「あれ? いや、違うからね。狙ってない、狙ってないからね!」
「あの……」
誤解を解こうと必死になっている諫早さんに、怖ず怖ずとユエラウは右手をあげた。助け船だとおもい笑顔が輝く。
「はい、何ですかユエラウ。アリスさんのことは狙ってませんからね。あの人旦那一途で……」
「そうろうって何ですか?」
雷に打たれたような衝撃に体が硬直する。ユエラウの氷雪の瞳には純粋な疑問の色。曇りない綺麗な瞳が真っ直ぐに諫早さんを見つめていた。
「ア、アアアアアアンタっ何てこと質問してんのっ!」
「ふぇ? え、え、え、え、えぇぇぇぇっと……ん?」
顔を真っ赤にしたマリが怒鳴る。なぜ怒られたのか理解できないユエラウが、不安そうに周りを見渡し小首を傾げる。頭上には疑問符が飛び交う。無知は時に残酷だ……。
目が合ったら答えなきゃいけない雰囲気に俺は音速で目を背けた。
カイルもギルフォードも顔を逸らし目線が合わないようにしていた。ティリエラは恥ずかしそうに紅潮した顔を両手で覆っていた。
サイがユエラウに近づき、無感情の秀麗な顔で口を開く。
「ユエラウそれは……っ」
「サイさん駄目ぇええええっ! 女の子がそんなこと言ってはいけませんっ!!」
大慌てで周さんはサイの口を右手で塞ぎ、続く言葉を遮断した。
ナイスです周さん!
カイルも救いの女神の周さんを拝みながら何度も頭を下げていた。
「ユエラウ」
「はい」
諫早さんはユエラウの真っ正面に立ち、華奢な両肩に大きな手を置く。長身の諫早さんを見上げるユエラウは不安そうに眉根を寄せる。
「確かに俺は随時質問を受け付けていると言ったが、答えられることと答えられないことがある」
「はい……」
しゅん、と落ち込んだ子犬のようなユエラウに諫早さんが優しく笑いかける。
「その言葉は自分で辞書で調べようね。自分で調べると勉強にもなるし、ね?」
「自分の勉強に……。はいっ、頑張ります!」
笑い合う二人。意味を知ったその後が怖い。
「はい、気を取り直して訓練始めるぞ。ちなみに俺は早漏ではありません」
「セクハラで訴えますよ」
何事もなかったかのように爽やかな笑顔を見せる諫早さんに、周さんが疲労の色の濃い溜息を吐いた。この人についていっていいのか、一抹の不安に駆られた。
******
諫早さんが持ってきた七つの黒いバックパックを床に置いた。一つのバックから長方形の長い黒い布を出していく。出された黒い布は厚みがあり、重みを感じる音をあげ置かれていく。
「さて、今からお前たちの持久力を確認する。両手首と両足首に一つ五キロの重りと、女子は二十キロ、男は三十キロの重りを背負って四〇〇メートル全力疾走十周してもうらぞ」
「じゅっ、十周っ!?」
「重り付けて、四〇〇メートルをっ!?」
「面倒くさ……」
「持久力を確認するのに重りは必要なんですか?」
ティリエラのいうとおり持久力の確認に重りなんて必要ない。いや、その前に俺は涼しい顔で三一〇キロの物を一人で普通に運んできた諫早さんに驚いている。
「持久力の確認しながら筋トレができるなんて、一石二鳥だろ?」
「そんな一石二鳥いらない」
青ざめているマリが首を左右に何度も振る。
「お前ら、訓練を何だと思っているんだ? 刀使いは持久力と足腰強くないとやってられんぞ」
「これ、足太くなりませんか?」
「絶対なる。絶対太くなるっ!」
怯えるティリエラとマリ。女の子にとってそれは大問題だ。特にマリの足はすらりと綺麗な線をしているから心配だよね。
「大丈夫だって、アリス司令の脚線美見たでしょ? あの人も同じ訓練やってたんだから」
「いや、だから旦那のいる人を狙ったら駄目だろう」
「よし分かったぞ。カイルにはさらに十キロの重りをプレゼントしよう」
「何でだよっ!」
「はいはい、文句言わない。手足に付けて背負って」
聞く気のない諫早さんが、重りの入ったバックパックと長方形の黒い布をみんなに手渡していく。手渡された合計五十キロのそれは、両手にずしりと重さを示す。
手足に黒い布を巻きつけ留め金で固定する。バックパックを背負ってその場で軽く跳躍してみる。バックパックの肩紐が体に密着していないから軽く跳んだだけで、重さに体が弄ばれる。体幹はあるほうだと思っていたが、腰と足にかかる負担が尋常ではない。
これは、しんどいっ。
「走る前に全員刀を抜いてもらう」
重りを装備しているみんなの動きが止まる。視線が諫早さんに集まる。
「いいスか?」
「許可はいただいてますので、大丈夫ですよ」
「訓練場はいつでも誰でも使えるが、刀を抜く時は申請が必要だから注意しろよ。午前中の講義で言ったように刀使いには時間制限がある。訓練で抜刀したから討伐に行けません。なんてことにならないようにな」
うなずく俺たちを見て、諫早さんもうなずいた。
「まずは俺から……。俺の刀、抜刀っ!」
力強い言葉とともに漂白の光が発生。眩い光が諫早さんを包む。次の瞬間光を切り裂く長大な刃が出現。光が花弁のように舞い、霧散していく。黒い刀身の柄を握るのは諫早さんの右手。長大な大剣を軽く振って右肩に担ぐ雄々しい姿に、周りにいた訓練中の刀使い、カイルにマリ、ティリアラから感嘆の声が漏れ聞こえる。
周さんとユエラウ瞳には羨望の似た色があった。憧れの熱を帯びた視線が諫早さんに集まる。
「ほれ、お前たちも」と促され、俺は右肩にある硬質な<核>に触れる。サイは祈りを捧げるように両手が鎖骨の下に触れる。ギルフォードが右の耳朶に触れ、カイルが両手の平を合わせる。マリは左手首の<核>に脈を計るように右手で触れる。ユエラウは十指を絡めて祈りの姿。必死に願うように強く握り締めていた。ティリエラが短いスカートの裾を少し上げると、左の太腿に赤黒く鈍く光る<核>があった。繊手な右の指先が<核>に触れる。その顔は不安に曇っていた。
刀を抜く声が重なる。
眩い白き光が体を包む。<核>に触れている左手には柄の感触。柄を引き抜くように振ると、鋼色の刃が光を横断。切り裂かれた光が霧散していく。
左手に持つは幅一八センチメートル、刀身一二五センチメートルの片刃の大剣。左手から右手に持ち替え刃先を地面に突き刺す。
俺の隣にいるギルフォードの右手には両刃の剣。柄頭から刃先まで黒一色。禍々しく湾曲したそれを握るギルフォードには幻想世界の主人公のような風格があった。格好良さに見とれてしまう。見とれていた俺とギルフォードの目が出会う。
「デカいな……」
「デカけりゃいいってもんじゃないぜっ」
長身のギルフォードの影からカイルの、なぜか勝ち誇ったような顔が現れる。カイルの左右の手にはそれぞれ形状の違う両刃の剣の柄を握っていた。カイルの髪と似た炎のように赤い刀身と冷たい鋼色の刀身。刃を交差して掲げてみせる。
「俺は二刀だっ!」
「ん?」
「…………で?」
見下げる冷ややかなギルフォードの視線に小型犬のカイルが威嚇するように睨み返す。喧嘩を売るカイルを止めるように「二刀が、何?」と俺は問いかけた。
カイルの額の中央に眉根が深く皺を刻む。
「は? 分かんねぇの?」
「う、うん」
「バカぁ、お前の刀はデカくても一刀じゃん?」
カイルの言葉に素直にうなずく。なんとなく分かってしまったが黙っておく。
「俺の、二刀じゃん?」
「うん」
「二刀ってことは単純に手数が多い、二倍ってことだよ。攻撃も強さも二倍で俺のほうが強いってことだ!」
得意げに鼻を鳴らすカイルに「あぁ、単純にバカか……」とギルフォードが呟いた。その声はカイルの耳に届いていなかったようで、良かったと胸を撫で下ろした。
まぁ、たしかに数が多いってことは強いってことになるのだろう。そんな単純計算みたいなことを堂々と得意げにいう幼い少女のような顔をしたカイルが、どうしよう、可愛くおもえてきて頭をクシャクシャになるまで撫でたいっと思ってしまった。
抑えろ俺っ。アレは小動物ではないっ!
「な、なんだよ」
「大丈夫だ。カイルはカイルだ」
「バカにしてんのか?」
カイルの額に青筋が浮かぶ。俺は必死に首を左右に振った。
「カイルは二刀で、マリは銃槍型か。それも珍しいな」
興味の色を示す諫早さんの声にマリを見ると、俺たちの話を聞いていたらしく「うわぁ、死ぬほどくだらないバカな話してる」という引いた顔で俺たちを見ていた。マリは思っていることが顔に出やすいな……。
マリが右手に持つは銃と槍が融合した武器。長い銃身に機関部。銃口の上には槍の刀身があった。どちらかといえば銃身が主体の刀だった。
「遠距離狙撃型の銃です。槍の刀身部分は可動式で、伸ばしたり縮めたりできます」
「なるほど。サイは大鎌か」
うなずくサイの両手が握りのは漆黒の鋭利な三日月の半分を模した、魂を狩る神が持つという大鎌。色白で白を基調とした衣服を着たサイが持つと、漆黒の闇が深まったように感じる。
ふと、俺は疑問を口にした。
「白い翼じゃなかったけ?」
「それは遠距離攻撃型の形状となります」
「形状変化ができるんだ」
「リュウはできませんか?」
「俺のは近距離特化型、らしいから。遠距離型の形状変化ってできるのかな?」
「え、マジで? お前形状変化できないの?」
カイルの嬉しそうな声音に、勝ち誇った視線が俺に向けられる。その視線に、少し面倒くさいと思ってしまった心は無視しよう。心を殺してニヤついているカイルに笑顔をみせておく。
「残念だけど、近距離特化型だと形状変化できない」
諫早さんの言葉に、なんとなくそうじゃないかと感じていたことに納得した。
「俺も近距離特化型で遠距離攻撃型の形状変化はできない。まぁ必要ないと言ったほうがいいかな」
「必要ないとは?」
「お前、異常に足が速いだろ」
俺はうなずいてみせる。
「近距離に特化した刀使いは異常に足が速く、瞬時に間合いを詰められるから遠距離で戦う必要がないんだよ。ちなみにカイルとサイは遠・中距離撹乱型の刀使いで、マリは遠距離援護型の刀使いと区分される。ギルフォードはどうだ?」
「俺もたぶん近距離特化型です。刀が変形したことがないんで」
「バランス良い班になりそうだね」
「あれ? ティリエラとユエラウは?」
カイルがマリとサイの影に隠れている二人を覗き込む。ティリエラとユエラウは刀を持っていなかった。
気まずそうに身を縮めているユエラウの瞳には絶望があった。祈りの手に力が込められ指先が赤くなっている。みんなの視線に気づいて見上げる顔は、今にも泣き崩れそうだった。
ティリエラはただ震える両手を見つめているだけだった。翡翠の瞳には何の感情もなく、闇を見つめているようだった。
「大丈夫だよ二人とも。気にしなくていい」
諫早さんの優しい声音が響く。
「二人はね、まだ刀が抜けないんだよ」
「え……」
怪訝にマリの表情が曇る。
「な、なんでそんなヤツが同じ班にいるんだよ……。しかも二人……」
「講義でも言ったが<核持ち>は強制的に刀使いにさせられる。ティリエラとユエラウは生まれ持っての<核持ち>だから仕方ないんだよ」
「でも刀が抜けないのにどうやって戦うんだよっ。自分の身だって……」
カイルの顔が憤りに歪む。俺も苦い顔となる。
「そこは諫早さんがきっちり守りますよ。それに二刀で二倍の強さを持つ、カイルが頑張れば問題ないんじゃないかな。頼りにしてるよ」
エースの諫早さんに頼りにしていると言われたカイルの時が一瞬凍結した。「え、何? 俺なんて言われた?」と呟いたカイルは、諫早さんに言われた言葉を反芻するように繰り返し確認していた。言葉の意味をようやく理解したカイルの顔が嬉しさに輝く。
「お、おうっ、任せろっ!」
諫早さんは既にカイルの扱い方を熟知していた。
「単純バカは気楽でいいな……」
やめてっギル。喧嘩を売るのはっ! 怒ってないって言ってたけど、起こされたことしっかり根に持ってるっ!?
「それに訓練中に刀が抜けた人もたくさんいるから、大丈夫だよ」
優しく語りかける諫早さんに、ティリエラとユエラウはうなずいてみせるが、瞳には不安と不信の成分が色濃く渦巻いていた。
困ったような笑みをみせる諫早さんが周さんに視線を投げかける。受け取った周さんも同じような顔をしていた。どこか辛そうにも見えた。
抜刀できる条件は分かっていない。
いつの間にか手に持っていたという人に、抜ける気がしたから抜刀してみたという人。強い怒りや殺意を感じた時に手にしていた人や、囚俘に襲われ命の危機を感じた時に刀を抜いたという人もいる。
そして<核>を持っていたとしても刀を抜けない人もいる。南にもそういう人はいた。すごく肩身の狭い思いをしていた。刀使いから<核なし>の人たちから白い目で見られ、刀がなくても役に立つことを分かってもらうために、行き着いた先が肉壁や囮になることだった。
囚俘の攻撃を受けても<核>があるから囚俘化しない。だから<核なし>の人たちを守るためその身を捧げていた。俺はその人たちの狂気を知っている。必死さを知っている。
ティリエラとユエラウが刀を抜けない事実を知って、サイの大きな紫電の瞳がさらに大きくなる。
「私は……知らなかったとはいえ、なんてことを……」
感情のない声音が呟く。感情のない表情だが、眼だけは違った。紫水晶の瞳は恐慌に支配され揺れていた。
ティリエラがそっと、大鎌の柄を握るサイの両手を包むように自身の手を添える。
「大丈夫です。結果的に私とユエラウは無事でした。だからもう気にしないで」
優しい笑顔をみせるティリエラ。隣にいるユエラウも何度も顎を上下に振ってうなずいていた。サイの唇が言葉を紡ごうと開いたが、言葉は発せられず口を閉ざした。視線は床に落ち納得していないといった感じだったが、顔を上げたサイの双眸は柔和な紫色になっていた。
「ありがとうございます」
サイは白い帽子を取り、丁寧に頭を下げた。ティリエラはユエラウを見て、ユエラウはティリエラを見た。困ったように笑い合う二人。優しい世界がそこにはあった。笑みが自然と零れる。
「で、刀を抜いて身に付けた重りはどうだ?」
諫早さんの声を聞いて、そういえば……と気づく。
体が軽い。重りなど付けていない、いつも以上に調子が良い。軽く跳躍してみる。さっきは背中のバックパックに体を弄ばれたが、何回跳ねても体幹が崩れることはない。
「マジでヤベぇ、何にもないみたいだ。これなら楽勝に走れんじゃん」
「これは、たしかにエグいわね。重力がなくなったみたい」
カイルとマリも跳ねたり上半身を捻ったりして、今の体の状態を確認していた。
「カイルは訓練をなんだと思っているんだ?」
「え、これで走るんじゃねぇ……、んですか?」
「違うよ。ほい、全員を納刀して」
諫早さんは肩に担いでいた長大な刀を器用に旋回させ、刃を自身の身体に突き刺す。刃が身体に触れた瞬間、刀から白い光が溢れガラス細工のように砕け散り、光の破片が霧散していく。言われたとおりにギルフォードとサイも納刀していく。俺も柄を逆手に持ち替えて、刃を身体に突き刺す。刀は白い光の花弁になって舞い散っていく。
疑問顔のカイルとマリも刀を納刀した瞬間、苦鳴とともに膝が崩れ両手を床についていた。
何が起こったのか理解できず混乱していた。俺も納刀した瞬間に体の異常な重さに膝が崩れ、右膝を地についていた。
恐慌に陥ったカイルとマリの瞳が、諫早さんを見上げる。
「刀を抜刀すると身体能力が飛躍的に向上して超人のようになるが、納刀したあとが問題でね。慣れてないと、こうなる」
「いや、でも俺、何度も刀抜いて……」
「私だって検査とかで、何度も抜刀してたのに……。なんで?」
疑問が深まるカイルとマリ。俺も自身の状態に理解できないでいる。体が自分のものじゃないように重く、倒れないように踏ん張っているだけで精一杯だ。俺の隣ではギルフォードとサイは平然と立っていた。
「あぁ、それは重りを付けているからだよ。普段そんな重りなんて付けないだろ?」
「そうだけどっ」
「急な体重の増加に対応してくれただけだよ」
「待って、それって……」
「そ、<核>が体重が増えたと判断して、いつも以上に出力を上げたということ。そして今その反動がきているというわけだ。今感じている重さは、たぶん十倍くらいじゃないかな」
爽やかな笑顔で説明する諫早さんに、唖然とする。開いた口が塞がらないカイル。マリは恐怖を感じているようで、この場から逃げたい一心で何とか立とうとしていた。
「た、立てない」
諫早さんに支えられ立ち上がったマリの細くしなやかな足は、生まれたての子鹿のようにプルプルと震えていた。
カイルは助けを拒み、漢としての自尊心と意地で立ち上がった。挑発的な笑みの下で、膝も笑っていた。俺も意地で立ち上がる。
「よし、じゃ四〇〇メートル全力疾走十周始めるぞ」
「無理無理無理無理無理無理むりぃいいいっ。ぜっっっっっっったいにむりぃっ!」
「こんなんで走れるかっ!」
マリは首を左右に振って全力拒否。恐怖で瞳から輝くが消えていた。さすがにカイルも吼えた。俺も苦い笑みを浮かべているだろう。
「さすがに初日でそれは鬼畜かと……」
「だよなぁ」
心配そうに俺たちを見つめる周さんの意見に、同意を示す諫早さん。これは走らなくてよくなるのでは? とカイルやマリ、ティリエラにギルフォードとユエラウの期待に満ちた視線が諫早さんに注がれる。俺も期待に心が踊る。
「無理せず、走れるとこまでやるぞ」
「そうですね。それがいいと思います」
救いの女神だと思っていた周さんに裏切られた……。
******
赤茶色の樹脂製の床に白線が引かれ、四重に楕円形を模していた。昔の記録で見た、陸上競技場の走路だった。
白線に横二列に並ぶ俺たちの顔は、希望という名の光を失っていた。マリは諫早さんの支えなしに立つことができないでいる。
「無理ぜず、できれば十周を目指して頑張って欲しいなっていうのが本音です」
本音を吐露する諫早さんを、絶望の漆黒に支配された瞳で見上げるマリ。そんなマリの頭を優しく撫でる諫早さんは苦笑していた。
「マリはこの状態から動けるよう慣れるところからスタートかな。動ける者は頑張れよ」
「軽く言ってくれるぜ……」
「めんど……」
「訓練を開始します」
「頑張ります!」
カイルにギルフォード、サイとティリエラがそれぞれ言葉を口にする。俺も気合いを入れる。このくらいで音を上げていたら、これから先何もできなくなる。拳を握り脇を閉めて、全身に力を入れる。
十周走りきるっ。
「そんじゃ、位置について……」
「ま、待ってくださいっ。ダメですっ!」
急に慌てだすユエラウ。
「よーい……?」
「ドンはダメですっ!」
大声をあげるユエラウに驚く俺たちの間を白い颶風が駆け抜けた。
白い颶風は数メートル先で止まり、白銀の毛並みを靡かせ身が振り返る。白犬の美夕は殿部を高く上げ、長い尻尾を左右に振っていた。口角の上がった口から舌を出し、嬉しそうな表情をみせる。両前脚が訓練場の床を叩き、早く来いと催促しているようにみえた。今まで警戒や威嚇の顔しか向けられていなかったからなのか、初めて見た美夕に笑顔に俺の心は容易にきゅんと射貫かれた。
「違うのっ、美夕戻って。追いかけっこじゃないからっ」
「え、何? どうしたわけ?」
困惑している諫早さんたちを代表してマリが疑問を口にする。
「すみません、すみませんっ。散歩でいつも追いかけっこして遊んでいて。その合図がよーいドンなんです」
「なるほど。遊びの合図だと覚えちゃってるわけか」
「てか、なんで訓練にあの子たちを連れて来てんのよアンタはっ」
「すみません、ごめんなさいっ。まだ慣れてないところでお留守番したくないっていうから……」
弱々しく事情を説明したユエラウは、嬉しそうに尻尾を振る美夕を見て「捕まえます!」と氷雪色の瞳に力を宿らせ、走り出したユエラウのバックパックにしーちゅが飛びついた。小さい身体で揺れるバックパックを器用に登り、ユエラウの左肩に掴まる。
「待って美夕っ。これは遊びじゃないのっ!」
叫びながらユエラウは美夕を追って行く。美夕は来てくれた、と嬉しそうに尻尾を振り一定の距離を保って逃げていく。振り返っては左右に華麗にステップを踏んで、逃げていくを繰り返す。
はしゃいでる美夕の姿が、可愛い。可愛いすぎるっ。
「ユエラウが走り出したから、じゃスタートで」
「軽っ!」
「了解しました」
「い、行きます!」
「もうっ、なんなのよっ!」
諫早さんの軽いスタートの合図にカイル、サイ、ティリエラ、俺、ギルフォードとバラバラに走り出す。マリも一歩を踏み出すが、顔が一気に青ざめ、諫早さんを見上げ首を左右に振る。諫早さんは優しく微笑み、マリの頭をぽんぽんと軽く叩いていた。
感じたこともない体の重さ。手を振って走ると、手首に付けている重りで身体が前に引っ張られる。足は重く上がらないため、バランスをとるのに必死だ。何度も躓きそうになって、上手く走れない。
「あまり身体を上下に揺らしながら走るな。足にキてすぐバテるぞ」
諫早さんのアドバイスに上半身を少し斜め前に倒すが、背中のバックパックがその重さで伸し掛かり襲ってくる。腰が砕けそうになる。
俺の前を走るギルフォードとサイは、重さを感じていないような走りだった。慣れているようで、どんどん先に進んでいく。
先頭を走るユエラウは美夕を追うことに必死になっているからか、四十キロの重さを物ともせず走っている。ユエラウは刀を抜いてないから体にかかる重さは四十キロと変わらないが、それでも普通の女の子がその重さに耐えながら走っていることが凄い。
負けてられない!
何より、俺の左斜め後ろを走るカイルの、俺に負けたくないという殺気が背中に突き刺さって俺の闘争心を刺激する。俺も結構負けず嫌いなところあるな、と第三者のような冷静な心があった。必死に足を動かし、前へ前へと走る。
白い毛並みの美夕は風のように走っていく。
******
どのくらい時間が過ぎたか分からない。
今、自分が何週目なのかも分からない。
頭に肺に酸素が足りない。口が酸素を求めるように開いたままとなっていた。息苦しさに肩が上下に動いてしまう。
視界の隅に見える諫早さんの隣には、走り終えたギルフォードとサイがいた。重りを外してストレッチをしていた。
遊びと勘違いして走り出した白犬の美夕はというと、途中で追いかけっこに飽きて、訓練場の隅で丸くなって寝ていた。自由過ぎる子だ。
ヤバい。目が翳んできた。
ぼやけて揺らめく視界。
前が、よく……見え、な、い……。
「はい、お疲れ。よく頑張ったな」
倒れかかった俺を諫早さんが抱きとめてくれた。諫早さんの力強い腕の中で、酸素を求めて必死に呼吸を繰り返す。
「急に止まると体に良くないから、ゆっくり歩くぞ?」
返事の代わりにうなずく。いや、それしかできない。
体を支えられ、ゆっくりと歩き出す。一歩、一歩、ゆっくりと。呼吸が落ち着くまで諫早さんは俺に付き添ってくれた。
俺の呼吸が落ち着くのを見計らって周さんが飲み物を渡してくれた。糖分と塩分の入った飲料水が乾いた口腔内と喉を潤し、体に浸透していくのを感じて、ほっとする。
「初めてで走りきるとはな。よく頑張ったなリュウ。十周完走おめでとう」
優しく微笑む諫早さんは、俺の頭を少し乱暴に撫でる。褒められて素直に嬉しく思うのと同時に、なんだか恥ずかしくもなる。見上げていた顔を逸らしてしまった。
「さて、カイルは八週目でドクターストップ。マリは一〇〇メートル歩けるようになったな」
カイルは床に大の字で仰向けに倒れていた。まだ呼吸が荒い。何度も「クソっ、クソっ!」と悔しそうに叫んでいた。叫べるだけの元気は残っているようだ。
マリは重りを下ろさずにその場で腕と足を上下に動かしていた。まだ走ることはできないが動けるようにはなったようだ。慣れるのが早い。
俺がゴールした十数分後に、ユエラウとティリエラが次々と完走していく。ユエラウは途中で美夕が追いかけっこに飽きてしまったため、美夕を捕まえるという目的がなくなってしまったことで失速してしまったようだ。
「ここまで頑張ってくれるとは。諫早さんは満足ですよ」
嬉しそうに微笑む諫早さん。その隣で周さんも嬉しそうにうなずく。
「ギルフォードとサイはさすが中央出身だな。リュウとカイルとマリ、ティリエラとユエラウは重さに慣れて普通に走れるようになることが目標だな」
「普通って……」
「筋トレ、基礎体力向上。何度も繰り返しやってれば身体が慣れる」
「当面は重りを付けて刀を抜刀して納刀。高出力状態にして、諫早さんが仰ったとおりに慣れるまで続けます」
疲労困憊のマリが苦い顔で呟く。愛らしい笑顔の周さんから地獄のお知らせを受けた。
「次はぜってぇ走りきってやっからなっ!」
ぜぇーぜぇーと肩で息をしながらカイルが、俺に向かって咆える。
うん、頑張れっ! という表情で返しておく。伝わったかどうかは分からない。
「訓練初日はこれで終わりにする。無理しても仕方ないからな。運動後のストレッチを忘れるなよ、筋肉痛エグいからな」
「しっかり栄養も取ってくださいね」
筋肉痛エグいの言葉にマリ、ティリエラ、ユエラウが石像のように固まる。光が消えた六つの瞳は、深淵を見つめているようだった。声すらあがらない。
「明日はみんなの体調をみて、訓練内容考える。ちなみに慣れるまで休みはないからな」
諫早さんから死刑宣告です。
汗まみれで、まだ息が上がっている俺はサイとギルフォードを見ていた。二人は多少汗をかいているものの、息は全く上がっていなかった。二人のようになるには、どのくらいの時間がいるのだろうか。
実は少し自信があったんだけど。囮役として走り続けて体力はあるほうだし、筋肉だってそれなりについてるし、囚俘と戦った後もこんなに疲労したことはない。
まだまだってこと、か……。
両手に力を入れて握る。すぐにサイとギルフォードに追いつく。
「じゃ現地解散ってことで、お疲れ様」
「はい、本当にお疲れ様でした。何度もいいますが、しっかり休息をとってくださいね」
周さんの青玉の双眸には心配の成分があった。周さんは心配性のようだ。心配が少しでも薄れるようにうなずいてみせる。マリとティリエラとユエラウが笑顔をみせ「大丈夫ですよ」「しっかり休ませていただきます」と声をかける。優しい周さんに心配をかけたくないようだ。そんな三人の優しさに俺の口元が笑みを刻む。
訓練の後片付けをしようと、重りを持とうとした時、諫早さんが手で制した。
「いいよ。気にせず休め」
柔和に微笑む諫早さんは重りを回収していく。軽々しく三一〇キロ重りを持ち上げる。優男に見えるが、その服の下は筋骨隆々で、お腹も六つに割れているのだろう。ちょっと憧れる。
「ほれほれ、時間を無駄にするな。訓練する時はしっかり訓練する。休む時はしっかり休む。人生にはメリハリが大切だぞ」
「なんっすか、それ?」
「爺むさい……」
「あはははは、まだ二十代の諫早さんに爺むさいとは。明日の訓練覚えてろよ?」
「なっ!?」
「俺はちげぇからなっ。そんな意味で言ったわけじゃねぇよ?」
ぼそりと呟いたマリの声はしっかり諫早さんの耳に届いていた。
優しく微笑む諫早さんだが、目が一切笑っていなかった。背筋に氷を押し当てられたような冷たさと驚きに、慌てて謝るマリにカイルも一緒になって謝っていた。
追いたてるよう訓練場から退室を促された。
出入り口の重厚な鉄の扉。その横の壁に訓練場に入室した時を同じ小型端末があった。手袋を外して手の平を乗せる。電子音と画面には『お疲れ様でした』という文字があった。これで退室登録は完了のようだ。
みんなの退室登録を待っていると、視界の隅の諫早さんと周さんに気づく。俺の目線は自然と二人を眺めていた。
「諫早さんはこの後ご予定はありますか?」
「あぁ、夜勤組のヘルプがあって、まだ夜に慣れていない班と軽い任務に行く」
「そうですか。諫早さんもあまりご無理をなさらないでくださいね」
「ありがと」
優しく微笑む諫早さんは心配の絶えない周さんの頭をぽんと軽く叩く。周さんは微笑み返すが、どこか表情は晴れなかった。
エースの諫早さんは俺たちの他にも班を掛け持ちしているようだ。俺たちだけに構ってられないことに、少し、少しだけ寂しさを感じた。
「リュウ?」
右手に熱。振り返ると、心配に可憐な顔を歪めるティリエラが俺の右手を両手で握っていた。
「大丈夫ですか?」
翡翠の大きな瞳が不安に揺れる。
ティリエラの肩越しに、退室登録が終わって茜色の絨毯が敷かれた階段を上って行くみんなの姿が見えた。
諫早さんと周さんを見つめながら、ボーっとしていたようだ。
「ごめん。大丈夫」といった時に既視感を覚える。そういえば、初日もティリエラに手を握られたことを思い出した。その時も心配をかけていたな。
俺の顔を覗き込む翡翠色の瞳が訝しげに見つめる。
「大丈夫。行こう」
今度は俺がティリエラの左手を引いて歩き出す。少し顔が熱い。ティリエラを見ると、頬を紅潮させて視線を逸らしていた。
あ、やってしまった。
慌てて手を離すと、すぐに熱が戻ってきた。ティリエラの左手が俺の右手を掴んでいたのだ。ティリエラのまさかの行動に、心臓が跳ね、耳が熱を持つ。
振り返ると、ティリエラの恥ずかしそうな笑顔があった。その笑顔に俺も恥ずかしくなる。
階段を上り終わると、ティリエラの柔らかい右手が俺の手を離し、走り出して俺を抜いていった。
が、急に立ち止まり、金糸の髪を靡かせて振り返ったティリエラは、右の人差し指を立てて可憐な唇に当てた。頬を赤く染めたティリエラは丈の短いスカートを翻し走っていく。
何事もなかったようにマリと話し出すティリエラ。
俺は何が起こったのか理解できず、その場に立ち尽くしていた。ただ、ただ、全身が沸騰して熱を噴出していたことは確かだ。
どうしよう。南支部の女の人たちと違い過ぎて、どう接していいか分からなくなってしまった。
熱を持った顔を右手で覆う。これは諫早さんに相談してもいいのだろうか?
変に息苦しくなって、コンクリートの壁に背を預ける。ひんやりとして壁が熱を奪っていく。気持ちいい。落ち着く。
極東に来てからというもの、悩みが増えてしかたない。
俺は助けを求めるように天井を仰ぎ見た。当たり前だが、答えが返ってくることはなかった。
これは余談だか、翌日早漏の意味を知ったユエラウが諫早さんに綺麗な土下座で盛大に謝ったことは、言うまでもない。