七
七
十七歳、夏。退院の日は、夏休みの始まるまさにその日だった。
終業式終わりに駆けつけてくれた青空と荷物を分け合い、タクシーを使って私の家に帰る。
家の住所は、事前に母から聞いている。
「あっ……つぅ」
仕事で来られない母に代わりボストンバッグを肩にかけた青空が、病院の外に出た途端舞い込んできた空気に対して口を開いた。
私も左腕でキャリーバッグを引きながら、なんだかむわっ、というか、むしっ、とする空気を感じてみた。
さらに外に出れば、眩い光が私と青空を容赦なく照りつけた。
雲一つない空を見上げながら、それと同じ名前を冠する少女は空いた手を掲げる。
自分と太陽との間に手をかざして、日光を防ぐ。
じりじり、とした感覚が、数秒日を浴びた私の肌にも駆け巡った。
なるほど、この感覚、こういう状況を、「あっつ」と表現すべきなのか。
横に並んだ青空の顔を盗み見て、しかめられたその表情を学習する。
「じゃ、おつとめご苦労さん」
見送りに早出してきてくれた私服姿のホズミさんが、自分は日陰に収まったまま投げかけてきた。
その表現、こういう状況で使うのに合っているのかなぁ。
記憶のない私には、正確に判断を下すことはできなかった。
「お世話になりました、ホズミさん。今日まで、いろいろありがとう」
でもそんな私も、こういうときどんな顔をして、どんな言葉を紡げばいいのかはわかった。
経験なんてなくたって、自分がそうすべきだと思うことを、進むべき道を、選べばいい。
「ん」
鏡の前で練習した笑顔と、可能な限りの大きな声。
そうすべきだと思った自分を精一杯押し出して、ホズミさんにお礼を言った。
ホズミさんは、満足そうに頷いて続けた。
「もう来んなよ」
それは少し……さびしい気もした。
突き放すような言葉も、病院としては──看護師さんとしては正しい。
正しい、のだけれど、個人的にはまた、ホズミさんに会いたい。彼女のあっけらかんとした能天気さをもう一度──と思う自分がいた。
「また、来ます!」
だから私は、精一杯の笑顔を浮かべる。
左手はキャリーバッグを引いているので塞がっていたけれど、空いている方の右腕──空っぽのその手を振って見せた。
肩口から十センチくらいはまだ残っているので、その部分を全力で振ってみる。
余った長袖シャツの白い布が、パタパタと揺れた。降参したわけじゃないよ。
隣で青空が、ホズミさんに向けて丁寧なお辞儀をする。
なるほど、こういうときは頭を下げるのか。
私もそれに倣って軽く会釈した。
最後までホズミさんは、明るい笑顔だった。
「いい人だね、ホズミさん」
タクシーに乗り込むと、右隣の青空が微笑みながらそう言った。
なんとなく、勘違いかもしれないが、青空は私の右側を意識して陣取ってくれていた。
確かに今の私は右側が隙だ。
ある種急所であるといってもいい。右側になにか危機が訪れても、左側ほど素早く対応できない。現状、左側でもあまり素早く対応できるかわからないけど。
「そうなんです。楽しかったなぁ──入院生活」
というか、目覚めた私は入院中以外の生活を知らないわけだけど。
無論、この台詞がいささか「ずれた」発言であることは理解していた。
でもなんというか、少なくとも「今」の私にはこの表現がしっくりきてしまうのだから、仕方ない。
案の定青空からは歯に衣着せぬ物言いならぬ、顔に取り繕いせぬ表情を向けられた。
例のごとく眉根をハの字に歪め目を細め、そこにはらまれた感情を私は読み取ることができない。
「なんです、その表情?」と、おとなしく尋ねることしかできなかった。
「べっつにー? なんか、やっぱり、さくらはさくらなのかなぁって」
返された言葉が引っかかるから突っ込もうと思ったけど、数瞬して私は、窓の外を流れる景色に気を取られた。
だってそれは、私の知らない光景だったから。
目の前を流れていく端から端まで、全部。またしても情報過多で、頭痛でも起こしてしまいそうな景色だった。
「あ、ごめんなさい。えと……なんの話だっけ」
「別に、たいした話はしてなかったけど」
びしっと、額に鋭い痛みが走った。
数秒遅れて、青空にデコピンを放たれたのだとわかった。
彼女なりの抗議の姿勢を、かつてさくらにしていたのだろうやり方で私にぶつけてきた。──その事実にしばらくしてから気がつくと、途端に私の胸の中を、喜色が染め上げた。
おでこは痛いけど。
額をさすりながら、さくらならこういうときどういう顔をしたのだろう、と考える。
「そういうとこ、変わらないんだ。と、思ったの」
「……どういうとこ?」
過ぎ去る景色。
視覚による情報よりも聴覚への刺激が奔流となって、どの音に耳を澄ませればいいのかわからない。
油断すると、なんの意味もなさない音の濁流に根こそぎすべての感覚持っていかれてしまいそうだった。
冷静に取捨選択を行い、青空との会話に集中した。
ちなみにその冷静な部分の私は、記憶をなくすまでにさくらが培ってくれた私の一部だ。
「『さくら』も、そういう人だったから。よくも悪くも自分中心。自分が気になるものあったらそっち優先だし、言葉遣いも、小説家のくせして独学なんだもん。我流っていうのかな。辞書にある言葉よりも、自分にとって『気持ちいい』言葉遣いをしてた気がするよ」
親友から拾い上げるさくらは、相変わらず散々な人柄らしい。
なんとなく、人のいい青空にここまで言わせるさくらに会ってみたい気もした。
いやもちろん、私がさくらでさくらが私なのだから、会うも会わないもないのだけど。
「自己中って、いい意味になりますか?」
タクシーがトンネルに入った。
橙色の光が等間隔に瞬いているが、視線を這わせた窓に自分の姿が映るくらいには、トンネル内は暗かった。
私の──さくらの顔が、窓ガラスに映る。
お世辞にも顔色がいいとはいえず、目の下についた隈が、いくら寝ても治らないくらいに染みついてしまっている。
今は青空に高い位置で結んでもらって整っている髪も、ひと度解けば無造作に伸び放題である。
前髪は入院生活で伸びきって、視界の上半分を覆いかねない。
隈を隠せればいいかと、現在の私にはそれを切る予定は皆目なかった。
病室の鏡を見たときも、そうだった。私は自分の姿に対して、どんな感情を抱けばいいのかわからない。
正しさ云々を無視して自分自身を貫いてもやはり、その子細は所在の知れぬところだ。
「うーん。それが、『さくら』の場合はなるんだよ」
無為に思考を巡らせてしまうのが嫌で、自分の姿を映す窓ガラスから目線を逸らして青空の方を見た。
目立った特徴がないけれど、それ故にほとんど完璧なのではないだろうかと思わせる青空の横顔を、いつまでも凝視してしまう。
「自分自身を貫いて、他には干渉されず、干渉せず」
そんな私の視線に気づいていないのか、気づいた上で無視しているのかはわからないけど、青空は続けた。
「今の世の中、人が自分一人で生きてくのなんて無理なはずだけど、『さくら』を見てたら、『さくら』なら、それもできるんじゃないかなぁ、って、思えた」
それはかくも──尊いものなのだろうか。記憶のない私でも、否、記憶のない私だからこそ、その絶対性も、狂おしいほどの輝きも、無為に見つけることができた。
記憶を失ってよかった──なんて、家族や青空に聞かれたら怒られそうな言葉が出かかったけど、喉の奥に押し込んだ。
ホズミさんとかならむしろ、同調して共感してくれそうだけど。
「あたしは、そういう『さくら』の生き方が、好きだった」
「……」
私は、どれだけさくらに近づけるだろうか。どれだけさくらを、再現できるだろうか。
辿ることができるだろうか。
青空の隣は存外に心地いいけど、彼女と話せば話すほど、青空の中のさくらを拾い上げていけばいくほど。
違う──という感覚が私を苛んで仕方ない。
──あぁ、でも。
青空にこんなに想われるなんて、さくらは、とても素敵な人だったんだね。
それだけは疑う気も起こらないほど、理解できた。
……ちょっと自分勝手で、自己中なところはあったみたいだけど。
退院からの一週間は、地面に散らばったものを一つひとつ拾い上げるような日々だった。
実際私──さくらの部屋には、そこかしこに紙片が散らばっていた。
あれは電柱、あれは電線。家庭や施設に電気を届けるためのもの。
詳細の機能や構造については、昔の私も知らない。
この頃になると、私の中に私は三人いた。
目覚めたばかりの記憶喪失の私。
十七年間生きてきて、今は失われた記憶を培ってきたさくら。
記録としての情報を冷静沈着に思い出すかたわら、それに関する子細な部分を伝えてくれる客観的な「私」。
なんだか、多重人格にでもなった気分だった。
この三つが、いつか「一つ」に統一されることはあるのだろうか。
「……」
うまく想像することはできなかった。
想像は頭の中でするものだけれど、結局のところある程度の実体験が必要になってくるのではないだろうか。
なにがどうなって、こうなる。
それを知っているから、「生きてきた」つみかさねがあるからこそ、先を見通して想像することができるのではないだろうか。──想像力とは、経験によるものなのかもしれない。
今の私は、空っぽの私は、さくらのように頭の中でなにかを生み出すことはできない。
無から有を生成するような、そんなすさまじいほどの才能は、私の中に残ってくれているだろうか。
「あ、もしもし青空?……電話、かけて大丈夫だったかな」
日曜日、休日──とはいえここ最近の私は学校にも行っていないので毎日が休日みたいなものだ──私は、暇を持て余して青空に電話をかけてみた。
こういうとき、メールを先に入れるべきだっただろうか。さくらならどうしたか、よりも、人としてどうすべきか、が、私には理解できなかった。
『大丈夫だよ。この後出かける予定で、ちょうど暇してたところ』
「あ、この後出かけるんですね」
家族もなんだかよそよそしかった──とは違うのだろうけれど会話やちょっとしたふれあいの際距離があった──ため、深く話し合ったり、私の記憶を取り戻すため一丸となってなにかしようという雰囲気ではなかった。
まさか、私から言い出すわけにもいかない。
迷った末にほとんど消去法で辿り着いたのが、青空だった。
退屈な昼下がり、彼女とどこかに出かけたり、さくらについて話したりということはとても、非常に素晴らしいことなのだと感じられた。
『うん……なにか、用だった?』
「あ、いいえ。別に、なに、ってわけじゃないけど、暇だったから。今、なにしてるかなぁって思った、だけです」
願わくはさくらのことを知る彼女とともに出かけたかったけど、それは望めないらしい。仕方ない。
夕飯まで、洗濯機の動きを眺めて退屈しのぎでもしよう。
一人で食べる病院食もむなしかったけど、家族四人でとる夕飯もどこか居心地の悪いものだった。
和気藹々としていたらそれはそれで疎外感というか、気味の悪さみたいなものがあったのだろうけれど、だからといって沈黙ばかり続いても、ストレスだ。
私が家に戻ってからの一週間、朝食や昼食は時間がずれるので母と二人でとることが多かったけど、夕飯どきには家族四人がそろった。
それはなんというか……「お通夜のようだ」という表現が実に相応しいのではないかと思ってしまうものだった。
はっきり言って夕餉は、盛り上がらなかった。
七日七晩すべてがそうだったのだから、きっと私が記憶を失う前もそうだったのだろう。
母だけは能天気というか──どうにか場を盛り上げようとしていることがわかったけど、それがまた痛々しい。
私はそれに応じるのに精一杯で、弟と父がなんともいえない表情で夕飯の時間を過ごしていたことに、最近ようやく気づいた。
『お母さんと買い物行くだけだから、夜なら空いてるけど。なんなら、うち来ない? この前教えたよね、場所。さくの家の近くだから、歩いてすぐだよ。あ、それともまた忘れちゃった?』
確か退院の日、通り道沿いに見える大きな家が青空の家であると教えてもらった気がする。
でもそれが正確にどこなのか、自宅からどのような道をなぞれば辿り着けるのかは覚えていなかった。
事故の後遺症ではないと思う。
多分元々忘れっぽいのだ、私は。さくらは。
「……ちょっと、忘れちゃったかも」
そう言うと電話口の向こうから、ふふふふふっ、と笑う声が聞こえた。あったかな青空から放たれる雰囲気が、電波を通して伝わってくる。
『そっか。じゃあ、迎えに行くよ。七時には空くと思うから、その時間にさくの家行くね? おけですか?』
「ありがと。おけ、です」
また、ふふふっと、青空が笑っているのがわかった。なにをそんなに、笑うことがあったのだろうか。
ただ私と話しているだけで。それとも私はなにか、気づかぬ間におかしな言葉を放っていたのだろうか。
『夜はお母さんもお父さんもいないから、夕飯あたしが作ることになってるの、一緒に作ろうよ』
「いいんですか? 迷惑、じゃなければいいんだけど」
きっと迷惑しかかけない、という確信めいたものがあった。
だって今の私には思い出も記憶もないから、昔のさくらが料理をする人間であっても、手先が器用であっても、今の私にもその要素が受け継がれているとは限らない。
『大丈夫だよ。「さくら」も料理へただったし、あたし、料理得意だから。よっぽど変なものにはならないよ』
からからとした笑い声。
電話をかける前に少し緊張していたのが、嘘のよう。
「わかった、じゃあ、待ってるね」
『ん。じゃあ、また後で』
青空の声はそこでぷつんと切れた。
通話は、向こう側から終了された。
比較的使い慣れてきたつもりの携帯を机に置いて、ではそれまでどうしようかと、思索を巡らせる。
現在、午後二時前。四畳半のさくらの部屋で私は、体重をかけると酷く軋む座椅子に腰掛けていた。
さくらの部屋は、本と紙と一代のパソコンで構成された部屋だ。
正確にいえば寝室は別にあってそこは弟との共同なのだが、そこ以外にさくらは、小説を書くために一部屋、倉庫のような扱いをされていた一室をあてがわれている。
それがこの部屋だ。
その四畳半は、さくらで満ちている。
座椅子と、それに合わせたローテーブルが一脚。
テーブルの上には青く金属光沢のあるノートパソコンが一台。その他にはマウスと、ノートと、数冊の小説、漫画本。
それらが大して広くもない机の上に雑多につめこまれていた。
ローテーブルの上だけではない。
さくらの部屋には、さくらが蒐集した物とモノともので、あふれんばかりだった。
百冊は間違いなくあるのではないかと見紛う本たち──小説と、漫画も合わせれば百・二百の話ではない──。
部屋の脇にはパソコンに有線接続されたプリンターが床に直置きされており、それが吐き出したのだろう再生紙が、そこかしこに山を作っていた。
言うまでもなく、それはさくらの小説だ。
さくらがワープロで書いたものを、印刷して保存していたのだろう。
完成稿なのか、途中の段階でひとたび印刷したのかは、わからない。
でもその山の中の一房を手に取れば、余白を埋め尽くさんばかりの書き込みが、印字された活字以外にも見受けられた。
さくらの、直筆の書き込みだった。
それを見て私は、自分が──さくらがなにを思っていたのか、一片だって悟ることはできない。きっと、さくらにならわかる、さくらにしかわからない、そういう言葉たちなのだ。
夜空に瞬いては消える、流れ星か花火のように浮かんできた発想、着想、閃き。
刹那的なそれを瞬間的に書き殴ったのだとわかるほど、ミミズが這ったような字は、内容を読み取ることすら難しかった。
とにかくまずは、それらを片付けよう。
一週間ほどここで過ごして、夜は弟と同じ部屋で寝て、物色できるものはし終えた気がする。
無論、壁際の本棚に収まりきらないほどの本には触れられていないし、まだ、さくらが書いた小説もすべて読み切ったわけではない。
でもいつまでも現状維持にあやかって掃除をしないのもどうなのだろう。
多分さくらは、極端に掃除や片付け、整理整頓が苦手な人だった。
もしかすると小説を書くに当たって部屋をこの状態に保つことにすら意味があったのかも知れないけれど、いい加減埃が積もってきて仕方ない。
ものの配置を極力ずらさないにしても、空気の入れ換えぐらいはした方がいいかもしれない。
部屋に一つだけある小さな窓を、開け放した。
途端に夏の湿気をはらんだ熱気が、部屋に入り込んでくる。
さっきまで壁を隔てて随分と小さく聞こえていた蝉の鳴き声も一緒に入ってきて、一斉に私の鼓膜を叩いた。
部屋にはエアコンもないし、扇風機を持ち込もうにも少し風が吹けば雑多な資料たちが吹き飛んで、その所在を失ってしまいそうだ。
とりあえず小窓と部屋の扉を開放して、空気の流れを作ってみた。
これでいささか、小説を書くにしろ、書かないにしろ快適な空間が作れるはずだ。
と、そうこうしていると廊下でなにものかの足音がした。
振り向くとそこには、部屋着のジャージ姿で弟が、通りすがりに部屋をちらりと横に見ていた。
まっすぐこちらを見ているわけではないけれど、足を止めている。
なにか用だろうかと床に座したまま、弟を見上げる。
あさっての方向を向いたまま弟が、ぼそっとこぼすように呟いた。
「ねぇちゃんの部屋、初めてちゃんと見た」
ねぇちゃん。
弟からその呼称で呼ばれるのは初めてである気がした。
事故に遭う前は、仲睦まじいとまではいかずともそれなりに会話もあった方なのだろう。
まさかあの夕餉の雰囲気で、仲よしこよしの家族をやっていたとも思えない。
「へ? そうなの?」
ぶっきらぼうな言葉にこちらも素っ頓狂な声が出た。
慌てて咳払いして照れ隠しなのか気を取り直してなのか自分でもわからない態度をとってしまったが、弟は気にした様子もなく続ける。
「うん。いつも、誰かが部屋入ってものの配置とか動かしたりすると、すっごい怒ってたから。ここ何年かは、ねぇちゃん以外誰も部屋入ってなかったんじゃないかな。青空さんとかは、わかんないけど」
そう言い切ると、ついに弟は目線を一度もこちらに向けないまま部屋を過ぎていった。
なんだったのだろう、と思ったけど、弟が進んだ先はトイレだった。
トイレに立った道すがらドアを開け放って座り込む姉を見たのだから、不思議に思っても仕方がない。
でも、では、じゃあ、その前はどうだったのだろうか。
ごろりとさくらの部屋に転がって、巡る思考に任せて横たわった。
こんな退屈に時間を持て余した休日の余暇を、わたしはどうやって過ごせばいいのだろう。
蒸し暑さに誘発されるように、暑苦しいそこから逃げるように。
微睡む昼日中の眠りに、身を委ねた。