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遠いあなたは君で私  作者: 蒼伊織
うす桜の記憶
2/29


     二


 雨が降っている。私の好きな、雨が。


「雨だ」


 自室のパソコンに向かいながら、窓の外の景色に向かって呟く。

 大して広くもない四畳半で、彼もまた窓の外を覗き込む気配があった。

 体温と、息遣いが、近い。


「あぁ、ほんとだ」

「通り雨、かな」


 すぐ後ろにいた彼──雨に告げる。

 茶化した風に言ったのが腹立たしかったのか、彼は顔を歪めて不快感を示しながらも、またすぐにいつもの無表情に戻った。

 ちょっと病的に見えるくらいほっそりした彼の顔は、いつも「普通」の顔。特別に感情を映すのは、非常に珍しいことだった。


「冬の雨は、冷たいよ」


 確かに、ヒーターを稼働させているので室内はあたたかかったが、温度差で窓には結露ができて、早々に水滴が垂れていた。

 外はきっと、とても寒い。


 だけどいつもわたしは、思ってしまう。

 そんな情景もまた、美しい──と。空が泣きだすと思ってしまう。

 どうしてもその頬が、綻んでしまう。


「でも、わたしは好きだよ、雨」

「ん……ありがと」


 彼のことを言ったのが伝わったのだろう。

 耳元で低い声が、少し照れくさそうにしている。

 表情の乏しい彼でも、情緒が欠如しているわけではない。

 その無表情の裏には、いつだって多種多様な思考や感受性が散りばめられているのだ。


「僕も好きだよ──さくら」


 背筋がぞくぞくする。

 思わず身震いしそうになるも、彼に覚られるのはなんだか癪だったので、我慢する。

 普段はあまり好きだといってくれない彼の言葉も、耳元で聞くわたしの大好きな低い声も、感覚を──わたしをとろけさせるみたいに、脳髄を駆け回った。


 普段あまり互いに好きだとは伝えないけど、しかしそもそもわたしたちは、特別に言葉を交わさなくたってお互いのことが理解できるのだ。


 一緒に買い物に行って、なにを買おうと思っているのかがわかる。

 お昼ご飯はあれを食べたいな。

 今日は、あまり、たくさん食べる気分ではないな。


 小さな差異はあっても、それすらわかってしまって、寄り添うまでもなく隣を歩くことができる。

 そこに、苦痛なんて伴わない。


 性格や考え方が似ているのとは、また別の話だった。


 まるで、ふたりでひとつみたいに──。


 我ながら、随分つまらない恋をしたものだ、と、いつもわたしは思うのだった。


「今度は、どんな話を書いてるの?」


 わたしの背中に覆いかぶさるようにしながら、雨が手を伸ばす。キーボードの上で彷徨っていたわたしの右手を優しくつかんで、その大きな手で包んでくれる。

 彼の体重が足を崩していたわたしをさらに前傾に傾けさせて、少し苦しい。でも、拒もうとも思えなかった。


 右手はそのまま冷たい雨の手に包まれたまま、抱きすくめるように腹部に回っていた彼の左腕に手をかけた。


 眠っているのか、起きているのかも定かでない曖昧なわたしと彼。


 溶け合ってしまいそうに二人、しばらくそのままだった。


「ループもの、かなぁ。何度も繰り返される世界で、幸せに生きられる世界を見つけようとするふたりの話」


 言葉少なに語って、またパソコンの画面に向かう。

 見慣れた白い画面に、黒い文字が印字されていく。

 目を閉じていても、型にはまった文章ならほとんど頭を使わなくても、指が動いてくれる。

 自分が曖昧になってどんどん透き通って色のなくなる感覚。

 この感覚がわたしは、大好きだった。


「面白そうだ。シンプルだけど、さくらの味が出そう」

「そ、べただけどね。むしろでべたでいいじゃん、みたいな?」


 飾り気のない雨の言葉を聞いていると、こちらまで素直に言葉を選べている気になる。

 素直に、率直に、自分にも相手にも誠実な言葉を、伝えることができる。


「できあがったら、読ませてよ。楽しみだ。タイトルは、決まってるの?」


 一語一語確かめるようないつもの雨の喋り方で、尋ねられる。

 平生のわたしは物語を書く際どうしても題名を考えるのが苦手なのだけれど、今回はすんなりと決めていた。

 自然と収まるように、気づいたときには頭に浮かんでいた。


 少し骨ばった彼の腕をなぞる。雨がくすぐったそうにする気配があった。

 ふっ、と息を吸って、はっ、と吐く。


 自分をさらけ出すというのは、いつだって緊張する。だけど。


「100万回生きた君に」


 雨に対してだとどうしてか、それも苦ではない。


 恋慕とはかくも、不思議なものであった、


 あるべきその部位が、欠損している。


 いつも通り手をついて体を起こそうとして、その事実に気がつく。


 思考が停止したみたいに、私の体を止める。──もう一つの、どうしようもなく頭を真っ白にさせる現実とともに。


 私は、私が誰か知らなかった。


 自分の名前、年齢、どこに住んでいて、どんな日常を過ごしていたのか。


 先ほどいつも通りといったが、その「いつも通り」すら私の頭の中にはない。


 どのように私は、右腕を使っていたのだろう。


 そもそも私は、これまで右腕のある人生を送っていたのだろうか。


 わからない。


 どうして私はここにいるのだろう。


 ここは一体どこだろう。


 そんな疑問を抱くことも不自然な、やってはいけないことである気がした。


 そんなこと、あるはずないのに。


 でも、じゃあ、そんなことあるはずがないと、どうしていえるのか。


 その根拠はなんだろう。

 

 わからない。


 わからない。


 わからなかった。


 ぐぐっと、額の間にしわが寄る。


 自分が何をしようとしているのか、それもすぐにわからなくなった。

 

 一つひとつ、感覚をつなぎ直すように思考を巡らす。


 やみくもに進んでみて、たまたま手が触れたものを握りしめる。


 それが、見覚えのあるものだとわかるけれど、どこで見たのかはわからない。


 いつ見たのか。


 今がいつなのか、今という概念とかいつという概念とかにも、違和感がある。


 その感覚はあまりにもしっかりと私に馴染むのに、どうして馴染むのかはわからない。


 自分とその周りとを取り巻く感覚の気持ち悪さに吐き気を覚えて、少しえずいた。


 私という存在すらにも、何かが違うという感覚を抱いている。


 何故違うのかなんて、わかるわけがない。


 腕があって、手があって、指。


 その一連の見てくれが妙に異質なものに思えた。


 視線を下ろした先の脚部が、どんなものなのかもわからないそれは、私にとって必要なものだっただろうか。


 体を支えるだけであれば、二本のぼうっきれなど着けなくても、腰とかそういうものがあればこと足りるのでは──? 


 必要性の根拠となる記憶がない私は、そんなことを思ってしまう。


 からっぽの、空白の、最初から何もなかったことが正解であるような右腕が、いやに私に馴染んでしまう。


 実在ばかりで根拠のない雑多なものたちよりも、存在しない右腕の方がずっと、優しかった。

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