五
五
文字、文字、文字、文、文章、文節、文、文字、文字、文字。
さくらが記したメモの中身は、さくらの紡いだ文字でいっぱいだった。
数秒、もしかすると数分、動きを止めていた。
動きを止めて、画面上のセンテンスを、同じひとつの詩を、幾度となく読み返していた。
していると、手のひらの上でバランスを崩した携帯がぽすっと布団の上に落ちた。
それにも構わず私は、サイドテーブルの上に放置していた文庫本に手を伸ばした。
突き動かされるまま勢いよくの行動だったので、テーブルの縁に中指をぶつけた。
痛い。
だけど勢いは緩めず、文庫本をひっつかんだ。
テーブルはベッドの右横にあったので、右腕のない私は左の手を伸ばさなければならない。
体が右に傾いて、支える腕もないので、私の体は右方に倒れた。
ベッドから落ちなかっただけ、よかったとしよう。
本を手に取ることは、できた。
食い入るようにして本を、さくらの書いた小説を読み進める。
「100万回生きた君に」。
あぁ、どうやったらこんなにも美しい文章を、透明感のある文体を、書くことができるのだろう。
さくらの書く文章に、これといって特徴はなかった。
他との比較ができる私ではなかったから相対評価ではなく、初めて小説を読む私による絶対評価でしかなかった。
だけど、だからこそ見えてくるものが、きっとあった。
初めて読む小説が、さくらのものでよかった。
だって今、私の心はこんなにも満たされている。
あたたかい、記憶喪失の私では正体の知れない感覚に、包まれている。
流れる水のように突っかかりなく、さくらの紡いだ文字列は私の中に浸透した。
ともすればその小説から、さくらという人物の人間性を垣間見ることはできない。
そこから、彼女の生きた人生とか、なにを考えて生きてきたとかを見出すことは、できなかった。
それはどこまでも、透明な文体。
色を持たない、白とも違う澄明。
登場人物の心に寄り添った広くて深くて優しい文章が、強烈に熱烈に酷烈なまでに、印象的だった。
それが──さくらの生き方だった。
自分を持たず、個性を主張せず、故に他者の心とともにあることができる。
なんの色もない、窓ガラスとそれを伝う雨滴みたいに透明なあなた。
もしかしたら、優しさとも違うのかもしれない。
優しさと、無関心は、とてもよく似ているから。
さくらは、日柄一日中小説のことしか考えていなくて、他のことには関心を持っていなかったから。
きっと、記憶をなくした私がどうなろうとも、どうにもならなかったとしても、彼女は気にしない。
「あぁ、そっか」とか、「まぁ、いいか」とか、そんな優しい無関心で私を包んでくれる。
いや、包まないでくれる。
なくした右腕と、同じ。
「あれ? さくらちゃん?」
数時間でさくらの小説を読み切った私は、病院内を彷徨としていた。
もうすぐ夕飯時ということで、配膳台周りで忙しなく仕事をしていたホズミさんが声をかけてきた。
「もうすぐ夕飯だよ。すぐ戻ってね」
「はぁい」
曖昧に返事をして、なおも放浪を続ける。
エスカレーターフロアで病院内の案内図を見上げて、売店の場所を確認する。
リハビリがてら階段で、自分の個室のある三階から一階まで下りることにした。
目的のものが売店にあるかどうかはわからなかったが、他に思い当たる場所もなく、ここになければ青空かホズミさんにでも探してきてもらおう。
私の退院まであと一週間とちょっと。
その間、さくらの他の作品を読まないことには、私の快復は訪れない。
売店には雑誌や幾つかの小説の類はあったが、さくらの小説はなかった。
あれ? そういえば、小説を書くときのさくらのペンネームはなんだったろうか。
なにか、本名とは違う名前を使っていたはずだが。
ちゃんと確認してから来ればよかった、と、後悔がよぎる。
右腕がないせいかわからなかったが、今の私は非常にバランスが悪い。
なんというか、左側が重いのだ。
元からのさくらの癖なのかもしれないけれど、やたら壁に体を擦ってしまって、左側だけ傷だらけになりそうだ。
また病室まで戻ってもう一度売店に来るのは、徒労だ。
それに、並んだ本たちを見ればそこにさくらの書いた本がないとわかる気がした。
彼女の書いたタイトルを見れば、必ず私はそれがさくらのものだとわかる。
そこにさくらのにおいを感じられる。
ほのかな体温とともにかすかな雨のにおいを見つけることができる。
そんな確信めいた予感があった。
病室に戻ると、いつも通りの夕飯が並べられて、ホズミさんが私の代わりにベッドに腰掛けていた。
私が病室に入ると立ち上がって、「あたためてあげたよ」と、恩着せがましくも告げた。
最近の私はサイドテーブルとパイプ椅子で食事をとっているので、せっかくあたためられた布団にもすぐには入らない。
入らないけど、私が抜け出している間にシーツが洗い立てのそれに替えられていた。
一応ホズミさんは、自分の仕事をまっとうしているらしい。
私が席についても、ホズミさんは個室を出なかった。
座って、合わせる手もなくいただきますを言って、顔を上げる。
「戻んないの?」
青空に対してため口で話すのには、まだ慣れない。
だけどいつの間にか、当初は敬語だったはずのホズミさんに対して砕けた口調で話すようになっていた。
ホズミさんも、最初から馴れ馴れしかったけどそれよりもさらにラフな雰囲気で話してくれるようになっていた。
私としても、目覚めてから関わる時間は他の誰よりもホズミさんが長い。
彼女と仲よくなれてよかったと、多分、おそらく? 思っている。
そんな懐疑的な親しみも含め、それは紛うことなく、間違いなく、私が培ったものだった。
小説家であり青空の親友であり絶対的存在のさくらではない、私が。
「今日はこれで上がりだから。朝から働いてくたくたよー」
「じゃあ、早く帰ればいいのに」
ホズミさんがいてもいなくても、彼女が見ていようがいなかろうとも、私には関係ないけれど。
「独身女が早く帰ったって、つまんないでしょ」
そういうものなのか。
どうしてだろう。
当たり前みたいに言われてもわからないけど、それを疑問に思うくらいには私の情緒は回復していて──あるいは、新しく芽生え直していて──、根拠を求めようとする私がいた。
「病院食って、味気なくない? たまに味見とかするけど、味薄くって食べられたもんじゃないよね」
それを、食べている患者の目の前で言うのはどうなのだろう。
突っ込んでも無駄なんだろうなというのは、この入院生活の中で学んでいた。
「わかりません。味の濃い食べ物、っていうか、これ以外の食べ物、知らないから」
今のところ、十日間ほどここの食事を食べ続けてそのすべてが私にとって初めましてだ。
「あぁ、そっか。ほんっと、つくづく覚えてないってのは幸せなのか不幸なのかわからないね」
それに限らず、私にはわからないことが多い。
わかることが、少なすぎる。
さくらだったら、覚えていないことを幸せに思うだろうか。
知らないことに憤り、なにがなんでも思い出そうとしたのだろうか。
さくらの文章は透明だから、そこから彼女を見つけ出すのは難しい。
彼女のことを知りたいなら、青空や家族など、さくらのことを知る人に聞いた方がいいだろう。
──と、そこではたと気づいた。スプーンでつつきすぎてぼろぼろになった白い魚を頬張りながら、自分自身を顧みる。
私は、「自分」を思い出そうとしていない。
私は、さくらを知ろうとしていた。
またホズミさんに教えてもらって、メールを送信する方法を学んだ。
それで青空にメッセージを送る。
返信も、青空本人も、すぐに来た。
「そんな、急いで来なくても、よかったのに。なんかごめんなさい」
朝の八時にメールを送信して、一時間もしないうちに青空は頼んだものを携えて病室にやってきた。
私はまだ携帯を手に、青空からの了承メールにお礼を書こうとしていたところだった。
というかこの時間、外からの面会は許されていただろうか。
「いや別に、どうせ休みで暇だもん」
「休み?」
「休み。土曜だから」
土曜。土曜日。そうか。
高校生である青空やさくらは、基本的に土日が休みなのか。
普段は夕刻に制服姿で訪れる青空が、今日はラフな普段着で病室の扉を開いた。
休日なんて、そんな常識的な部分もすぐに思い出せなかったけど、それが常識的で至極当然な事柄であるという認識はできていた。
我ながら、よくわからない構造をとっている。
「ちょっと意外だったけど、さくが頼ってきてくれて嬉しい。『さくら』と一番仲よかったのはあたしだと思ってるからさ、記憶取り戻す手伝いなら、結構できると思うんだ」
懐っこい笑み。
こういう笑顔を、さくらも青空の前では浮かべていたのだろうか。
よく観察して、あとで練習してみよう。
「一応言われた通り、『さくら』が今までに出した本、全部持ってきたよ。あと、『さくら』が好きだった作家さんの本も少し。他にも、本にはなってないけどあたしに書いてくれた小説とか、原稿用紙で持ってきたよ」
手に提げた紙袋を示して、口早に青空が言う。
焦っているとか急かされているとかではなく、口早でよく喋る子なのだと、私は分析している。
私が青空にメールで頼んだのは、さくらが書いた本を持ってきて欲しいというものだった。
一刻も早くさくらの書いたものを読んでみたかったのだが、家族の連絡先は携帯の中にも登録されていなかったので、青空に頼んだ。
「ありがとうございます。結構いっぱいだね。うん。すっごい、助かります」
まだ敬語は抜けない。
でも青空は気にした素振りもなく紙袋から本を取り出して、机上に並べていく。
「書きかけのとか、草稿とかはパソコンの中かな。とりあえずあたしが把握してるのは、このあたり」
五冊の文庫本と、印字されたA4用紙。
その他の本たちは、紙袋に収めたままチェスト棚の横に置いておいた。
「蒼井、朔弥」
改めて、「100万回生きた君に」で把握したさくらのペンネームを口にする。
「うん。蒼は、あたしから取ってくれたんだよ。蒼井にしたのは、名字っぽくするためだって。朔弥は、さくらのもじりだと思う。漢字はなんか、『かっこいいから』って、言ってた気がする」
私は、さくらで、蒼井朔弥で、この本を書いた小説家だったらしい。
……やはりどうしても、自分のやったことだとは思えなかった。
「これが、デビュー作。『たったひとつの幸せ』。これはこの前も読んでたね、『100万回生きた君に』」
タイトルを読み上げながら、ベッドの縁に腰掛けた青空が本を刊行順に並べていく。
一言ずつ、コメントもつけて説明してくれた。
「これはちょっと作風変わってるな、他のとは」
あたしは好きだけどね、と付け足しながら、「ただ、君のために」と題された本を手に取る。
前者三作に倣い、机に並べる。
次の本を取って、青空が紡ぐ。
「これはね、短編集なんだ。『明日、君がいない世界で』。五つ、同じテーマに沿ったお話が、書かれてる」
「同じテーマ?」
絵本の表紙のような、淡い色合いの絵が描かれた本を示しながら青空が説明する。
それに載せられたパステルカラーに通ずる淡い微笑で、青空が口を開いた。
「うん、そう。タイトルそのまま──いろんな形で大切な人のいない明日と、その前日談とか、後日談とかが、書かれてるよ。切ないけど綺麗で、『さくら』の話の中でも、一番人気だったはずだよ」
あたしも大好きだった。
そう呟いた青空の声の響きが穏やかで、静謐で、いつまでも聞いていたいと思った。
すべての本に関して青空は、好きという言葉と、言葉にしないまでも溢れんばかりの愛情をのせてくれた。
それを真っ正面から受ける私は、やはりどうしてもむずがゆくなって、目を逸らしてしまって、照れ隠し──というのだろうか、とにもかくにも話題の方向転換を試みて、次の本を手に取って尋ねた。
「もう一つは? これは、どんなお話なんですか?」
さくらの本に関して青空の意見を聞くのにはそこはかとないむずがゆさをともなったけれど、私は知りたかった。
青空がこの本を読んでなにを思ったのか、青空にとってさくらは、一体どんな人物だったのか。
「これはね、シリーズものだよ。──『孤蝶の羽ばたき』。これは一作目なんだけど、この次に二が出て、三が出て完結だって『さくら』は言ってた。ちゃんと本になってるのは、一作目だけ」
並べられた本を見て、青空の説明を聞いて、様々な感慨が私の中に生じた。
一つひとつ拾い集めるようにして、それらを抱きかかえる。
私に記憶がないことを考慮して精査された青空の言葉。
そのすべてに尊さと敬意を感じている。
目覚めてからまだ、家族やお医者さんたちを除いて私が会ったことのある友人は青空だけだけど、そもそもさくらにも、めぼしい友人は青空しかいなかったみたいだけど。
それでもどうしようもなく私は、青空が親友でよかった──と、思うのであった。