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刀使い  作者: とりちゅう
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一章:世界の祝福と愚者の夢①

稚拙ながら物語を紡がせていただきます。

気長にお付き合いいただけましたら幸甚でございます。

よろしくお願い致します。

 黄金に煌めく空より、緋色の花びらが舞い散る。


 世界の祝福。雲の隙間から降り注ぐ光の帯は、神々を描いた絵画のように神秘的で、その玲瓏(れいろう)な光景に感嘆の息が漏れる。


 でも、何故だろう? こんなにも美しく光り輝く世界なのに悲鳴や絶叫、怒号が聞こえるのは……。


 轟音。


 黒煙に包まれ炎上する車。一台だけではなく道路は火の海になっていた。ビルの窓から炎が吹き荒れ、狂乱の中逃げまどう人々にガラスの破片が襲いかかる。


 何が起こっているのかわからない。何が起こったのか思い出せない。理解が追いつかない。

 ただ、ただ身体が重く熱い。痛いし痛い、苦しいし痛い。喉がどうしようもなく乾く。熱い。痛い。


「ひっ!」


 ビルから逃げ出てきた女と眼が合う。私を見た女のその瞳には、恐怖が貼り付いていた。

 いや、そんなことよりも、アレ何?


 女の後ろ。ビルのひび割れたガラス扉に映る何かの塊。振り返って後ろを確認した。


 我先に逃げる人。ビルから飛び降りる人。炎に巻かれる人。落ちてきたコンクリートの瓦礫に潰される人。恐怖の混沌の中、私が見たモノはどこにも見当たらない。


 背筋に悪寒が走る。恐ろしい気づきに身体が硬直する。


 もし、もしかして、わ、わわた……し?


 ガラスに映る自分を確認しようと、一歩前へ動くと女は悲鳴をあげ、腰を抜かしながらも必死に後退る。


「こ、来ないでっ! 来るな来るな来るなっ!」


 手に触れたガラスやコンクリートの破片を私に投げつける。


 痛い痛い痛い痛い痛いいたいぃ!


 目の前が真っ赤に染まる激痛。突き刺すような耐えがたい痛み。止めて欲しくて暴れる女の左足を掴む。足を掴んだ私のその手は、皮膚が溶け、どろどろとした赤黒い肉の塊だった。


「やめてぇ! 放して、いやっ来ないでっお願いっ!」


 必死に掴まれた足を振りほどこうとする女の泣き叫ぶ姿を見て、思い出したことがある。


 あぁ、そうだった。おなか減ってたんだ……。



  ******



 赤。朱。紅。赫。


 赤黒く染まった視界。耳には悲鳴と怒号が響く。生臭い鉄の臭いが鼻を刺激する。


 どこにいる?


 必死に手を伸ばして彼女を探す。


 どこにいる? 無事でいる?


 赤く染まった視界の中で必死に走る。ぐちゃぐちゃと水を含んだ潰れる音が追いかけて来る。


 どこにいる? 彼女まで()くしたら、俺はどうしたらいい?


 叫ぶように彼女の名前を呼ぶ。


 どこにいる? 俺の声に答えてくれっ!


 阿鼻叫喚。轟音と爆音で彼女の声が掻き消される。


 うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさいっ。うるさいっ! 黙れっ、うるさいっ!!


 どこにいる? やめてくれっ。彼女まで奪わないでくれっ! 大切な人なんだ。お願いだからやめてくれ……。


 俺を呼ぶ小さな声に振り返る。


 彼女の無事に安堵で両足から力が抜けるが、奮い立たせる。


 ここから逃げよう。


 彼女の口が動く。何を言っているのか分からない。


 彼女の口が動く。言っている言葉が形にならず理解できない。


 手を伸ばす彼女は頬笑んでいた。



  ******



 晴天の空を回転翼のエンジン音を轟かせながら進む、軍用輸送回転翼機。輸送といっても戦闘用のヘリを輸送用に改良したものなので、座席はなく無骨な鉄の床にじか座り。乗り心地は……いや、ヘリに乗るのはこれで二回目だから比べようがないし、一度目も似たよう物だったからな。


 高度三〇〇〇メートル。この高度は回転翼機では危険らしい。気流の影響が強く、浮揚力が低下する。操縦者の技術が高く機体の揺れは、ほぼない。


 酸素濃度は地上の約七割り。これ以上の高度は原則的に酸素供給が必要になる。酸素が薄いところでは目眩や吐き気などが起こるが、今のところ体調に異常はない。少し肌寒いかな?


 ほかに俺と似たような外套に身を包んだ三人が乗っているが、誰も体調不良を訴えていない。


 一人は俺の向かい側、窓の外を興味深く眺めている。一人はその横で寝ているのか、ずっと静かだった。もう一人は一番後ろにいて、布に覆われた荷物に身を寄せている。その荷物から時々、変な音が聞こえるのは気のせいだろうか。


 俺も肩越しに窓の外を見る。窓からの景色は自然豊かな濃緑色と、破壊尽くされ荒涼とした暗灰色がはっきりと分かれている。どこも似たようなものなんだろうか。でも、南よりマシだ。南は見渡す限り砂色しかなかった。


「今戦闘中ってどういうことだっ!」


 操縦席からの怒号。慌てだした二人の操縦士。その様子に、外を見ていた人と荷物に身を寄せていた人が、操縦士の様子を不安げに伺っている。フードを目深くかぶっていて表情は分からないが、動揺が伝わってくる。


「何かあったんですか?」


 俺は外套のフードを外し、操縦席に顔を出す。


「あぁ、すま…………」


 俺の顔を見つめて、固まる主操縦士。ええっと、なんかすっごい見られてる。

 戸惑う俺に気づて「いや、失礼。人の顔をまじまじと見るとは失礼だった」

 頭を軽く下げる。


「あ、いえ」


 子供の俺に大人が丁寧に謝意を示したことに恐縮して、俺も慌てて頭を下げる。


「赤い瞳を見たのが初めてで。本当にいるんだなっと、美しいなと思ってしまって……」


 男に向かって美しいとか真顔で言えちゃう人、俺も初めて見ました。

 真面目な人って時々、うん、時々たまに、稀に、極稀に、おかしいなことを言うよね。

 どう反応していいのか分からず、曖昧に笑っておくことにした。ちゃんと笑えているか不安だ。


「そうだった。もうすぐで極東支部に着くんだが……」


 言い淀む主操縦士に変わって、副操縦士がその後を引き継ぐ。


「どうやら支部付近に、大量の<囚俘(しゅうふ)>が現れて防衛戦になっているらしい」


 <囚俘(しゅうふ)>人間だけを喰らい、人間が作り上げた物を破壊し、喰らい、人類社会を破滅に追い込んだ化け物。人の敵は人だったが、囚俘が現れて以来、人の敵は人と囚俘となった。


 囚俘と戦闘中と聞いて更に不安と恐怖が場を支配する。伝染してきた緊張を、静かに息を深く吸って吐き、和らげる。両手を強く握り締め無かったことにした。


「見えてきた」


 声に反応して顔を上げた前方に白煙。土煙や黒煙の奥、緑の壁に囲まれた要塞都市、囚俘から東地方を護る拠点である、極東支部の堂々たる全景が見えた。


 何度も拡張を繰り返しているのか、街の中に都市を囲む壁と似たような残骸が点在している。支部中央に壁よりも高く、階の途中から二叉に分れた建物が印象的だった。


 壁の外側、廃墟の街からまた新たに白煙が上がる。この高さでは駄目だ、戦闘状況が見えない。


「あの、高度下げられませんか?」

「馬鹿を言うなっ! 何のために危険を冒してまでこんな高度で飛んでいると思っているんだ!」


 主操縦士、ではなく副操縦士の荒げた声が俺に叩きつけられる。


「空を飛べる囚俘が地上から感知でき、尚且つ飛べる高度は一〇〇〇メートル。そこから攻撃範囲が約二二〇メートル。二〇〇〇メートルでも安全ではあるが、不測の事態に対応できるよう三〇〇〇メートルを選んで飛行しているんだぞ!」


 血の気が引いた副操縦士の顔には畏怖の色。瞳孔が開き、身体がかすかに震えているのが分かる。恐怖を知っている眼が俺を睨みつける。


 衝撃に息が詰まる。

 空を飛べる囚俘? そんなの知らない。南にはいなかった。

 知らなかったとはいえ、自分の無神経な言葉の刃が傷痕を抉り、鮮血を流させていた。


宮辺(みやべ)落ち着け。お前が取り乱してどうする」


 静かな主操縦士の声だった。冷静に努めているのがわかる。視線は真っ直ぐ前を見据えていた。


 物言いたげに口を開いた宮辺副操縦士だったが、ゆっくりと深呼吸を数回繰り返し「…………すみません、関田(せきた)さん」

「いや、いいだ。お前の気持ちはよく分かる」

「すみません……俺、何も知らなくて……」

「君、名前は?」

 急に名前をきかれて「え、あっ……リュウ、です」戸惑いながらも答えた。

「そうか、いい名前だ」口元を緩めて微笑む関田主操縦士。気まずい雰囲気が少しだけ和らいだ。横目で俺を見た関田主操縦士は、苦笑しながら続ける。

「こちらこそすまないな。俺たちは<核無し>で<刀使い>じゃないから不安なんだ」


 まるで今日の天気を聞いて、雨かと少し残念そうに呟くような静かなものだった。微笑みの中に(かげ)りを感じたが、関田操縦士の優しい気遣いに感謝を込めて頭を下げる。


 そうだ。<核>を持たない人もいる。


 俺は右肩に触れてた。外套の上からでも分かる、肌とは違う硬質な感触の異物<核>がそこにはあった。


「とは言え、このままの高度を維持するには、精神的にも技術的にも限界がある」


 機器の確認。燃料計のチェック。


「宮辺、極東支部の司令室に連絡。今いる囚俘に飛行型がいないかを確認」

「了解」力強く顎を引いてうなずく。すぐに機器を操作し、耳にかかっている小型通信機で連絡を取り始める。


「こちら第一〇八輸送ヘリ宮辺。極東支部司令室応答を」

「はい。こちら極東支部司令監視室。オペレーターの(あまね)です。先程お伝えした通り、未だ囚俘との戦闘継続中」


 呼びかけに即返事がかえってきた。

 通信機から漏れ聞こえた声は可憐で、耳に残る凜とした響きだった。


「着陸許可は……」


 可憐な声には戸惑いの成分が含まれている。この高さからの着陸でも流れ弾が当たる可能性を危惧しているのだろうか。


 少し心配しすぎではと思ったけど、『不測の事態』という宮辺副操縦士の言葉が頭を過ぎる。

 南の地しか知らない俺は、ここ極東において考えが至らない。南とはまるで違う。

 甘い考え、楽観視はここで捨てよう。また無神経な言葉で誰かを傷つけるかもしれない。

 それに俺は世界を知らなさすぎることがわかった。


「現在戦闘中の囚俘のタイプを教えてくれ」

「はいっ!」


 迷いのない真っ直ぐな声。


「監視カメラ及び監視ドローンによる目視の確認と、戦闘中の刀使いによる報告では、現在戦闘エリア内にいる囚俘は<獣種ハウンドヘッド><サンランクス>と<昆虫節足類種フォレアレニエ>の小型三種です」

「飛行型は周囲にいないか?」

「現在目視と報告にはありません。ですがこのまま戦闘が長引けば、視覚に優れている飛行型が現れる可能性は、(ゼロ)ではありません」


 いつ現れるか分からない敵への懸念。


「それと、一つ問題が……」


 凜とした声音が濁る。


「問題?」

「小型囚俘の行動に結束が見られます。何処かに中型か大型の統率者がいるようなのですが、未だ姿を発見できていません」


 宮辺副操縦士はオペレーターの周にお礼を言って通信を切った。機内に闇色の静寂が広がる。敵の全貌が不明の最悪の事態に、口が凍りつき閉ざされる。


「…………高度を下げる」


 意を決意した関田操縦士の言葉に、皆が顔を上げ注視する。

 このままの高度維持は不可能。しかし高度を下げれば囚俘に気づかれる危険性がある。進退両難の選択を迫られ選んだ答えだった。


 横顔からでもわかる、その瞳には力強い意思が宿っていた。その雄々しい姿に宮辺副操縦士も覚悟を決め、力強く顎を引く。


 俺もその覚悟に答えたい。俺ができることを成さねば成らない!


「高度下げたら扉開けても大丈夫ですか? 後方を見張ります」


 関田主操縦士の引き結ばれた唇が微笑みを象る。


「ありがたい。頼んだ」


 俺も力強くうなずいてみせる。


 元いた場所へ戻ろうとした時、視線を感じた。向かいにいる人が俺を見ていることに気づいた。

 フードがゆっくりと後ろへと落とされる。流れる金糸の美しい髪を、白皙(はくせき)の細い指が整える。宝石のように輝く大きな翡翠の瞳が俺を見つめ、白い頬を薄紅色に染めて微笑む。人形のような女の子だった。


「あの、私もお手伝いします。右側は任せてください」


 銀鈴の優しい声。オペレーターの周という人とはまた違う柔らかさがあった。


「リュウさん、ですよね?」


 名前を言われて首を上下に動かす。耳に熱を感じる。

 え、あれ? 俺、赤くなってる?


「私はティリエラ・ニィニと言います。よろしくお願いします」


 向けられた笑顔は大輪の花のように美しかった。

 俺はまた、うなずくことしかできなかった。


「高度を八〇〇メートルまで下げる」

「そこまで下げるんですかっ!?」


 宮辺副操縦士の覚悟を塗りつぶす恐怖の色。


「上から統率者を探す。見つからないのは戦闘エリアの外にいるからだ」


 関田主操縦士が不適な笑みを浮かべる。


「そして、そいつを狩れば戦闘はすぐに終わるっ! 急降下後、左右の扉を一斉解放。気流が乱れてかなり揺れるが、しっかり掴まっていれば問題ない」


 ヘリが揺れる。関田操縦士の眼に闘志の炎が宿る。


「行くぞ!」


 黒鉄の回転翼機は轟音と共に斜めとなり、急速に高度を下げていく。身体にかかる重力の圧が増す。内臓が浮き上がる感覚に全身に鳥肌が立つ。


 ティリエラと、後ろの方から苦鳴があがる。そして荷物の中からも異音が聞こえる。なんか怖いけど今は無視。


 時間にして数秒。斜めから水平に機体が制御される。


 ティリエラが胸を押さえながら、肩を上下に揺らし荒く呼吸を繰り返す。思った以上に身体にかかる負荷が強かったのだろう。女の子だしね。


「大丈夫?」


 右手が掲げられる。顔は苦痛に歪んでいたが、必死に笑顔を作ろうとしていた。大丈夫だと伝えようとしている。


 ティリエラの呼吸が落ち着くまで待つ。大きく息を吸って、ゆっくり深く息を吐く。顔は青白かった。


「すみません。もう大丈夫です」


 顔色はまだ戻らず、苦しそうにしているが、これ以上待ってはいられない。それはティリエラ自身もわかっていた。だから必死に苦痛に耐えている。


「同時に扉を開けてくれ」

「分かりました」


 関田主操縦士に言葉を返し、ティリエラに向きなおる。


「やれる?」

「は……」

「私が代わります」


 今まで静かに座っていた人がティリエラの言葉を遮った。


「わ、私は大丈夫ですっ!」

「いいえ、脈拍に異常を確認。顔色は蒼白。何より、嘔吐を堪えているのではありませんか?」


 抑揚のない声音は冷たさを感じさせる。声からして女の人。

 指摘を受けたティリエラの目が泳ぎ、弱々しくうなずいた。「でもっ」と開いた唇は閉ざされた。首を小さく左右に振り、肩を落とす。伏せられた目の長い睫毛が震える。開かれた瞳には諦めの成分が滲み出ていた。


「ありがとうございます。お願いします」


 代わりをかって出た人へお礼を言い、ティリエラは後ろの方へ下がった。俺へ力のない笑顔が向ける。可憐な唇が音なき言葉を紡ぐ『ごめんなさい』と。


 俺は彼女の責任感と、それを成そうとする強さに驚いていた。自分から言い出したことなのに、それができなかったことへの罪悪感を感じている。意思の強い人だ。


 そんな彼女へ俺は笑みを返す。


「気にせず休んでいて。また揺れるから気をしっかり、ね」

「うん。ありがとう、ございます」


 彼女の罪悪感が少しでもなくなれば、それでいい。


「合図をお願いします」

「カウント(スリー)でいきます」

「了解です」


 同時に扉のロックを外す。


「三……」


 俺の声が狭い機内に響く。緊張が空気を震わす。扉にかかる両手に力が入る。


「二……ワンっ、解放!」


 一気に引き、両の扉が開く!

 爆風。気流が暴風となって機内に吹き荒れる。機体が大きく上下左右に揺れ、悲鳴と機器の異常を告げる警告音が鳴り響く。


 耳元で風が唸る。気流の乱れに身体が持って行かれるっ!

 機体の壁に背を押しつけ耐える。

 ティリエラが心配になり眼を向ける。一緒に扉を開けた人が左手で扉に掴まりつつ、その身を盾とし暴風からティリエラを守っていた。


 声からは冷たさを感じていたが、優しい人なのかもしれない。


「この野郎ぉぉぉおおおおおおおおお!」


 悲鳴の中を関田主操縦士の気合いの叫びが貫く。操縦レバーを両手で握り全身の力を込めて機体制御する。宮辺副操縦士も補助レバーで関田主操縦士の手助けを行う。


 徐々にヘリの揺れが収まっていく。風の唸り声も荒々しい歌声へと変わる。

 いつの間にか止めていた息を貪るように吸う。力が抜けてその場にへたり込んだ。さすがにキツかった。けど、へたっている場合じゃない。


「無事か!」


 関田主操縦士の安否を確認する声がかけられる。でも声が出せず、右手を掲げるだけで結構精一杯だった。他の人達も俺と似たような状態だった。返事がなかったため、宮辺副操縦士がこちらに振り返り、俺たちの無事を確認。関田主操縦士に報告していた。


「宮辺は前方と左を索敵しながら警戒を頼む。俺は右を見張る」


 二人の操縦士も荒い息を繰り返していたが、気力を振り絞っていた。


「悪いが休憩時間はない。後方を頼む」

「はいっ」


 なんとか声を出す。そのせいでうわずった声になっていたが気にしてられらない。恥ずかしかったけどっ。


 腹ばいになり胸の位置まで身を乗り出す。回転翼の風を切り裂く音が耳に痛い。髪が後方へ流れる。

 上空八〇〇メートル。ここからなら地上の様子がよくわかる。


 暗灰色の瓦礫の街並み。高層ビルの山々は倒壊し、室内を外気に曝していた。アスファルトで舗装されていたであろう道には巨大な破片を散乱していた。骨組みだけとなった車が腹を天へと向けていた。横転したトラック。上から潰された車などがいたるところに点在する。道路には大きな亀裂、大穴が穿たれていた。闇色の穴は底が知れない。


 枯れて倒れた街路樹。朽木(くちき)に倒木、その養分を吸って大きく伸び伸びと育っている樹もあった。その樹は美しい薄いピンク色をしていた。


 この寂れた街並みに美しく咲き乱れる姿に眼が奪われる。


 爆音。


 その音に俺は我に返る。そうだった。統率者を探さないと!

 俺の横に気配。見ると後ろの方でずっと震えていた人が俺の側に来ていた。


「わ、わた、し……私も…………私もっ!」


 か細い声から気合いの大きな声に俺は驚きながらも、その人のために場所を少し移動して空ける。

「……ありがとうござい……ます」


 消え入りそうなか細い声は震えていた。恐怖と戦いながらも懸命に前に出てくれたんだ。

 ここにいる人達はみんな強い。誰一人として他人任せにしない。

 なら俺もさらに気合いを入れる。


 俺がいた場所にその子も腹ばいになり、頭を外へと出す。目深くかぶっていたフードの中に風が入り込み、膨らんだフードが上へと持ち上がる。氷雪のような深い青の大きな瞳と出会った。一瞬時が止まったように固まった彼女は、音速でフード下へ引っ張り顔を背けた。


 いや、ちょっと待って。その反応と速度に、少し、少しだけ、ほんの少しだけ傷ついた……。

 傷心を抱えながら索敵を再開する。まだ心が痛い。


「あっ」と隣から小さな声があがる。ビクっと身体が反応した。彼女の声に身体が、心が、敏感になっている。彼女に怯えている自分がいた。思っていた以上に傷は深かったらしい。


 腕が伸ばされる。人差し指が後方を指す。


「あそこ」袖の裾を風にはためかせながら指先のない手袋から白雪の指が導く「あそこに、何か……います」指し示された方を見るが、ビル群の残骸があるだけ。でもずっと、彼女の指はその方角を示す。


 疑問と違和感。彼女は『います』と言った。俺は崩落の跡を見据えるが、何もない。


「あ、また」


 さらに腕を伸ばし、俺に指し示す。

 彼女の、あの深い青い瞳が見つけたものを俺も必死に探す。俺の身体が微かに彼女の背に触れ「ひゃっ!」小さな悲鳴があがった。その反応に胸を鋭利な刃で刺し貫かれたような感覚に襲われる。だ、大丈夫。出血はしていないっ……。


「ごめん」

「ごめんなさいっ。すみませんっ!」震えた声。「び、びっくりして……。すみません。ごめんなさい……」

「えっと、うん。大丈夫。気にしてないから」


 俺の口から乾いた笑声が出る。そう、気にするな。気にしたら何かを失いそうだから気にするな!

 気持ちを切り替えろ、俺!


「それより、どの辺に何がいる?」

「その、何かは……分かりません」


 細く小さな声が沈む。


「……すみません。でも、あそこの一番高くて黒くなってるビルの上です。何かに動いているように見えるんですが……」


 懸命に伸ばされた腕の先に、確かに一際高い黒ずんだビルがある。火災で崩れたのだろう。炎が這い回った跡がビルの壁面と内部を黒く染めあげていた。


 あの高さと距離なら、戦闘エリア内を見渡せる。だけど、何かがいるようには見えない。

 しかし彼女の、あの蒼氷の瞳には何かが見えている。彼女はビルの上で何かが動いていると、曖昧ではなく、はっきりと場所を示している。


 俺は立ち上がって見る角度を変える。手摺りに左手で掴まり体を限界まで外へを出す。外套が風に踊らされる。


「あああああのっあのっああああああああああっ」


 俺の行動に彼女が慌て出す。どうしたらいいのか分からず、震える両手が何かを求めるように何度も左右に動く。そして俺の左足を掴むことで、とりあえず一旦落ち着いたようだ。


 俺が落ちないように支えてくれてるみたいだけど、これの方が危なさを感じる。

 彼女を気にしつつビルを見据える。ビルに(かげ)り。空を見上げると太陽の光が雲に遮られて影が落ちていた。白雲はゆっくりと風に流されていく。空は地上のことなど我関せず優雅に時を巡らせている。空だけはどこにいても変わらない。雲の隙から光が漏れ、眩しさに顔を逸らす。


 それは一瞬。視線を逸らした瞬間。視界の隅に確かに何かが蠢いたのを見た。

 覚えた違和感のまま崩落しかけたビルを眺める。

 体を機内に戻す。俺を見上げる彼女の頭に軽く触れ、微笑みかけうなずいてみせる。彼女は安堵の息を吐いて俺の左足から離れた。


 俺は操縦席へと顔を出す。


「関田さん、ヘリ後方七時の方角の黒いビルを旋回できますか?」

「分かった」


 回転翼機がそのまま後方へ水平移動して行く。操縦席からビルが視認できる位置で停止飛行。


「あのビルか。何も見えないが……」

「左回りで旋回をお願いします」

「任せろ」


 距離が近づくと一度感じた違和感が増す。高度を保ちながら、ヘリが更に倒壊したビルに近づき左回りで旋回を開始する。


 炎に蹂躙され黒ずんだビルと林立する周辺のビルを見比べる。何階建ての建造物だったか分からないが、上階は崩れ落ち骨組みの鉄骨や鉄筋がコンクリがら突き出している。風化が進み錆びつているだろう。


 さすがに高空から詳しくは分からない。けど、黒すぎないか?

 周り、その周り、さらにその周囲を見渡す。

 視界が薄暗くなる。ゆっくりと風に流された雲がまた陽光を遮り、影を生んでいく。

 薄闇の影に飲み込まれていく破壊の跡。黒いビルにも等しく影が落ち、そしてそれは見えた。

 深い闇の底に光る赤い二つの光点。

 違う。違っていた。あれは火災で黒く焼け焦げた跡じゃない。爛々と輝く赤い光点はヘリを、俺を見据えていた。


 その二つの光点は嘲笑うかのように形を歪ませる。


「やっぱりいます!」


 あの黒い跡こそが囚俘そのモノ!


「黒く見える部分が囚俘です!」

「擬態種かっ!?」


 俺の言葉に関田主操縦士から驚愕の声があがる。

 擬態種? また知らない言葉。


「小型囚俘で注意を引き、刀使いを消耗させてから喰らいに行く作戦か。自分は擬態で隠れ安全圏からの高みの見物とは、最悪の思考をしていやがる」


 畏怖という苦味で顔を歪ませる。


「この距離、極東支部から約五〇〇メートルぐらいか。ギリギリ戦闘エリアの外だ」

「戦闘監視エリアを分かっていた、ということでしょうか?」


 宮辺副操縦士の疑問に、関田主操縦士の動きが止まる。宮辺副操縦士に視線を向ける関田主操縦士の顔色が青ざめていた。


 囚俘は日々進化しているという。


「さすがに……そこまで頭が回るようならマズいだろう」恐怖に飲まれそうになるが気を持ちなおす。

「リュウくん、囚俘の種類はわかるか?」

「くん? え、俺? あ、いや、いいえ、そこまでは……見えません、でしたぁ……」


 くん付けで呼ばれたのは初めてで動揺してしまった。名前の違和感がすごくてむずむずする。はじめてのことが多すぎて頭の中の整理が追いつかない。許容の限界がきている。


「くそっ、居場所がわかっても方角しか伝えられん」


 空に轟く回転翼のエンジン音。ホバリングで留まることは危険を意味する。

 それに擬態で姿を隠している囚俘はこちらを認識しているはず。攻撃を仕掛けてこないのは、完全に居場所がバレてしまうからか。それとも攻撃範囲外だからか。ただ単に眼が合ったように見えたからか。動きがないことが不安を煽る。


 なら、その不安を打ち消しに行けばいい。姿が分からないのなら確認しに行けばいい。


 考えることを止めてはいけない。けどこれ以上また何かあったら逆に思考が停止する。だから単純に俺ができることを成す。それに……。


 極東は南とは違う。全く違う。聞いたことがない言葉、知らない囚俘の種類。

 でも、やることはたった一つ。それはどこにいても変わらない。

 囚俘を殺す。囚俘を殲滅する。

 そのために<刀使い>はいる。


「俺が目印になりに行きます」

「なっ!?」「馬鹿を言うなっ!」「何言ってるんですかっ!?」宮辺副操縦士と関田主操縦士にティリエラから怒号があがる。皆の視線が一気に集まる。


「種類も大きさも分からないこの状況で何を言っている!」

「それにまだアレが統率者と決まったわけじゃない。他にいるかも知れないんだぞっ!」


 二人の操縦士が声を荒げる。言っていることは正しい。


「あのっ!」


 フードを目深くかぶった彼女が悲鳴のような声をあげた。胸の前で震える右手を震える左手で包み込んでいる。


「あのビルの上にいる囚俘以外、大きな囚俘はいないかと、思います」

「君は何故それを言い切れる?」


 関田主操縦士の声に苛立ちを感じ、彼女の視線が床に落ちる。


「上手く説明が、できないのですが。その……すみません……」


 苛立ちを抑えようと関田主操縦士が大仰に溜息を吐く。機内には回転翼の冷たい機械音だけが響く渡る。吹き抜ける風は肌を刺すようにピリついていた。


「君はまだ新人の刀使いだ」

「わかっています」

「わかっていない! 大型種だった場合、悪いが確実に殺される」


 事実。俺一人で戦えば確実に死ぬ。でもそれを分かっていても、俺にできることは変わらないし、引くわけにはいかない理由がある。


「あの囚俘の擬態を解いて注意を俺に引きつけるだけです。それなら俺一人でもやれます」


 俺は外套を脱ぎ捨てる。風で飛ばされそうになった外套をフードの彼女が受け止める。フードの下から覗く深い蒼い瞳には不安と心配の色が揺らいでいた。俺はそんな彼女に笑みを返す。

「リュウさんっ!」


 ティリエラの悲痛な声が俺と呼び止めた。顔色はまだ良くない。新緑色の大きな眼が潤んで輝いているように見えた。


「大丈夫」


 笑みを崩すな。安心させることができなくても、これ以上不安を与えてはいけない。

 ここにいる刀使いで男は俺だけ。

 男はいついかなる時も女の人を守るものだと、父さんが言っていた。それはとても大事なことだと教えてくれた。引けない理由はそれだけで十分だ。


 剥き出しの右肩に触れる。硬質の異物<核>に触れる。意思があるかのように<核>はその赤黒い自身を蠢かす。意識は<核>へ。


 俺の刀。


「それとだ、この高さからではいくら<核>で身体が数十倍も強化された刀使いでも死ぬ。だから……」

「あの、関田さん、関田さん。その、もう……」


 青ざめた宮辺副操縦士に嫌な予感がして後ろを振り返ると、リュウという少年の姿はどこにもなかった。


「あの子は命がいらないのかっ!!」


 関田主操縦士の怒号が響く。


「お、落ち着いてください。関田さんが取り乱したら俺どうしたらいいか……」宮辺副操縦士の宥めるに、関田主操縦士の口から鉛のように重い息が出る。「……すまん」


 頭に疼痛を感じ、額を指で押さえる。


「とりあえず急ぎ極東支部に連絡だ。落下衝撃で奇跡的に助かっても危険なことに変わりない」

「分かりました」


 宮辺副操縦士が機器を操作し極東支部に連絡を取り始める。


 静かに立ち上げる人影があった。


 人影は外套を脱ぎ、両膝を床について外套を丁寧に畳んでいく。(しわ)一つ無くきれいに畳まれた外套を飛ばされないよう丁寧に機体の隅の床に置いた。


 風に弄ばれる桜色の髪。振り向いた紫電の瞳がティリエラを見つめた。

 翡翠と紫水晶の目線が合う。無言の視線に困惑するティリエラを無機質な瞳が見据える。そして何かに納得したようにその人物はうなずいた。


 リュウが飛び降りた場所へと歩を進める。外から機内に吹き抜ける風に白を基調とした衣服の裾が翻る。


 白皙の両の人差し指と中指が、鎖骨の下、服の襟元から覗く赤い宝石のようなものに触れる。

 その姿は祈りを捧げる聖女のようだとティリエラは思った。


卯月(うづき)サイ。力を行使します」


 感情が存在しない声音に呼応するように、それは鈍く光る。


「私の刀、抜刀」


 漂白の光に卯月サイと名乗った少女の全身が包まれ、次の瞬間眩い光は破片となって散っていく。

 煌びやかな光の破片が舞う中、ティリエラが見たのは純白に輝く卵から新たな生命が誕生した光景だった。


「きれい……」


 可憐な唇から溜息のような声が漏れた。



  ******



 極東支部戦闘司令監視室。広い室内の壁一面には大中小異なるモニターが並んでいた。モニターはそれぞれ別の映像が映しだされている。


 室内正面の巨大モニターには囚俘と戦う刀使いの姿が映されていた。

 室内に響くのは忙しく機器を操作する音と交信の声。そして室内中央に、両手を腰に仁王立ちしている紺色の上品な背広を着た女の姿。指示の声がとぶ。


「防衛第一班はあと何分まで戦える」


 心拍音を電子化表示した四つのモニターと、そのそれぞれの画面に小窓のような小さな画面が時間経過を表していた。緩く波うつ金髪の女が答える。


「最大限界時間まで、あと五分です!」

「小型にここまで梃子摺(てこず)るとはな。第二班へ、今から一分後に出撃しろと伝えろ。第三班はいつでも出れるよう準備。一班には二班と合流後、後退と今後の訓練内容を強化すると言っておけ」

「了解ですっ」


 慌ただしく動き始める。


「アリス司令大変ですっ!」


 別のモニター画面を注視していた赤毛ツインテールの少女の声が上がる。


「監視ドローン、また全機撃墜されました」


 その言葉に、アリス司令と呼ばれた女の、タイトなスカートから覗く引き締まった右足がコンクリ製の床へと力任せに落とされる。高い踵と床が激突。張りつめた空気に甲高い衝撃音が響いた。


 オペレーションチーム全員の背筋が恐怖と緊張で一斉に正される。背に感じる不吉な圧力に誰も振り向けない。


「技術顧問の糞眼鏡に伝えろ! 次、無駄金になるような物を作ったら、お前の股にぶら下がっている無能を切り落とし、目の前で囚俘に喰わせたあと、あの変態に引き渡してケツ掘られながら腹開いてマイナスになった分を、お前の臓器で補填(ほてん)するとなっ!」

「ええええぇぇぇっ! それ私が言うんですか!?」


 思わず体ごと振り向き見たものは、黄金の髪の下にある極寒地獄の青い憤怒の炎が宿った双眸。鋭利な刃の如き煌めきに極大の恐怖。


 あ、これ。軽く人を()っちゃう目だ、と少女は飢えた肉食獣に睨まれた子鹿の気持ちを体現していた。震えが止まらない。


「一語、一句っ!」


 闇から這い上がるような低い殺気に満ちた声に「りょ、了解でぇ~す」と言うしかなかった。仮面が貼り付いたような愛想笑いを浮かべ体をモニターの方へと戻す。


 素敵な職場♪ でも、何故だろう? 涙が溢れてくる……あはっ。


「アリス司令。第一〇八輸送ヘリの宮辺さんより入電。統率者の囚俘を見つけたとのことです」


 オペレーターの一人、(あまね)の報告で周りの人たちから「やった!」「マジで!?」「どこどこ?」「これで終われる?」などの歓喜の声があがる。


 しかし、報告した同僚の表情が曇っていることに気づき徐々に静かになっていく。


「が、その……」

「何だ、歯切れが悪いぞ」

「それが、その、本日付けで極東支部所属になる新人一人が、囚俘に向かって上空八〇〇メートルから飛び降りたそうです」


 一気にざわめく。引きつった悲鳴をあげるものまでいた。


「黙れっ! 自分の仕事に集中しろっ!!」


 空気を震わせる怒号は場を深閑させた。静寂のなか機械の音だけが無関係だと主張するように稼働音をならしていた。


「周、そいつの特徴は?」

「はい。今確認を」


 右耳にかけた小型通信機に指先が触れる。宮辺へと通信を行う。


「宮辺さんより特徴を確認。褐色の肌、鋼色の髪」


 周の報告を聞きながらアリスは顎に右手を添え、読み込んで覚えた所属異動者資料の記憶を検索照合する。


「瞳は赤。名前をリュウっと言っていたそうです」

「南の生き残りかっ!?」


 アリスの言葉に室内は(どよ)めく。隣り合ったもの同士で言葉が交わされる。「南って、あの南だよね?」「支部長がその件で、中央総本部に緊急総集がかかったやつでしょ?」「マジか!?」「そんな子が一人でなんて……」


 アリスの紅唇から重い息が吐かれる。


「同じ事は二度言わん。心配なのはわかるが、その前にやるべき事があるだろう」


 囁き声がなくなり緊張が支配する。

 沈黙を破ったのはアリスの問い。


「遠征班の帰還状況は?」


 藍色の髪の女が答える。


「第一班がおよそ八六〇メートル地点まで帰還中。第二、第三班も帰還中ですが、距離が十二キロ以上あります。第四班は現在戦闘中です」

「一番近いのは諫早(いさはや)の班か。諫早たちのバイタルは?」

「問題ないかと。納刀してから時間も十二分(じゅうにぶん)に経過しています」

「そうか。さすが早いな。諫早に繋げろ」

「了解致しました。通信オープン、諫早班長に繋げます」通信を切り替える。「こちら極東支部司令監視室。諫早班長応答願います」

「こちら遠征第一班諫早だ。どうした? 戦闘中とは聞いているが、苦戦しているのか?」


 よく通る男の声が返答する。声には疑問の成分と懸念が混ざっていた。


「いや、そっちの方は問題ない」

「アリス司令?」

「問題は統率者に新人が一人で向かったということだ」

「はあああああああああああああああああああああ!?」


 予想していなかったアリスの言葉に、男の絶叫があがった。耳を(つんざ)く声に鼓膜が、耳小骨が揺さぶられる。室内にいた全員が小型通信機を耳から外し、痛む耳を押さえる。


「うっるさいっ! 全員の耳を潰す気かっ!!」

「……………………すみません。まさかの言葉だったもので」気まずそうに謝罪をした後、気を取り直して「それで、なんでそうな事態になったんですか?」


 今日何度目かの鉄のように重い息を吐いたアリスは言葉を紡ぐ。


「どうやら統率者が戦闘区域外にいるらしくてな。周」


 名前を呼ばれた周が力強くうなずき、その先を引き継いだ。


「はい。こちらに居場所を知らせるために目印になる、とヘリから飛び降りたそうです」

「はぁ、なんとも元気な子ですね」


 通信機から呆れを含んだ乾いた笑声が聞こえた。


「生きていれば助けろ。死んでいたら喰われる前に処理しろ」

「アリス司令……」


 その声音はそよ風のように優しい囁きだった。オペレーターたちの耳にはくすぐる甘い囁きに聞こえ、皆頬を紅潮させていた。


 だがアリスだけは(いと)わしげに、美しい鼻梁の上に皺をよせていた。


「その言い方は好きじゃない」


 男の優しい響きの声から、低く怒気を孕んだ声への急変に皆背筋を凍らせた。


「貴方の立場上、冷たくあしらわなければならない時があることは理解しています」怒りを抑えようと自分に言い聞かせているように「けど、今じゃない」諫早の強い意志を感じるものだった。


 諫早の返答にアリスの唇に薄く笑みが浮かぶ。腕を組むと背広に包まれた豊かな胸が強調され、胸元があいたシャツから魅惑の双丘の上部が現れる。


「……なら絶対に助けろ。生きて連れ帰ってこい」

「了解。俺一人で向かいます」


 通信機の奥の方で班員たちの不満の声が聞こえた。班員たちもこの会話を聞いていたらしい。情報共有は大事なことだ。諫早が「いや、俺の速さについてきて疲れたろ? 無理はするな」と言ったが「大丈夫っスよ」「私たち戦えます!」と男と女の声の反論があがった。「車じゃ遅いから、ここから刀抜いて全力疾走するけど大丈夫か?」の言葉に誰も声をあげなかった。


「そういうことで俺一人で向かいます。詳しい場所を教えてください」

早漏(そうろう)も問題ということか」

「誰が早漏ですか」


 アリスの発言に間髪入れず諫早が冷ややかに返した。


「場を……………………………………………………………………………………………。え? 何この沈黙? ちがっ、違うから! 俺そうなんじゃないからねっ。アリスさんなんか言って。否定して!」

「お前が早漏かどうかなんぞ知らん。ものの例えを知らんのかお前は?」

「いや、例えかたぁぁぁあああああ」


 諫早の嘆きが響く。「お願い。そんな目で俺を見ないで……」どうやら班員たちに哀れみの視線を向けられているようだった。


 二人の雰囲気がいつもの調子に戻り、オペレーターたちの気が緩んで、知らぬ間に止めていた呼吸が一気に吐かれる。緊張で伸ばされていた背筋が弛緩で折れ曲がる。前に突っ伏してしまうものもいた。


「周、諫早に情報を送れ。それと宮辺に……」


 アリスの言葉を遮るように周の左手が挙がる。右手で右耳の通信機を押さえ意識を集中して何かを聞いているようだった。周の顔色が徐々に青ざめていくのが分かる。


「何があった?」

「それがもう一人ヘリから飛び降りたみたいで……」


 弛緩した空気がまた不安と緊張で満たされる。千変万化(せんぺんばんか)の事態にオペレーターたちの疲弊の色が濃く見え始めていた。


「特徴をお伝えします。桜色の髪、紫電色の瞳。名前を卯月(うづき)サイと名乗ったそうです」

「卯月……。そうか、それなら先に飛び降りた奴の落下死はなくなったな」


 どこか安堵したような優しい声音に眼差しだった。


「諫早、新人二人のうち一人は南出身者だ。必ず生きて連れ帰れ!」

「了解した。必ずだっ!」


 凜としたアリスの指令に諫早は快活の声で答えた。通信が切れる。


「あの、なぜ大丈夫なんですか?」


 周は疑問に小首を傾げる。他のオペーレターたちからも疑問の視線を受け「もう一人の刀の形状は特殊でな。そいつの刀は……」アリスは不敵な笑みを浮かべた。



  ******



 あ。俺、死んだかも。

 カッコ良く飛び出したものの、高過ぎた。囚俘と戦う前に落下の衝撃で死ぬ。


 刀を抜かないで良かった。今でも風圧が凄いのに抜刀していたら、刀の重さでさらに落下速度が増していた。本当に笑えない状況に自分で追い込んでいた。まだ身体の制御ができるから今のうちに体制を整えよう。足から落ちれば何とかなるかな?


 関田さんが何か言っていたような気がする。話を最後まで聞けば良かったと、今さらながらに思った。

 後悔先に立たずって本当だな。なんて間抜けなことを思っている場合じゃない!

 何とか、何とか考えろ、考えろ!

 風の唸り声が耳にうるさい。


「っ!」


 息が詰まった。背筋に悪寒が走り心臓が凍りつく。俺の上に大きな黒い影が落ちていた。黒影が俺に覆いかぶさるように、だんだんと近づいてくるのが分かる。


 飛行型の囚俘に見つかった!?

 そういえば俺、飛行型の囚俘がどんな姿をしてるか知らないんだけど!?

 とりあえず落ち着けっ。何もしないで喰われる訳にはいかない。

 すぐに刀が抜けるよう右肩に触れる。最大級の警戒をしながら一気に見上げた。


 しかしそこには、太陽の光で白金色に輝く大きな翼を広げた、美しい天使が俺に両手を差し伸べながら向かって降りてきていた。


 ヘリから見えたあの樹と同じ薄いピンクの髪。吸い込まれそう紫の眼差しが俺に何かを訴えかけていた。


 囚俘じゃないよな? 本で見た天使にしか見えない、よな?

 …………………………………………………………………………………………………………天使?

 天使って確か、死んだものの魂を天へつれて……いくのが…………しご………………と?


「いつの間にか死んでたぁぁぁあああああああああああっ!」


 気が動転し間抜けな叫び声をあげていた。

 血の気が引き狼狽する俺の両脇に天使の両腕が差し込まれる。大鷲が獲物を捕らえるが如くの羽交い締め。


 なんだろう、この感じ。何とも言いがたい、この状況。え? このまま天へ召されるの、か。

 天使の様子をうかがいながら見上げると、秀麗な顔が近づく。

 俺の耳元で天使が囁いた。


「リュウ。安全降下高度まで運びます」


 感情のない声に聞き覚えがある。一緒にヘリの扉を開けた、その人だった。

 両翼をはためかせ風を捉えて飛翔する。落下速度が緩やかになる。


「あ、ありがとうございます。えっと……」

「卯月サイと申します」


 変わらず感情の破片も感じない声音。表情も変わらない。

 でも、この人の眼。この紫水晶のような瞳には感情の揺らぎを感じる。俺は心配して来てくれたんだと、はっきり分かる。


 夕闇の優しい双眸が俺を見つめる。その近さに今気づく。乳白色の(つや)やかな肌。俺の頬に薔薇色の唇が触れそうな近距離。思わず眼を逸らしてしまった。


 眼を逸らしたことで下の様子が視界に入った。黒いビルに向かって降りたはずだが、だいぶ風に流されている。


「卯月さん」

「サイで構いません」

「分かりました」

「敬語も結構です」

「……………………わかった」


 違う。分かっている。サイはそういう意味で言ったんじゃない。俺に気を遣って敬語はいらないと、真面目に思って言ってくれただけだ。決して、決してそういう意図で言ったのではない!


 俺は強く思った。


「リュウ、何処へ向かえばいいのですか?」


 純白の翼をはためかせ疑問を口にする。

 サイの眼には見えていないのだろうか。距離が近づくにつれてよく分かる。擬態とは周りのものに自身を似せて溶け込み、存在自体を隠すことだが、生物としての生の鼓動までは隠しきれない。


「あの黒いビル。囚俘がいるの見えない?」

「私には視認できません」


 即答だった。俺の視力が良いだけなのか。赤い瞳の人は普通の人よりも視力が優れていると言われたことがある。ただ単に目が良いのではなく。<見る>ことに優れているのだという。見ることに、と言われてもよく分からなかった。でも思い返せば、南支部で一番はじめに囚俘を見つけていたのは俺だった。


 <見る>はと囚俘を見る力のことなのだろうか?


「黒いビルの真上に向かえばよろしいでしょうか?」

「うん、お願いします」

「了解しました」


 また大きく翼を羽ばたかせ一度上昇すると、器用に翼をたたみ急降下が開始される。

 翼でバランスと舵を取り囚俘に近づいていく。俺はだた脇を抱えられ運ばれるのみ。女の人に脇を抱えられ運ばれる姿を端から見たら、とんでもなくカッコ悪いだろうなと思いながら羞恥に耐える。


「リュウ、刀の準備を。囚俘との距離を目算で二十~十八メートル地点で放します」

「わかった。サイはその後ヘリに戻って」

「何故ですか?」


 変化のない一定の声音。声から感じる感情の起伏はないが、俺を見つめる眼には疑問と少し怒っているような色があった。


「ヘリの護衛に戻ってほしいんだ」

「何故ですか?」

「たぶん着陸許可は出ていると思う」

「何故ですか?」

「こ、攻撃を受けて統率者の囚俘が何をするか分からないし、飛行型? の囚俘が来るかもだから……」

「了解しました。リュウを放した後、ヘリの護衛をしつつ至急着陸地点へ向かいます」

「ありがとう……」


 どうやらサイは理由が分からないと分かるまで、とことん質問をする人のようです。

 俺も理由を先に言わなかったがいけなかったと反省する。

 ビル群が近づいている。黒いビルにも徐々に距離を詰めている。八〇メートルあるかないかだ。


 その時、嫌な予感と共に悪寒。氷柱が背中に押しつけられたような寒気に俺は叫んでいた。


「サイ、左に避けろっ!」


 俺の言葉に即座に超反応。左へ回避。俺たちを追うように風を切る音が七回続いた。見えない攻撃が下から俺たちを強襲する。

 振り返ると、サイの太腿まで続く長い白靴下に包まれた右脚に赤い染みが広がっていくのが見た。


「サイ!」

「問題ありません。掠り傷です」


 言葉のとおり鮮血はそれ以上広がることはなかった。

 地上から大気を貫く咆吼が轟く。十四の赤い燐光が俺たちを凝視していた。


 それは擬態を解いて姿を現わした。


 暗緑の鱗に包まれた巨躯を四本の人間のものと酷似した腕そして五指が支え、長い尾が鞭のように空を切る。その姿は全長約九メートルの巨大な蜥蜴(トカゲ)。ただし頭部が七つもある大蜥蜴だった。


 蜥蜴の頭部は一つのみで、残りの六つの頭部は人間のものだった。

 老翁(ろうおう)の頭部は目から涙を流し、口の端から涎を垂らしながら嘆き悲しんでいた。その隣では老婆の頭部が口を鋭利な三日月にして黒い歯数本を見せて嗤っている。妙齢の少年少女の頭部は憤怒の表情。残り二つの頭部は頬を林檎のように赤くした赤子が天使の笑みを浮かべていた。


 こいつは知っている<爬虫類種中型キリム>だ。

 七つの口から鮮血色の舌を軟体動物のように(うごめ)かせていた。攻撃の機会を窺っているのか、キリムの血色の十四の眼が俺たちを捉えている。


 (しわが)れた老人の声と雄々しい男の声。甲高い女の奇声に、赤子の笑い声が重なる不協和音。再び雄叫びがあがり、七つの口腔から赤い槍が放たれる。


 いや、槍じゃない。赤い舌だ!


 長く伸びる舌が俺たちを高速で追って来る。擬態を解いているから目視できる。サイにもしっかり見えているため容易に回避ができている。


「サイ、俺を投げろ!」

「却下します」


 またも即答だった。


「今投げたところで的になるだけです。キリムに隙をつくります」


 羽交い締めしていたサイの腕が移動する。俺の脇を力強く両手が掴む。疑問符を浮かべながらサイを見上げると、無機質の美しい双眸が俺を見つめていた。


一時(ひととき)の間、手を放しますがご容赦を」

「えっ……ちょっと、まっ」


 縦に円を描くように飛翔。頂点に到達した時、女性とは思えない剛力で俺は上へと打ち上げられた。

 刀使いが抜刀すると<核>の力により脳の枷が外れ、身体の能力が爆発的に強化される。だからサイの細腕でも俺を軽々と天高く打ち上げることができる。


 驚くことではないが、華奢な女の人に投げられると複雑な気持ちになる。砲弾の速度で打ち上げって行く。


「力の出し惜しみはしません。全弾受けてください」


 俺を上へと放ったサイは翼を大きく広げた。そして勢いよく前へと翼を羽ばたかせた。

 サイの背から純白の翼が羽ばたきと共に光を纏って美しく散り、羽根へと変わる。羽根の鋭利な先端が意思を持って下へ、キリムに向けられる。


「行け」


 言葉を合図に数百以上の羽根が弾丸の速度でキリムへ向かって殺到して行く!


 白銀の光の豪雨がキリムの巨躯を刺し貫いていき、鮮血が迸る。俺たちを追尾していた舌にも羽根の刃が殺到し、無数の穴を穿ち切断される。肉色の断面からは血が噴出する。


 キリムの不協和音の悲鳴があがる。痛みにその巨体を(よじ)る。

 いつの間にかサイの背に白い翼が現れていた。あの翼がサイの刀。翼の形をした刀は見たことがない。

 落下する俺に向かって飛翔。勢いを緩めず俺の右手を取るとそのまま上昇して行く。


「このままキリムへ」

「わかった!」


 唸る風の中、サイの言葉が耳に微かに届いた。大声で返事はしたが豪風にかき消されて後方へと流される。しかしサイは返事など気にせず止まることはない。


 急速な方向転換は背を反り後方に半回転。下へと向かう遠心力を使って俺をキリムに向けて投げ放つ!


 投げ放たれる瞬間、サイの夕闇の紫の双眸が俺を見つめ「ご武運を」と呟いたのが聞こえた。優しい一言が嬉しかった。

 超速度で向かって来る俺をキリムの憤怒に満ちた赤い眼光が見据える。

 左手を右の肩に触れる。


 力を借りるよ。


「俺の刀、抜刀!」


 俺の声に、言葉に反応した<核>がその力を顕現させる。

 全身が光に包まれていく。左手に握るは<核>から生み出された<刀>と呼ばれる刃の柄。その柄を引き抜くように光を切り裂く。光の破片が花弁(はなびら)のように舞って霧散していく。


 俺の左手に握るのは刀身一二五センチメートル、幅一八センチメートルの緩く反った片刃の剣。長大な刃を構える。柄頭を右手の平で抑える。


 空気の抵抗がなくなり巨大な弾丸と化してキリムの蜥蜴頭に狙いを定める。キリムの七つの頭が大口を開けて攻撃の態勢に入るが遅い。それよりも早く俺の刀の刃が届く!


 が、瞬時にキリムが蜥蜴の頭部を右へ(かわ)し、頭上を狙った刀は左の眼球に突き刺さった。

 耳を(つんざ)く苦鳴があがる。激痛に四つ足と尻尾が暴れ、ビルのコンクリ床を破砕し階下へ落ちていく。階下へ落ちた衝撃で刃がさらに深く奥へと刺さり眼窩から下顎に刃が貫通した。


 蜥蜴の頭部を囲む残り六つの人間の頭部が憎悪の唸り声をあげる。短剣のような歯が並ぶ口腔内を見せ、俺を食い殺そうと首を伸ばし歯が閉じられる。生臭さに顔が歪む。左右から迫る歯を(かわ)しながら柄から絶対に手は放さない。


 指に手に腕に力を込め、刃を上へと捻り反す。傷を抉られる痛みで七つの口からは絶叫。キリムの上体が大きく上下に振られ揺れる。俺を振り落とそうとしているようだがその反動を利用させてもらう。刃を上へと一閃、振り抜くっ!


 刀を振り抜くと同時に後方へ跳躍、左眼から鮮血を噴出させ撒き散らすキリムと距離を取る。体を捻りつま先で着地、軌跡を描いて勢いを殺す。瞬時に眼を巡らせ周囲を確認。コンクリの破片で足場が悪く狭いビル内。囮になるにしてもここでは戦い難い。


 俺は刀を正眼に構える。


 前へ突撃と見せかけて、右に疾走を開始する。キリムが怒号をあげ俺を追って来ることを確認。口がまた大きく開き赤黒い口腔から血色の舌が伸びる。強固なコンクリートが容易く貫かれ破砕音が響く。


 穴が穿たれ切断された舌は再生していた。再生しただけでなく数が増えている。七本だったのが十四本。鞭のようにしなやかに、槍のように硬質になって壁を床を破砕し、蛇のようにうねりながら這う。


 老翁と老婆の頬が膨らみ、吹き飛ばすように何かが吐かれた。鼻を刺す不快な刺激臭。吐かれた黄褐色の液体から白煙が発生。コンクリ床が泡立ち蒸気をあげ溶解していた。吐かれたのは強酸性の(たん)だった。


 少年と少女の顔から哄笑(こうしょう)。大口開けて笑うほど面白いことが考えついたか、見下げる嘲弄(ちょうろう)の視線を俺に浴びせながらヒソヒソと耳打ちで話している。


 キリムの頭はそれぞれ自我を持ち、思考する。だから言葉を交わし意思疎通を行う。厄介ではあるが、時々意思の統一が取れず頭同士で喧嘩をし食い殺す場合もある。


 個体によって性格が異なるが、このキリムはたぶん仲が良い。南にもいた頭部同士で言葉を交わすキリムは卑劣で強かった。


 吐かれる強酸性の痰と舌を避けながら、瓦礫やコンクリ片がキリムの行く手を妨げになるように逃げ回る。しかしキリムはその巨体で破砕しながら迫ってくる。


 壁面を蹴って崩落した天井から突き出た鉄骨に足裏で着地。俺を見上げるキリムの七つの顔。狙うは一番左の赤子の頭部。急降下からの上段斬り。振り下ろした刃が瞬間止まってしまった。


「っ!?」

「だ、だずげ、げげでぇ……」


 赤子の喉が膨らみ、唇が耳朶(じだ)まで裂け口が開く。開いた喉から手を伸ばし這い出てきたのは、赤い粘液に塗れた男の人だった。苦痛に顔を歪ませながら必死に手を伸ばしていた。


 俺の一瞬の硬直をキリムが見逃さなかった。反対側の赤子から二本の舌が強襲。反射神経による自己防衛本能が瞬時に反応して刀の側面で防ぐが、威力までは減殺できずビルの外へと吹っ飛ぶ。


 わかってる、わかってる。わかっているのにっ。頭ではわかっているのにっ!

 だけど身体が、心が、躊躇したっ!

 囚俘に喰われた人間は助からない。助けられない。助けても、今あの場から助かっても、あの人は人間として助からない……。


 人間を盾にしたキリムに俺の内部で怒りが沸きおこる。沸々と黒い感情が心を支配していく。

 空中へ吹っ飛ばされた俺の右手には一本の赤い線。その赤い線は赤子の口腔へ繋がっている。俺はキリムの舌を掴んでいた。(ぬめ)る舌を右腕に巻きつけ(すべ)って離さないよう固定する。


 キリムは余裕の笑みを浮かべていた。キリムには落ちていく俺が命綱として舌に(すが)っているように見えているのだろう。それは違うよキリム。


 俺も今、黒い笑みを浮かべていることだろう。


「一人では落ちないっ。お前も連れて行く!」


 刀の切っ先を地上へ向ける。


「俺の刀が見た目通りの重さだと思うなっ。囚鬼鏖殺之技(しゅうきおうさつのぎ)、その力を示せっ!」


 赤黒い<核>が鮮血色に輝くと同時に<核>に心臓があるかの如く鼓動する。その音は俺に心臓の鼓動音と重なり、鋼色の刀身に毛細血管のような微細な朱線を伸ばしていき、先端に到達する。


「堕ちろっ!」


 一際大きく鼓動音が響いた。次の瞬間空中に投げ出された俺の体は重力の法則に従って地面へ引っ張られるように垂直に急下降していく。キリムの舌の伸縮性が失われ限界に達し、張り詰めた糸のようになる。赤子の首がその力によって引かれ伸ばされ、数トンある巨体が引き摺られる。


 何が起こったのか理解できず、混乱に陥ったキリムから余裕の笑みが消失。そのままビルの縁まで引き摺られ、ビルから落ちまいと必死に踏ん張っていた。前脚が崩れた壁の縁を掴み左右の五指がコンクリ壁にめり込む。それでも引き込まれる体を残りの舌で支えようと瓦礫に巻きつき、床を貫通して耐える。


 しかし引力はさらに力を増し、苦鳴をあげながら蜥蜴の頭部が泣き叫ぶ赤子の舌を噛み切った。絶叫と怒号。


 綱引き、もとい舌引きは俺の勝利で終了したが、急激に牽引力(けんいんりょく)がなくなり技を解除。刀身から朱線が消えていく。刀を壁に突き入れ落下の勢いを減殺させ落ちるのを防ぐ。


 血を撒き散らしながら千切れた舌が踊り降ってくる。急いで右腕を振って巻きつけていた舌を外し、落下に巻き込まれないよう避けておく。


 短く安堵の一息を()く。


 俺の頭上に黒い影が落ちる。焼きつくような視線に見上げると、憤怒と憎悪を宿した十四の紅い業火の光点。俺が貫いた眼球は完全に再生されていた。


 キリムが壁を垂直に這って迫ってくる。蜥蜴は爪を引っかけることで壁などを上り下りできる。でもキリムには鋭い爪はない。人間の手に酷似した前後の脚にはそんなことはできない。


 が、蜥蜴の一種であるヤモリの脚の裏には趾下薄板(しかはくばん)という器官がある。その器官の表面には極微細な毛の集合で構成されている。非常に細かい毛が壁の表面の凸凹に噛み合わさると、分子間力と呼ばれる力が働く。この分子間力はものとの距離が近ければ近いほどより強い力で引っ張られるため垂直の壁にも貼りつくことができる。キリムの脚の裏にもヤモリと同じ器官があるためその巨体でも容易に壁を垂直に上り下りできる。


 俺は壁面を蹴って跳躍から飛翔、隣のビルの壁に着地。すぐさま反転斜め下へと壁を蹴って飛翔、キリムのいるビルの壁に着地。また反転して隣のビルの壁に飛び移る。


 何度かそれを繰り返し階下に移動する。地上との距離は約三〇メートル、十階建ての建物と同じ高さまで下ってきた。割れ砕けた窓から室内へ飛び込み、前転からの疾走。何年も放置されているため埃や砂塵(さじん)が降り積もっていた。俺の疾走により白い埃が粉雪のように舞う。軽く咳きこむ。


 室内を走りコンクリ柱に刀の側面を大振りに叩きつけていきながら、反対側のガラスのない窓際まで到達。振り返ると轟音と白煙と共にキリムが壁を破砕して室内に無理矢理侵入していた。その巨躯には狭く天井も破砕される。コンクリ片を散らし破砕の白煙と粉塵(ふんじん)を抜けて姿を現わす。


 轟音と地震のような揺れ。キリムが壁を破砕したことで上階を支えていたバランスが崩れはじめていた。上から響き渡る音が段々と大きくなり、壁や床に亀裂が走る。キリムも異変に気づき周囲を見渡すが、もう遅い。怒りで周りが見えなくなっていたキリムへ、俺はさらに沸騰温度を上昇させるべく右腕を前へ出す。キリムによく見えるよう掲げる。刃を前腕に押し当て、そして引く。


 床に滴が落ちる。俺の前腕から出血した血が床に流れ落ち、小さな赤い点模様を描く。


 これはキリムに対して挑発だ。喰えるものなら喰ってみろ! ここにお前たちの好きな人間の血肉があるっ!


 咆哮。キリムが激昂の一歩を下ろした瞬間、コンクリ柱が甲高い悲鳴を上げ折れた。それを合図に次々を連鎖反応のように柱に大きな亀裂が駆け抜け折れていく。揺れに地響きはさらに大きく轟音となり、コンクリートの細かい粒子が粉塵となって落ちてくる。


 俺は近くに落ちていたコンクリ片を拾い上げる。直径約三十センチメートルのコンクリートの塊。ビルは雨風に(さら)されて老朽化が進んでいる。壁のコンクリートには(ひび)や亀裂が走り、突き出た鉄筋鉄骨は錆びている。だから四方の一面だけ壁を破壊すればどうなるか。


 キリムを見つめて次に右手に持った塊を見る。そしてそのコンクリ片を投擲(とうてき)。投げたコンクリートの塊は折れた柱の上部に当たり砕けて落ちた。


 爆音。上階が金切り声を上げながら斜めに崩れていく。瓦礫の瀑布のその先にはキリムの巨躯。



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