一章:世界の祝福と愚者の夢②
風を切り裂くプロベラの音とエンジンの駆動音が静まりかえる機内に響いていた。風に乱される金糸のような長い髪を左手で押さえて、ティリエラはリュウとサイが飛び出した扉を見つめていた。翡翠の瞳には不安と心配の色彩に彩られていた。
その扉の近くにはフードを目深くかぶった少女が身を乗り出して地上を見ていた。下から音が聞こえるたびに薄い肩を震わせていた。
「………………いやぁ……」
静寂中、関田の感嘆の息が漏れる。
「翼型の刀があるとは……」
「俺、天使が現れたかと思ったですよっ」
宮辺が熱を帯びた声で言葉を放つ。
「極東の刀使いは珍しい型が多いが……。翼は初めて見るな」
関田に同調するように宮辺が首を上下に何度もうなずく。
視界の端にヘリから身を乗り出す少女を見て心配になり「君まで飛び降りないでくれよ」と関田が苦笑交じりに声をかけた。
フードの少女は声をかけらてたことに驚いて勢いよく顔を関田の方へ向ける。
「いえっ、いいえ、わ、私は、その、あの、大丈夫です……。その…………な、ので…………す……」
どこか罪悪感のあるか細い声がさらに段々と小さくなっていき、回転翼機の騒音にかき消されていった。目線は関田から床へと落ちた。
声は聞こえなかったが、彼女の様子から飛び降りることはないだろうと思い関田はうなずいた。
「少し高度を上げるか」
「関田さん、周ちゃんから入電です」
「………………………………お前なぁ」
関田からの冷たい目線に、宮辺が気まずそうに視線を泳がしてから関田を見る。
「な、何です……か?」
「今は任務中だぞ? ちゃん付けはやめなさい」
「あ。す、すみません! いつもの癖で……」
「……まぁいい」溜息を吐いて切り替える「それで、周からは何って?」
「は、はい。新人の救援に諫早班長が向かってくれたそうです」
宮辺の言葉に関田の肩から力が抜ける。顔には安堵の微笑み。
「そうか、そうか。諫早さんが向かってくれたか…………良かった」
声は少し震えていた。
「それと着陸許可がおりました。急ぎ着陸をとのことです」
「了解したっ」
力強くうなずき、計器を確認する。
「後ろのお二人さん、着陸許可が出たから少し高度を上げて速度……も……っ!?」
振り返った関田の目に飛び込んできたのは出入り口を塞ぐ巨大な人間の口だった。鮮やかな赤色の唇は縦になって左右に開き人間の歯を見せていた。後ろにいた二人の少女は驚きと恐怖で声をあげることもできず震えていた。
関田は警戒を怠ったことを後悔した。でもなぜ、衝撃もなく機体に張りついていたのか疑問が頭を掠めたが、今はそんなことは後だと振り切った。
「クソっ油断した!」
「関田さん! アレは妖精種のっ」
「ストマネライダだっ。大丈夫だ、落ち着け! 俺たちが冷静さを失したら終わるぞっ!」
「は、はいっ!」
横目に部下の宮辺を確認したが、目に見えて震えているのが分かる。必死に落ち着かせようとしているが、目は見開き呼吸が速く荒い。これは無理だと判断した関田は己を奮い立たせるため、右手で右頬を力一杯に叩いた。
頬を打つ乾いた音に宮辺とフードの少女の震えが止まり、我に返る。孤軍奮闘の関田の姿を見て「すみませんっ、関田さん!」宮辺も己の両頬を力一杯叩いた。赤く腫れる頬に熱を感じながら計器を機器と確認し、関田の指示を仰ぐ。
フードを目深くかぶった少女は上手く動かない両足を引き摺りながら、巨大な口から離れる。
ティリエラは腰が抜けたようで手を動かして後ろへ下がって行く。大きな翡翠の瞳をさらに大きくして、視線が赤黒い口腔内を見せる巨大な口から離れない。そのまま後ろに下がり続けるティリエに少女が叫ぶ。
「ティリエラさんそれ以上はだめっ! 後ろっ!!」
右手に触れるはずの床はなく、空を掴む。ガクンと身体が右側から後方へ落ちていく。逆さになった視界には自分に迫って来る巨大な白い蛇。ただし背には昆虫のような半透明な四枚翅、目や鼻はなく、腹部は何かを丸飲みにしたように肥大化し、人間に酷似した唇は縦になっていた。唇に縦線が入り左右に開いていく。大口を開けた小型の囚俘ストマネライダの姿だった。
「だめぇぇええええっ!」
フードの少女が空中に投げ出された左手を掴み、引っ張り抱き止める。フードの少女の腕の中で震えるティリエラが顔を見上げると、氷雪の瞳が泣きそうに歪みながら必死に笑顔をつくろうとしていた。
「ありが……っ!」
囚俘が回転翼機にぶつかる衝撃音。
機内に警告音が響き渡り、機体が左側の大きく傾斜する。
二人の少女が悲鳴をあげながら左へと転がり滑って行く。操縦士が機体を水平に制御しているが間に合わない。
左の出入り口を塞いでいた囚俘の口は先ほどの衝撃で弾かれ、フードの少女が機内から投げ出された。
全身に感じる浮遊感に鳥肌が立った。全ての動きがゆっくりと過ぎていくのを感じなから、目がティリエラを探していた。ティリエラは機体の壁に背中を打ちつけながらも少女に手を伸ばしていた。
あぁ、良かったと少女は思い、ティリエラに微笑んだ。
「諦めないでっ!」
ティリエラの悲鳴のような声に少女の左手が扉の縁を掴んだ。
背中の激痛に顔を歪めながら、少女の右手を掴み引き上げようとするが力が入らない。
「良かった、良かった、良かったよぉ……」
風に流される金色の髪の間から見える翡翠の双眸から涙が流れる。涙は真下へは落ちずに左後方へと風に流されていく。
「ありがとう、ございます」
フードが外れた少女がティリエラを見上げる。白雪の頬を薄紅色に染めて微笑む。風に靡く灰紫色の髪。深い青色の眼は潤んで輝いていた。
「上がれますか?」
「はい、何とか大丈夫かと……」
回転翼機の着陸装置であるソリ状のスキッドに足を置く。宙吊りだった足に地ができたことに少し安心したのか、少女から震える息が漏れた。
「手は離さないで。ゆっくりあがっ……」
機体を揺らす衝撃に悲鳴があがる。回転翼機の右側に激突した囚俘が巨大な口の身体を無理矢理押し込みながら、蛇の頭部が窓を割ろうと何度も打ちつける。その度に機体が大きく揺れる。巨大な口が、歯を鳴らしながら左右に開閉を繰り返す。
衝撃で足がスキッドから滑り、また宙吊りになった少女は声をあげることさえできなかった。心臓が早鐘音のように耳元で響いている.
今ので完全に体が強張ってしまっていた。上手く力が入らない。
ティリエラも恐慌に判断能力を失っていた。後ろから迫るストマネライダの大口、前にはヘリから落ちそうになっている灰紫色の髪をした少女。
わかっている。わかってる。少女を助けなきゃと思ってはいるがどうしたいいのか、分からなくなっていた。両手が宙を泳ぐ。
二人の上に漆黒の影が落ちる。極大の恐怖に、心臓が一瞬止まったかのように息が詰まり固まる少女たち。
冷や汗が流れる中、恐る恐る見上げる二人の双眸は絶望に光を失う。
左側にいた囚俘、ストマネライダが腹部の口から涎を垂らし大口を開けて間近に迫っていた。赤黒い口腔内の最奥には人間の顔があった。眼を見開いたその人間と眼が合った。
「刀を抜けっ!」
関田の怒号が響くが、二人の耳には届いていない。
「やめろぉおおおおおおおおおおおお!!」
関田の絶叫の中、少女の全身が鮮血に染まる。
「あ、あぁぁ、あぁ…………」
噴出する鮮血がティリエラの頬や衣服を染めていく。ティリエラの絶望に満ちた瞳から涙が溢れ頬へと伝う。しかしその顔は恐怖に歪みながら笑みを浮かべていた。
大口から刃先が生まれ出血させていた。その血が二人の少女に降り注ぎ赤く染め上げていた。
「遅くなり申し訳ありません」
無機質な、あの感情のない声が囚俘の後ろから聞こえた。
ストマネライダを貫いた刃が下へと落とされ、腹部の中心から下半身が切り裂かれる。さらに刃が翻り左から右に横薙ぎ一閃。ストマネライダの身体が三等部の肉塊となり堕ちていく。
スキッドに優雅に着地したサイの背中には美しい純白の翼はなく、代わりのように左手には漆黒の長い柄、その先には鋭利な三日月を模した刃。死の御使いが魂を狩り取る大鎌を握っていた。
「怪我はありませんか?」
表情も声音も変わらないサイが小首を傾げ、少女に問う。灰紫色の髪を乱しながら、何度も少女は首を左右に振る。
無事を確認したサイはうなずき、少女をヘリの中へと導く。ティリエラも手伝い少女が機内に戻れたが、右側にはまだ押し入ろうとしている囚俘がいる。歯を鳴らしながら喰らいつこうとしていた。
「関田さん」
「な、何だっ!」
揺れる機体をなんとか制御しなら声をあげる関田にサイが頭を下げる。
「ヘリを揺らすこと、ご容赦ください」
「ちょっ、何をする気だ!?」
関田の叫びなど気にせず、サイは囚俘に向かって歩を進める。左手に握っていた大鎌がいつの間にか消え、背中に美しい天使の翼が出現していた。
囚俘ストマネライダの口が閉じた瞬間、狭い機内でサイが華麗に跳躍。美しい脚線美が伸ばされ、囚俘の閉じた唇に両足の裏が激突。衝撃で回転翼機が揺れ、吹き飛ばしたストマネライダと一緒にサイは天空へと落ちていく。
太陽の光を反射して輝く白き翼が大きく開き、風を受け羽ばたき舞う。吹き飛ばされたストマネライダの半透明な四枚翅が無音で高速に羽ばたき、その場に浮遊する。
蒼く澄み渡る空中で、サイとストマネライダが対峙する。
蛇の肥大化した腹部にある口から耳障りな歯軋り音を響かせ怒りを露わにする。空を泳ぐようにサイに向かって突撃を開始。サイもそれに併せて囚俘に向かって飛翔する。
サイを喰らおうと大口を開け閉じられる瞬間、サイは囚俘の下へと潜り込み反転。掲げた両手には漆黒の大鎌の柄が握られていた。
死の大鎌が振られ三日月の刃が蛇の頭部に突き刺さり、そのまま下へ振り抜かれた。
声なき絶叫をあげ、ストマネライダの身体が両断。左右に別れた身体は鮮血を吹き上げながら堕ちていく。
「凄い……」
誰かともなく言葉が漏れた。関田に宮辺、ティリエラともう一人の少女は、翼の戦乙女の戦いに恐怖を忘れて魅入っていた。
翼がはためくたびに燦然と輝く羽根が蒼穹に舞う。天上世界の神々しさがあった。
「はっ、いかん美しさに見とれていた。極東へ……」
「関田さん前っ!!」
回転翼機の前方に静かに浮遊する一体の囚俘がいた。蛇の鼻先から縦横左右に線が走り、花が開花するように赤黒い内側を見せながら開いていく。開いたそこには巨大な剥き出しの瞳。
瞳が関田たちの姿を捉えると嬉々として震え、縦の唇の両端が鋭角に上げる。乳白色の歯の羅列を見せながら嗤い、ストマネライダが突進してきた。
「間に合わないっ!」
関田がヘリを大きく左に回避行動を取るが、迫り来るストマネライダの速度の方が僅かに速かった。ぶつかる衝撃に身構えるが、光がストマネライダの身体を駆け抜けた。
大口から吐血。ストマネライダの動きが止まり、右半身と左半身がずれていき左右に別れて堕ちていった。血の尾を引きながら堕ちていくストマネライダの身体の後ろに桜色の天使が舞い降りた。
「急ぎ極東支部へ。護衛します」
白を基調とした衣服に返り血を受けたサイの姿だった。
「よし、安全高度まで上げてから極東支部に向かう」
「了解しました。殿を務めます」
上昇していく回転翼機を追って翼を羽ばたかせる。
下から響く轟音にサイは振り返った。
白煙を上げながらビルが崩れ落ちて行くのが見えた。表情は氷結したように変わらないが紫電の双眸が不安に曇っていた。瞳が周囲を見回し何かを探していた。
倒壊するビルから白煙、土煙が噴出して地上を隠す。
地上を気にしながらも遠ざかっていくヘリを追いかけるため翼で風を捉えて急上昇していく。
サイの両手は祈るように握りしめられていた。
******
晴れ渡る青い空に白煙と土煙が上がっていた。地鳴りのように轟く、大きな破砕音が廃墟の街並みに反響し響く。
震源地のビルが上から下へ崩れ落ち、瓦礫と鉄骨が降り注ぐ。隣のビルに崩れながら巨大なコンクリートの瓦礫がぶつかるが何とが耐えていた。倒壊したビルはこの一棟のみにとどまった。
土煙の中を咳き込みながら抜け出る。頭を左右に振り、体を白に染めた粉塵を払う。
刀を地面に突き刺し杖のようにして身体を支える。肩を上下させながら肺に新鮮な酸素を送る。また軽く咳き込む。
死ぬかと思ったぁぁぁああああああっ。
本当に危なかった。ビルの倒壊を狙っての行動だったけど、脱出する寸前、キリムが舌を伸ばし俺の右足に絡めてきて逃げ遅れた。息をゆっくり長く吸い、ゆっくりと長く吐く、安堵の深呼吸。
爆音に後ろを振り返る。破片の雨を降らせながら瓦礫の山からキリムが現れた。暗緑色の鱗が粉塵で灰白色になっていた。倒壊に巻き込まれたキリムの巨躯には負傷した様子は全くない。
こんなことで囚俘に傷を与えることはできない。ただの足止めにしかならない。
「わかってるけど……ね」
口から独り言が漏れる。呼吸を整えて刀を構える。
キリムから哄笑があがる。嗄れた声に甲高い声の不愉快な音に俺の顔が歪む。嘲りの視線が俺の全身を舐めまわすように注がれる。俺の行動が無駄だったと嗤い、哀れんでいるみたいだ。
キリムの両前脚が瓦礫に叩きつけられる。その衝撃で破片が弾丸のように飛び散り、壁に穴を穿ち、アスファルトの地面を抉る。俺にも破片が殺到。
「くっ!」
金属が打ち合う甲高い音。火花を散らしながら刀で叩き落とすが、破片の弾丸全てに反応できず、右頬を掠め剥き出しの左肩を粉砕、右太腿を切り裂いた。赤い血が噴出。激痛に声を上げそうになるのを歯を食いしばり必死に堪えた。
まずい。足をやられたのはまずい!
キリムを警戒しながら右腿に視線を落とす。大腿四頭筋の外側広筋が裂かれて鮮血を生んでいた。左肩の骨が砕かれ重傷だが、この足じゃ全力で走れない!
血が流れ俺の足元に深紅の池が広がっていく。息が上がる。
焦るなっ。落ち着けっ! 何かあるはずだ。考えろっ。考えろ!
七つの口から涎を垂らしながら、一歩と歩を進め徐々に距離を詰めて来る。長い舌が唇を舐めまわす。喜悦に表情筋を歪ませ、勝利を確信した眼は鋭利な下弦の三日月を象る。
そんなキリムを見ていたら、急に俺の焦りが消え心が冷えていくのがわかった。腹の底にコールタールのような漆黒の感情が沸き立ち怒りに変わっていく。
「キリム。お前がたぶん勘違いをしていることを、訂正する」
俺の言葉の意味がわからないようで、不思議そうに首を傾げるキリム。頭部同士で顔を見合わせ失笑する。
俺は刀を掲げる。
「囚鬼鏖殺之技……」
<核>が反応して鮮やかな赤に輝く。俺の心音と<核>の鼓動が重なり、鋼色の刀身に朱線が広がっていく。先ほどよりも赤熟とした色へを変わる。
「くたばれっ!」
上から下へと刃を振り落とす。
衝撃音。
キリムの巨体がアスファルトの道路に叩きつけられる。アスファルトに亀裂が走り蜘蛛の巣状に広がっていく。体が徐々に地面にめり込んでいく。
キリムから余裕の笑みが消えた。体を首を持ち上げようとするが、見えない力が上から押さえつけていた。首を上げた瞬間からまた地へ叩きつけられ衝撃音を散らす。六つの頭部は動揺して視線だけが上下左右に動くが、蜥蜴の頭部だけは俺を射貫くように憎悪の双眸で睨みつけていた。
俺はさらに力を増す。
苦鳴と悲鳴が上がる。背が反り返り、首は地に押さえつけられ骨が軋む不快な音が響く。骨が折れるのを防ぐため前後の脚が踏ん張り、体を水平に保とうとしているが、そんなこと許すはずがない。
刀身がさらに赤く輝きを増す。
衝撃音と地割れの音が重なり大きな音が響いた。
キリムから苦痛の悲鳴。少年少女と赤子が泣き叫ぶ。そして背骨が砕ける音と共に全身から鮮血が血霧となって噴出していた。
俺は脂汗をかいていた。力の使いすぎで息が上がり、肩が上下に動くたびに肩の傷がじくじく疼き痛みを訴えている。足の傷も痛い。早く傷の治療をしないと大量出血で動けなくなる。でも今技を解除するわけにはいかない。
視界が揺らぐ。揺らいでいたのは俺の身体だった。
蹌踉めいたことで集中の糸が切れ、技が解除されてしまった。
刀が杖代わりにして身体を支える。霞む視界の中キリムを見据える。
怒号のような咆哮。全身を血で染めたキリムがゆっくりと巨体を上げていく。十四の眼から血の涙を流し、口から血泡を吐いていた。どうやら折れた背骨が内臓を傷つけているようだ。動くと激痛が走るようで幼い頭部たちが泣き叫ぶ。
穿たれた地面から這い上がり急に嘔吐く。喉が膨らみ、七つの口腔からそれぞれ赤黒い塊が吐き出された。
それは、赤い粘液に塗れた老若男女の七人の人間だった。
「だずげ、でぇ……」「いだ、いだいぃぃぃ」「ごろざないで。だだずげて……」「お願いぃ、だべないでぇ」「許じて、ゆるじでぇ、おいてががない、ないでぇ……」「ごわいよぉ、ぐらいよぉ、おがあざんっ」「あぐ、あぐいっ、いだいぃ」吐かれた人たちから苦鳴の言葉があがる。その場から逃げようと這いずり回る。
その中の一人。男の人と目線が出会う。その人は盾に使われた男の人だった。
生気のなかった双眸に光が宿る。希望を見いだした輝きとなる。
「だぅ、だずけっ、だずげでぇ、じにだくないっ!」
男の人が俺に向かって必死に這ってくる。他の人たちも男の人の先にいた俺に気づき、助けを求めて這ってくる。「死にたくない」「助けて」と呻きながら懇願の声をあげて這ってくる。
俺はその場から動けなかった。彫刻のように固まってしまった。
男の人の指先が、俺の足元に広がる深紅の池の触れた。血に濡れた指先を不思議そうに眺めるて徐に口に含んだ。
「血だ…………」ぽつりと呟いた「血だ……血だ、血だ、血だっ、血だぁぁぁああああっ!」
怒号のような叫び声をあげて血溜まりに顔を突っ込んだ。血の飛沫が飛ぶ。男は俺の血を舐めて飲んでいたのだ。
男の異常行動に、後ろから這ってきた人たちも硬直していた。顔にはそれぞれ恐怖が貼りついていた。
それでも「お、おおにいぃちゃん、いだいいぃよ。たず、たずげて……」まだ幼い少女が手を伸ばす。小さな指先が震えながらも必死に助けを求める。
俺はただ見ているだけしかできなかった。
左足首に衝撃。驚いて下を見ると、血で下顎を染めた男の顔が俺を見上げていた。その顔は悦楽に歪んでいた。
「腹が、腹が痛、痛い? 腹、腹が減って……」笑みに歪んだ顔で首を傾げる。「減ったら食べ、食べる? 食べたいな? なに、何をたべ?」
首が右へ左へと振られ、瞳孔は定まらず、それぞれがバラバラに上下左右に動く。掴まれた左足首の骨が悲鳴を上げる。人間ではあり得ない握力で握られていた。
視界が暗くなり揺れる。怒りで赤黒く塗り潰されて揺れる。
アイツ、アイツっ、アイツっ! アイツっ!!
キリムの十四の赤い眼が鮮やかに光る。七つの顔が闇色に染まって嗤っていた。
あの時俺が躊躇したことを。俺が人ごとキリムを切れなかったことを理解してこんな、こんなことをっ。
悲鳴。女性の甲高い悲鳴があがる。
「わ、私の手っ、手が手が手がぁぁぁぁあああああ!」
女の人の両の前腕から指先が赤黒く変色し、皮膚が裂け、腫瘍のように膨れ上がる。まるで生きているかのように腫瘍が蠢き、上腕、肩へと絶叫する女の身体を飲み込んでいく。
その光景を見ていた五人の十の眼が恐怖で極限まで見開き、口からは言葉にならない絶叫をあげる。
恐慌に陥った青年が「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ、助けてお願い! お願いだからだずげでっ!」涙と鼻水を垂らしながら俺に向かってくる。背中が爆ぜた。直径五〇センチメートルの巨大な肉色の腫瘍が爆ぜた背中から生まれ、それは上へと伸びていく。蛇のように鎌首を擡げて青年の顔に影が落とす。「へ?」肉の触手が青年の頭を飲み込んだ。手足がバラバラに痙攣する。肉の触手は飲み込んだ頭から徐々に身体を飲んでいく。まるで蛇の捕食のような光景だった。
悲鳴に絶叫。苦鳴に怒号。
「いたい、いたい、いたい、見えないっおがあさんどこぉお」泣き叫ぶ幼い少年の皮膚が溶けていく。
老婆がその少年に這い寄り、優しく抱きしめる。老婆の皮膚も溶けて赤黒い肉が見えていた。苦痛で顔は歪んでいたが、それでも少年に笑顔を見せ「大丈夫、大丈夫よ……」と言い聞かせていた。
年老いた男は自分の身体の変化に助からないのだと悟り、俺に向けて首を左右に振り、優しく微笑んでいたがそこには絶望しかなかった。
「おいっ。お前!」
中年の男が叫ぶ。
「お前っ、お前ぇ刀使いだろっ。助けろ!」
動かない俺に苛立ち「さっさと俺を助けろ! ぼーっとしてんなっ、助けろって言ってるだろうがっ!」中年の男が怒鳴り散らす。
それでも俺は動けなかった。
何で動けない? 何で、何で? 何で身体が震える?
視界が深紅に染まる。頭が、痛い。心臓が早鐘のように鼓動を打ち、耳に響いてうるさい。頭が割れそうだ。
息苦しくなる。息が上手く吸えない……。息ってどうやって吸うんだっけ?
俺の記憶が、視界が混濁していた。この場にいない人たちが見える。南の、俺の大切な人たちがそこに何人もいる。もういない人たちが助けを求めて手を伸ばしている。
俺は、俺はっ。
「お、おにいちゃん……おにいちゃん、たすけてぇいだいよぉ、こわいよぉ」
幼い少女がその人たちと重なる。
赫。
ちがっ、違う。違う。違う、違う、違うっ、違うっ! 違うっ!!
ここは南じゃない。南じゃないっ!! 南支部はもうないんだっ!!
だから落ち着け。落ち着くんだ。落ち着け、落ち着け、落ち着けっ、落ち着けっ、落ち着けっ、落ち着けっ、落ち着けっ! 落ち着けっ! 落ち着けっ! 落ち着けっ!!
「落ち着けぇぇぇええええ!!」
「そうだ、落ち着け……」
後ろからよく通る優しい男の人の声が聞こえた。ひんやりとした無骨な手が俺の視界を塞ぐ。冷たい手が熱を奪い、強張っていた身体から力が抜けて止まっていた呼吸が再開される。
両目を覆っていた手が優しく頭を撫でる。
俺が見上げると、青く輝く空を遮る黒髪の男が安堵の笑みを浮かべていた。衣服に血がつくことなど気にせず、ふらつく俺の身体を支えていた。
「ビル一棟を倒壊させるとは……。まぁそのお陰で居場所が分かったんだけどね」
背が高い、優男のように見えるが、右手には巨大な剣の柄が握られていた。
俺の刀より長大な刀身に少し湾曲した片刃。男の髪と同じ漆黒の刀。
「いやぁ、アリス司令に場所を聞かずにカッコ良く通信切ったもんだから、聞き返すのが恥ずかしくってね。何はともあれ……」俺の肩や太腿の傷を見て「重傷みたいだけど、命が無事で良かった……」苦笑する。紫色の双眸には安堵と心配の成分が混ざり合っていた。
「一人でよく頑張ったな。後は俺に任せろ」
右手に持っていた男の刀が閃く。俺の足下で肉の塊になりはじめていた男の頭部に刃が突き立てられ貫通、アスファルトに到達する。男の体が跳ね、手足が力なく地に落ちて絶命した。頭部から刃を伝って鮮血が流れ出し、俺の血と混ざり合う。
男は静かに瞳を伏せ「どうか、安らかに……」悲痛を孕んだ声が呟いた。
胸が締め付けられ、痛みを生んだ。泣きそうになりそれを無視。俺も瞳を閉じて男に倣い黙祷を捧げる。
「やり方が汚いと言うか、卑怯って言うか。まぁ、極東のキリムはこんなもんだけどね……」
顔を上げた男を見た瞬間、キリムの十四の眼が恐怖に見開き震え出す。
「とりあえず、お前は殺す」
穏やかな声音だが、男から放たれる殺気が大気を震わせる。
黒髪の男はまた俺の頭を優しくぽんっと叩き歩を進める。逞しい広い背中には赤い蓮の華を貫く刀の紋様。刀使いの<印>である紋章が風になびく。
刀を翻し、柄を握る右手を左後方へ。重心を低くし左足を後方へ、抜刀の構え。
「囚鬼鏖殺之技、斬華っ!」
男の姿が霞んで消えた。
疾風。
激し風に巻かれて顔を伏せる。髪が衣服が弄ばれる。
風が収まり顔を上げると俺の後ろに人の気配があった。振り返るとそこに男の背中があった。漆黒の刀身に朱線が走り、それとは別の赤い液体が刃に付着していた。
速過ぎて見えなかった。いや、違う。見えるとかそんなものではない。感じることさえできなかった。目の前から消えて後ろに現れた。
男は刀を一振りして液体を振り払う。アスファルトの赤い軌跡を描く。こちらへ振り向いた男の左眼は、紫から鮮血色の赤に変わって輝いていた。
俺以外に赤い瞳を初めて見た……。
重量のある落下音に大地が振動する。
キリムの左の赤子、その隣の少女と少年の頭部がアスファルトに音を立てて落ちていた。切断された頸から噴水のように鮮血が噴出。あたりに血の雨を降らす。
絶叫。キリムの左手が三つの頸の切断面に触れ血を止めようとしているが、指の間から絶え間なく溢れ続けていた。
「ちっ。ハズレか……」
男の眼が三つの頭部に注がれる。転がる頭部は恐怖に見開いた眼のまま硬直していた。表情があの時のまま、切断さられたことに気づいていない?
キリムが後退る。この人を見てからキリムの様子が明らかにおかしい。恐怖と怯えが伝わるほどに、だだ漏れている。
「何だお前。俺を知っているのか?」
大剣を肩に担ぎ前へ出る。男が歩を進めるたびに、キリムがその分後退していく。反撥し合う磁力のように男が近づいた分だけキリムが離れて、その距離が縮まることがない。
男の歩みは徐々に早まり疾走となる。キリムは身を翻し、背を見せ地響きを轟かせながら逃走する。
老翁が後ろを振り返ると目の前に優しく微笑む男がいた。右からの下段斬りが老翁の左眼に直撃し、そのまま斜め上に切り裂き両断。鼻から上が消失。鮮血を撒き散らし力なく頸が前方に倒れた。
男がキリムの背中に着地した瞬間、老婆と残った赤子の頭部から四本の舌が殺到する。が、横薙ぎ一閃で全てを切断。後方に血の帯を引きながら切断された舌が落ちていく。
「後ろっ!」
俺の叫び声なのか、気づいていたのか分からないけど、横薙ぎの反動を利用して右足を支点に振り向き上空へ飛翔した男は、自身の頭上に黒い影を落とす大口を開けた少年の頭部の口腔内に刃を突き刺した。後頭部を貫通した刃が反転して脳が収まる頭蓋を下から両断した。声にならない絶叫をあげて少年の頭部は地面に落下。嫌悪感を感じる潰れる音が響き両断された頭蓋から脳漿が零れる。
無駄な動きが一切ない華麗な剣技に魅入っていたが、我に返りあたりを見回す。探していた赤子の頭部と少女の頭部が消えていた。どこにもなく、残っていたのは血溜まりと、姿が変貌しはじめた人たちだけだった。
「しまった。処理を先にすべきだったか……」
「キリムが、逃げるっ」
傷の痛みを無視してキリムを追う。
「待て」
男の手が俺の左肩を掴んだ。激痛が全身を駆け抜け感電したように痺れて蹌踉ける。蹌踉けた身体を男の左腕が支える。
この人、わざと傷がある左肩を掴んだっ。
睨むように見上げた男の顔は困ったように微笑んでいた。
「アレは駄目だ。半矢だ」
「は、はん……や?」
「そ。極東の猟師の言葉で致命傷とならず、半端に傷を負わしてしまったことを言う。そういう手負いの奴は何をしてくるか分からないから危険なんだ」
キリムが逃げ去った方を見て、男を見上げる。
「いや、すまない。逃がすつもりはなかったんだけどな……」
右頬を人差し指でかきながら気まずそうに俺から視線を逸らし「これはアリス司令に怒られる案件なのでは?」と独り言を漏らしていた。
「あの……」
「あぁ、すまない。回復薬などの携行品は持っているか?」
「いえ。異動だけと思っていたので、何も……」
「それで飛び出すとは。囮になるにしても無謀だな」
「すみません……」
「とりあえず、二本打っとけ」
男は太腿に付けた小さなバックから緑の液体が入った二本のペンを取り出す。ペン型の回復薬を俺に手渡してくれた。
「ありがとうございます」
<回復薬>刀使いのために開発された薬。鎮痛に止血をおこない、造血もしてくれる。深い傷でも線維芽細胞に働きかけ、応急的に肉芽組織が傷を塞いでくれる。
俺はお礼を言ってペン型の回復薬を受け取り、二本のベン先を左の上腕に押し当てる。押し当てるとペン先から針が表皮を貫通して薬液を注入していく。
怪我の痛みが和らいでいく。右足は動かしても問題ない。血も止まっている。左肩は骨が粉砕しているから動かせないけど痛みはなくなっていた。
「それと抜刀してからどれくらい経つ?」
「たぶん……二十分くらいだと思います」
「そうか……」
右手を顎に添えて何かを考えて込んでいた。柔和な紫と赤い瞳に真剣な光が宿る「なら……」男の大きな体が道をあけるように横にずれる。俺の視界が開けて見えたのは、肉色の塊に体が浸食汚染されはじめた人たちの姿だった。呻き声に助けを求める声をあげ泣き叫んでいた。
息を飲む。
「やれるか?」
俺の顔を覗き込む男の黒髪に陽光が差し青紫色に輝いていた。真剣な眼差しが俺に問いかける。俺はその問いに答えないといけない。
刀使いには責務が二つある。
一つは、囚俘の殲滅。
もう一つは、囚俘に体を浸食汚染された<核>を持たない人たちを、完全汚染の囚俘化する前に命を絶つこと。
微かに震える右手を強く握りしめる。右手には刀の柄。その先には鈍色に輝く鋼の刃。
鼻から深く酸素を吸い、肺から空気を抜ききるよう口から吐き出す。
「大丈夫です。やれます」
「分かった」
憂いに満ちた微笑を浮かべた男は、また俺の頭を軽く叩いて、熱と痛みに泣き叫ぶ幼い少年と老女の元へと歩き始める。右手には大剣。大きな背中に見えるのは刀使いである<印>の赤い蓮の華と華を貫く刀の紋様。刀使いである責任と義務を背中で語っているように俺には見えた。
俺の成すべきこと。俺の引けない理由。刀使いになった……いや、ならせてくれた人たちのためにも、逃げるな。戦え。俺のはそれしか残っていないっ!
「おにぃ、ちゃ。だずげでぇ、いだいのは、こわいのはやだよぉ」
幼い少女の元へと向かう。少女の体はもう手遅れに近い状態にまで浸食汚染が進んでいた。片膝を地面について、赤紫色の腫瘍に飲まれていない小さな手を優しく握る。愛らしい顔の右半分が腫瘍と同化しはじめている。少女の眼に俺しか映らないよう身体で視界を塞ぐ。
「大丈夫だ。もう痛いことなんてない」
少女の大きな眼から滂沱と流れる涙。
「痛いことも、怖いことも、終わるから……」
「ほ、ほんとぉ? もういだぐない? ごわぐない?」
少女の問いに俺は優しく微笑む。
俺の後ろで泣き続けていた少年の声が途絶えた。笑顔が崩れ凍りそうになるが耐えた。笑顔を保て!
「おかあざんに、あえる?」
「うん。目をつぶったら、きっと会えるよ」
ゆっくりと嘘の言葉を紡ぐ。嘘に優しさなんてない。誰かを傷つけないための嘘。誰かを守るための嘘。その嘘で誰かを救えたとしても、その誰かはどんな時でも、どんな場合でも、己自身の保身と傲慢な心からのものだ。それでも人は嘘をつく。嘘のない世界なんてものは存在しない。いや、存在できない。
少女は笑顔を見せて瞳を閉じた。閉じた瞳から涙が流れ頬へと伝う。俺の嘘を信じて純真な涙が地に落ちる。
静かにゆっくりと立ち上げる。右手の持っている刀を反転させ、刃を少女の頭上に。
「安らかに……」
刃が少女の頭部を貫く。頭蓋を貫通して脳を破壊。アスファルトに広がる赤い流れに膝をつきそうになる。
少女の体を飲み込もうとしてた肉色の塊が溶け始め、血の海へと流れ混ざり合って消えた。腫瘍の消えた少女の体は元の人間のものへと戻っていた。傷一つない綺麗な体には頭部だけが存在しなかった。刀で貫いた頭部は腫瘍と共に赤い海に沈んで溶けて消えたのだ。
これが浸食汚染されてしまった人間の末路だ。絶対に頭部だけは残らない。
静かに目を閉じ、黙祷を捧げている俺の耳に「なんで……」と女性の震える声が届いた。女の目は痛みを忘れて驚愕に見開かれていた。
「なんで、なんで助けてくれないのよ! 刀使いは助けてくれるんじゃないのっ!」
「そ、そうだっ! そんな使えないガキに薬なんか渡して無駄使いするな! 俺によこせっ!!」
中年の男の人が女の人に同調して怒号をあげる。
「アレは刀使い用に開発された物で、核を持たない人にとっては即死の猛毒だ」
男の足元には赤い血が広がっていく。その中心には肉蛇に飲み込まれていた青年の身体があった。そしてその先には頭部ない幼い少年と、少年を抱きしめる頭部ない老女の身体があった。肉蛇と腫瘍は溶けて消えていた。
「嘘をつくなっ。いいからよこせ!」
「いだぐて、熱いのよ。何とかじで、だずげてよぉ」
「うるさいっ黙れ! いいから早くよこせ!」
苦痛に泣き叫ぶ女に中年男が怒鳴り反す姿を見て、黒髪の男が溜息を漏らす。
巨大な片刃の刀身を肩に担ぎ、騒ぐ中年男に歩を進める。俺の前を通り過ぎる男の柔和な瞳が、冷たく凍えていくのが見えた。紫電と鮮血の瞳に鋭利さが増す。
中年の男を見下げる男の雰囲気に、背筋が寒くなる。
「悪いが俺は、自分のことしか考えない人間が嫌いでね。そういう人間は苦しんで死ぬべきだと常々思っている」
「な、何を言っている?」
「でも、そんな人間は可哀想な人なんだと、哀れな人なんだと教えてくれた人がいてね」
「だから、さっきから何を言っている!」
中年の男が苛立つ。会話が合わない二人のやり取りに不安ではなく、確信的に感じる黒い意思があった。
腿に付けた小さなバックから回復薬を一本取り出す。左手に持ったペンを反転させて中年男に差し出した。緑の薬液が揺れる。
「な、何だよ。出すなら黙ってさっさと出せばいいだろ」
「駄目だっ、待って!」
俺の言葉など聞く耳を持たない。
中年男は回復薬を奪うように男の手から取ると、溶け始めていた左腕に打ち込んだ。
絶叫。
腕に薬液を打ち込んだ瞬間、中年の男の口から絶え間なく絶叫があがり、のたうつ。皮膚が溶解し、肉の腫瘍が蠢き中年男の体を飲み込んでいく。絶叫の中、助けを求めるように皮膚が溶け赤黒い肉を見せる右手が伸ばされる。が、その手は空を掴むだけだった。そして飲み込まれていった。
刀使いの男はただ見ているだけだった。冷たく鋭利な双眸には憐憫に揺れていた。
中年の男は文字通り赤黒い肉の塊になっていた。血管のようなものが浮き上がり、微かに鼓動している。
「だから言ったじゃないか……。人の話は聞くもんだ」
男の言葉が俺の心を鋭利な刃が刺し貫いた。くっ、心が痛い……。すみませんっ関田さん!
「そこ薬は細胞を活性化させる。刀使いでさえ刀を抜いていない状態で使用すれば、活性化した細胞が暴走して正常な細胞を殺していく。そんな薬を<核>のない、浸食汚染された人が使用すれば、活性化された細胞が毒を全身に運んで一気に汚染が進み……」
手には回復薬が握られていた。
「そして……」
肉の塊が爆ぜ、中から赤い粘液の塗れた巨大な犬の頭部が現れる。囚俘としての再誕の産声の咆哮。
獣種囚俘ハウンドヘッドが爆誕した。
「囚俘化する」
大口の中、短剣のような刃の歯の奥に人間の頭部があった。その顔は中年男のものだった。
巨大な犬の頭部には眼がなく、鼻を高く上げ周りの匂いを嗅ぐ。嗅覚に優れているハウンドヘッドが近くにいた男の匂いに気づき顔を向ける。
咆吼をあげながら男に向かって走り出す。巨大な頭部だが体は不自然に小さく、前足が長く後足は短い。そのせいか走る速度は遅い。
男は刀を構えることもなく向かってくるハウンドヘッドをただ見ているだけだった。
風。
先程まで男がいた場所でハウンドヘッドが蹌踉めきながら大口を閉じた。ハウンドヘッドの顔の中心に赤い縦線が描かれていく。その線は上下に伸びていき体に到達していた。
ハウンドヘッドの頭頂部から血の尾を引きながら左右に分れていく。両断された体が左右別々に倒れて内臓を撒き散らす。男はその先にいた。刀についた血を振り払う。
また見えなかった。やっぱり速過ぎる。
囚俘の両断された体から血が流れ広がっていく。血の海に横たわる囚俘化した中年男性は人間の体に戻ることなく、ハウンドヘッド化したまま赤い血に体が溶けて消えた。何も残すこと無く、全て消えた……。
黒髪の男は左手で顔を覆った。指の間から見えた顔は辛そうに歪んでいた。
わざとだ。あの男の人を人柱にして希望がないことを見せつけたんだ。刀使いは囚俘を殺せても浸食汚染された人を救うことはできない。
「お姉さんもこうなりたいですか?」
振り返った男は優しく微笑んでいた。顔が崩れはじめている女性は静かに涙を流し、左右に首を振った。
「わがってたの。知ってたの。こうなったら助かる方法なんてないごとは……」
男は女性の悲痛な言葉に耳を傾けながら、女性の元へと歩を進める。
目の前に辿り着くと、地に片膝をついてその人と目線を合わせ、涙に濡れる瞳を見つめる。
「それでも助けて欲しかった。だって私まだ何もしでない。いぎだいっ、生きだいの! 死にだぐない!!」
男は静かにうなずく。女の人はまだ二十代くらいだろう。
「でもあんな化物になって死ぬのは嫌だっ!」
生きたいが化物にはなりたくないと叫ぶ女の人に、胸が痛む。
「だから、だから……」
進行していく浸食汚染が決断を促す。
「殺して……」
女の人は気丈に微笑んだ。頬を伝って流れ涙が陽光を受けて煌めく。
浸食汚染で激痛が身体を蝕んでいるのに、微笑んだ。その微笑みはどんなものよりも、何よりも美しく神々しかった。
胸に激痛が走り、俺は胸倉を掴んだ。また息が苦しくなる。
「その決断に敬意を」
男の言葉に笑みが凍りつき崩れていく。そして歪み、悪鬼のような憤怒の顔が男を見上げた。
「何が敬意よ! そんなこと言うくらいなら囚俘を全部殺してよっ!」
刃が顔面に落とされた。幅広の刀身は女の顔を両断し、脳を破壊して喉を貫通。悲鳴をあげることなく女の人は絶命した。
溶け崩れていた身体が元に戻っていく。肉の腫瘍は溶けて血に沈む。身体は綺麗に元に戻っても首から上は戻らない。腫瘍と一緒に血の海に溶け消えた。
女性の最期の怒号が胸に谺する。
駄目だ。しっかりしないと。俺も刀使いなんだ。あの人だけにこんなことさせられない。
静かに痛みに耐える年老いた男の人に歩を進める。
「すまないねぇ。君のような年若い子にこんなことを任せてしまって……」
「……いいえ」
「一ついいかね?」
「はい」
苦痛に歪んでいたがそれでも穏やかだった老翁の顔が急変する。女の人と同じ怒り満ちた悪鬼の顔となる。
「お前たち刀使いがしっかり守ってくれていたらごっおっ!」
目の前を黒影が遮る。黒影は年老いた男の顔面を両断する巨大な刃だった。男が投げは放った刀が頭蓋を容易く貫通して脳漿を破壊。胸部まで刃が貫き老人は即死した。
「仰るとおりです。若輩者にご指導ご鞭撻いただきありがとうございます。以後いただいたお言葉を胸に刻み邁進していきますので、どうか安らかに見守りください」
刀の柄に両手を添え、瞳を閉じて黙祷を捧げる男の姿が俺の目には悲痛に耐える姿に見えていた。
俺の視線に気づいて優しく微笑む。
「そろそろ刀を納めて、核で肩の骨を治したほうがいいな」
「あの……」言葉に詰まり「は、はい」何も言えない。俺がやらなければいけなかったのに……。
戸惑いながらも柄を旋回させて逆手に持ち替える。刃を自分に向ける。鞘は己の体。刃が体に触れると、刀から光が溢れその形を失い、光の花弁となって散っていく。
俺の刀が光となって消えことを確認して男がうなずく。
「ゆっくり。加減を間違うな」
骨が砕けた左肩に右手で触れて、身体の中を巡る核の力を左肩に集めるよう意識を集中する。
核の力が粉砕された骨を癒着させていく。痛みはないが気持ち悪くなる。身体の中が何かに蝕まれていくような感覚に、汗が吹き出る。
あともう少し……。
「そこまでだ」
男の手が俺の右手を掴んで肩から離した。集中が切れて意識が外へ向く。息が上がり肩を上下させていたことに気づいた。
「それ以上は駄目だ。身体を見ろ」
男に言われて両腕を見た。見慣れた自分の褐色の肌に薄く黒い模様のようなものが浮き出ていた。
何だ、これ? こんな模様みたいなの、初めて見た。
俺の疑問の目を受けて、男の目も疑問に染まった。小首を傾げて困惑しながらも「詳しくは極東支部で話そう」と優しく笑いかけてくれた。これは知っていなければいけないことなんだ。背筋が寒くなる。男の雰囲気からそんな感じがしてならない。
とりあえず左肩を回して具合を確かめる。大丈夫、違和感はない。
俺の不安を感じたのか、それとも不安が表情に出ていたのか、男の大きな手が俺の頭を乱暴に撫でる。
「大丈夫だ。その模様みたいなものは刀を抜かなきゃすぐに消えるから」
なんだか恥ずかしくなってきた。
「そう言えば、名前をまだ名乗ってなかったな」
老人を貫く大剣の抜き、血を払う。柄を器用に旋回させ、逆手に握った刀の刃を自身の身体に突き刺す。刃は身体を貫かず、身体に触れた部分から光となって霧散していく。
刀が光の破片となって風に舞って消えていくのを確認して男はうなずいた。黒髪が光を受けて青紫に輝く。赤くなっていた左眼が元の紫色に戻っていた。
「初めまして、俺は諫早。諫早直斗です」
諫早と名乗った男が右手を差し出した。俺は反射的に差し出されたその手を握って握手していた。
「リュウです。家名はありません」
「おう、知ってるぞ元気っ子。今日来る南出身の新人だろ」
屈託のない笑顔が輝いて見えるが、元気っ子って……。
「ようこそ。理不尽で不条理な、囚俘激戦地の極東へ」
両手を横に広げて極東の地を示す。
「歓迎するよ」
歓迎……。俺を受け入れてくれる。なんだろう。また恥ずかしくなって、むず痒くなってきた。
「さて、支部へかえ……」
諫早さんの目が何かを見つけ、動きが止まる。目線を追うと、女の人の血溜まりから花の蕾が生まれ、茎を伸ばし、凜と花を咲かせた。血と同じ真っ赤な色をした蓮の華だった。
女の人だけではなく、幼い少年と少女、老女に老翁の血溜まり、そして囚俘化した中年男の黒血の海から血を吸って成長した蓮の華が咲き誇っていた。
「こちら諫早。応答どうぞ」
右耳に手を添え小型通信機を起動させていた。
「回収班を頼む。キリムが吐き出して……。あぁ、そうだ。それと華が咲いた」
諫早さんの眼は蓮華を見据える。紫電の瞳は少し疲労の色が見える。
「……ん? あぁ、元気っ子は無事ですよ」
俺を見て笑顔で手を振ってくる。反応に困ってしまい、わ、笑っておこう。
どうやら諫早さんの中で俺=元気っ子ということになってしまったようだ。やめてください、恥ずかしい。
「了解した。じゃ、よろしく頼む」
通信を終え一息吐く。
「回収班が来るまで、ここで待機な。警戒は怠るなよ」
「分かりました」
「それと、その女の子の華はお前が受け取れ」
「え?」
「華が何本咲いたか報告していないから大丈夫だ」
紫水晶の眼差しには真剣さがあった。
「その子の分まで生き抜く誓いと共に受け取れ。いや、受け取るべきだな」
「でも……」
「囮として飛び出すそうな危なっかしい元気っ子には、その誓いが必要だと思います」
満面の笑みで言われた。返す言葉がありません。
俺の返事がないことに諫早さんの無言の笑顔が責め立てる。
「わか、りました……。誓いと共に謹んで受け取ります」
「よろしい」
満足のうなずき。
赤い血の海に横たわる、首から上を消失した幼い少女。頭部があったであろう場所から蓮の華が芽を出し、少女の血を糧にして成長していく。俺の腰の高さまで成長した蓮は深紅の花弁を開く。
華を優しく両手で包み込み、摘みあげる。手の中の真っ赤な蓮華の花弁が風に揺れる。花弁の先から枯れていくように黒く変色していき、華の形が崩れていく。両手の中で美しい華から赤黒い液体に変わっていった。
まるで血だ。
赤黒い液体になった蓮の華は手の平の隙間から零れ、地に落ちることなく俺の手に染み込んでいった。赤黒い液体が染み込んで消えた手を見つめ、握り締める。
「ぐっ!?」
右肩にある<核>が熱くなり激痛が走った。
<核>の鼓動音が耳に響く。燃えるように熱い右肩を掴んで痛みに耐える。左の五指に力が入り爪が肌に食い込む。皮膚が破れそうになるが無視。痛みに耐えることに必死だった。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
痛みと熱が徐々に引いていく。数秒のことが数分、数時間に感じられるほどの痛み。<核>を見ると赤黒い何かが渦巻き、ほくそ笑んでいるように見えた。左手で<核>を覆い隠す。もう痛みも熱もない。安堵の息が漏れる。
「大丈夫です」
諫早さんは微笑んでうなずく。出会って間もないが、この人はよく笑う人だなという印象だ。目が合うと優しい笑みが迎えてくれる。紫の双眸には慈愛に満ちていた。
俺はその優しい眼を知っている。父さんと母さんのあの眼に似ている。
「知っていると思うが、この蓮の華は刀使いの<核>と<刀>を強化してくれる。進化し続ける囚俘に対抗するために必要なものであり、回復薬やその他の薬液開発に必要で重要なものだ」
俺は力強くうなずく。
「そして、これは命だ」
鉄と生臭いにおいが漂う、赤い海から芽を出した蓮の華が風に吹かれ揺れる。真っ赤な花弁は美しく、しかし見つめていると不安に駆られる、不吉の赫。
「命は命でしか生かすことができない。命は命でしか償うことができない」
良く通る諫早さんの声音に力強い意志が込められる。
「生きろ。死ぬために生きるな。今までに犠牲になった人たちの分まで、全力で最後の最期まで足掻いて生きろ。それはここ極東での絶対命令だ」
笑みから真剣な表情となる諫早さんに、俺の姿勢が正される。
感染汚染で囚俘化した人たちに生きることを諦めさせた責任がある。生きることがどんなに辛くなっても、奪った命に恥じないよう生き続けなければいけない。
それが救いでも、命を奪った事実は消えない。
左手を胸に、心臓の上に置き、諫早さんの言葉を心に刻む。
俺は……。
南支部のことが思い出され、我知らずに左手に力が入る。服ごと強く握られた左手の中には硬質の物があった。その硬質の物にも諫早さんから言葉を刻みつける。
「さて、回収班が来るまで二人で周囲を警戒しながら待ちますか」
晴天の空の下、昼寝でもしますかという気軽さで、諫早さんは笑った。その笑顔につられて俺も口元が綻ぶ。
酸鼻な光景に陽光が降り注ぐ。血の臭いに囚俘が集まる前に、回収班の人たちが来てくれたらいいなと思う。
空を見上げると、白い雲がゆっくりと流れていくのが見える。静かに流れていく白雲を見ながら、ヘリは、サイは大丈夫だろうかと心配したが、極東支部に連絡をした諫早さんが何も言わなかったから、きっと大丈夫だ。
諫早さんに視線を向けると、諫早さんも空を見上げて、眩しそうに眼を細めていた。今日は本当に天気が良い。南とは違う、極東の少し冷たい風が髪と頬を撫でる。
今日からこの地で生きていくんだ……。
自然と両手に力が入り、拳を握り締める。
諫早さんとまた眼が出会った。紫電の双眸が柔和に、俺に微笑みかけてくる。
本当に、この人は、よく笑う人だな。