三
三
目を覚ますと、質の悪い汗で背面がぬるぬるしていた。
気持ち悪さにうなりを上げながら体を起こすと、静かに冷房の稼働音のするリビングだった。
しばらく片手で半身を支えたまま記憶を遡っていた。
昨夜は、どのようにして眠ったのだろう。お風呂に入って、ご飯を食べて、小説を書いて、少し行き詰まったからまたお風呂に入って、そのあとリビングで寝落ちしてしまったようだ。
体にかかったブランケットに覚えがないので、母か誰かが、かけてくれたのだろう。
思い出していた。
夢の中で、思い出が反芻されていた。
さくらの恋人だったはずの雨との思い出が、やけに自分のものとしてしっくりきていた。
他の、たとえば青空とのやりとりなんかは客観的にさくらを見ているようにしか思えなかったのに。
さくらの記憶を拾い上げるときはいつも、俯瞰的にさくらを見ているような視点が私の常だった。
だけど雨に関しての思い出はなぜか、自分自身の記憶として想起することができた。
──かさついた手のひら、すらりとした指先、華奢なのにやっぱり男の子だから筋肉質な腕、自分のものではない、他人の体温。
それらはかつて、全部私のものだった。
そう思うようになったのは、最近の話だ。
ちょっと前まではやはり他人事で、こんな自分に恋人がいただなんて思えなくて。
だけどこの頃は、それまでの不一致が嘘だったみたいに統一されている。
当時の自分や雨の心境が、手に取るようにわかった。
わかって、そしてまた、鬱屈とした気分になった。
いつからか二人、未来の話をできなくなる。
未来の話──今日はこれからどうしようか。
明日は、どこに行こうか。
今度の休みは、一週間後は、一ヶ月後は。
具体的な約束である必要はない。
荒唐無稽な話であったとしても、未来の話をすることができるのであれば、その二人の関係は曲がりなりにも続く。
ずっと一緒にいよう、なんて、夢物語のような約束でも、二人をつなぎ続ける。
いつからか二人、交わす言葉が少なくなった。
お互いわかり合えてそうなったのならどれだけよかっただろう。
多くの言葉を交わす必要がなくなったのであれば、どれだけ素敵なことだったろう。
だけどさくらと雨は違った。
彼女たちが理解していたのは、どうしようもない現実だった。
どうしようもなく二人が最後の一歩でわかり合えないという、残酷な事実だった。
そもそも別々の個人なのだから、完全に理解なんてし合えない。
だけど二人は、退屈なくらいお互い先を見ることができているはずだった。
相手のことを、理解しているはずだった。──それが、少しずつ形を変えて崩壊していった。
わかり合えない事実を突きつけられるのを恐れて、わかり合った気でいるのは、それ以上知ることを放棄したから。
お互いわかり合えたなんて、都合のいい解釈にすらならない勘なのだと気づいた。
「喉、乾いた」
夏場であっても存外に乾燥は気になるものだ。
単純に冬よりも汗をかくし、昨今は冷房の効いていない建物を探す方が難しいくらいだから、その空気で喉をやられる。
少し嗄れかけた声で呟きつつ、立ち上がる。
寝起きでふらつく体を奮い立たせ、台所で水を飲んだ。
さくらは雨のことが好きだった。
でもそれは、さくらの透明さを脅かしかねない事実でもあった。──さくらもそれに、ある程度の段階で気づいていた。
なににも揺るがされないさくらの透明さは、なにも、生まれ落ちたその瞬間から身についていたわけではない。
さくらが生きていく中で自ら選び抜いて獲得した、一つの癖だといってもいいものだった。
思考パターンの傾向。
考え方の偏り。
彼女の美しさを保つ、一要素。
後天的に獲得したからこそ、なんらかの外因で崩れかねない。
さくらの美しさは、そんな危うさすら伴うものだった。
白と透明の違いについて考えていた。
考えているとだんだんぐるぐるしてきて、立っているのか座っているのかもわからなくなった。
貧血でも起こして意識が遠のくような感覚に心の奥底で焦燥感を抱いて、しかしそれがどうしても体に追いつかず、現実に戻るまでに時間がかかった。
意識が現実に引き戻されると、そこは真昼の公園だった。
遅れて息を呑んで、ぞっとした。
あまりに目の前の光景から離れすぎていた自分に、そしてそれについて焦ることすら遅れていた自分に、ある種危機感みたいなものを抱いていた。
このまま沈んでいったら、私はどこにいってしまうのだろう。
さくらじゃない。さくらになれない、私は。
落下感にも似たそれは、抗うことをやめたとき私をどこに連れていくだろう。
私を、この体から失わせるのだろうか。
ジーンズのポケットに押し込んでいた携帯端末が振動して、メールの受信を報せる。
また巡り始めた思考を放棄して、メールを確認する。
青空から、『ひまー』とだけ、送られてきていた。
『今さんかく公園にいるよ。ぼけーっと、散歩してた』
そう返信すれば、青空はじきここに来るだろうとぼんやり理解していた。
端末をしまって、腰掛けたベンチにさらに深く背を預ける。
硬い木の感触が、背中にごりごりと響いた。
視線の先には、三角形の屋根のついた砂場。
正式な名前は知らないけれど、三角形がシンボルになって他に目立つ遊具もないから、さんかく公園。
昔は、大人の足なら五歩ほどで歩き切れてしまいそうな狭いその砂場を、随分大きな空間だと思っていた。
青空と、さくらと、たぶん驟さんとの、三人で。中学に上がるまではよくこの公園で遊んでいたようだ。
私の知らない時間。
私のいない世界。落っこちて、沈んでいって、抗うことをやめたら、あの頃に戻れるだろうか。
さくらは、戻ってくるだろうか。
などと思ってもやっぱり、そう都合よく変わるものじゃない。
変われるものじゃない。
変わりたくないとき否応なしに変わってしまって、変わろうと思ってもうまい方向には転がってくれない。
人生結局、そんなものらしい。
「さーくらぁー、やっほー」
二つあるうちの一つの入り口から、明るい声が響いた。
見ればそこに、Tシャツ姿の青空が驟さんと並んで歩いていた。
健康的な足を惜しげもなくショートパンツからさらして、青空が大きく手を掲げて振ると、綺麗な短髪が楽しそうに揺れた。
「あれ? 驟さんも一緒?」
「うん、そう。おにぃ夏休みまともに外出てなくてさー、無理やり連れ出してきた。大丈夫だった? 問題なし?」
問題なんてあるわけがなかった。
ベンチに座ったまま、二人を見上げて笑顔で首肯する。
今日は大変に日が照りつけて暑かったけど、驟さんは薄手のカーディガンを羽織っていて、「俺、一応受験生なんだけどなぁ」と嘆いていた。
「ごめんね、さくらちゃん。迷惑じゃなかったかな」
「ん、大丈夫ですよ。元々暇してて散歩してただけですから。話し相手が増えるのは、いいことです」
ベンチは三人腰掛けるには少し手狭で、私と青空だけが座って、驟さんは青空の横に立っていた。
私とは少し、距離がある。
なんだか、変な感じがした。
「さくは、小説のネタだし?」
「そんな感じ。パソコン向かってるより、歩いてたりなんかしてた方が文章浮かんでくるからね」
雨も降っていないのに、自分の声も、青空の声も、ノイズがかかったようにどこか遠くに聞こえた。
霞がかかって、目の前の気色が遠くなる。
「暑いから、熱中症だけは気にしておいた方がいいだろうね」
当たり障りない言葉面。その裏にある、あるだろうなにかを、見ようとしてしまう。
青空の向こう側にいる驟さんの顔が、見えづらくなるような。
そんな感覚に襲われた。
なんてことない会話を続けながら、ふと自分の体を抱くように腕を回しているのに気づく。
存在しない右腕をさすることもできず、行き場のない左の手のひらで、右肩を抱く。
晴れ渡る空の向こうで、嵐の近づく音がした。