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刀使い  作者: とりちゅう
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一章:世界の祝福と愚者の夢③


 忙しく人と人が行き交う。大きな荷物を抱えた人。書類を見ながら意見交換している人たち。はしゃぐ子供たちを注意する母親らしき人。清掃道具を持っている人。そして背中や胸、腕に蓮の華を貫く刀の<印>を持つ人たちが通り過ぎていく。通り過ぎていく人たちが諫早さんに気づくと、立ち止まって丁寧に頭を下げて挨拶する人や、軽く会釈する人、手を振っていく人などそれぞれの形で挨拶していく。諫早(いさはや)さんもそれに答えて右手を掲げる。


 城壁のような巨大な壁に囲まれた極東支部の中央にそびえる灰色の建物。極東支部中央司令監視本部ビル内。鉄筋鉄骨の強化コンクリート構造の建物で、正面入り口から続く一階は淡い白の石床が敷き詰められている。歩くたびに足音が響く。石床は自分の姿が映るくらい磨き上げられていた。


 諫早さんの大きな背中について行きながら、俺の眼は周りをきょろきょろと映していた。

 一階のエントランスは明るく開放感があり、高い天井からはガラス細工のような豪奢な照明が吊り下がっていた。


「おーい。ずっと口開いてるぞ」


 声を抑えて笑う諫早さんに指摘され、ずっと口を開けて歩いていたのかと恥ずかしくなる。耳が熱い。いや、だって、こんなきれいな建物は中央総本部以外にもあったなんて思わなかったから……。


 エントランスの奥中央に受付があり、受付を挟むように左右には重厚な階段があった。階段には赤銅色の絨毯がひかれていた。


「あっ、諫早さーん」


 紺色の制服に身を包んだ受付嬢の一人が諫早さんに気づき、手を左右に大きく振っていた。諫早さんも軽く手を振って答える。


「お帰りなさい」

「ただいま。第一班の奴等はもう戻ってるか?」

「はい。たぶん今はメディカルチェック中だと思います」


 薄い肩を(すく)めて小首を傾げると、長い黒髪が右へさらさらと流れる。笑顔と仕草が可愛らしい女性だった。胸元の赤い大きなリボンが揺れる。


「諫早さん、階段上の休憩スペースで待っているとアリス司令からのご伝言です」


 眼鏡をかけたもう一人の受付嬢の人が機械的に業務連絡告げる。隣の華やかで可愛らしい女性とは違い、落ち着いていて、眼鏡の似合うきれいな人だった。


「了解です。ありがとう」


 諫早さんがまた軽く手を振って階段へ向かう。その後ろを追いかけて行こうとした時、眼鏡の女性と目が合った。切れ長の眼は凜とした冷たさを感じさせる。


「ようこそ極東へ。お帰りなさい」


 淡く温かい微笑みを俺に向けてくれた。また耳が熱くなる。慌てて頭を下げて諫早さんの背中を追う。

 またようこそって言われた。歓迎されるのは、嬉しい……。顔にまだ熱があることを感じる。極東に来てから、何か自分の感覚が狂う。


 階段を上がって行くと広間のような空間が広がっていた。飲料の自動販売機が壁の隅に数台置かれ長椅子(ベンチ)に革張りの応接椅子(ソファー)が点在していた。観賞植物が椅子の横に置かれていて癒やしの空間となっていた。数人の刀使いの人たちが雑談している。広間の奥には五台の自動昇降機(エレベーター)の扉があった。


「リュウ!」


 銀鈴のような可憐な声が俺の名前を呼んだ。振り返るとティリエラの花のような満面の笑みが俺を迎えてくれた。


「無事でよか……」


 駆け寄ってくるティリエラが血塗れの俺の姿を見て笑顔が強ばり、徐々に青ざめていく。


「だ、大丈夫っ。もう怪我治ってるし、血だって止まっているから問題ない……よ?」


 なぜ焦って言い訳しているのか、自分でも分からない。


「怪我っ!?」


 さらにティリエラの顔色が悪くなる。翡翠色の大きな瞳が畏怖に揺れる。


「ちがっ、違うから! 大丈夫だからっ!」俺もさらに焦る。

「本当だよ。出血は酷かったけど怪我は完治してるから心配いらないよ」


 諫早さんの大きな手が俺の頭に置かれ、優しい声音がティリエラを安心させるように告げて、笑顔を見せる。俺も笑っておく。ティリエラは疑いの目を俺と諫早さんに向けるが、諦めたような、自分を納得させるような溜息を吐いた。


「うん、無事でよかった」

「ティリエラたちも無事でよかった」


 互いに笑顔を浮かべる。


「諫早さん、お疲れ様です。皆さんそろってますよ」


 聞き覚えのある声が諫早さんを呼ぶ。声の方に顔を向けると、受付の人と同じ制服を着た、夜空のような黒髪の女性が右手を掲げていた。そこにはサイと灰紫色の髪の少女に、若草色の髪の少女、金髪の長身の男と赤髪の少女がいた。


「あれ? アリス司令は?」


 周りを見渡しながら諫早さんはその女の人へ歩を進める。俺もティリエラもその後をついて行く。


「アリス司令は急用が入りまして、私たちだけで進めていくようにと言付(ことづ)かっております」

「忙しいそうだね」

「はい、支部長代理としてのお仕事もありますし、先ほどの戦闘の事後処理も残っていますから……」


 そうだ。二人が話している間にサイにお礼を言いに行こう。

 話し込んでいる二人を横目で見ながら、サイの元へ向かおうとしたら、サイも俺の方へ歩いて来ていた。


「サイ、ありがとう。本当にあの時は助かった」

「いいえ、こちらこそ感謝を。リュウの予想が的中して飛行型の囚俘(しゅうふ)の襲撃の受けました」

「えっ!?」


 感情の起伏がない声音が恐ろしいことを報告してきた。驚きのあまりティリエラに顔を向けるが、ティリエラは亜音速(あおんそく)で顔を逸らした。いや、顔を逸らされてもそれは肯定になってるよ?


 逸らした顔で目線を泳がせるティリエラを見つめていると、観念したのか肩を脱力させて、気まずそうに苦笑を浮かべる。


「でもでも、サイのお陰で助かったんですよ?」


「いいえ、すぐヘリに戻るべきでした。リュウの忠告を聞かずにあの後少し、地上の様子を見てました」

「サイさん? いいのそれ以上は言わなくてもっ」

「いいえ、ヘリの異変に気づくのが遅れ、そのせいで……」


 サイの視線が灰紫の女の子に向けられる。その視線に気づいた少女が恥ずかしそうに身を捩り、目を背けた。が、意を決したように両手を強く握り締め俺たちを見上げる。あの印象的な氷雪色の双眸を見て、フードを目深くかぶっていた少女だと気づいた。


「危うく……」

「問題ないです! ほ、ほら怪我はしてませんし、二人とも無事です!」


 サイの言葉を遮りようにティリエラが両手を広げ、どこにも怪我などしていないことを示す。ピンクと白を基調にした短い丈のスカートの裾がふわふわと揺れる。


 違和感。ヘリで見た服と違うような? 髪もどことなく濡れているよう……な?


「あの……」フードの少女も広がるスカートの裾を(なび)かせながら小走りでサイに向かい、こちらも深々と頭を下げる。「ちゃんとお礼が言えず、すみません。ありがとうございました」頭を下げるこの子も髪が濡れているような?


「いいえ、謝罪を。申し訳ございません」


 左手を胸元の添え、俺とティリエラ、フードの少女に頭を下げるサイの所作が上品できれいだなと思った。謝っているのに。そしてなぜだろう。その後ろの方にいる赤髪の子が俺を凄い負の眼力で睨んでいるんだけど……。なんで?


「サイは真面目で優しい人ですね。本当に気にしないでください。返り血を浴びただけですから」


 返り血っ!?


「はい。本当に感謝しかありません」


 金色と灰紫色の髪の少女たちが笑い合う。サイの瞳は戸惑いに揺れていた。表情は相変わらず変化はないが瞳孔には感情の色が見える。


 返り血に驚いたけど平静を装って「サイ、気にするなとは言わないけど、感謝は素直に受け取ったほうがいいと思うよ」

「……いいえ」否定の言葉を呟いたが、目を伏せて考え込む。長い睫毛が頬に影を落とす。「……いえ、そうですね」両手を胸元に「こちらこそ、ありがとうございます」美しい所作で感謝の意を告げるサイに、ティリエラは満足そうに満面な笑みを浮かべる。


「話は終わったか?」


 諫早さんと紺色の制服の女性が俺たちの話が終わるまで待っていてくれたようだ。ティリエラにサイ、氷雪の双眸の少女と俺がそれぞれに顔を見合わせうなずく。諫早さんたちの隣へ移動する。


 制服の女性が俺たちの顔を見回し確認していく。手に持っている小型の端末機を指で操作して何かを入力していた。


「はい、皆さん全員揃いましたね」薄紅色の唇に笑みを浮かべ会釈をし「改めまして、ようこそ極東支部へ」左手が極東支部を示す。


「本日付で皆さんは極東支部所属の刀使いとなりました。ありがとうございます」


 後ろでまとめ上げた夜色の髪が左右に揺れる。


「簡単に自己紹介させていただきます。これから皆さんのサポートをさせていただきます。幸村周(ゆきむらあまね)と申します。(あまね)と呼んでくださいね」


 凜として耳に残る声と、周という名前でヘリで聞いた声の主だと気づいて何だか嬉しくなる。周さんが俺のそれに気づいたのか、青い目が俺に向けられる。俺の赤と青の瞳が出会って互いに笑顔になる。


「これからここにいる皆さん七人で班を組み、訓練や囚俘(しゅうふ)討伐の任務にあたっていただきます」


 ここにいる七人と言われて、七人それぞれがそれぞれの表情で互いの顔を見回す。


「そしてこちらの方が皆さんの班の長を務めます」


 周さんの長い五指が優雅に諫早さんを示す。


「極東支部、階級(クラス)エースの諫早直斗(なおと)です。これからよろしく頼むね」


 驚きに皆の身体が硬直する。


 え? エース……。エースって確か、その支部最強の人がなれる階級のことじゃ…………。

 え、えええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーっ!!


 驚愕の衝撃に諫早さんの顔を見上げると、目が合った俺に片目をつぶって乳白色の歯を光らせた。

 ………………………………………………………………歯ってどうやって光らせるの?


「エ、エースの方が私たちの戦闘指導をしていただけるんですか?」

「はい。新人指導には階級キング以上の方が務めることになっています」


 ティリエラの疑問の周さんが答える。


「極東には指導教官などはいません。現役の刀使いで階級キング以上の方が教育指導をおこないます」

「そういうこと。郷に入れば郷に従えだ」

「ごうに?」


 俺の疑問の目を受けて「その土地や違う環境に入ったなら、その土地、環境の決まり事や習慣に従えという意味だよ」優しく諫早さんが教えてくれた。


「さて、それじゃ一人一人自己紹介していこうか」


 自己紹介という言葉にサイと金髪の男以外の四人が一斉に目を逸らした。目を逸らすほど嫌なのかな?


 ティリエラを見ると白い頬を紅潮させて、恥ずかしそうに両手の指を合わせては離し、合わせては離しを繰り返していた。


「お前らなぁ……」呆れて溜息を吐く。「じゃ、俺から右へ時計回りで自己紹介開始!」誰からも始まらない自己紹介に、諫早さんが強制的に手を一拍叩いて開始の合図する。


「わ、私からっ!?」


 若葉色の髪の一部を編み込んで後ろに結い上げてる、手の込んだポニーテールがよく似合っている女の子が露骨に嫌そうな表情を浮かべる。少し釣り上がった大きな橙色の瞳が周りを窺う。全員の注視を浴びて頬が赤く染まっていく。


「分かったわよっ。私からやればいいんでしょっ」


 両肘を抱えて皆から視線を避けるように目を逸らす。逸らされた横顔は耳まで紅潮していた。大きく深呼吸を一回して気持ちを落ち着かせているようだ。


「西支部北地区出身、茅原(ちはら)マリ。よろしくお願いします」


 軽く会釈をして隣にいるサイに視線で次ぎの合図を送る。


「え。それだけ?」

「だけです」


 あまりにも短い自己紹介に困惑する諫早さんの言葉に、夕焼け色の双眸が睨み上げて冷たい一言が返ってきた。諫早さんの乾いた笑声が漏れる。


「中央総本部出身の卯月(うづき)サイと申します」

「…………………………………………………………………………だけ?」


 変わらない無表情で諫早さんを見つめ、小首を傾げるサイ。紫水晶の目には疑問の色。他に何かありますかと訴えているようだった。


「そうかぁ~……。はい、次の人どうぞぉ」


 諦めたように天を仰いで次を促す諫早さんが不憫でならない。


「えっと、西支部総括司令本部から来ました。ティリエラ・ニィニと言います」


 他に何かを言ったほうがいいのかと視線が諫早さんや俺たちを見て泳ぐ。でも前の二人は出身地と名前だけだったしな、でも諫早さんは他のことも言って欲しそうだしと困惑している。「あの、えっと……」でも結局「よ、よろしくお願いします」と困ったような笑顔を浮かべて終わらせてしまった。


「はいっストップ! ちょっと待った!」


 諫早さんの制止の声。右手の人差し指と中指が額を支えて、大仰に溜息を吐いた。


「班を組むということは、背中を任せて命を預けるということだ。ただの知り合い、上辺だけの関係じゃない。命を預ける仲間、戦友になるということなんだぞ?」


 諫早さんの言葉に、隣にいる灰紫の少女の瞳が夜空の星のように煌めいていた。右手を左手で覆う祈りのような姿勢が豊かな胸を強調させる。


「仕方ない。自己紹介というものを教えてやろう」


 無邪気な少年のような笑顔を見せる。まるでやりたかったような言い方ですけど……。


「極東支部東地区出身、諫早直斗です。彼女いない歴=年齢、とかいうけど、生まれてすぐ彼女できるかって思うわけ。皇族貴族じゃあるまいし……」諫早さんの自己紹介が始まった。


「てか、それは彼女じゃなくて許嫁ですけど。という訳で、まぁできるとしたら五歳くらいかな? を基準にして、彼女いない歴二十年。彼女随時募集中です。でも未成年とは付き合えないからごめんね。好きなものは任務終わりの一杯。好きな言葉は塵も積もれば山となる。嫌いなものは……」


 嫌いなもの。あの時、囚俘化しハウンドヘッドになった中年の男の人を思い出した。凍える冷たい軽蔑に満ちた目。怒気も孕んでいたように感じた。怒りを感じるほど諫早さんは独り善がりな人が嫌いなんだと思う。人の話を聞かない人もたぶん嫌いだろうな…………。嫌われないよう、人の話は最後まで聞くことを俺は心に誓った。


「嫌いなものなんてものはないっ。負の感情のものは、たぶんついさっき次元の彼方に置いてきた! ような気がする。だからないっ!」


 胸を張って何いってるんだろう、この人……。


「分からないことや、悩みごとがあれば話してくれ。相談にのるぞ。あと趣味は読書。特技はないかな?」


 諫早さんのテンションが高揚していくが、それに反比例して皆の温度が下がってきている気がするのは気のせいだと無視しておこう。


「これからこの班の班長として、お前たちが成長するまで必ず守る!」


 力強い言葉だった。


「改めまして諫早直斗です。なぜか皆俺を家名で呼ぶから、直斗さんって優しく呼んでくれたら嬉しいです。よろしく!」


 左手は腰に、右手の親指を立てて、片目をつぶってまた皓歯(こうし)が光った。


「……………………………………………………………………………………………………………………」


 地獄の沈黙が支配した。さすがに諫早さんの笑みが引き攣る。


 皆の目が死んだ魚のようになっていた。サイの目でさえ蘇生が必要のようだ。ただ氷雪の双眸だけはさらに輝きを増していた。


「……えぇ~と。はい、周ちゃんお願いします」

「私もやるんですか!?」

「サポートオペレーターは刀使いと一心同体でしょうが」

「そう言っていただけるのは嬉しいのですが……」笑顔が引き攣る「分かりました。では改めて自己紹介をさせていただきます」


 一呼吸。


「極東支部西地区出身の幸村周です。今年で十九歳になります。好きなものは二階にあるカフェテリアのケーキ全般。嫌いなものというより苦手なものは激辛と苦いものです。趣味は美味しいプリンの研究です。これから皆さんのことを全力でサポートさせていただきます。よろしくお願い致します」


 めちゃくちゃ甘党の涼やかな笑顔。頭を下げると黒髪のポニーテールが元気よく跳ねる。


「次はマリさんお願いします」

「ま、また?」


 顔を嫌そうに歪めるマリさんに周さんの無言の笑顔が圧をかける。極東の人は笑顔で押し切ろうとするところあるのかな。


「分かりました。やります!」


 もはや自棄(やけ)になっているように感じる返事だ。


「西支部北地区出身、茅原マリ。今年で十五歳」


 あ、俺と同い年だ。何だか嬉しくなる。


「す、好きなものは……猫」恥ずかしそうに声が段々と小さくなったと思ったら「嫌いなものは煙草と酒癖の悪い人」憎しみが宿った声に変わった。本当に嫌いなんだなと実感する。


「趣味は植物観察です。これから頑張ります。よろしくお願いします」


 最後の方は棒読みになっていた気がするけど、諫早さんが満足そうにうなずいているから大丈夫かな。軽く会釈をしてサイに視線で次を促す。サイがうなずく。


「中央総本部から参りました、卯月サイと申します。好きなもの帽子。趣味も帽子集めです。嫌いなもの特にありません」


 よく似合うふんわりと大きな白い帽子を取り、サイが丁寧に自己紹介していく。


「皆さんの足手纏いにならぬよう精進いたしますので、何卒よろしくお願い致します」


 表情も声音も変化がない。背筋が伸びていて、ただ立っているだけで美しいと感じるのは育ちの良さが出ているからなのだろうか。腰から上体を三十度倒した一礼の所作も手本のような美しさだった。


「次は私ですね」


 両手を胸元に置いて一回深呼吸をする。宝石のような翡翠の瞳が皆も顔を見回す。


「西支部総括司令本部から来ました。ティリエラ・ニィニです。好きなものは果物の苺と可愛い小物です。嫌いなものは虫で、特に茶色と黒のカサカサ動く虫が苦手です」


 金糸のような長い髪を指に絡め、白い頬を薄紅色に染めて続ける。


「趣味はお菓子作りで、得意なのはクッキーです。一生懸命頑張りますので、ご指導ご鞭撻(べんたつ)のほどよろしくお願いします」


 輝く金色の髪が流れ、大輪の花の笑顔が現れる。俺と目が合うと照れ隠しのように手を小さく左右に振った。何だかこっちも照れてしまう。


「次、お願いします」


 ティリエラが隣の赤髪の少女の顔を覗き込む。ティリエラと背丈が同じくらいだが、幼く愛らしい顔立ちが十代前半のように思わせる。


 幼い少女は両手を腰に、可憐な顔には挑戦的な笑みを浮かべた。


「やっと俺の番か」

「っ!?」


 低く掠れた声に全員が驚きのあまり赤毛の少女を注視する。注目の的になった少女はこの反応に慣れているようで、舌打ちをして吐き捨てるような溜息を吐いた。


「俺の声に何か文句でもあんのかよ」

「いや、すまない。失礼だったね。可愛らしい顔からダミ……じゃなくて、酒焼けのような低い声が出るとは思わなかったからね」

「男を可愛いってゆんじゃねぇよっ。母親似でしょうがねぇだろ!」

「え、ええっと、男の子、なの?」

「はぁ!? どう見ても男だろがっ!!」


 ティリエラの言葉に(いと)わしげに鼻の上に(しわ)をよせ、群青色の目が睨む。「ごめんなさい」とティリエラの小さな声が聞こえた。


「それに酒焼けって、俺はまだ十六になったばっかだし、酒は二十歳からだろうが。だいたいそんな高級品が飲めっか!」

「えっ、私と同い年!?」


 年上だったぁぁぁぁ! そしてコイツ絶対良い奴だ。


 少女のような少年にまた睨まれたティリエラは両手で口を紡いだ。赤毛の少年は面倒くさそうに頭を掻いて、首にかけていたヘッドホンを外す。


「うっせいな。囚俘に喉を掻っ切られた時に喉が潰れたんだよ」


 少年の細い首を横断する切り裂かれたような傷跡に息を飲み黙り込む。


 気まずい沈黙が支配する中、諫早さんが前に出る。少年のヘッドホンを首にかけ戻し優しく微笑む。ヘッドホンで傷跡が隠れる。


「すまないね。嫌な思いさせたかな?」

「別に。そんな器の小せぇ男じゃねぇよ」

「ありがとう。じゃ、自己紹介頼むね」

「うっす。俺はカイル。カイル・バルカス。極東支部北地区出身」


 何事もなかったようにカイルは腰に両手を当てて、薄い胸板を張る。


「好きなものは、ついさっきできたっていうか。その一目惚れっていうやつで……」


 急に歯切れが悪くなるカイルがチラチラとサイを見る。

 分かりやすい……。てか、一目惚れっていってるし。俺を睨んでいたのはそういうことだったのか。

 さっきまでの気まずさが浄化されて、消えていく。


「嫌いなものは女々しい奴と意見のない奴。趣味は探索や機械いじりで、簡単なものなら直せるぜ」


 ティリエラとそう変わらない背丈だが、隣にいる長身の男のせいで背がさらに低く見えてしまう。女の子のような愛らしい顔をした少年が得意げに鼻を鳴らす。


「手先が器用なんですね」

「ま、まぁな。そのくらい男なら当たり前だろ」


 ティリエラに急に褒められて照れながらもさらにない胸板を張る。


「よろしく頼むわ」


 少女の顔で男臭い笑みを見せる。「次、よろ」と隣の男へ次を振る。


「……………………」

「おい」


 反応のない男にい苛立ちはじめるカイルは敵意の眼で、頭二つ分ある長身の男を見上げる。黄金色の髪の男は、憂いに満ちた切れ長の眼で真っ直ぐ前を見据えていた。


 俺と同じ赤い瞳だ。


 その目線を追って見つめる先を見てみたが、別段気になるものなどなかった。自動販売機かな?


「おいって!」


 カイルの左肘が男を小突くと、上半身が前後に揺れた。

 揺れて、揺れて、揺れて止まった。男は何かを探すように視線が彷徨う。そしてゆっくり目鼻立ちの整った顔がカイルの方へ向き、じっと見つめる。鮮血の赤い眼がカイルを睨んでいるようにも見える。


「な、何だよ。やろってのか?」


 肘で小突いたことに男が怒っているのかと思い、カイルが両手を拳に構え戦闘態勢をとる。


「……寝てない」

「はぁ?」


 カイルから間抜けな声が漏れる。


「そんなこと聞いてねぇよ! てか、寝ていやがったのかよ!」

「いや、寝てない」

「すぐバレる嘘ついてんじゃねぇよっ」

「いや、寝てない」


 金髪の男は頑なに否定する。「その証拠に……」褐色の人差し指が諫早さんを指し示す。


「諫さん」

「い、いささんって……。初めての呼ばれ方」


 諫早さんを指差していた手が翻り手の平を見せる。手は優雅に周さんを示す。


「あまさん」

「あまさんっ!? 何か嫌ですそれ」


 周さんの嘆きを無視してそのまま手が隣を示す。


「マリ。サイ」


 名前を呼ばれたマリがうなずき、サイが目礼をする。優雅な所作で手はティリエラを示す。


「ティリ」

「えっと、よろしければ私のことはティラと呼んでください。西支部で親しい人たちにそう呼ばれてましたで」


 笑顔のティリエラに長身の男がうなずく。うなずいた男がきょろきょろと周りを見て何かを探していた。「あっ」と何かに気づいて視線を下に向ける。紅玉の瞳と蒼玉の瞳が出会う。


「てめぇ……」


 カイルの額に青筋が浮かぶ。


「カ……。バカ?」

「マジでワザとだったら殺す」


 怒りを堪えた声が震えていた。身体も少し震えている。子犬がぷるぷる震えているみたいだ、なんて言ったら本当に殺されそうなので黙っておく。


 男の赤い眼がカイルを見つめ、静かに時が流れる。数秒の沈黙の時が流れ、男は首を傾げた。頭の上には疑問符。


「やっぱてめぇ、寝てたじゃねぇかっ!」

「いや、寝てない……が?」


 終わりが見えない不毛のやり取りにカイルが不憫に思えてきた。


「あ~はいはい。赤毛の彼はカイル・バルカスね。ちゃんと覚えようね。カイルも沸点低いぞ? 器のデカさどこいった?」


 諫早さんが幼い子供をあやすように仲裁に入る。男はうなずき、カイルは必死に怒りを静めていた。


「よし、偉いぞ。では続きをどうぞ」

「あ、自己紹介……だっけ?」


 その場にいた全員がうなずいた。


「ギルフォード・レヴァン・ラーグ。面倒だからギルでいい。十八になる。中央総本部から来た」


 囁くような声でギルフォード、ギルが言葉を紡いでいく。


「好きなこと、二度寝。嫌いなこと、急かされること。趣味昼寝。特技は立って目を開けたまま寝ること」

「特技発動してたじゃねぇかっ!!」


 間髪入れずにカイルの怒号の突っ込みが飛んだ。カイルを見下ろすギルフォードは静かに吐息を吐いて「寝てない。気のせいだ」と言い切った。さすがにカイルも「もういいです……」と疲労感に肩を脱力させて諦めた。


 カイルが不憫だ。


「あっ、こらっ、ちょっと待ってっ!」


 聞き覚えのある男の人の声が自動昇降機広間(エレベーターホール)から響き渡った。振り返るとそこには、視界を埋め尽くす白いもふもふしたものが俺の顔めがけて飛び込んで来た。顔面に温かい肌触りのいい毛が張りつく。そしてその毛玉は「みゃー」と鳴いた。


 ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?

「え? えええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇxぇぇぇぇぇっ!?」


 俺の内心の叫びと、隣にいる灰紫の少女の叫びが重なる。


「し、しーちゅ!?」

「みぃ~」

「ダ、ダメだよ、人の顔に張りついちゃ」


 少女が慌てて何度も「すみません!」「ごめんなさい!」と謝りながら毛玉を俺の顔から引き剥がす。首根っこを摘ままれた金麦色の毛玉、もとい虎柄の子猫は四肢をぶらりとさせて嬉しそうにまた鳴いた。


「もぉう、しーちゅってば。……何でここにいるの?」


 少女は戸惑いと疑問を口にしながら子猫を抱きかかえる。子猫は嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしながら頭を少女の豊かな胸に擦りつける。


 急な子猫の登場に不機嫌そうだったマリの瞳が宝石のように燦然と輝く。


「良かった。まだここにいたか」


 自動昇降機広間から台車を押しながら、ヘリの副操縦士宮辺(みやべ)さんが手を振りながらこちらへ向かっていた。台車には布が掛かった正方形の荷物が乗っていた。荷物が揺れないように押さえていた主操縦士の関田(せきた)さんと目が合った。気まずさに音速で目を逸らしてしまった。


 あ。やばい。


 怒気を孕んだ足音が石床を踏みならす。重苦しい音が俺の方へと近づいてくるのが分かる。自己防衛本能による反射運動で目を逸らしてしまったことを嘆くしかない。


 自分が招いたことだ。誠意を込めて謝るんだ、俺!


 意を決して顔を上げると、怒りに爛々と輝く黒曜石の瞳があった。身体が石化したように硬直した。血に汚れた俺の姿を見てさらに怒気の温度が上がったような気がした。


「君は……」

「すみませんでしたっ!」

「無事でよかった!!」


 下げようとした頭を関田さんの腕が包み込み、胸に押し当てる。力強く抱きしめていた腕や身体は微かに震えていて「よかった……」と呟いた声は安堵に満ちていた。


 何で?


 罪悪感が胸に広がり痛みを生む。それと同時に極大の疑問符。


 何で、会ったばかりの人間にを、どんな奴かも分からない俺を、こんなにも心配して……。

 まるで長年の友のように、家族のように……どうして?


 疑問に思いながらも俺の手は縋るように関田さんの腕を掴んでいた。


「ごめんなさい……」


 幼い子供のように謝っている自分がいた。

 強く抱きしめていた腕が解かれる。顔を上げると、安心して力が抜けた関田さんの泣き崩れそうな微笑みがあった。額を軽く小突かれた。


「諫早さん、本当にありがとうございます」


 深く頭を下げる関田さんに、諫早さんの顔は悲痛に歪んでいた。だがその顔を関田さんに見せないように、すぐに笑顔に変わっていた。


「頭を上げてください。俺はアリス司令の命令に従っただけですよ」

「関田さ~ん」


 宮辺さんの情けない声が後ろからあがる。ゆっくりと荷物が揺れないよう台車を進ませていた。


「あぁ、そうだった」


 目線が隣の少女に移る。


「君の大事な、もう片方の子がゲージからなかなか出て来てくれなくてね。ちょっと困ってて連れて来たんだけど……」

「すみませんっ! か、噛みませんでしたか?」

「それは大丈夫。ちゃんと警告してくれてね。それ以上近づいたら噛み殺すって唸って、怯えちゃったみたいで、どうにもね……」

「すみませんっ! えっと、ええっと……」


 関田さんに勢いよく頭を下げて、子猫を抱えて右往左往と何かを探すように慌てているようだった。困った氷雪の瞳と眼が合い「しーちゅをお願いします!」と子猫を勢いよく手渡され、流されるように受け取っていた。子猫は離れたくなかったようで、少女を求めて前脚をばたつかせるが、走り去ってしまった少女を見て諦めの切ない声で小さく鳴いた。そして俺を見上げて、何故受け取ったのかと言わんばかりに、愛らしい金色の大きい瞳が睨みつける。


 そんな可愛い眼で睨んでもと、子猫の愛らしさに口元が緩んでいたら、不機嫌になった子猫が顎に高速猫パンチ連撃!


 爪はきれいに切り揃えられていて、顎にあたるのはぷにぷにの肉球。柔らかい肉球の感触が気持ちいいので、されるがままにしておいた。可愛い♪


 台車に乗った荷物の駆け寄る少女は宮辺さんに丁寧に頭下げ謝っていた。


 少女が荷物に掛かっている布を持ち上げると中にいる何かが驚いたのか、大きな音を立てて左右に揺れた。


「大丈夫。私だよ」


 小柄な体がガタガタ揺れる、大人一人が入れる荷物の中へと這い入って行く。少女の姿を認識したのか、どこかで聞き覚えのある甲高い声が切なく響く。


「ごめんね。もう大丈夫だから。もう一人にしないからね」


 慈母のような優しい声音が落ち着かれるように囁く。

 布を持ち上げて少女が荷物から這い出てくる。その横に寄り添うのは、赤い首輪をした白銀の美しい毛並みの四足獣。


 犬だった。


 いや、待て。本当に犬なのか? ヘリの中で聞いた声は犬とは思えない声だったんですけどっ!?


 疑問と不信を抱く俺の隣へ、少女とリードで引かれた犬が並ぶ。


「ありがとうございます。ご迷惑をお掛け致しました」


 関田さんに丁寧にお礼を述べる。


「いや、良かった。怖い思いをさせてごめんな」


 四肢が長く美しい顔立ちの犬に話しかけるが、犬は少女の後ろへと身を隠しながら唸る。申し訳なさそうに眉根を寄せて少女が微笑む。


 子猫が俺の手の中から跳躍して少女の肩に着地。嬉しそうに甘えた声で鳴く。


「しーちゅをありがとうございました」

「可愛い名前だね」


 少女は白雪の頬を紅潮させて、嬉しそうに微笑んだ。ヘリでフードを目深く被って恐怖に震えていた子と同一人物とは思えないほど自信に満ちていた。


「諫早さん、お話中に申し訳ない」

「大丈夫ですよ」

「ありがとうございます。持ち場に戻ります」


 関田さんの右手が俺の頭に乗せられる。


「無理はするなよ」


 優しい大きな手が頭を撫でる。関田さんは諫早さんに頭を下げると、宮辺さんの元へと歩み出す。二人は話しながら自動昇降機に向かう。


「関田さんには四つ年下の弟さんがいてね」


 去って行く関田さんの背中と見つめながら、諫早さんはポツリと呟いた。


「諫早さん……」


 小型の端末を強く抱きしめる周さんの表情が曇っていくのが分かる。その顔を俺は知っている。どうやらカイルも気づいたようだった。何かを言おうとして開いた口は、固く閉ざされた。


「生まれつきの核持ちで刀使いになった人なんだ。誰にでも優しくて気さくで、少しおっちょこちょいなところがあるけどね。そんな弟さんを心配して関田さんは核無しでも刀使いの側で仕事ができる輸送班になったんだ」


 諫早さんの優しい声音に戸惑う。


「弟さん。いや、祥吾(しょうご)は仲間を庇って、十日前に亡くなった」


 宮辺さんと笑い合う関田さんの背中へと走り出しそうになったのを拳を強く握り締め、耐えた。


「なっ何で、今そんな話をするんですか。これから刀使いになる私たちを不安にさせたいんですか?」


 険のある橙色の瞳が、諫早さんを責めるように睨みつける。


「マリさん違うの。諫早さんはそんなつもりで……」


 周さんの肩に触れ、諫早さんは静かに首を左右に振った。周さんは無理矢理自分を納得させるよう顎を引いてうなずいた。


「すまない、不安にさせたね。でも覚えていて欲しい。死ねば誰かを悲しませることを……」


 それぞれ家族や恋人、友人の顔が浮かんでいるのだろうか? 痛切な沈黙が続く。


「だから今日、とんでもない心配をかけた元気っ子は要注意です」

「げん……?」

「きっこ?」

「元気っ子?」

「え、何? ダサ」


 いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああっ!!


 俺は天を仰いで両手で顔を隠した。羞恥に全身が熱くなる。口と耳から血が噴出しているのではないかと幻覚に襲われる。


 カイルが吹き出し大笑いしていた。人を指差すなっ。

 マリとティリエラ、隣の少女は笑ってはいけないと手で口を押さえ我慢して震えていた。その気遣いが辛い。

 サイとギルフォードはきょとんとしていた。表情が変わらないところとか、二人の雰囲気は少し似ている。ただギルフォードは寝ている可能性が高いが。


「はい。反省しています」


 一瞬で場の空気が変わった。俺という犠牲のもと死にゆく空気が活性化していく。多大な心配をかけた罰として、これは耐えなきゃいけない。耐えなきゃいけないんだ……よね?


 全身から発せられる熱と流血の幻覚に襲われ、目眩がしてきた。


「ではでは、自己紹介の続きをどうぞ」


 諫早さんが促す。


「はい。家族も紹介できるので嬉しいです」

「家族?」

「はい、雪と氷の北支部司令本部から来ました。ユエラウです。家名はありません。ただのユエラウです。よろしくお願い致します」


 灰紫の髪色の少女ユエラウはしゃがみ込み、隠れていた白い犬に寄り添う。


「次女の美夕(みゆ)です。好きなものはササミジャーキーです。嫌いなものは家族以外の人です。特に不用意に近づいて来る人と、あと猫です。美夕は人見知りが激しいので不用意に触ろうとすると噛むかもなので、注意していただけると嬉しいです」


 ティリエラが軽く右手を挙げ、疑問を口にする。


「あの、猫が嫌いなのに一緒に飼っていて大丈夫なんですか?」

「飼う?」不思議そうにティリエラを見つめる。「家族です。美夕は小さい頃、猫に虐められて嫌いになってしまったんですけど、しーちゅとは家族なので大丈夫です。よく喧嘩はしますけどね」こちらが微笑ましくなるくらい嬉しそうに話すユエラウにとって、犬の美夕と子猫のしーちゅはペットではなく、言葉どおり家族なんだ。


 ヘリでおどおどと喋っていた子とは思えないほど饒舌(じょうぜつ)に話すユエラウが、立ち上がって続ける。


「肩にいるのが三女のしーちゅです。好きなことは遊ぶことで、人懐っこいです。嫌いなのは爪切りです。まだ美夕みたいに自分では整えられないので」


 嬉しそうに楽しそうに話すユエラウが微笑ましい。


「しーちゅと遊んでくれると嬉しいです」

「うん、妹たちのことはよく分かったよ。ありがとう。で、ユエラウ自身の好き嫌いは何かな?」

「え?」

「ん?」

「わ、わわわわわわた、私は、その……」


 自分のことになると途端に怯えたように震え出す。小動物が大型の肉食獣に睨まれて震えているようにも見える。犬の美夕が心配そうに「くぅ~ん」と鼻を鳴らす。


「私はその、つまらない人間なので……」

「つまらないかどうかは自分で決めることじゃないよ。まぁ他人が決めることでもないけどね」


 うつむくユエラウに諫早さんが優しく指摘する。深い氷雪の瞳が不安に揺れる。


「…………す、好きなものは動物です。嫌いではなく苦手なのは大きい声の人です。びっくりするので苦手です。特技とか趣味はありません」沈んでいく声音。最後にさらに小さい声が「あ、今年で十五になります」と消えていった。


「うん、ありがとう」

「あの、あ、あとっ!」勢いよく身を乗り出す。「あと、友達百人できるよう頑張ります!」

「お、おう。友達百人かぁ、凄いな。頑張れ!」

「はいっ!」

「友達が多いのは良いことだが、でも俺は百人友達つくるより、少数でも気兼ねなく何でも話せて相談もできる親友をつくったほうもいいと思うな」


 友達百人いても全員の顔と名前を覚えられるかな……? 俺には無理だ。顔見知り程度になってしまうし、どんな人かも覚えていられる自信はない。百人と毎日会って話をすれば覚えていられるだろうか?


「それは、あの、愛称とかで呼びあってしまう仲ということですか?」

「いや、それ以上の関係だ」


 黒い不安が宿っていた氷雪の瞳が、きらびやかに色を取り戻し輝く。頬は興奮に上気して赤く染まっていた。


「はいっ。頑張りますっ!」


 意気込むユエラウに諫早さんが右の親指を立てて笑ってみせる。


「デカいな……」

「へ?」

「おまっ、どこ見てんだよ! デリカシーってもんがないのかよっ」


 ギルフォードの呟きにカイルが顔を真っ赤にして怒号をあげる。怒鳴られたギルは首を右へ傾ける。切れ長の赤い瞳には疑問の色。確かにユエラウの胸は豊かに発育していて大きい。


「どこって……」


 ギルの褐色の人差し指が指し示す方向へ追っていくと、俺たちを警戒しながらもユエラウの影に身を隠す美夕がいた。


「白い狼? 中型犬にしてはデカいと思ったから」

「え? あ、そ、そそそそうですね!」ユエラウも自分の胸部のことを言われたのだと勘違いしていたらしい。耳まで紅潮させ恥ずかしさのあまり沸騰していた。俺もごめん! これは男という名の不可抗力というものです! 恥ずかしいっっ!!


「アンタこそどこ見てんのよ。この変態」

「最低です」


 マリとティリエラの嫌悪が孕んだ軽蔑の視線に「ち、違うっ! これは違うんです!」とマリにではなくサイに、なぜか敬語で弁解し始めるカイル。サイはそんなカイルをまったく気にもせず、どこを見ているのだろうか?


「似ていますけど美夕は狼ではないですよ。狼、あと狐とか山羊とか、よく間違われます。小さい子に羊と言われた時は驚きましたけど」


 その時のことを思い出したのか、美夕を見つめながら笑う。まだ顔が赤い。


「美夕は中型犬の柴犬(しばいぬ)と大型犬のサモエドとの子供で、普通の中型犬より少し大きいと思います。耳と首周りのふわふわした毛並みがサモエド。顔つきなんかは柴犬っぽいです」

「そうか、綺麗だな」

「ありがとうございます」


 犬種のことはよく分からないけど、中型犬にしては大きな子ということは分かった。よく分からないけどっ。ユエラウが嬉しそうだから良いことにする。


「わ、私のことは……これで以上です……。よろしくお願いいたします」


 恥ずかしそうに俯く。不安に満ちる瞳が、俺を見つめる。俺はうなずいて最後を引き受ける。


「南支部出身のリュウです」


 俺の出身地を聞くと、カイルにマリ、ティリエラの顔が驚きの表情となる。表情の変化に乏しいサイとギルフォードでさえ驚きに俺を見つめる。ユエラウだけは知らないようで皆の反応に戸惑っていた。


 南支部はもうない。


 一ヶ月前に囚俘の総襲撃にあって滅んだ。生き残ったのは俺を含む数人程度だ。


 俺の出身地を聞けばこういう反応が返ってくることくらい予想していた。だけど、やっぱり目の当たりすると、辛いな。


 嘘ではなく。夢でもなく。現実。本当に南支部は滅んだんだ、と思い知らされる。


 ゆっくり深呼吸をして俺は続ける。


「家名はユエラウさんと同じでありません。好きなものは蜥蜴(とかげ)の干し肉で……」

「え……?」

「マジで?」

「うん、マジです。保存食にもなるし、美味しいよ?」


 あれ? もしかして……引かれてる?


「さすがに、ないわ……」

「支部で配給があったし、蜥蜴とか食べなきゃいけないほどお金がないわけじゃなかったから……」


 カイルとマリの言葉に、俺は気づかされる。南支部の食料事情は逼迫(ひっぱく)していたんだと。砂漠地帯が多く、あまり雨が降らない。乾いた大地に、水も限りがあったから植物が育ちにくい環境ではあったけど、トマトとサボテンは良く育ってたし、毎日動物の狩りに出て……。


 あれ? 最早そこが他の支部とは違うのでは? 配給ってなんだ?


「まぁ、人の好き嫌いはそれぞれだからな。同じものだったら嬉しいし、違うものだったとしても、それはそれで面白いと思わないか?」


 諫早さんの問いかけに「まぁ、だよな」「ただ驚いただけだから」「人間同じだけじゃつまらないってやつですね」と言葉を交わす。


「嫌いなものはなんですか?」


 ティリエラが先を促す。


「特には、ないかな」


 笑っておく。この空気で、嫌いなものがあったら生きていけなかったなんて言ったら、さらに引かれるだろうから、余計なことは言わないほうがいいよね。


「特技というほどではないけど料理かな。材料と、ある程度作り方が分かれば何でも作れると思う。趣味は今のところないです」

「特技が料理って素敵ですね。お菓子とかも作れますか?」

「うん。よくクッキーとか作った」


 ティリエラの翡翠の瞳が輝く。両手を合わせて「今度一緒に作れたら嬉しいです」と言ってくれた。

 うわぁ、照れる。またうなずくことしかできなかった。


「よし。一通り自己紹介できたかな」


 諫早さんが一人一人の顔を確認するように見つめて、うなずく。


「周が始めに言ったように、俺を含め、ここにいる八人が遠征隊第八班としてこれから囚俘と戦っていく」


 弛緩していた空気の中に緊張の糸が張り巡らされていく。誰かが唾を喉へ嚥下する音が聞こえた。


「早く互いの背中を守れるようになって欲しい」


 俺は力強くうなずく。


「本日の予定は医療室でメディカルチェックとパスコードの登録。極東支部の施設の案内となっております」


 周さんが小型端末を操作して予定を確認していく。


「明日からの予定を先にお伝えしてもよろしいでしょか?」

「そうだな、緊張して眠れないといけないからな。頼む」

「はい。明日からの予定は刀使いとしての基礎講義。サイさん、ティリエラさん、ギルフォードさん、ユエラウさんは見習い刀使いとして講義を受けていると思いますが、極東では所属異動の方は全員新人扱いとなり講義を受けていただきます」


 サイ、ティリエラ、ギルフォードがうなずく。ユエラウは何故が気まずそうに視線を逸らした。


「その後の数日は、訓練場での基礎体力向上のための訓練となります」

「刀使いは基礎体力が高いほど、刀を抜いた時の身体強化が飛躍的に上がる。だから基礎体力強化が大事なわけ」


 周さんの説明に諫早さんが言葉を足す。


「あの、パスコードって何ですか?」


 右手を軽く挙げ、俺は疑問を口にする。


「パスコードとはパスワードコード。各種ロックを解除するキーコードとなります」


 右手の平を掲げて見せる周さんに、全員が注視する。


「両手の指紋と毛細血管の形を登録します。指紋と毛細血管は人それぞれ形が違いますので、個人識別に便利ですし、閲覧年齢アクセス制限、クラスアクセス制限の管理も楽にできますので」

「そそう、エッチな動画や書籍などは十八歳になってからだからね」


 諫早さんの軽口に皆の目が死んだ魚のようになっていた。女子たちの冷え切った軽蔑の視線が諫早さんを刺し貫いている。幻視だろうか、氷結の視線の槍に刺し貫かれた諫早さんが吐血した。


「え、ええーっと、自室にこれと同じパット型の端末があるのですが」周さんが手に持っている小型端末を示す。「閲覧制限はありますが、ご自由にお使いください。囚俘の情報や極東の現状とお知らせ、動画サイト、電子書籍など、ノルン記憶媒体が保有しているものであれば何でも見ることができます」

「ノルン記憶媒体ってのは、確かスーパーコンピューターの?」


 カイルが自身の記憶を検索しながらの発言に、周さんから元気な返事が返ってくる。


「はいっ、我が極東が誇るのスーパーコンピューターが作り上げた人工知能AIのノルン三姉妹です」


 形の良い小鼻を膨らませ、誇らしげに胸を張る周さんが可愛らしいと思ってしまった。年上の人に対して失礼だとは思うけど、仕方ない。


「北欧神話の過去、現在、未来を司る、運命の女神の三姉妹のことですか?」

「ティリエラさんは神話に詳しいですか?」

「いえ、詳しいという訳ではないのですが。西支部には神話や妖精、魔法の話の書籍が多く残っていて、言葉として聞いたことがある程度です」


 女神の名を持つ人工知能AI。何かよく分からないけど、凄そう……。よく分からないけど。


「世界に囚俘が現れた時にスーパーコンピューターが危機を警告して作り上げた、情報を記録することに特化したAIだそうです。過去の情報をウルド。現在をヴェルダンディー。そして未来をスクルドが管理しています。端末にアクセスする時はノルン三姉妹に検索したいこと、見たいものなどを聞くと答えてくれたり、情報をまとめて分かりやすくしてくれます」

「自室にいったら話しかけてみれば分かるよ」

「それでは移動しますね。まずは極東の施設案内と思いましたが、リュウさんにサイさん、諫早さんは戦闘を行なったのでメディカルチェックを受けないといけませんので、始めに医務室から案内しますね」


 自動昇降機の方へ歩を進める周さんの漆黒の長い髪が流れる。その後ろを諫早さんが穏やかな笑みで歩む。そして俺たちが追随(ついずい)していく。期待に胸を膨らませる者、緊張している者、不安に顔を歪ませる者とそれぞれの表情で。


 俺は不安に足が止まる。南支部との大きな違いに戸惑い、それと同時に悲しみと怒りが俺の中にあった。


 もし、南支部が極東支部のように高く頑丈な壁に設備、刀使いを攻守で分けられるほど揃った人員。補佐に配給などがあれば、毎日支部の外に出て無駄に囚俘と戦わなくてすんだのかも知れない。


 なぜ南はそんなに、そんなに毎日が必死だったんだろうか?

 なぜ他の支部からの、いや中央総本部から支援を受けられなかったんだろう?


「リュウ?」


 大きな翡翠の瞳が俺を覗き込んでいた。下から見上げる宝石のような輝きを放つ瞳が、心配の色を孕んで曇っていた。


「大丈夫ですか?」


 ティリエラの黄金の長い髪が、首を傾けた右へと煌めきながら流れる。


「だ、大丈夫っ。ちょっと考えごとしてて……」


 体温が急激に上昇した。顔が熱いのを感じる。いつの間にか強く握り込んでいた両手から力が抜ける。


「よかった。行きましょ」


 白皙の細い右手が差し出される。白い頬を薄紅色に染めて、大輪の花のように微笑むティリエラが先へ進むことを促しているように、俺には聞こえた。


 やめよう。もしものことを考えるのは。考えてもあの日には戻れない。


 差し出された繊細なティリエラの手を、俺の褐色の左手が掴んだら壊れてしまいそうで、伸ばしたその手を引き戻した。が、ティリエラが俺の左手を包むように両手で掴んだ。


「逃げないでください」


 恥ずかしそうに照れた笑みを浮かべるティリエラが真っ正面から見上げてくる。強く握られた両手から熱が伝わる。さらに体温が上がるのを感じる。


 行き先を導くように俺の左手を引いてティリエラは皆の背を追って行く。後ろへと流れる金色の髪、花の匂いが俺の鼻孔をくすぐる。女の子に手を引かれていることに羞恥心が芽生え、ティリエラの隣に並ぶ。俺より少しだけ背の低いティリエラが横目で俺を見つめ、視線が出会う。くすぐったそうに笑うティリエラにつられたんだと思う。気づいたら俺も笑っていた。



  ******



 自動昇降機(エレベーター)内は静まりかえっていた。言葉を発する者は誰一人としていなかった。それだけ疲労しているということだ。パスワードコードの登録は両手をスキャンするだけで簡単だったけど、医務室でのメディカルチェックが大変だった。血液検査に身体測定、心音と<核>の鼓動音を同調させた音を登録するために、刀を抜刀せずに同調させることが難しかった。それのせいで皆疲弊している。時間も相当かかったみたいで、窓から見えた空は茜色に染まり、夜の帳が下りはじまていた。


 その後の極東支部の施設案内は意識が朦朧(もうろう)としていて、正直覚えていない。あとで確認しておかないと。


 機械で合成された女性の声がニ十一階に着いたことを告げると共に軽い電子音が鳴る。自動昇降機が止まり扉が開く。疲れた顔で開いた扉に近い人から降りていく。自動昇降機広間(エレベーターホール)には飲料の自動販売機に長椅子(ベンチ)が置いてあり、簡素な休憩スペースとなっていた。左右に長い廊下が続いている。


「皆さん、お疲れ様でした。本日は以上となります」


 元気な笑顔を見せる周さんの隣に諫早さんが並ぶ。


「ここの上下階が新人フロアで、二十一階がお前たちの自室の階だ。右の廊下を進むとネームプレートに名前があるから確認してくれ」


 諫早さんの左の親指で右の廊下を指し示す。


「すでに自室には荷物が運ばれていますので、そちらの確認もお願いしますね。何か足りないものがあったらご連絡ください」


 手元の小型端末を操作し「お部屋のカギは登録したパスコードで開錠です」右の手の平を見せる。「オートロックなのでカギの閉め忘れがなく、無断侵入もできないので安心してくださいね」

「だから男女一緒のフロアなんですね」


 ティリエラが納得の声をあげる。


「え、でも開錠した瞬間に押し込まれたら意味なくねぇ?」

「何? する気なわけ?」

「阿呆がっ! するわけねぇだろっ!」


 マリの絶対零度の声音と視線にカイルが小型の猛犬のように噛みつく。「そんな卑怯者は男じゃねぇよ」とサイを見ながら呟いた。うん、誤解されたくないんだね。温かく見守っておこう。


「大丈夫ですよ。そんなことしたら風紀の守護者が二度とそんなことができない体にしてくれますから」と恐ろしいことを満面の笑みで告げる周さん。その隣では顔を青くした諫早さんがいた。


「風紀の守護者?」

「はい、とっても素敵な方ですよ。誰にでも優しくって、綺麗で強くて、私の憧れの人です」


 憧れというより、恋い焦がれているように見えた。頬を薄紅色に染めて「早く皆さんに紹介したいです!」と深海色の瞳を輝かせる。恋する乙女の笑顔の周さんの横で、屍蝋(しろう)のように血の気を失った諫早さんが乾いた笑声をあげていた。声が硬い。


「……まぁ、おいおい先輩の刀使いたちを紹介していくね」

「明日は朝八時に、一階の自動昇降機広間に集合してくださいね。遅刻は厳禁ですよ」

「刀使いは時間厳守が基本だからな。遅刻した奴は罰ゲームがあるからそのつもりで」

「それは、あの、廊下に立ってろってやつですか?」


「え?」「ん?」「は?」ユエラウの言葉に皆が疑問の顔となる。その反応にユエラウ自身も疑問の顔となる。俺もそれがどういう意味なのか分からない。廊下に立つことが罰ゲームということなのか?


「いや、それは罰ゲームではなく、ただの罰だな」指摘してユエラウに笑いかける。「ちなみに、そんなことはしないからね」

「え……。あの、す、すみません」


 恥ずかしそうに俯くユエラウはどこか残念そうにも見えた。


「そんじゃ解散」

「しっかり休んでくださいね」


 手を振る周さんと諫早さんを背に右側の廊下を進んでいく。七人の重たい足取りの音が廊下に響く中に、軽快な音が混ざる。犬の美夕(みゆ)の爪が床に当たり音を響かせている。規則正しいテンポが何だか心地良い。俺の目線に気づいた美夕がユエラウの影に隠れた。警戒は厳重です。仲良くなるには時間がかかりそうだ。


「あ、私の部屋ここみたいです」


 扉にはネームプレート。そのネームプレートにはユエラウの名が刻まれていた。木製に見える扉には、ドアノブや取っ手といった物がまったくついていなかった。自室の扉の前で困惑するユエラウ。俺たち困惑する。部屋のカギを開錠するパスワードコードの入力は、どこで、どうすればいいのか分からなかったからだ。扉にはネームプレートのみ。他に何か気になるところもない。

 ユエラウの隣へカイルが歩み寄る。


「何だよ、開けかた知らないのか?」

「は、はい……」

「だよな。これ極東の奴じゃないと分からないんじゃねぇの」


 カイルの人差し指がネームプレートを押す。ネームプレートの下、木製に見えた扉から長方形の液晶画面が現れた。液晶画面の中心には赤い線が縦に伸びていた。


 ハイテクっ!!


「この画面に手、当ててみ」


 怖ず怖ずとユエラウの右手の平が液晶画面に触れてみると、カギが開錠される機械音と共に部屋の扉が自動で開いた。


 自動っ! ハイテクっっ!!


「あ、ありがとうございます」

「別に。まぁ、分からないことがあったら聞いてくれや」


 ユエラウの感謝の言葉に素っ気ない返事をしたカイルだが、少し得意そうだった。鼻の穴がヒクっと動いたのを見逃さなかった。


「はいっ、ありがとうございます。ではお先に失礼します」


 深々と頭を下げて丁寧に一礼するユエラウに手を振る。顔を上げたユエラウは恥ずかしそうに小さく手を振ってくれた。嬉しくて互いに笑顔になる。


 ユエラウと別れて先へ進んで行くと、俺の名前が刻まれた扉があった。ユエラウの次が俺の部屋だった。


「ここがリュウの部屋ですね」


 ティリエラの白磁(はくじ)の指先がネームプレートを指す。


「さっきのとおりだかんな」

「うん、ありがとう」


 先程カイルがやったように、自分の名が刻まれたネームプレートを押すと、扉から長方形の液晶画面が現れる。液晶画面の中心には縦に伸びる赤い線。右手の平で液晶に触れると、開錠音と共に扉が右へスライドして自動で開いた。


 ハイテクっっっ!!


 扉の先には薄暗い部屋が広がっていた。


「リュウ、今日は本当にありがとうございました。これからよろしくお願いしますね」


 ティリエラが繊手な左手を差し出す。強く握ったら簡単に砕けてしまうような細い手。だから慎重に優しく。俺の右手がティリエラの左手を握る。


「うん。これから一緒に頑張ろうね」


 一瞬、ティリエラが困ったような表情をしたような気がしたが、掻き消すように花の笑顔を見せる。疲れが出ているんだろう。早く休んでもらおう。


 それぞれに別れの言葉を交わし自室を探しに先へ進んで行く。俺の隣は茅原(ちはら)マリ。その隣はカイル・バルカス。さらにその隣はギルフォード・レヴァン・ラーグ、卯月(うづき)サイ、そして最奥の部屋がティリエラ・ニィニの自室となっていた。


 部屋のカギを開錠して入って行く。俺も開けたままになっている自室の部屋と入る。部屋に入ると自動で扉が閉まったことにビビる。


 ハ、ハイテクぅ……。


 部屋はワンルームだがかなり広い。落ち着いた雰囲気の無彩色(モノトーン)で統一されていて、簡易的な仕切りで部屋の区画を別けていた。居室は広く、革張りの三人掛け応接椅子(ソファー)と二人掛けの応接椅子が置かれ、テーブルを囲んでいる。壁には三十インチくらいのテレビが掛かっていた。えっ薄すぎない? これ映るの?


 二口(ふたくち)コンロの小さなキッチンに小型冷蔵庫。ドアを隔ててトイレとシャワー室。一人で寝るには大きすぎる寝台(ベッド)。三人で寝ても大丈夫なくらいデカいんですけど。しかも程よくバネが効いていてふわふわですっ!


 本当に、ここを一人で使っていいの?


 なぜが不安に駆られ一度部屋を出ることにした。そう言えば、部屋を出る時はドアをどう開けるんだろうと思いながら扉に触れようとしたら、自動で扉が開いた。またビビる。ハ、ハイテクに慣れない……。


 部屋を出た瞬間、知れずと溜息が漏れた。その溜息は俺以外の脱力音と重なり、廊下に音を響かせ床に落ちた。


 顔を上げ右を見ると、マリとカイルが俺と同じように溜息を吐いていた。二人が同時に俺とそれぞれに気がついた。気まずそうに顔を歪める。


「な、何よ」


 形のいい眉を(しか)めて、気まずさを隠すようにマリは不快感を表に出す。まさか三人同時に部屋から出て溜息を漏らすとは誰も思わないだろう。


「べ、別に。ただちょっと部屋が広すぎて落ち着かないとかじゃねぇから。ただ出たくなっただけだしっ」


 カイルは素直だ。何だかほっとする。


「わ、私だって別に……。一人では広すぎるっていうか、不安になっただけよっ!」


 カイルの素直さにつられて、マリの素直な部分が本音を漏らしていた。マリも素直だ。ほっとする。


「だよなっ! じじぃと住んでた集合宅より広くてビビった」


 マリの同意にカイルの表情が明るくなる。


「私も。西で家族といた避難所より広いんだけど。本当に刀使いって優遇されてるのね……」

「うん、俺も驚いた。十人で使っても十分広いよね」

「……え? じゅ、十人?」

「…………いや、それはない」


 あれ? 同意が得られると思ったんだけど……。


 やっぱり南は他の支部より貧困度がだいぶ違うらしい。実際に、南ではあのくらい広い部屋だったら十人から十二人部屋として使ってたし、個室なんて支部長とか刀使いの班長くらいだけだったから。


 マリの薄い肩が震え出す。「あぁ、もうだめっ」という言葉とともにマリが吹き出し、お腹を抱えて笑い出す。それにつられてカイルも声を殺して笑い出していた。


「アンタ面白すぎなんだけどっ」


 何が面白かったのか分からず、置いてけぼりになる。


「こう言っちゃ悪いが、下には下がいるもんだな」

「はい、最低ぇー」

「おまっ、先に笑ったのお前だろうがっ!」

「あ~それについては、ごめんなさい。ずっと笑うの我慢してたんだけど。もう十人とかヤバいこというからさぁ」


 マリは俺に両手を合わせて「ごめんなさい」ともう一度言葉にして謝る。陽のようなオレンジ色の瞳は笑い涙で濡れて輝いていた。ずっと険しい表情だったマリが、小首を傾げて笑みを見せる。その笑顔は溌剌(はつらつ)と煌めいていた。これが彼女本来の姿なんだろう。何だか安心した。


「大丈夫。いや、何が大丈夫なのか分からないけど、大丈夫?」

「何それ? ヤバっ」また声に出して笑い出す。


 一頻(ひとしき)り笑ったマリは涙を拭い、自身を落ち着かせるように大きく深呼吸を数回繰り返し「何か、良かった。うん、上手くやって行けそう」と呟いた。マリも不安だったのだ。


「改めてさ、自己紹介させて。茅原(ちはら)マリよ。マリでいいから。名字で呼ばれんの好きじゃないの」


 マリの右手が俺へと差し出される。少し日に焼けた健康的な繊手。


「うん、よろしく」


 優しく差し出された手を握り返す。


「俺のことはカイル先輩と呼べ。同期でも年上だからなっ」


 両手を腰に添えて、ない胸板を張る。

 深閑(しんかん)の沈黙に、マリの呆れを含んだあからさまな溜息が響く。


「……………………アンタさ、男だの器だの言うわりに、言ってることがその背と同じで小さいのよ」

「はぁぁあああああっ! 小さくねぇしっ!!」

「はいはい、カイル先輩♪」


 カイルの目の前に立ち、背を比べるように右手で自身の頭頂部からカイルの頭頂部に向かって横移動。カイルの頭上に移動したマリの右手は空を切る。数センチだが、背はマリの方が高かった。勝利の笑みを浮かべたマリの揶揄(やゆ)する視線に、カイルが耐えられなくなり、羞恥で赤くなった顔で「小さくねぇし! 成長期舐めんなよっ!!」と捨て台詞を吐いて自室に逃げ込んだ。悪戯が成功した幼い子のようにクスクス笑うマリが、可愛らしかった。


「アレはからかいがいがあるわね」

「背のことはあまり、いじらないほうが……」


 マリの朝日のような双眸が俺を見据える。


「そうね。リュウも背、私とそう変わらないしね」


 言葉の剣難(けんなん)が胸に刺さって(えぐ)り、吐血しそうです。たしかにマリとの身長差は無に等しい。


「なんか良い気分転換になっちゃった、かな。自室にも慣れないとだし、荷物整理に戻りますか」

「そうだね」といっても俺は整理するほど荷物はない。

「荷物整理が一段落したらさ、皆を誘って夕飯を一緒に食べない? べ、別に嫌ならいいんだけど……」

「ううん、良い提案だと思うよ」

「そ、そう?」


 恥ずかしそうに髪の毛の先を指で弄ぶ。


「じゃ、また後でね」


 手を振って自室へ帰って行くマリに、右手を挙げてうなずく。マリがいうように自室に慣れないと体が休まらない。仕方なく俺も自室へ戻ることにした。


 自室。これからここが俺の部屋になる。テーブルの上に置かれた小さな段ボールには日用品ぐらいの荷物しか入っていない。大切なものは身に付けているし、必要最低限のものしか持ち合わせていない。


三人掛け応接椅子の真ん中に腰を下ろす。柔らかい応接椅子に身体が沈み込み、背凭(せもた)れに背を預ける。また知れずと溜息が漏れた。部屋はとても静かだった。防音設備がしっかり完備しているのだろう、隣の物音さえ聞こえない。


 俺しかいない部屋の静けさに胸が締め付ける。痛む胸元に触ると、首に下げていた硬質の物に触れる。服の中から取り出す。細く華奢な鎖に繋がれた二つの銀の環が互いに触れ合い、音を奏でる。大きさの違う飾り気のない二つの銀環。俺は両手で大切に、包み込むように握り締める。


 今日から、ここ極東支部が俺の居場所になるんだ。極東の人たちは歓迎してくれたよ。だからきっと大丈夫、心配いらないよ。父さん、母さん。俺は大丈夫だ……。


 銀の指輪に告げるように。自分自身に言い聞かせるように。それは願いだったかも知れない。


「レアン、俺は……」


 部屋の窓の向こう、茜色の空は静かに夜の紗幕を下ろす。深い夕闇の紫が広がり闇が落ちてくる。


 いや、俺の(まぶた)が落ちて……。こんなに、つか……れ、て…………。


 意識が遠のき、手放した。



  ******



 静寂の中、意識の覚醒とともに深く寝ていたことに驚き、飛び起きた。


 窓の外は夜の紗幕が下り暗闇が支配していた。闇を人工灯の明かりが切り裂き、薄暗い部屋に差し込む。


 どのぐらい寝ていたのだろう。今何時? 時計は? 部屋の電気ってどうやってつけるの? 寝起きで思考がまとまらない。頭痛がするがそんなことより。


 マリとの約束っ!


 慌てて部屋を出ようとして扉に近づいて気づく。内側にも取っ手やノブがどこにもない。さらに近づくと自動で扉が開いた。


 ハ、ハイテクぅ~……。


 自室を出ると「ぴゃっ!?」と小さな悲鳴が聞こえた。左を見ると驚き顔のユエラウと、リードに繋がれた白犬の美夕(みゆ)が臨戦態勢。口からは白い牙を覗かせ唸り声をあげる。ユエラウの左肩には子猫のしーちゅが俺に挨拶するように「みゃーぃ」と鳴いた。


「ごめん。驚かせた」

「い、いえ、大丈夫です」


 吐息を漏らし、ユエラウは胸を撫で下ろしながら「大丈夫だから唸っちゃだめ」と美夕の頭を優しく撫でる。唸ることは止めたが上体を低くした戦闘態勢は解かず、俺を警戒していた。


 仲良くなりたいんだけどな。


「あの、今何時か分かる?」

「えっと、美夕と散歩で一時間くらい過ぎたかな? なのでたぶん十時過ぎくらいかと思います」

「十時……」


 いつ寝落ちしたか分からないが、約三時間以上寝ていたことは確かだ。自分がそんなに深く寝ていたことに絶句した。


「だ、大丈夫ですか?」


 氷雪の双眸が俺の顔を覗き込む。瞳は心配と不安の成分が孕んで揺れ動いていた。


「うん、ありがとう。大丈夫」


 俺が笑顔を見せると、ユエラウも淡く微笑みを見せる。安堵の笑みだった。


「皆で夕飯食べようってマリと約束してたのに、気づいたら寝てたよ」

「あ、やっぱりそうだったんですね。マリさんが何度かノックして呼びかけていたんですけど、お返事がなかったから、そうかなって」

「そっか、悪いことしたな。謝りに行かないと」


 でも夜分遅くに女の子の一人部屋に行って良いものなのか、悩む。………………いや、駄目だろっ!

 自分の思考に結論がでたところでずっとユエラウに呼びかけられていたことに気づいた。


「ごめん、考えごとしてた。何?」

「あの……。いえ、その…………」


 消え入りそうな声で俯く彼女から、なぜか不安と恐怖が溢れるのを感じる。美夕としーちゅもそれを感じたのか、心配そうに鼻を鳴らし身をすり寄せる。


「ごめんなさい。ありがとう」


 優しく美夕としーちゅの頭を撫でる。頭を撫でられたしーちゅは嬉々と鳴く。ユエラウは二人のことを妹といっていたが、今は彼女が末の妹のようだ。不安や恐怖が消え去る。支え合う姉妹愛が微笑ましい。


「あの、リュウさん」

「うん」名前を呼ばれてうなずく。

「ヘリではありがとうございました」


 俺の頭上に疑問符。お礼をいわれることをした覚えがない。むしろ彼女を驚かせたことしかしていないような気がする。思い出す、と…………。あれ? おかしいな、胸が痛いのは気のせいだ。幻痛として無視することにした。


 俺の様子にユエラウにも疑問符が浮かんでいた。そして自分の言葉が足りなかったことに気づき、慌てて言葉を紡いでいく。


「ヘリで、ビルの上、囚俘(しゅうふ)っ」


 慌てすぎて短い言葉だけになっていた。それでもその言葉だけでなんとなく言いたいことが分かった。


「君が見つけてくれて助かったよ。眼が良いんだね」

「いえ、その、見えると言ったのですが、本当は見えていたわけではなくて……」


 か細い声は視線と一緒に廊下に落ちた。


「自分でもよく分からないんです。時々あることで。なんとなく感覚的な、曖昧なものが……」


 ユエラウの視線が床に落ちると同時に鋭い四つの眼光が俺を射貫く。姉二人。美夕としーちゅが、妹をイジメたと言わんばかりに憤怒の眼で俺を睨みつける。ちが、違います! 無実ですっ!!


「それを、信じてくれました」


 俺を見上げ、俺を見つめるユエラウの表情は雲一つない空にのように清澄(せいちょう)で美しかった。ヘリで出会ってから今まで、どこか不安と怯えがあったユエラウから暗雲が消えていた。


「嬉しかったんです。自分でも分からないことを信じてもらえて、嬉しかったんです」


 玲瓏(れいろう)な笑顔がそのにはあった。安堵と嬉しさが俺の中から込み上がる。


「たぶん、それがユエラウさんの刀の力なんじゃないかな?」

「私の刀…………」ポツリと呟いて「それは、違うと思います。私はその……」


 澄み渡る晴天が一瞬にして積乱雲に覆われたように暗闇に落ちる。ユエラウはそのまま口を閉ざした。


 何か変なこと、言ったかな……?


 背筋に悪寒。爆音が下から響いたような気がした。幻聴にして無視したいが、下を見ろと逃げられない圧を感じる。恐る恐る下を確認すると、白銀色の毛並みと金小麦色の毛並みを逆立て、二人の姉から漆黒の炎が上がっていた。美しい顔と愛らしい顔は悪鬼となり憤怒の温度がさらに上昇。殺意が孕んでいるのを感じる。美夕の右前脚が一歩を踏み鳴らし、牙をむく。子猫のしーちゅでさえ、今にも俺を噛み殺そうとしているのが分かる。


 漆黒の炎を纏い殺気に満ちた眼光に睨まれ、俺の身体は硬直する。


「ユエラウさんっ、その、お姉さんたちがっ」


 情けない声とともに、空気を読めない俺の腹の音が盛大に鳴り響いた。廊下に響き渡った音の大きさにユエラウも驚いて顔を上げる。目線が合い、恥ずかしさが倍増する。耳まで赤くなっているのが分かるくらい体から熱が放射されていた。


「あああああああっ、ごめんなさいっ! 私が引き留めてしまったからっ!」


 青ざめていくユエラウに反比例して美夕としーちゅの激昂は上昇していく。美夕の左前脚が一歩踏み出される。しーちゅが小さい牙を見せ威嚇する。


「違うっ、断じて違うから大丈夫っ! お腹が鳴るまで俺自身もお腹空いてることに気づいてなかったからっ!」


 事実。本当に今の今までお腹が減っていることに気づかなかった。

 疑念の青い視線が向けられる。


「ええっと、たしか食堂って二十四時間やってるんだよね?」

「はい、刀使いの方がいつでも食事ができるようにと」

「何階だったっけ?」


 後で確認しようと思っていたが、確認する前に寝落してしまい自室が二十一階にあるということしか、覚えていない。いくら疲れていたとはいえ、俺の記憶力の低さに笑えてくる。


「食堂は……」


 ユエラウの言葉が途中で途切た。その顔には気づきの色。大きな瞳をさらに大きく見開き、燦然と輝かせていた。


「あのっ!」


 両手の指を絡ませ、祈りの姿。白雪の顔を紅潮させたユエラウは勢いよく前に出る。氷雪の瞳に俺が映っているのが分かるくらい近い。顔の近さに俺が恥ずかしくなり、一歩下がる。


「ももももももももももしっもしよろしかったら、いいいいいいいいいっしょ一緒にっ」


 祈るような姿は緊張に固くなり、うまく言葉が出ない。薄い華奢な両肩を(すく)めて震わし、耳朶(じだ)まで真っ赤に染まっていた。ユエラウの頭から湯気が出ているのではないかと、心配になるほど真っ赤になっている。それだけ懸命になっているということだ。俺の反応を見るのが怖くなったのか、眼は強く閉じられていた。


「一緒に、行きませんか?」


 お誘いだった。


 緊張に震えながらも、ゆっくり開いた瞳が俺の姿を捉える。瞳には畏怖と期待が混沌としていた。俺が口を開こうとした時、ユエラウの右手が挙げらそれを阻止した。


「違うんです」


 え、まだ何も言っていないのに否定されたっ!


「違うんです。皆さんに夕食を誘われた時、嬉しかったんです。すごく、すごく嬉しかったんです」


 その時を思い出しているのだろうか、少し緊張が解け口元に笑みが戻る。「だから……」俺を見上げるユエラウは必死に言葉を紡ぐ。


「だからその時の嬉しさをリュウさんにも、と思いまして……」


 ユエラウの優しさに嬉しくならないはずがない!


「うん、一緒に行こう!」


 俺のその一言に暗澹(あんたん)としていた瞳が光を取り戻し、宝石のように煌めく。緊張も畏怖も負の感情が消え、また清澄(せいちょう)な笑顔を見せてくれた。


「すぐにっ、すぐに散歩道具置いてきますからっ」


 輝く笑顔を見せながら急ぎ自室のカギを解錠させ、慌ただしく部屋に入って行く。扉が閉まる瞬間、軽やかにしーちゅがユエラウの肩から跳躍。無音で床に着地した。俺を見上げるしーちゅを見てあることに気づいた。


 はっ! 怒れるお姉さん方と三人きりになってるっ!! ユエラウさん早く戻って来てっ!


 しーちゅが(つた)ない足取りで俺の足元まで歩を進める。(かぎ)のように先が曲がった尻尾をピンっと立たせ、金色の双眸が俺を見つめる。何をするでもなく、何かを訴えるわけでもなく、ただただ俺を見つめ続ける。どうしたらいいのか反応に困り、笑っておくことにした。


 視界の端には美夕の姿が見えたが、すでに俺に対して怒りも興味もないらしい。ユエラウが戻って来るのを扉を見つめ待っていた。長毛の尻尾が小さく左右に揺れていた。


 ゆ、許されたってことでいいのかな?


 今日一の鉛のように重い吐息を吐き出した。緊張の糸が切れ、脱力感に身体を壁に預ける。冷たい壁が身体から熱を奪い、心地いい。囚俘と初めて対峙した時よりも緊張感と恐怖があった。もう二度と美夕としーちゅを怒らせないようにしようと心誓った。本当に今日は心に誓うことが多い……。


 右足に重みを感じ眼を向けると、しーちゅが木登りのように俺の右足に爪を立て登っていた。防刃繊維で作られている服だから猫が爪を立てたぐらいでは貫通しない。腰まで登ってきたしーちゅは「みぃー」と鳴き続け、さらに上へと登っていき右肩に到達した。鉤尻尾が俺の頬をくすぐる。


「お待たせしました」


 部屋からユエラウが出てくると、美夕の長い尻尾が円を描くように大きく振られる。「美夕もお待たせ」声をかけながら白銀の毛に覆われた顔を下から両手で包み込み、わしゃわしゃと撫でる。撫でられた美夕は満足そうな表情を浮かべる。気持ちよさそうだ。


 耳元でしーちゅが鳴き、頭を頬に擦りつける。どうやら頭を撫でろと要求しているようだ。頭と顎下を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす。


「しーちゅを、ありがとうございます」

「許してもらったからね」


 俺の言葉に何のことと疑問符を浮かべ小首を傾げるユエラウに、曖昧に笑って何でもないことを伝える。足取りも軽く自動昇降機広間(エレベーターホール)へと向かう。


「食堂は二階です。二階のフロアが食堂とカフェテリアになっていまして、すごく広かったです。あとご飯もとっても美味しかったです」


 その言葉に期待に胸が躍る。ご飯が美味しいのは良いことだ。活力源大事っ!


「メニューもたくさんありまして、迷ってしまいました」


 ユエラウの弾む声音に俺の期待も高まる。極東の料理はどんなものなんだろう、楽しみだ。俺の隣を歩むユエラウは皆で食堂へ行った時のことを思い出して微笑む。

 自動昇降機広間と到着。階下へ向かうべく下を示すボタンを押す。


「私、優柔不断なのですぐに決められなくて。カイルさんとマリさんに怒られました」


 苦い笑顔を浮かべるユエラウ。その時の様子が容易の想像できてしまって、つい笑いそうになってしまった。


「そんなにメニューがあるんだ」

「はい、なんでも料理長さんが食べたいものを食べさせたいとのことで、どんどんメニューが増えていったそうです」

「優しい人なんだね。その料理長さんは」


 軽い電子音が響き、自動昇降機が二十一階に到着したことを知らせる。扉が開き、俺とユエラウ、美夕が乗り込んでいく。二階のボタンを押す。扉が閉まり下へと移動していく。機械の駆動音が微かに聞こえる自動昇降機内で、ユエラウがそわそわしていた。視線を巡らせ、必死に何かを探しているようだった。そして何かを見つけてらしく表情が明るくなる。ころころと表情が変わって見ていて面白い。


「あの、リュウさんはと、蜥蜴以外で好きな……」

「ユエラウさん、ずっと気になっていたこと、言っていいかな?」

「はいっ! な、何ですか?」


 そわそわしていたのは会話のネタ探しをしていたらしい。それを遮ってしまったけど、俺を見つめるユエラウの瞳は燦然と輝いていた。


「俺のことは呼び捨てで構わないよ。あと同期で同い年だし、敬語じゃなくてもいいよ」


 笑顔が氷像のように凍りつく。


「あ、いえ、これは癖、といいますか……。その、リュウさんも私のことユエラウさんって……」

「あぁ、ごめん。まだなんて呼んだらいいか聞いてなかったから」


 凍てついた表情が溶け出し柔和になる。


「ユエラウで大丈夫です」白雪の頬を薄紅色に染め「あ、でもユエラウって言いづらいって、よく言われるので……」


 人の名前を言いづらい、なんて言う人がいることに憤りを覚えた。


「ユエと呼んでもらえたら嬉しいです」


 が、ユエラウの笑顔を見たらどうでもよくなっていた。


「うん、ありがとう。ユエ」


 名前を呼ばれて恥ずかしそうに身を捩る。


「あの、リュウさん。お願いがあるのですが……」

「何?」

「愛称でお呼びしても、いいですか?」

「愛称?」

「はい。その、リュウくんとか?」


 寒気が全身を駆け抜け鳥肌を立たせた。聞き慣れないくん付けに、体が拒否反応を示しているようだった。


「いや、それはちょっと……」

「ではリュウちゃんは?」

「南支部ではよく呼ばれていたけど……」


 俺の苦笑にちゃん付けは諦め、残念そうな表情を浮かべながらも、次の愛称候補を考えているようだった。


「ではでは、リューたん? リユっち? リュンリュン? りゅうすけ?……」


 怒涛の勢いで愛称候補があがっていき、それは誰ですか? と俺の名前の『り』の字が別次元の彼方へ消え去ったところで、俺はユエラウを止めることにした。


「あの、ユエ」

「はいっ」


 期待と興奮に彩られた瞳が眩しい。でもここでちゃんと伝えないと、とんでもない愛称をつけられそうで怖い。


「やっぱり、呼び捨てでお願いします」


 唇は笑みを象っているが、落胆と寂寥(せきりょう)が伝わってくる。


「そ、そうですか……。私にはそちらの方が難易度が高いんですが……」


 ん? 難易度とは?


「慣れれば大丈夫だよ」

「が、頑張ります。リュウぅぅぅ……さん」


 前途多難な予感がする。

 自動昇降機内に電子音が響き、機械合成された女性の声が二階に到着したことを告げる。



  ******



 夜気のひんやりとした冷たい風が肌を撫でていく。極東の夜は外灯が多く、建物や街路を照らしているから明るい。人は昼間よりだいぶ少ないが、忙しく行き交っていた。


 二階の食堂と併設するカフェテリアにはテラス席があり、常時開放しているそうだ。室内の灯りが外へと漏れ、照明のないテラスも十分に明るく感じる。食堂の喧噪が窓ガラスに遮られて遠く感じる。静寂より人の声がさざ波のように聞こえる方が落ち着く。


 本当に色んなメニューがあった。知らないものが多くて、とりあえずオススメと気になるものを頼んだけど、どれも美味しかった。頼んだ品数の多さに、またユエラウを驚かせてしまった。いや、食べられる時に食べておけという、南での習慣が出てしまった。極東では食難の心配がないから控えるように心がけよう。でも一人前、二人前じゃ物足りないような……。


「こんな時間に、こんな所で、何難しい顔してるんだ?」

諫早(いさはや)さんっ」


 目の前に俺の顔を覗き込んでいる諫早さんがいた。

 ご飯の量を二人前で止めるか、三人前にして腹八分目までにするか、真剣に悩んでいたから人の気配に気づかなかった。びっくりして声が上ずったのが恥ずかしい。


「おう、お疲れ。で、何してた?」

「え、ええっと、腹ごなしに涼んでました」


 嘘ではないが、ご飯の量で悩んでましたなんて本当のこと恥ずかしすぎて言えるわけがないっ。


「随分遅いな」

「あのあと寝落ちして。皆で夕食を食べようって約束していたんですけど……」

「そうだな、慣れない環境で気が張っていたのかもな。昼間大立ち回りもしたしな」


 諫早さんの揶揄に苦い笑みを浮かべる。


「まぁ、無理せずしっかり休めよ」

「そうしたいのは山々なんですが……」

「なんだ、アレか? 枕が変わると眠れないってやつか?」

「いえ、違います」


 否定はしたが、まだ寝台(ベット)で寝ていないので分からない。「そっか」と呟く諫早さんは優しく微笑んでいた。


「俺、三時間寝れば大丈夫なんで。それにこの時間はいつも見張りをしていたので眠くないんです」


 夜の闇が色濃く深く落ち、新しい日付へと変わる。


「見張りって……」

「南支部は刀使いが少なかったので、できるだけ刀使いの人たちを休ませて、他のことは俺たちが分担してやっていました」


 諫早さんが眉を(ひそ)め、不快感を露わにしていた。


「南は物資に、特に食糧に余裕がなかったので、働かざる者喰うべからずって、皆口癖のように言って仕事していました」


 懐かしい光景が思い出される。辛いことに文句を言いつつも、皆笑って支え合っていた。笑みが零れる。


「俺は体が丈夫で足も速かったから、囮役として囚俘(しゅうふ)の討伐について行ったり、夜目が利くので夜の見張りをしていました」


 それが俺の日常だった。きっと変わることがない日常だと思っていた。それでいいと思っていた。


「それは一体、幾つからやっていたことだ?」

「六歳から囮役はしていました。夜の見張りは十三歳からです」


 諫早さんは左手で頭を抱え、大仰に重い溜息を吐いた。


「南はそんなに逼迫(ひっぱく)した状態だったのか」


 その声音に怒気が孕んでいるのを感じた。なぜ諫早さんが怒っているのか理解できなかった。小首を傾げる俺を見て諫早さんはまた溜息を吐いた。大きな右手が俺の頭に触れる。


「冷たく聞こえるかもしれないが、ここは南じゃない極東だ。始めに言ったように、郷に入れば郷に従えだ。慣れるまで時間がかかると思うが、夜はしっかり寝ろ」


 苦笑する諫早さんが少し乱暴に頭を撫でる。


「ちなみに、寝る子は育つって言葉知っているか?」


 俺は首を左右に振って知らないことを伝える。


「成長ホルモンは寝ている時に分泌される成分で、成長期には八時間くらいの睡眠が適切といわれているが、今のご時世そんな贅沢はできないので、まぁ六時間眠れたらいいほうかな」


 諫早さんの言葉に嫌な予感がしてならない。


「で、三時間じゃまったく足りていない」笑顔の諫早さんが怖い。「リュウ、お前……」次に続く言葉を聞きたくなくって耳を塞いだが、諫早さんがそれを許さなかった。耳を塞いだ手を掴まれ引き離される。


「背、伸びないぞ」


 言葉の刃が俺の胸を刺し貫き、抉る。幻痛に胸を押さえる。大丈夫だ、幻覚に惑わされるなっ。傷も出血もないっ!

 が、急に眠気がしてきたような気がする。


「部屋に帰って、今から寝ます」


 俺の言葉に諫早さんは笑いを堪えているようで、顔を背け、身体を震わせていた。

 この人はっ!

 諫早さんに少し怒りを覚えたが、深呼吸を数回繰り返して気持ちを落ち着かせて、無視することにした。


「ちょっと待ってろ」


 そう言い残すと諫早さんはテラスから食堂へ向かった。広い背中が遠のく。遠のいていく背中を見つめながら吐息が漏れた。極東に来てから溜息を吐いてばかりだ。


 数分後、諫早さんが戻って来て。手には白いマグカップが二つ。右手に持っていたマグカップを俺に差し出す。疑問に思いながらもマグカップを受け取る。受け取ったマグカップは温かく、乳白色の液体からは湯気が揺れ上がっていた。


「ホットミルク。寝る前に飲むと気持ちが落ち着いて、睡眠を促してくれる」

「あ、ありがとうございます」


 一口飲む。ほんのり甘い、温かいミルクが喉を通り、胃に広がるのを感じた。美味しい。

 諫早さんが満足そうに微笑むのが見えた。


 獣のような遠吠えが微かに聞こえたような気がして、遠くに(そび)える城壁のような高く堅固な壁を見据える。囚俘(しゅうふ)には昼も夜も関係ない。


「大丈夫だ。極東は潰させない」


 壁の、その向こうを見据えているような諫早さんが呟いた。それは俺にではなく、諫早さん自身に言い聞かせているように感じた。


「だから、心配するな」


 俺へと微笑みを浮かべ、頭を軽く撫でる。


「元気っ子の当分の目標はしっかり寝ることと、仲間の背中を守ることだな」

「……………………」

「返事は?」

「……頑張ります」


 元気っ子とまた揶揄された。一生言われ続けるんじゃないかと懸念して黙っていると、諫早さんから返事の催促。渋々、返事を返した。


諫早さんは「よろしい」と微笑みを浮かべる。慈父のような笑みだった。


 冷たい夜気の風で、温かいミルクが冷めないようマグカップを両手で包み込む。


 何もかも違う場所で、一人でやっていけるか、不安はないと言ったら嘘になる。大嘘だ。本当は不安で恐怖すらあった。


 でも、大丈夫だ。

 自然と笑みが溢れた。


 見上げた夜空に月が輝いていた。どこにいても空は変わらない。


 諫早さんに視線を向けると、俺と同じく夜空を眺めていた。俺の視線に気づき眼が合うと、微笑む。


 本当によく笑う人だな。


「背が伸びるように早く寝ろよ」


 本当にこの人はっ!


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