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遠いあなたは君で私  作者: 蒼伊織
うす桜の記憶
9/29

     九


 うたた寝をしていたようだ。

 体を起こすと、すっきりとした目覚めがそこにあった。

 右向きになっていた体を、左腕で起こす。

 ある程度リハビリというか、右腕のない生活でどうすべきかも教えてもらったので、片腕で立ち上がる所作にも慣れたものだった。


 入院中にも思ったことだけど、右側を下にして眠ると私は、ぐっすりと眠ることができた。

 反対に左側を下にすると、なんだか肩や腕を邪魔に感じてしまって仕方なかった。


 肩口とそこから先の少しは残っているけど、右側はなにもないから、優しい。

 思いのほか不便もなかった。

 無論それは右腕がなかった頃の記憶がないからに他ならないのだろうけれど、今の私がいいのだから、きっとそれはいいことなのだ。


 なにか、夢を見ていた気がする。その夢の中でも意識はおぼろげで、夢の夢を見ていたとでもいおうか。

 なんだか、不思議に曖昧な感覚だった。


 眠っているときや、目覚めたとき。

 意識の向く先が現実よりも内向世界に傾いているとき、私の中になにか、駆け巡るものがあった。


 それはきっと、さくらが培ってきた記憶だ。

 輪郭もおぼろげに顔を出したり引っ込めたりしているけど、目覚めたばかりの頃よりは昔のことを想像しやすくはなっている。

 具体的な思い出はまだまだ思い出せないけど、私にもそういう「昔」があったのだと、そう思うことはできた。


「……雨」


 昔の記憶の中に、よく出てくる名前があった。

 音として聞く限り「雨」というものがその男の子の名前なのだろうけれど、さくらの携帯の中にはその名前で登録されている人物はいなかった。

 顔や子細な記憶までは思い出せないまま、そういう人物がいた、という事実だけが私の中で強くなっている。


 彼は、だれだろう? 私は、誰だろう? 彼と私は、どんな関係だったのだろう。……いや、それはなんとなく、わかる気がした。


 雨とさくら。

 二人の間に通い合う感情は、恋人同士のそれに違いない。

 どうしてか記憶のない私にも、それがわかった。


 さくらには恋人がいた。

 でも事故に遭う数ヶ月前──正確なところはわからない──に、別れている。

 断片的な想起から導き出された私の憶測ではあったが、おそらく間違っていない。たぶん。


 彼らは、一年ほどの交際を遂げて幸せな時間を共有し、しかし最後には、別々に生きることを選択した。


 体を起こした私は、二階の自室から出た。階段の手すりを辿りながら慎重に、一階に下りる。

 左側に重心が寄っているため、階段は私の天敵だった。油断すると足を滑らせて、左手だけではたいした受け身もとれず転げ落ちることになる。

 退院してから一回階段を踏み外して、すねの一番痛いところあたりをしたたかにぶつけていた。


 一階に下りると、階段を下りてすぐの洗面室で母が大量の洗濯物を処理しているところだった。

 退屈だから、手伝いでもしてみようかと声をかける。 

 どうせ、なにもしなくたって思い出せないものは思い出せない。


「おかあさん、なにか、やることない? やることっていうか、暇だから、やることあったらなにか手伝うよ?」


 そう言うと、こちらに背を向けていた母が驚いたように肩を震わせて身を翻した。

 一瞬、感情の抜け落ちたような意表を突かれた顔を浮かべて、すぐにそれが、花の咲いたような笑顔に変わる。


「ありがとう。珍しいじゃん、さくらが手伝いなんて」


 そうかな。

 目を覚ましてから私は、人に迷惑をかけないようそれなりに配慮しているつもりだし、こんな私にできることがあるのならなんでもしたいと思っている。

 できること、やれることが少ないから、なおのこと。


 たぶん、私が手伝いをすることが珍しいのではなく、さくらが滅多にそういうことをする子ではなかったのだ。


「じゃあ洗濯手伝ってもらおうかな。一週間分、溜まっちゃってるから」


 気を取り直して浮かべられた笑顔で、母が言う。

 首肯して、洗濯を終えて足下に丸まっていた衣類を手に取る。

 一つひとつハンガーに掛けて、まとめる。

 母はもう一度洗濯機を回すらしく、たくさんのバスタオルを押し込んでいた。


「さくらもシーツ洗濯するから、後で持って来なよ」

「あぁ、うん。……今日は洗濯、いっぱいだねぇ」


 改めて、普段より量の多い洗濯物を見て口にする。

 うちは両親共働きだから家事を休日に溜め込む傾向があるのだが、今日は特別多い気がした。


「今週はずっと、雨だったからねぇ。溜まってた分、洗濯しちゃわないと」


 そういうことか。のんびりとした母の言葉に納得しつつ、ここ最近の空模様を思う。

 確かに私が退院してからの一週間、雨の降る日が多かった。


「梅雨あけ十日で晴れたと思ったら、またこれだもんねぇ。来週には台風も来るんでしょ? いやになっちゃう」


 母の言葉にこくこくと相槌を打ちながら、巡る思考があった。


 梅雨あけ十日──梅雨明け直後の十日ほどが、それまでの悪天候から転じて安定して晴れること。

 私が目を覚ましたばかりの頃はまだ梅雨あけ十日で晴間が続いていたが、最近ではまた夏らしい湿気が街中を包んでいた。


 太平洋高気圧の勢力が安定しないときに、「戻り梅雨」といって再び梅雨空に近い天気になることがある。

 今年も、その例だろう。


 ……やはり私の中には、それらの言葉の意味を冷静に思い出す、淡々と情報を羅列する「私」がいた。

 その部分と、まったくどこでその言葉を覚えたのかもわからない私と、記憶した張本人であるさくらの三人が、せめぎ合っている。


 最近ではこの三者が、ふとした拍子に重なっているように思うことがある。

 ばらばらだった三人に共通項が現れて、一部分が重なる。


 いつか完全に三人が重なって、私は──記憶のないまま今に取り残された私は、思い出を取り戻すことができるだろうか。

 さくらを、取り戻すことができるだろうか。


「ありがと。もういいから、後はやっとくよ。……さくらは、自分のことやってな」

「……自分の、こと」


 あらかた洗濯を終えると、母に言われた。


 ──自分のこと。自分の趣味。自分のライフワーク。自分の、やりたいこと。


 例えば、勉強? 一応学生だったみたいだし。

 でも、さくらの部屋を見るに勉強道具はおろか学生鞄や教科書など、学校に通っていた形跡すらみじんもなかった。

 本当に学校に通っていたのだろうか。


 バイトはしていなかったようだし、こんなとき、さくらはなにをして時間を過ごしていたのだろう。


 そんなこと、さくらの部屋に戻ればひとたびに理解できた。


 小説。小説。小説。

 さくらの生活の大部分は、さくらの行いのすべては、小説のためにあった。

 小説につながらないものは、ほとんどすべてが邪魔だった。


 例外が、青空や雨などだろう。

 例外というよりは、彼女たちとの時間すらも小説に役立てる心づもりだったのかもしれないが。


 断片的に思い出された彼女たちと過ごす時間。

 その時だけさくらは、ただ一人の女の子だった。

 小説家蒼井朔弥でもなく、家の中で自分の居場所を見失っている少女でもなく、ただの、秋光さくらとして。


 さくらが──事故に遭う前の私が家で浮いていたことは、なんとなく察しがつく。

 さくらの性格からうかがい知るに、浮いていたというよりはむしろ、沈んでいた。

 さくらからは家族に興味がなく、家族団欒にも価値を感じられず、家族の方はきっと、そんなさくらをどうすればいいのかわからなかった、といったところだろう。


 家族が時折、先ほど母がしたような表情をすることがある。

 それは普段の──記憶をなくす前のさくらがしなかった行動を、私がしたときに起こる感情の表れなのだとわかった。


 拍子抜けしたような、虚を突かれて目を丸くするような、それらを、押し隠そうとするような。

 家族の中でどのような取り決めがなされたのかは推して知る他なかったが、少なくとも、昔のことを蒸し返そうという気はないらしい。


 過去のことをすべて忘れることはできないけれど私は皆目すべてを忘れてしまって、いつか思い出すことがあるのかも知れないが今のところその兆しはない。

 ならば、過去のことは水に流し双方不問にして、新しく「家族」をやり直そう。


 つまるところはそういうことなのだと、なんとなく私は察した。


 反吐が出る。

 今さら、なんのつもりだ。

 さくらなら、顔を歪めてそう吐き捨てそうだ。


 私はこのまま、なんとなくにあやかってしまおうか。


 さくらが「今まで」を培ってきたパソコンにはまだ、触れられていない。




 青空の指定した時間が近づいてくると、夕飯の準備を始めていた母に「今日は夕飯いらないから」と言っておいた。


「あら、どっか、出かけるの?」

「ん。青空のとこ。青空んち今日お父さんもお母さんもいないみたいだから、一緒に夕飯食べる約束した」


 さすがに家族と話すときは敬語を省くよう努めた。

 慣れないは慣れないけど、いつまでも「です・ます」ではいささか問題というものだろう。


 私が夕飯を欠席すると告げると、あっけらかんとした母の顔に、一瞬だけ安堵の色が滲むのがわかった。

 こういう勘が鋭いというか目敏いというか、むだに想像力や思考を巡らせてしまう自分には、嫌気が差す。


 でもそういう私の一部もさくらが紡いで残してくれたものだと考えると、どこか心穏やかになる。


「なに、にやついてるの」


 そんな穏やかな心持ちで訪れた青空に対応すると、呆れたように尋ねられた。

 慌ててにやけ顔を引っ込めて、照れ隠しに冗談を言ってみた。


「あ、青空に、早く、会いたくて」


 でもなんだか勢いの少ない、尻すぼみになってしまった。

 照れが捨てきれなかったことに、また照れ。

 恥の上塗りはその辺にして、改めて私服姿の青空とともに家を出る。

 すぐ近くだという青空に家に、並んで向かった。


「『さくら』はそういうこと、言わなかったと思うけど」

「そ、そっか」


 緩やかに青空は、笑っていた。

 記憶を失った私は私であり、「さくら」じゃないのに。

 さくらではあったのかもしれないけど、青空や家族の知っている「さくら」ではないのに。


 青空は、「さくら」といる今を楽しんでいる。

 そりゃあ、元々仲のよかった親友同士が事故を経てまた遊べるようになれば、楽しさもひとしおだろう。

 でも今回の場合は、あまりにも状況が特殊すぎた。


 違う──と言う感覚がまたしても、私を蝕んで離さない。


「今日両親はいないんだけど、驟はいるんだ。大丈夫だよね?」

「驟さん。うん、大丈夫です。一緒に、ご飯食べる感じですね」


 初対面の──本当は違うのだろうけれど──人と食卓を囲うことに抵抗がないわけではなかったが、正直青空と二人きりは間が持つか不安なところもあったので、これ幸いと快諾した。


 青空の兄だという驟とも、さくらは関わりがあったはずだ。

 どれほどの関わりがあったかは定かではないけど、またなにか、さくらを取り戻すきっかけを得られるかも知れない。


 さくらのために、会っておかない手はなかった。


「さく──私は、驟さんとは仲よかったんですか?」

「うーん。二人でそんなに盛り上がってるところは見たことないけど、まぁ二人とも基本塩だったからなぁ。でも、驟も本好きだし、気は合ってたと思うよ」


 夏の夜は蒸し暑い。

 まだ西の空はほのかに明るくて、日が長くなったんだなぁ、と、比較する過去の記憶もないのにどうしてか私は、そう思っていた。


「そっか。会うの、楽しみだな」


 嘘ではなかった。

 青空が会わせようとしてくれたということはそこまで仲が悪かったということもなさそうだし、なんとなくではあるけれど、家にいるよりはいい気もしていた。


 さくらが生まれ育ったあの家は、なんだか息苦しい。 

 たぶん家族が私に隠しているなにか、さくらと家族との間に軋轢のようなものもあったのだろうと予想できるし、それを気にかけて完全に飲み込めていない家族の様子も快適ではなかった。


 青空は、過去の私──さくらを知っている人の中では一番優しい。

 無理に記憶を取り戻そうともしないし、過去をないことに、新しく関係性を構築──なんて鬱陶しい考えもなさそうだ。


 最初こそ有無を言わさず抱きついてきたりはしたけど、それはさくらを想ってこその行動。

 私にとっても優しい、どこか落ち着くようなぬくもりだった。


 青空は、待っている。


 私が「私」を取り戻すのを。

 さくらを思い出すのを。

 「さくら」と、もう一度会える日を。


 待ってくれている。


 だからこそ、時折考えてしまう。


 私が青空と居続けることは青空にとって、迷惑になるのではないだろうか。


「はい、着いたよ。ここが、我が家です」


 さくらの家から徒歩五分ほど。

 住宅街を進んだ先に現れたのは、うちの倍はあるのではと思うほど大きな家だった。


 立派な三階建てのおうち。

 綺麗な外壁。

 広すぎないくらいのかわいいこぢんまりとした庭には、華やかな植物や野菜などの家庭菜園があった。

 駐車場には、丁寧に洗車されているのだろう高そうな車もあった。


「お、お邪魔します」


 思いのほか立派な家に、元々緊張状態だった私はさらに尻込みした。

 なんの気なしに私を気にせず門扉をくぐる青空に続いて、安斎家にお邪魔した。


 安斎家は、玄関も広かった。控えめな照明とかおしゃれな玄関マットとか、どこを見ても家主がお金持ちであることが──というよりはいわゆるセンスがいいのだろうことが、わかった。


 なんだか、いいにおいがする。


「お夕飯ね、大体は作っちゃって後は焼いたりとかちょこちょこやるだけで食べられるから。……って言っても、ほとんど仕込みはおにぃがやってくれたんだけどね」

「あ、そですか」


 おにぃ──驟さんのことだろう。

 玄関を上がってスリッパに履き替えながら、料理で失敗して迷惑をかけないで済むことに安堵した。


 玄関から入って最初の部屋に入ると、そこがリビングだった。

 カウンターを隔てた向こうはキッチンになっていて、かぐわしい香りはそちらから漂っていた。

 外観からの想定と違わずリビングも広く、テレビもテーブルも大きいのになぜか、まだまだ室内にはスペースが余っていた。


「あれ? 驟いないね。さっきまでいたのに」


 涼やかな冷房の空気に包まれた部屋には、誰の姿もない。

 電気は点けっぱなしで、夕飯の準備もまだ途中といった風だった。


「ま、すぐ戻ってくるか」


 荷物らしい荷物もないのでそのまま台所に入って、手を洗う。

 ある程度下準備がなされている材料たちを前に、さぁなにをしよう、と意気込んだ。


 ボウルに収まって下味のつけられた挽肉。

 茹でる前の乾燥パスタ。

 いい具合に熟したアボガド。


「洋風だね」


 と、いう感想を抱くと同時に、胸の中をかすめる感覚があった。

 ぐぐっとなって、きゅっとなる。

 ふっと、目頭が熱くなる。


「そ。ソースはね、驟が作ってくれたから。後は麺茹でて、ソース絡めるだけ。ハンバーグは、一緒にこねこねしよ」


 青空が言って、花咲く笑顔を浮かべた。

 その綺麗な横顔にも、日焼けを気にして夏でも長袖を着ていて袖をまくる仕草にも。

 私の脳髄奥深くの部位で刺激を受けている場所があった。


 頭の後ろが、じくじくする。


 視界が狭まって、広がって、見えているものの景色が、がらりと変わる。


 がちゃっと音がして、リビングの扉が開く。

 誘われるままそちらに顔を向けるとまず青空が声を上げて、次いで、聞き覚えのある低い声が鼓膜を震わせた。


「おそーい。もう始めちゃってるよー」

「あぁ、もう来てたか。いらっしゃい、さくらちゃん。……一応、初めまして、でいいのかな」


 リビングに、コンビニのビニール袋を提げた男の子が入ってくる──。


 その姿を見た、その瞬間。


 私の中に、記憶の奔流が沸き起こった。

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